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東日本大震災・原発事故から8年、福島訪問 報告①

福島の現実を忘れないために
「復興」の下で進んでいること

 去る8月21日~24日にかけて福島を訪れ、震災と原発事故から8年が過ぎた現地の状況についてお話をうかがった。今回を含め3回に分けて紹介したい。今回は、まず、放射能汚染によって強制避難を強いられ、2年前に一部を除いて避難指示が解除された飯舘村、さらに、今4月にようやく一部で避難指示が解除された原発立地の大熊町について、いずれも当事者から現状をお聞きした。


飯舘村 長谷川健一さん

3回目の飯舘村

 飯舘村を訪れ、元酪農家の長谷川健一さんからお話を聞くのは、今回で3回目となる。初回は2013年6月、伊達市の仮設住宅に避難中の長谷川さんに案内していただき、村内を見て回った(本誌114号)。2回目は2017年7月、村内のご自宅に一時帰宅中のところ、避難指示が解除された直後の状況を中心にお話をうかがった(本誌153号)。

 それから2年が経過し、状況はどう変わったのか。その前に、飯舘村について簡単に紹介したい。

 相馬郡飯舘村は福島県の東北部、阿武隈高原の一角に位置し、面積の7割以上が山林だ。農業や畜産など第一次産業を軸に、農山村の伝統的な暮らしを中心とした村づくりを推進し、「日本で最も美しい村」と称されたこともある。「心をこめて」「つつましく」などを意味する地元の言葉「までい」は、そうした村づくりの姿勢を示すキャッチフレーズだ。

 東京電力福島第1原発からの距離は30~45km。そのため2011年3月の原発事故当時、放射能汚染に曝されると予想した人はほとんどいなかった。だが事故後、北西方向に吹き荒れた風が大量の放射性物質を村へ運び、しかも折からの降雪によって村全域に放射能汚染が定着することになってしまった。
  ■福島第一原発と飯舘村の位置
    濃食部分は高線量の汚染を示す

 しかし、政府の指示で飯舘村が「計画的避難区域」に指定されるのは、およそ一ヶ月後、全村避難が完了したのは6月下旬である。その背景には、政府が放射能汚染の実態を掴んでいたにもかかわらず、自治体に公表しなかったこと、また村当局が全村避難を回避するため、実情を把握しながら公表を渋ったことなどがあるとされる。

 加えて、村当局はその間、いわゆる御用学者を招いて放射能汚染の危険性を否定するキャンペーンを行う一方、危険性を訴える学者・ジャーナリストの調査結果には一切耳を貸さなかったという。
 そこで、長谷川さんはこれまで、こうした事態の異常さを明らかにし、政府や村当局の姿勢を批判するとともに、飯舘村住民の健康と人権が守られるよう、国の内外を問わず、自らの経験を訴えてきた。


放射能汚染は現実

 長谷川さんは去年5月、それまで暮らしていた伊達市の仮設住宅から飯舘村の自宅に生活の拠点を移した。その後、村の状況はどう変わったのだろうか。

 2017年4月に避難指示が解除されて2年以上が経過した現在、村の公式発表によれば、元の住民で村内に戻ってきたのは8月1日段階で576世帯、1180人、いまなお1629世帯、4217 人が避難生活を続けている(震災前は1716世帯、6132人)。

 とはいえ、長谷川さんによれば「戻ってきた人の9割以上は年寄り。夜は村外に帰る人もいるから、完全にこっちに生活の拠点を移している人がどれくらいいるのかは分かんねぇ」という。

 若い世代の帰還が少ない主な要因は、やはり放射能汚染の問題だ。長谷川さんが暮らす前田地区にも、国が設置した空間線量を計るモニタリングポストが何ヶ所かある。設置の際には周囲を整地し、結果的に除染することになるため、実際よりも線量が低く表示されるとの批判もあるが、それでも「0.4μSv/h」「0.5μSv/h」などといった数値が出ている。

 かつて日本では、一般人の追加被ばく線量の目安は年間1mSv、すなわち毎時の空間線量で0.23μSv/hだった。チェルノブイリ原発事故では、この数値が「避難の権利」を保障する基準となっている。しかし福島原発事故以降、この数値に収まりきらない状況が生じたため、政府はいつの間にか年間20mSv(3.8μSv/h)までなら避難しなくてよいとの基準を作りあげてしまったのだ。
 ■長谷川健一さん


 もちろん、こんな場当たり的な変更が信頼されるはずもない。結果として、放射線の感受性が比較的低いとされる高齢者は帰還し、若い世代は帰還に二の足を踏まざるを得ない状況が生まれた。

 たしかに、大がかりな除染作業が行われたこともあって、震災時期に比べれば線量が大幅に下がったことは間違いない。ただし、飯舘村の大半を占める山林は除染作業が行われず、放射性物質は後々まで残り続けることが予想される。それが生活圏や人体にどんな影響を及ぼすか、未知数のままだ。これも帰還の足取りを鈍らせる要因となっている。

 ところが、そんな中、驚くべきことが起こっているという。

 「びっくりしたのは保育園(認定こども園)。0歳児から預かるって言って、実際に何人か預かってんだ。これにはびっくりした。ところが、それは裏を返せば、全部タダだからなんだ。送り迎えまで全部してくれるんだから。」

 こども園の児童たちの中には、村内に建てられた村営住宅から通ってくる子どももいるという。家賃も安く、子どもを預ける費用もかからないとすれば、生活の苦しい人、子どもを預けて働かなければならない人にとっては、被ばくのリスクを考えても魅力的に映るのかもしれない。

 村外に避難していた小学校と中学校も、2018年4月に小中一貫校として再開されたが、小学生・中学生もすべてスクールバスで村外から通学しているという。ここでも保護者負担は、やはりタダだ。

 村としては、避難指示の解除で、“住民が戻ってきた”という実績が必要なのだろう。「結局“復興している”と言いたいための見せかけだ、とオレは言ってんだ」。長谷川さんは、そう批判を投げかける。

 「村そのものが「放射能」や「汚染」っていう言葉を出さない。一番の問題はそこなのに。道の駅(いいたて村の道の駅までい館、2017年8月開設)に行っても、放射能なんて言葉は一言も触れられていない。村でつくった農産物も何点か出てるけれども、だったら“検査した”とか“大丈夫です”とか何か表示があってしかるべきだけれども、一切ない。でも放射能は現実なんだから、そこから逃げるようではダメだ。向かい合いながらやっていくしかない。実際にあるんだから。ごまかしてはだめだ。」


見せかけの復興

 一方、帰還した人々としても、村の現状は必ずしも満足のいくものではない。二年前に訪れた際にも指摘されていたが、村ではこの間「復興」の名の下でハコモノ行政が猛烈に推し進められているという。財源は政府からの復興関連資金なので、村の財政は直接には痛まない。帰還した村民に必要なら、むしろ身銭を切っても整備すべきかもしれない。

 しかし、長谷川さんによれば、実態はそうではないという。

 「道の駅に公園を整備するのはいいけど、そこにとんでもなく高額なブロンズのオブジェを置いたり、わけの分かんねぇことしているわけだから。ほんとにそんなもんが必要なのかって。」

 では、村民にとって切実な問題、たとえば医療の状況はどうか。震災前から村にあった医療施設「いいたてクリニック」は全村避難に伴う休止の後、避難指示解除に先立って2016年9月に再開された。しかし、診療は週2回、それも午前中だけだという。

 「おまけに“薬は隣町に行ってもらって下さい”って。だったら病院も隣町に行くだろう。そういう必要なところは(行政は)ノータッチだ。原発事故の前、村には診療所が2つあって、両方に内科医と歯医者が常駐していた。なんで昔のように常駐できないのか。そのほうがよっぽど戻ってきた村民のためになるのに…。」

 帰還者の大部分を占めるお年寄りにとっては、まさに死活問題だろう。

 「最近になってオレと同じ60以上くらいの人間がけっこうバタバタと亡くなってんだよ。ほとんどがガン。やっぱり免疫力や抵抗力がなくなってんじゃねぇかとオレは思っている。もちろん、国でも県でも原発事故との因果関係は否定するだろうけど、実感としてはそういうことがかなりある。どっちにしても、医者は常駐させないとダメだ。」

 そのほか、生活に欠かせない商店などについても、「復興」には程遠い状況だ。一応、村では移動販売を要請し、週1回程度のペースで各地区を回ってもらっているという。ただし、点在する家々を網羅することはできないため、地区の集会所などでの定点販売になる。当然、そこに集まる住民の足は車にならざるを得ない。しかし、それなら車で隣町のスーパーへ行く方が便利だということになってしまう。現に、長谷川さんも週に2回ぐらいの割合で村外に買い出しに行き、それで生活を賄っているという。
 ■除染残土の仮置き場。
  空間線量は0.5μSv/hを超える

 理不尽なのは、そうした生活に密着した問題が置き去りにされる一方で、緊急に必要とも思えない領域に膨大な資金が費やされていることだ。

 「回ってみたらよく分ると思うけど、村の中心部に40億円もかけて総合運動施設を作ってんだよ。もともと立派なのがあったのに、わざわざ再整備したんだ。けれども、誰が利用してんのかっていったら、ほとんど村民ではない。あちこちにPRして、村の外から学生なんかを呼んできてんだ。ぜんぜん村のためになってねぇんだよ。ただ、そういうのがマスコミに取り上げられやすいわけだ。そうすっと、“ああ、どんどん復興してんだな”ってなる。だから“見せかけの復興だ”って言ってんだ。」

 実際に訪れてみると、目に鮮やかな人工芝を敷き詰めた広大なグラウンド、ナイターも可能な野球場、全天候型のテニスコートなど、正直言って圧倒される。グラウンドでは若者たちがサッカーの練習をしていたが、駐車場のバスを見ると「福島東高校」と書かれていた。スポーツ施設で村外から集客し、村の活性化につなげるつもりだろうか。

 とはいえ、これだけの施設となればランニングコストも相当なものになるはずだ。実際のところ会計は赤字で、村の予算から繰り入れ、「増資」名目で補填しているという。

 「こんなことをしていたら、夕張のように村は間違いなく破綻する。破綻する以前に、税金や保険料すべてものが高くなるだろう。誰も村に住み続けようとは思わねぇよ」。 長谷川さんは、そう憤る。

 もっとも、これは政府の責任でもある。いわゆる「復興資金」の多くはソフト面よりもハード面に集中して投下されているが、それは“見た目”がはっきりしているからだ。つまり、当事者はさておき、外部の目から見て何かしら「復興」しているかのような状況を作ることが目的なのだ。そうなれば、政府の責任は果たしたことになり、以後は自治体と当事者の自助努力に任される。

 当面の転換点となるのは、政府が復興期間と定める2020年度末。村としては、それまでに取とれるもは取っておきたいのだろう。しかし、それは確実に将来の負担となって跳ね返ってくるのだ。


農地を荒らさないように

 震災前、飯舘村は豊かな自然に基づいた農業や畜産が主軸の村だった。しかし、放射能汚染によって、その主軸が奪われてしまった。現在、花卉などを中心に農業が再開されつつあるようだが、長谷川さんによれば、「生業として農業を再開した人はほぼいねぇな」という状況だ。
■いいたてスポーツ公園のメイングラウンド


 「村の中を見れば、農地は草刈りとか管理はされてっけど、これは県の事業で農地管理に10アールあたり月3万5000円の上限で助成してっから。それで村の人は避難先から来て、自分の農地とか頼まれたところの管理だけはしている状態だ。」

 そんな中、長谷川さん自身は2年前の段階で、蕎麦の試験栽培などを始めていた。昨年からは居住する前田地区で組合を作り、今年は全体で25ヘクタールで栽培し、うち長谷川さんは20ヘクタールを占める。水稲も昨年は約4ヘクタールで試験栽培を行い、今年は10ヘクタールほどに広げたとのことだ。

 「村全体でみれば、この地区はダントツに広い面積で営農を再開したことになる。よその地区だと、何も手つかずのところがたくさんある。もともと56世帯で、いまは22~3世帯。帰還率もいいんだよ。ただ、すべて年寄りだけどな(笑)。」

 第一の目的は地区の農地を荒らさないことだが、草を刈ったり耕耘したり、単に管理しているだけでは面白くないので、蕎麦の栽培を思いついたという。

 「1から10まで機械化できて、面積がこなせるものを考えたら、蕎麦くらいしかねぇからな。」

 その後、国などへ働きかけを行い、震災関連の補助金で蕎麦の乾燥調整施設も整備した。

 「収穫は年1回で、10月半ばから11月頭にかけての秋蕎麦一本だ。去年初めて収穫して、検査したら6ベクレル(/kg)出た。それは農協を通じて一般に市場出荷した。」(基準値は100ベクレル/kg)

 ちなみに、売価は通常が1俵(45kg)で1万7000~8000円のところ、長谷川さんの場合は1万2000~3000円だった。およそ7掛けになるが、それは覚悟の上だという。

 「はじめっから生業にしようとは思っていない。なるわけない。蕎麦は湿気に弱く、天候に左右されやすい。博打みたいなモンだ。それでもいいんだ。とにかく身体が動くうちは、農地を荒らさないようにと思ってんだ。」


東電なんて鬼の集まりだ

 この間、長谷川さんが力を注いできたのが、原発事故による被害の賠償を迅速に進めるため、国が設置した原子力損害賠償紛争解決センターに対する裁判外紛争解決手続き(ADR)の申し立てだ。

 原発事故の被害者が東京電力に損害賠償を求める場合、直接請求や裁判という手段もある。だが、前者は東電が杓子定規な対応をすることが多く、後者は時間も費用もがかかる。それに比べADRの申し立ては、弁護士ら仲介委員が和解案を提示するため被害者の意見が汲み取られやすく、解決時間も数ヶ月、費用負担も少ないなどの利点があるとされる。

 2014年11月14日、長谷川さんは団長として、「謝れ!償え!かえせふるさと飯舘村」を合言葉に申し立てを行った。申し立て団への参加者は最終的に村人の半数にあたる約3000人を数えた。東電に求めたのは、避難慰謝料の増額、被ばくによる健康不安への慰謝料支払い、生活破壊への慰謝料支払い、原発事故の法的責任の確認と村民への謝罪などだ。

 もっとも、長谷川さんによれば、最大の獲得目標は「村民が“オレたちは怒っている”と怒りの声を上げること、それを世間に示すこと」だったという。

 それから4年。避難慰謝料の増額については、東電と村民の双方が和解案を受諾して和解が成立、505世帯に総計で約11億6500万円が支払われた。ただし、それ以外の請求については東電が拒否したため、昨年5月に打ち切られることになった。

 「ADR集団申し立てについては、この7月に解団式をやった。オレはこれ以上やるつもりはない。センターからは打ち切りを通告されたし、継続したって何もねぇわけだから。ただ、それでも成果だったと思うのは、村民の半数の3000人が怒りの声を挙げたことだ。これは大きな成果だ。解団式の後にアンケートを採って、まだ続けたい人たちは新しい形で訴訟をしてもらうことにした。ただオレはもうやらない。疲れた。原発事故からこのかた、怒りっぱなしできたわけだから、つくづく疲れた。」

 とはいえ、もちろん腹に据えかねる部分は残っている。とくに東電に憤りを隠せないのが、初期被ばくをめぐる責任と謝罪の問題だ。冒頭で触れたように、原発事故の際、飯舘村には大量の放射性物質が降り注いだものの、およそ一ヶ月間にわたって避難指示が出されず、村民は福島県内で最大規模の初期被ばくを強いられることになった。

 「ところが、東電は「それは村が悪いんでしょ」って言うんだ。村内の工場に操業継続を認めたり、すぐに全村避難させなかったのは村の責任だってわけだな。それから、牛がいるとか、それぞれの事情でなかなか避難できなかったことについては「村民の自己責任でしょ」と言ってきたわけだ。」

 「なに言ってんだ!」。怒り心頭に発した長谷川さんは、仲介人の静止を振り切り、声を荒らげて東電側に抗議し、文書で回答を求めた。

 「後で文書回答はきたよ。でも、その内容たるや、東電は自分たちの主張を変えねぇで、「どうかご理解下さい」とあるだけ。なんだこれは。これまたびっくりしたわけだ。本当に東電なんてのはとんでもねぇ、鬼の集まりだなって思ったな。事故を起こした当事者だっていう意識がまずねぇな。ああいうことを平気で言えるわけだから。」

 憤懣やるかたないのは、紛争解決センターに対しても同じだ。争点の一つは、汚染された農地の賠償について、東電が非常に安く査定したことにある。その増額請求については、すでに隣接する川俣町山木屋地区でも同様にADR申し立てが行われ、和解の結果、東電が増額を認めた事例があった。

 「だから、こっちでも認められるだろうと思った。ところが、センター側は「東電側が呑まないような和解案は出せません」って言うわけだ。なに言ってんだって。それまでオレたちは、賠償増額の根拠になるような資料を時間かけて必死になってかき集めて、何回も出して交渉しているわけだ。最初から東電に言う気がないと分かっていたら、そこまで手間ひまかける必要なんかなかったんだ。それを、わざわざ資料を提出させておきながら、あんなこと言うなんて、これにも驚いたな。」

 改めて言うまでもないが、原発事故を起こしたのは東京電力である。原発事故さえなければ、飯舘村の人々は被ばくを強いられることも、避難を余儀なくされることも、生業を奪われることも、一家離散に追い込まれることもなかった。
■ADR申し立てを行う飯舘村民の皆さん

 いくら賠償金を積まれたとしても、こうした苦難が贖われるわけはなく、まして原発事故前の飯舘村が戻ってくることもない。それほどの事態を引き起こしたことについて、東京電力はせめて責任を痛感し、できる限りのことをすべきではないのだろうか。


怒り続けた8年間

 「いまみたいに昼間は除染の業者なんかが出入りしてっから人の気配も感じられるけれど、夜になったら静かなモンだから。飯舘村の状況は今後もかなり厳しいとオレは思う。」

 今後の状況を尋ねると、長谷川さんはそう呟いた。

 「村の人口はいま1000人くらいだって言ってるけど、果たしてこれから増えるかどうか分かんねぇな。というのは、年寄りだけ戻ってきているわけだから、自然に考えれば、これからどんどん少なくなっていくわけだ。亡くならないとしても、生活するのが難しくなって(村外にいる)子どもたちのところに行かざるを得なくなるわけだから。この地区でも、いくつかそんなことが出てきてんだ。」

 「とにかく若者がいないのは決定的。オレだってあと何年やれるか分からない。やれなくなっても息子が戻ってくるわけではない。オレはむしろ戻ってくるべきではないと言っている。このあとここで何が起こるか分かんねぇわけだから。」

 すでに息子さんは福島市で新居を構え、酪農に励んでいる。孫たちも飯舘村民でなくなって久しい。かつて四世代が暮らした重厚な母屋は、いま長谷川さん夫婦だけが暮らしている。

 「盆や正月には孫たちも来るよ。最近は一晩ぐらい泊まるようになった。村外に避難している人たちも盆と正月には帰ってくるけど、元の家には寄らずに、お墓だけ参って帰る人も多い。撤去して更地になった家も多いからな。」

 長谷川さんは震災前から区長として原発事故から全村避難、さらに避難指示解除という激動の中、住民の世話役を務めてきた。その区長も、すでに退任したという。「区長を辞めてから、公的な情報がまったく入らなくなった。でも逆にのんびりできていいよ」と笑う。

 かつては全国各地に赴き、講演などで飯舘村の状況、村民の苦境などを訴えてきた長谷川さんだが、最近はよそで話す機会もなくなったという。

 「というのは、断ってんだ。話しはじめると腹立ってくっけど、ずっと怒り続けるのは疲れっからな。」

 原発事故から8年。一口に8年と言うが、小学校が成人するほどの時間だ。長谷川さんは、その間ずっと理不尽に怒り続けなければならなかったのだ。


大熊町 木幡ますみさん

原発立地の大熊町

 東京電力福島第一原発が立地する双葉郡大熊町。原発事故から8年にわたって住民の立ち入りが制限されてきた同町では今年4月10日、東南部の中屋敷地区と大川原地区で避難指示が解除された。

 とはいえ、原発事故前に町民の9割以上が住んでいた中心地域は未だに帰還困難区域に指定され、第一原発の敷地を囲む形で各地の除染現場から出た残土を保管する「中間貯蔵施設」が設置されている。

 そこで町は中心地域を「特定復興再生拠点区域」に設定し、除染とインフラ整備を進める計画だ。まずは来年に予定されるJR常磐線の全線開通に合わせて大野駅周辺を、その2年後には中心地域全域の避難指示を解除する予定だという。
  ■大熊町の状況

 ちなみに、もう一つの原発立地である双葉町は、未だ面積の9割以上が帰還困難区域に指定され、全町避難が続いている。同じ原発立地ながら一歩先んじる形となった大熊町をモデルとして、復興計画が進んでいくものと予想される。

 政府の復興計画は基本的には、放射能で汚染された土地に除染作業を施し、年間の追加被ばく線量20mSv以下が確保できた段階で避難指示解除を宣言し、住民に帰還を迫ることによって復興が達成されたとするものだ。

 そもそもチェルノブイリの例で考えれば、20mSvは依然として避難の権利が保障されるべき水準だ。よく言っても、飯舘村で見たように、避難指示解除は復興のとば口に過ぎず、むしろさまざまな事情で帰還できない人々の存在を覆い隠してしまう側面も否定できない。だが、残念ながら、外面が整えられてしまうと、内実を問い確かめる動きが弱くなってしまうことも、また確かである。

 ここを乗り越えるには、やはり現地に赴き、当事者のお話をうかがうに越したことはない。そんな思いから、「大熊町の明日を考える女性の会」代表で町会議員でもある木幡ますみさんにお会いした。


長らく非難を浴びてきたが

 郡山市出身の木幡さんは1977年、結婚とともに大熊町に移り住み、農業を中心にさまざまな仕事を経験してきた。その歴史が染みついたご自宅は、第一原発から7.2キロの距離にあり、いまも帰還困難区域の中にある。

 原発事故以降の経緯をかいつまんでお話しいただけませんか――。不躾な問いかけに、木幡さんは「とにかく悲しい、とにかく腹が立つ」と即答した。

 原発事故の後、木幡さんは家族とともに約30キロ離れた田村市の体育館へ避難した。そこには大勢の避難者がひしめき、子どもや老人、病人など弱い立場の人々にしわ寄せが集中していたという。その中で体調を崩し、そのせいで命を落とす人もいた。津波の被害者の中にも、原発事故がなければ救えた命があったかもしれない。「それを考えるとつくづく腹が立つんだよね」という。

 人間だけではない。自宅で飼っていた犬や猫も泣く泣く置き去りにせざるを得なかった。後に一時帰宅した際に亡骸を発見し、焼いて弔ったという。
 ■木幡ますみさん

 「犬を焼いた後、息子に言われて、骨を「たらちね」(いわき市にある放射能市民測定室)に持っていったのね。そうしたらストロンチウムが出たのよ。飛んで来てんだよね。みんなセシウムのことしか言わないけど。」

 東電の企業城下町のような大熊町で、にもかかわらず夫ともども原発反対の立場だった木幡さんは、当初から事故の規模と内容について尋常なものではないと感じ、早い段階から「大熊には帰れないし帰らない」と主張してきた。帰れないことを前提に、政府や東電は移住先の確保や賠償・補償に最大限尽力すべきだ、ということである。

 ところが、東電は当然ながら“事故は遠からず収束する”との立場。それを受けて、町長や町民の多くも「帰れる、帰る」と言う。あくまで「もう帰れない」と主張する木幡さんは、長らく周囲の非難を浴びてきたという。

 中間貯蔵施設についても同じ。木幡さんとしては、心情的にはともかく事故の現実を踏まえれば、大熊町で引き受けるしかないと考えたが、町はもちろん木幡さんをよく知る友人・知人も「中間貯蔵施設まで押し付けられるのか」と反発した。

 その後、町は中間貯蔵施設の受け入れに至るが、「除染して帰ろう」との基本路線は変わっていない。一方、年月の経過とともに、町民の間には少なからず変化が生じているという。たとえば、4月の避難指示解除をめぐって、帰還を待ち望んだ人がいる半面、依然として線量が高いのだから帰るのは難しいという人もいる。後者のような意見は、これまでなら聞かれることはなかったという。


のしかかる負担

 ところで、避難指示解除の実態はどうなのだろうか。木幡さんによれば、中屋敷地区はほとんどが山で、もともと居住者は少ない。帰還したのも1~2軒だそうだ。一部は浪江町と接しており、浪江側はいまも帰還困難区域だ。線量は変わらないはずだが、実害がないので解除したということだろうか。

 一方、大川原地区は移転して新築された町役場や復興住宅、さらに東電の社員寮や下請け企業の拠点など、新たな町の中心として整備の真っ最中。ただし、飯舘村と同じく、復興資金は住民のニーズを顧慮することなく、ハコモノに集中投下されがちだ。 「国って“お金はあげます”って言うけど、その代わり意に沿わないものは切るからね。“大熊町はお金もらえるからいいね”って言われるけど、中身は使いようがないんだから。土建屋は儲かるけど。」

 加えて、木幡さんにはさらなる危惧がある。

 「今年は税金がかかんないんですけど、3年後にはかかってくんですよ。」

 たとえば固定資産税で見ると、震災による減免特例は2021年度末で終わる。自宅に帰って安心して住める人、土地を売ったり貸したりできる人は問題ないが、そうでない人は大変だ。
■復興住宅の建設が進む大川原地区

 「大川原(地区)は土地を売ったり、貸したりできんだよね。町長はいっぱい貸してます(笑)。そういう人は払ったらいいけど、帰れない人から取ったらダメでしょ。とくに中屋敷(地区)なんか、山ばっかりで買う人も借りる人もいない。山は除染なんかしないし、賠償だって安いモンなんだよね。」

 そのほか国民健康保険税や個人町民税など、減免がなくなれば負担は重くのしかかってくる。

 「たとえば50代以上、60代以上で、震災前は自営業とか農業とかやって、その収入で税金を払ってたわけだよね。ところが、その収入がなくなっちゃったんだよね。誰のせいなんだって。自分のせいじゃないでしょ。だからって、国がなんかやるかってったら、ぜんぜんだからね。結局、避難指示が解除されれば、それで終わり。国も東電も逃げるだけ。」

 木幡さんは現在、会津若松市の仮設住宅を本拠とする傍ら、いわき市にもアパートを借りている。いわき市には、富岡町や楢葉町など同じ双葉郡の避難者が暮らす仮設住宅があるが、その中で微妙な雰囲気も生まれているという。

 「富岡や楢葉は、前に避難指示解除になったでしょ。いまだんだん税金が重荷になってきてるって。そこからすると、いまのところ税金払わなくていいから“双葉・大熊はいいね”ってなるわけよね。」

 原発事故によって避難を強いられ、生業を奪われ、その挙げ句に避難者同士が本来はしなくてもいいははずのいがみ合いまでさせられる。

 「こんな状況おかしくない? 誰のおかげで逃げざるを得なくなったんだって。」

 ちなみに、富岡町には東京電力の廃炉資料館がある。かつての広報施設エネルギー館を流用しており、アインシュタイン、キュリー夫人、エジソンという原子力や電機に関連する偉人の生家がモデルだ。

 展示内容は、福島第一原発事故の「反省と教訓」や「廃炉現場の姿」などを映像やパネルで示したものだ。ところが、その反省たるや技術的な次元に終始し、社会的観点からの総括、何よりも被害者・被災者への謝罪や賠償に関する展示は皆無である。まさに東電の姿勢を象徴するものと言えるだろう。


変化の兆しと変わらぬもの

 原発のお膝元で原発に異を唱え、「もともと野上(地名)の木幡さんつったら“あそこはねぇ”と言われてたんだから」――。そんな木幡さんは、2015年12月選挙で町会議員に当選する。

 「昔は議会なんか入りたくなかったけど、とにかく町民の意思が町に反映されていない。そこをなんとかしないと、中に入って変えないとどうしようもないと思ったんだよね。」

 避難の過程で、木幡さんは不安に打ちひしがれた多くの町民を目にする。口で言うだけでは収まらないと思った木幡さんは、情報を伝えるミニコミ紙をつくり、友人などとあちこちに配布した。

 「仮設住宅では、みんな泣いてばっかり。人間の尊厳が奪われてるなぁと思って、仮設でも個人新聞を作ってみんなに配ったんですよ。いろいろ話していく中で、お金で原発を受け入れたけど、最後はこうやって捨てられる。「この世の中なんなんだ」と腹が立ったんだよね。なのに町は国や県の言うとおりに動くだけ。腹立たしさばっかり。」

 「この後どうなんの、そのうちみんな帰らされちゃうって思った時に、“じゃあ出っかな”って(笑)。」

 議員と言えば、地域代表か東電系列に占められてきた大熊町。そのため、議員になった後で町の方から木幡さんの集落に対して「何でこんなの出したんだ」との非難も聞かれそうだ。しかし実情から言えば、木幡さんは地域に推されたわけではないという。

 「昔から椎茸を栽培して直売したり、弁当屋したり、いろんな仕事をしてたんですよ。震災前は学習塾。大熊町で普通に育ったら、危険なことも危険と分からないような大人にされちゃうんだから。そうならないような子どもを育てようって。」

 そうした中で培われた横断的な関係の上で、原発事故による避難という状況の中で、これまでとは異なる出来事が生まれたということだろう。

 そんな木幡さんから見ると、大熊町の現状はとうてい承服できるものではない。

 「いま大熊町には環境省、復興庁、経産省から官僚が出向して課長なんかしてんですよ。だから、国に乗っ取られたって感じかな。もちろん、町は国の言うことを聞くしかないんだよね。国と県と東電が一体になって復興計画を推進して、町はそれにまったく逆らえない。なんか原発事故のことを忘れちゃったみたいだよね。変な町だよね。昔の変な大熊が復活してんじゃないかって。でも、変な町だけれども、議員やらないと情報入ってこないし、みんな簡単に「賛成、賛成」みたいになっちゃうでしょ。それは困るよなって。」

 行政だけではない。木幡さんによれば、かつての大熊町には、職がなければ役場職員になるか東電関連で働けばいいといった雰囲気があったが、復興関連の事業が本格化していく中で、そうした事業にぶら下がろうという雰囲気が復活しつつあるらしい。

 「子どもたちも、最終的には親のコネで東電に、ダメでも下請けにっていう雰囲気があって、だから勉強しない子も多かったんですよ。私が学習塾をはじめたのは、そんなんじゃなくて、自分の頭で判断する子どもになってほしかったからなんだけど、また変な構造が生まれてきてるんだよね。」

 しかし、一方では確実に変化もある。木幡さんが町議になったのも、その一つだろう。加えて、木幡さんの指摘によると、今回の参院選にも注目すべき動きがあったという。

 すなわち、参院選の福島選挙区は与党候補の圧勝に終わったものの、票の流れを見ると、大熊町では与党候補の票は以前よりもかなり落ち、とくに女性票は半分に減ったらしい。その減った票が向かった先は野党候補である。これは、これまで大熊町にはなかった動きだという。(ちなみに、野党候補には連合系の東電労組が支援についたものの、完全に面従腹背で実際には与党候補を応援していたらしい。)

 「あと、比例では山本太郎にも流れたんですよ。双葉郡全体でもそういう傾向だって。山本太郎が伸びたっていうのは画期的なことで、だから双葉郡の人たちの意識はそれなりに変わってきたんだと思うんだよね。ただ、それを表立って示したり、口に出したりするところまではいっていないけどね。」


決めた人間が責任取れるのか

 最後に二点ほどうかがった。一つは中間貯蔵施設の状態だ。どのように用地が確保されたのか、また住民たちはどのように受けとめているのか。
■大熊町、ゲートの向こうは帰宅困難区域

 「用地は住民から買い取ったものもあるし、借地してんのもあるんですよ。貸している人たちは、国の言う「期限は30年」なんて話を信じているわけじゃなく、返されてもそこに帰れるとも思ってないんだよね。でも、この際だから安く買い叩こうっていう国の身勝手な言い分が気にくわねぇって、借地権を設定したんです。ところが、国は大熊町からも借地してんのね。だから、本当は町民に「売れ、売れ」って言うこともないんだよね。」

 買い取ってしまえば、仮に期限が延びても土地の明け渡しを迫られることはない。町に対しては抑えが効くので借地で十分。緊急なので住民からも借地せざるを得ないが、時間が経てばなんとかなる――。政府の目論見はこんなところだろう。

 「だから、これから30年後どうなってるか分からないから、それを見るためにも貸すっていう感じで、別に帰れるわけじゃないけれども、家族とも協議して、親世代が死んでも子ども世代で結末を見続けていく、と。そういう意識って大事じゃないかな。」

 もう一つは、大熊町も含む双葉郡全体の今後だ。

 原発立地の双葉町、大熊町はもとより、富岡、楢葉、浪江など、いずれも事故で甚大な被害を受けた。すでに避難指示が解除された地域でも、住民の帰還は進んでいないのが実態だ。

 飯舘村と同じく、当面は政府からの復興資金が期待できるとはいえ、将来大きな負担になることは間違いない。一方で、住民が減少し高齢化が進むとなれば、税収は目減りし、財政基盤は弱くなっていく。そうなると、遠からず単独の町としては成り立たなくなるのではないだろうか。

 「実際、ある県会議員なんか“双葉郡が合併したら初代の市長になる”なんて公言してたんだよね。頭に来たからチラシに書いて撒いてやったけど。廃炉作業だって何年かかるか分かんない。勝手にどんどん決めちゃってるけど、決めた人間が責任取れるような時間の長さじゃないからね。」


 今だけ、金だけ、自分だけ――そんな価値観が原発を求め、挙げ句に自己崩壊へ至った。その価値観は変わったのだろうか。否。むしろ、うやむやなまま温存され、再び既成事実化しつつあるように思う。

                                    (山口 協:当研究所代表)



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