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連載 ネパール・タライ平原の村から(90)

歴史的経緯
から見た山岳民族の移住
ネパールの農村で暮らす、元よつ
ば農産職員の藤井牧人君の定期報告。その90回目。


 ネパールへ来て間もないころ、呪術師で地元ナワルプル郡(※)カワソティ・プンマガル協会代表ダンバハドゥル・プルジャ・プン氏に、山から平地へ下りて来た過程を移住者の視点から語ってもらいました(連載第5回、本誌第79号、2010年9月)。その後も日常的、断片的に妻らプンマガルの話しを聞く中、この乾季の間、改めてプンマガルの移住その後の生活と変容について、同氏含めお年寄りらを中心に話を聞きにうかがっています。

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 ネパールでは1951年の開国後、国際機関などによる開発援助が始まり、1958年にはマラリア撲滅機構による亜熱帯タライへのDDT散布、1964年にはネパール再定住公社のナワルプル入植プロジェクトが行われました。こうして内タライ(丘陵地と低地の間の盆地)の開拓が始まった頃、その情報をプンマガルはインド駐屯グルカ兵として聞いたり、手紙や噂、離村する家族を通じて知ったとのこと。

 「無料で耕地を配布すると聞いたが本気にしなかった」「収穫季いつも雹が降った」「皮も剥けないくらい小粒のジャガイモを掘った」。シコクビエの粉を湯で練り上げた「ディロを水で薄めて家族10人食べたが空腹を満たせなかった」。移住前の記憶から食糧不足の状態がうかがえます。肥沃な土地と「トウモロコシの収量に驚き家族を説得に戻った」。

 「自分がジャグリ(呪術師)だったから、役人が私を留めようとした」。開拓村では病気を治すとされる「ジャグリを一人、職業カーストのカミ(鉄鍛冶師)を一人、ダマイ(仕立て屋)を一人、サルキ(皮革職人)を一人住まわせた」。移住先を摸索していた時の話です。

 「戦争になればデヴチュリ・バルチュリ(2つの山)の峠道から逃げれば問題ない」。1947年に独立した大国インドの出現は、1975年のシッキム併合を経て、ネパールに脅威を抱かせたことがわかります。

 「牛を連れ、背負いカゴに最低限の食糧を担ぎ川沿いの道を13日歩いた」「土地を入手しても水がなくカネもないので買う人が来れば切り売りした」。移住当初の生活も厳しかった一方で、安易に土地を手に入れ転売する人も多くいたとのことです。

 「水源地近くの地価が高かったが今は国道沿いの地価の方が高い」「道を行けばみな顔見知りだったが年を重ねるごと見知らぬ人を見かけ驚いたが今は知らない人の方が多い」「手に入れた土地は孫らの海外移住で簡単に売って終わった」。1970年代以降も人口が増加する中、土地転がしで地価が手の届かない価格に上昇した現在の話です。

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プン氏
■88歳になるダンバハドゥル・プルジャ・プン氏
 プンマガルの移住について歴史的経緯と照らした時、一つ一つの簡素な言葉の背景に、近代化という当時の時代性が色濃く反映されていると気付かされます。そして今、入植者の孫世代は新たな移住先の甘言を信じ、豪州・英国・米国・韓国・日本へと向かいます。アジアの片隅にいながら、政治・経済・社会でのヒトの諸活動が国家の枠を越え、一国の利害に捉われないトランスナショナルな時代と強く結びついていることを実感させられます。

                                          (藤井牧人)


 
※旧ナワルパラシ郡。行政区分編成に伴い名称変更。
 文献:南真木人「ネパールの内タライ入植小史―ナワルパラシ郡ナワルプルの事例から」筑波大学歴史人類学系民族学研究室(1991年)


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