「709事件」から見える中国と日本
「709事件」とは
去る12月9日、兵庫県伊丹市で行われた映画『709の向こう側』の上映会に参加した。主催はD&Mインスティテュート、共催は市民連合@いたみアクションである。
「709」とは、2015年7月9日に発生した、中国全土における人権派弁護士の一斉拘束事件を指す。
経済成長著しい中国では、それに伴ってさまざまな社会矛盾が生まれている。フランスの「黄色いベスト運動」のように、多くの国々では矛盾の被害者たちがアソシエーションを結成し、社会や政治に対して矛盾の解決を訴えることが可能だ。しかし、中国ではそうした権利は実質的に認められていない。
![]() |
■左から廬監督、ライ氏、江プロデューサー |
もちろん、それこそ1989年の「六四(天安門事件)」のように、これまでにも基本的人権の実現を求める運動は存在した。とはいえ、党=国家の圧倒的な力の下にねじ伏せられてきたのが実情だ。
そうした中、この間、人権擁護・民主化の実現へ向けた推進力となってきたのが人権派弁護士だ。共産党一党独裁については問題とせず、あくまでも現行憲法の枠内で法的権利の実現を追求することによって庶民の人権を擁護し、実質的な民主化を果たそうとした。「新公民運動」と呼ばれる動きだ。
ところが、中国当局にすれば、憲法を頂点とする諸法規は党の指導の下にあるというのが絶対的な原則であり、法によって党を制約するという発想そのものが体制への反逆ということになってしまう。
そのため、かねてから陰に陽に圧力が加えられてきたようだが、とりわけ習近平指導部の発足以降、集中的な弾圧を受けるようになった。709事件はその象徴だと言える。
香港でも強まる自主規制の気配
709事件を題材にしたドキュメンタリー映画としては、すでに昨年『709の人たち』が公開されている。中国内に暮らす残された弁護士家族の姿を中心に描いたものだ。本作の『709の向こう側』は、その続編であり、迫害を受けて海外に逃れざるを得なくなった人権派弁護士や家族へのインタビューによって構成されている。
内容については、とても簡単には言い表せないが、国家権力に踏みにじられる個人のヒリヒリとした感覚、無機質な弾圧の底知れない恐ろしさ、それに立ち向かう人々の力強さを感じることができた。
前作と同じく監督は盧敬華さん、プロデューサーは江瓊珠さん。いずれも香港のジャーナリストだ。お二人に加え、映画の製作元である香港のNGO「中国人権派弁護士支援グループ」の理事で、民主派を代表する議員でもあったエミリー・ラウさんも来場され、質疑応答の機会にも恵まれた。
率直に気になるのは、報道などで中国当局の介入が日増しに強まっているとされる香港で、こうした映画を撮影しても大丈夫なのか、ということだ。
この点については御三方とも共通していた。すなわち、文化・芸術・表現などの領域では規制や圧力がないわけではないが、それほど深刻な状況ではない。しかし、やはり政治領域における自由の空間は確実に狭まっており、それに伴って社会の中にも自主規制の雰囲気が拡大しつつあるという。たとえば、政治的に敏感な映画については、映画館側が上映を拒否してしまう傾向が強まっているらしい。
こうした事実について、隣国である日本の皆さんも関心を持って欲しい――。そう訴えておられた。
「対岸の火事」ではない
ちなみに、前日の8日にも大阪で上映会が行われたが、私は別の用事で参加できなかった。それは、関西生コンという労働組合に対して、この間のべ40名に及ぶ集中的な逮捕拘束が加えられており、それに抗議する集会が開かれていたためだ。
法律で認められた団体交渉の要求や労働者への参加要請を捉えて「脅迫・強要」との罪をねつ造し、マスコミを通じて既成事実化を図り、社会的孤立を画策する――。おそらく、近い将来のオリンピックや万博を背景に、ゼネコンやコンクリート業界からの要請を受け、政―財の結託によって行われた「国策弾圧」と捉えることができる。
709事件と関西生コン弾圧、二つの事件は国も状況も異なる。しかし、別々の事件だと言い切れるだろうか。格差が拡大し、弱肉強食の風潮が強まる中で、それに抗う者には国家権力が公然と牙をむく、そんな時代の反映なのではなかろうか。
上映後の質疑応答でも、会場からは、悪化する日本の政治状況・社会状況と絡めた感想がいくつか聞かれた。やはり、何らかの共通性が感じられるのだ。そう、709事件は決して「対岸の火事」ではない。
(山口協:当研究所代表)