宮古島、石垣島訪問 報告
遠い島々でいま起きていること(その1)
宮古島の現在と自衛隊配備の状況
宮古島は沖縄本島から南西300km、石垣島はさらに150km、石垣島から台湾までは270km、そんな遠い島々がいま、陸上自衛隊のミサイル基地を核にした自衛隊配備に大きく揺れている。問題について部分的には報道されているが、具体的な実態や島の人びとの思いについてはなかなか伝わってはこない。それならば、行って人びとの話を聞いてこようと決行した先島訪問。今号は宮古島について報告する。なお、文責は本研究所にある。
有機農家・西川卓治さん
薄曇りの10月15日、午後2時すぎ。さとうきび畑のざわめきを掻き分けるようにして、農道を走った。宮古島空港から20分ほど。野原岳という高さ109メートルの丘に、航空自衛隊宮古島分屯基地(レーダー部隊)のレーダー塔が目に入ってくる。待ち合わせ場所の正門前にクルマを停めた。すぐかたわらの畑では数人の家族が農作業をしていた。少し遅い夏植えさとうきびの苗取りと植え付けだろうか。見慣れない農作業の風景にしばらく見とれてしまう。
西川卓治さんの畑はクルマで基地から数分。野原集落のなかにある。7反の土地に4反5畝のパイプハウスを建てて、インゲン、ピーマン、ミニトマト、キューリなどの果菜類を育てている。若いときには外国を長く旅し、あるときこのままでいいのかという思いがつのって、帰国。それから有機農業の道に飛び込んだそうだ。修業先で知り合ったつれあいが宮古島の出身で、彼女の故郷での就農ということになった。もう17年ほどになる。有機認証を取得し、土の生物的な特性(微生物の働きなど)を重視し、有機農業に取り組んでいる。
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■西川さんのパイプハウス |
つい最近、宮古でも大阪でも、連続して大型の台風に襲われ、実はそのために今回の先島訪問も延期を余儀なくされたのだが、こと台風に関しては宮古島は台風銀座と呼ばれ、台風被害は毎年のことだと言う。しかし一方で、気候変動(温暖化)の影響をとても感じている。温暖化によって作物の生育時期がずれてきたり、結果的に作付けができなくなった作物もある。集中豪雨のような雨に見舞われる。先輩の農家からも、気候が熱帯化しているという話をよく聞くということだ。
畑脇の事務作業の小屋で話しているとき、すぐ頭上をヘリコプターか行き来し、そのエンジン音で会話が中断された。聞けば、さとうきびを食い荒らす野ネズミ駆除のために、野鼠材を空中散布しているとのこと。空中散布には、子どもが触れたりペットや家畜が誤飲するなど反対の声も多く、2年ほど前にいったん手撒きに変更されたのだが、農家の高齢化などで行き届かない部分も多く、また空中散布に戻された。さとうきび畑の海に浮かぶ島のような西川さんのパイプハウスだが、あらかじめ空中散布のエリアからは外すように申請しているということだった。
あたりの農村風景を一瞥するだけですぐにわかるのだが、農業のほとんどがさとうきび栽培で、宮古島は沖縄県で一番の収量を誇っている。その次が葉たばこ、宮古牛の畜産など。さとうきびは2つの製糖工場で粗糖に加工され、本土に出荷される。畜産に関しては、ブランド牛として振興に努力する一方で、子牛を宮古島で育てて名産地に出荷し、その地のブランド牛として販売されるものも多い。
宮古島ではあたりまえのさとうきび畑の風景だが、先島でさとうきびの生産が本格的に始まったのは1903(明治36)年、宮古島の人びとが血の滲むような闘いによって、人頭税の廃止を勝ち取ったあとのことだ。人頭税は琉球王朝が薩摩藩へ税を収めるために、宮古島や八重山群島の人びとから取り立てたもので、男は粟、女は布を収めることが定められていた。人びとは税を納めるために食うや食わずの暮らしを強いられ、またあるときには反旗を翻した。
後日、あるさとうきび農家から聞いた話だが、現在、さとうきびには政府からトン当たり1万5000円から1万7000円の補填がある。所得補償をするという制度を入れることによってさとうきび生産、製糖業の振興をはかり、島の過疎化を防ぐという意味がある。島の暮らしを守り、人びとの暮らしを立てることがなにより大事なことなのだ。しかし一方では、本土における稲作と同様に、さとうきび栽培にも自由化の波が押し寄せていることも事実だ。そのあたりの現状について今回の訪問では詳しく知ることはできなかったが、ともあれ、さとうきび産業を抜きにして宮古島を語ることはできない。
(このさとうきび農家とはある伝手で知り合ったのだが、宮古島の生まれで、宮古島の農業や歴史について詳しく教えていただいた。その内容についてはその度にあえて指摘はしないけれども、この報告のさまざまな場所で役立っていることを記しておきたい。)
さて、野鼠剤の空中散布は、農業の高齢化が進んでいることが一因だけれども、一方で離農した農家の畑を買い取って、さとうきびの畑を広げていく人もいるということだ。最近は20~30代の若い人たちが親の畑を継ぐということも多くなっているように思うと西川さんは言う。しかし、西川さんのように外からやってきて、宮古島で就農する人は多くはない。
中心地に近い港にはクルーズ船が週に3~4回もやってきて、主に中国人の観光客が街中にあふれる。また、観光地ではホテルや各種施設の建設が盛んで、いま宮古はちょっとしたバブル景気の状態にある。建設現場などの作業員も多い。そのように賑やかになるのはいいことだし、中国人たちとも交流していかなければと思うけれども、静かにしておいてほしいという気もすると言う。
自衛隊基地の配備、拡張について訪ねると、西川さんは反対ではないという意見だ。沖縄島(本島)のように米軍基地が来るというのなら反対だけれども、国を守る自衛隊が来るのには反対はしない。逆になにもしないということの方が、国の責任放棄だと言えるのではないかと。自衛隊が来ることによって経済や暮らしが活性化するという意見もあるけれども、そのために自衛隊を誘致するというのは話の筋が違うと言う。
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■陸自ミサイル基地。手前はさとうきび畑 |
事務作業の小屋を出て、さとうきび畑の向こう、西川さんが指さす方向を見ると、野原集落から南、千代田集落の陸上自衛隊基地の造成地が見えた。何本もの巨大なクレーンがカマキリのような腕を振り上げ、大地に爪を立てていた。
地下ダムと宮古島農業
宮古島は那覇からは南西300kmほど。「山がない、川がない、なにもない」島だと言われる。さとうきび畑がどこまでも広がる隆起サンゴ礁の平坦な島だ。クルマで走っていると、10月なかばののどかな風景が続いているが、ここはまた年中行事のように台風被害に襲われる島でもあり、年間降水量が2200ミリと東京の1.6倍もある一方で、干ばつと水不足に苦しむ島でもあった。宮古島は島全体が琉球石灰岩で形成されていて、雨水の50%は蒸発、さらに40%は地下へ染み込み、海へ流れ出てしまうという地質。
雨水はスポンジのようにスキマの多い琉球石灰岩を流れ落ち、さらに下層の水を通しにくい泥岩地層に沿って、やがて海へと流れ落ちる。地下ダムはその琉球石灰岩層にコンクリートの地中壁を建設することによって地下水の流れを堰き止め、蓄えられた水を農業用水として利用する。
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■福里ダムの水位観測施設 |
そのようにして宮古島の農業の飛躍的な発展の原動力となった地下ダムだけれども、農地への農薬や化学肥料の多投による水質悪化が問題になっている。西川卓治さんが師匠とする有機農家の渡真利貞光さんは、真南風を通じて関西よつ葉連絡会ともおつき合いがあるが、先駆者として、地下水の保全、島民の健康、きれいな海、サンゴを守るためにも農地の土つくりに力をそそぎ、宮古島の風土にあった循環型の農業をつくろうと努力されている。さとうきび栽培というモノカルチャー(単品栽培)型の農業は、主力産業として島の暮らしを支えてきたのは確かだけれども、その向こうを展望するという課題もまた浮かび上がりつつあるのだと言える。
伊良部大橋を渡って
宮古島の西はずれに位置する久松地区からクルマですぐ、全長3540メートルの伊良部大橋が緩いカーブを描いて宮古島から伊良部島へと伸びている。「ミサイル基地いらない住民連絡会」の清水早子さんの案内で、宮古島から伊良部島を経て、その先にある下地島へと向かった。
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■清水早子さん |
伊良部大橋が完成したのは2015年1月。海を渡る長い橋だが、歩道と車道の間に段差がない。歩道部分はただオレンジ色に識別されているだけだ。清水さんによると、他にふたつある大橋には通常の歩道が整備されているということで、大型の軍用車輌や戦車が通ることが想定されているのではないかという。伊良部島の先にはほとんど地続きで下地島があり、そこには長年、軍事利用をめぐって問題がいくども取り沙汰された下地島空港がある。そんなこともあって、清水さんたちは陸上自衛隊基地は伊江島に造られるのではないかと予想した(その予想はおそらく利権の絡みもあって、外れたのだが)。
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■伊良部大橋 |
長山港から少し走ると、渡口の浜という美しい海岸が表れる。ここは海兵隊の図上訓練で水陸両用車の上陸訓練が実際に想定されていた場所で、宮古島の東北に位置する高野漁港とともに日本版海兵隊(水陸機動団)による上陸訓練が想定されている。米軍と共同の訓練も当然ありうるだろう。
下地島空港の方へ
伊良部島とほぼ地続きの下地島には、現在住民票を置く住人はいない。全島から個人所有地のすべてを県は買い上げ、その40%が空港用地、残りの60%が「残地」として現在は利用されていない。
下地島に空港計画が持ち上がったのは1968年。1972年の復帰前で、土地を奪われる地元住民や、軍事利用を懸念する教職員や公務員の組合をはじめとした大きな反対運動で、島は二分された。そんな中で国は建設を強行したのだが、1971年当時の琉球政府の屋良朝苗主席は、県の管理空港であるということと軍事利用をしないという確認書を国と交わし、空港は建設された。その後、国からの強い要請もあり、1979年、3000メートルの滑走路を持つ下地島空港は県と国との「公共飛行場」として開港された。
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■下地島空港 |
その後、下地島空港は民間航空会社の訓練用の空港として使用されていたのだが、「公共飛行場」というのは軍事利用に道を開くものだという懸念のとおり、アジアでの訓練の生き帰り給油という名目で、米軍は1982年以来、空港管理者である県の使用自粛要請にもかかわらず、300~400回も強行着陸をしている。2004年には、普天間の暫定的な代替移設地としての利用が取り沙汰され、また自衛隊による軍民共用化についての検討に着手という報道もあった。2005年には伊良部町議会による「自衛隊誘致の動議」が可決され、島民あげての反対行動の結果その撤回が勝ち取られた。しかし、2009年には宮古島への自衛隊部隊の配備と新基地建設が報じられ、さらに2015年に伊良部大橋か完成すると、宮古島での新基地建設も相まって、軍民共用化の動きが強まりつつある。また空港「残地」の利権をめぐって企業が暗躍していると言われる。
清水さんから下地島空港をめぐる問題の説明を受けながら空港エリアをひとまわりし、空港正面の管制塔と建設途上の新ターミナルに案内してもらった。そこは清水さんたち、軍事利用に反対する住民・市民が何度も抗議行動を行った場所で、三菱地所が整備を進め、実際の工事を沖縄島の大米組と國場組が請け負う新ターミナルの建設が行われていた。翌日(10月16日)の宮古朝日新聞では、2019年3月30日の開業とLCCの就航が報じられた。軍民共用の那覇空港のように、まずは民間からということだろうか。
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■新ターミナル建設現場 |
琉球王朝による人頭税は250年以上ものあいだ人びとを苦しめたが、島の代表は琉球王朝が陳情を受け入れないため、中央政府や議会に直訴した。その結果、他の要因もあったけれども、1903(明治36)年に人頭税は廃止されることになった。そのように先島の人たちは琉球王朝と日本政府という二重の支配のもとで、日本政府に対して批判的にはなりにくいところがある。沖縄戦の体験も、悲惨だったけれども本島とは形がだいぶ違う。また、石垣島は政治犯、宮古島は刑事犯(逆だという意見もある)という流刑地だった歴史もあり、いまも離島差別がある。沖縄島が中心という意識があり、離島のことはメディアでもあまり取り上げられない。沖縄県内でもそうなのだから、まして全国的には離島のことはほとんど問題にもならない状況だ。
「琉球処分のとき、宮古・八重山は中国に引き渡すことになっていたんですから……」伊良部大橋を渡り、宮古島の新興の繁華街に降りたったとき、清水さんは呟いた。離島の人びとが自衛隊を受け入れる素地のようなものを少し見たような気がした。
ドラッグストア、マクドナルド、ヤマダ電機、……、本土並みに本土資本がそびえる宮古島の夜の繁華街で。
陸上自衛隊ミサイル基地
10月16日、昼過ぎ、清水さんと待ち合わせて、久松地区から陸上自衛隊基地が新たに造成されている千代田地区に向かう。
陸上自衛隊ミサイル基地の造成地は、島東端の市街地から宮古空港をはさんで南東方向に20分ほど。かつては千代田カントリークラブゴルフ場のあった場所で、沖縄防衛局によるアリバイ的な説明会ののち、2017年10月30日から造成工事が始まった。
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■ミサイル基地建設現場 |
下地市長は防衛副大臣の来島前に防衛省に千代田ゴルフ場の購入を勧めたと言われている。当時千代田ゴルフ場は多額の借金で経営は破綻し、競売にかけられていた。市長の関係者が経営するそのゴルフ場は実に7億円で売り渡されたという話だ。一事が万事、先島における「島嶼防衛」、自衛隊配備には黒い利権が渦巻いている。
ミサイル基地が建設中の第1ゲート前に降り立つと、そこからは建設途中の6棟の宿舎や2、3棟の隊舎を望むことができる。ゲートからはひっきりなしに工事車両が出入りし、工事の騒音が会話を妨げた。島の土質(石灰岩)のため、粉塵と騒音は住民の生活を脅かすほどであり、清水さんたちは何度も行政に掛け合い改善を迫っている。また、少人数ながら毎朝このゲート前に立ち、プラカードと旗を掲げて、監視と抗議の行動を続けているとのことだ。
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■基地反対の横断幕 |
第3ゲート前から基地を望むと、ずっと向こうに村人たちにとっての聖なる場所である御嶽の森が見える。基地造成の過程で、10000㎡の御嶽の森は半分以下に削り取られた。その他にも、戦時中の避難壕跡や、かつて島で行われていた風葬墓の遺跡があったが、これらはすでに跡形もない。
第3ゲートの前にはメロン農家の仲里成繁さんの畑が広がっている。2年前の自治会長時に、野原集落で基地反対決議を主導し、現在もその姿勢を貫いている。しかし今、自治会は反対決議を撤回し、基地ができることを前提にした条件闘争のほうに軸足を移している。
空自の最新鋭レーダーを望む
陸自ミサイル基地から北東の方角に野原岳(109m)が横たわっている。そこには先に述べた航空自衛隊のレーダー基地が陣取っている。
ふたつの基地のあいだには、野原集落とだだっ広いさとうきび畑が広がっているだけだ。レーダー基地にはいくつものバラボラアンテナや地上波傍受施設などが配備されているが、特に問題なのは昨年9月から稼働しているFPS7という最新鋭のレーダーで、探知距離は500km、対弾道ミサイルの探知・管制も可能だということだが、ここからは非常に強い電磁波が出ていると言う。
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■千代田地区からレーダー基地を望む。左端2棟がFPS7 |
清水さんたちが琉球大学の研究者に測定をお願いしたところ、欧米での基準値0.1μW/のところ、200μW/まで測定できる機器が振り切れたと言う。しかし日本には電磁波に関する基準はなく、行政も影響はないという見解で、測定もしないし、対策もない状態。電磁波による健康被害については、血液癌など血液系の病気や認知症、鬱などが考えられるが、特に胎児(妊婦)への影響が懸念される。
「従軍慰安婦」の碑
航空自衛隊のレーダー基地のすぐ近くに「従軍慰安婦」の碑が静かに佇んでいる。
第二次世界大戦末期、疎開して島を離れる者もあり、宮古島には住人が5万人、そこに約3万人の日本兵が駐屯していた。航空自衛隊基地は当時の日本軍司令部のあった陣地で、島民は飛行場の建設や作業に駆り出され、多くの建築物が軍に接収された。沖縄島のような地上戦はなかったが、艦砲射撃や爆撃によって、島中が焦土と化した。食物もなく、輸送路も断たれ、人びとは飢餓と栄養失調、マラリアなどの伝染病に苦しんだ。
また日本兵とともに、宮古島には朝鮮人軍夫と「慰安婦」が連行された。朝鮮人軍夫は各種の建築現場などに動員され、若い朝鮮人女性がほとんどであった「慰安婦」は「慰安所」に収容された。島内には17カ所の「慰安所」があったと言う。
「従軍慰安婦」の碑は「慰安婦」の史実を伝えるため、2008年9月に設置された。土地所有者の与那覇氏が子どもの頃、目の前を往き来する女性たちの姿を目にし、その記憶をもとに二度と戦争を起こさないという願いで記念する岩を置いた場所にあり、韓国からの「従軍慰安婦」に関する調査団と出会ったことから計画された。「全世界の戦時暴力の被害者を悼み、二度と戦争のない平和な世界を祈ります」という内容のことが12カ国語で刻まれている。
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■「従軍慰安婦」の碑 |
もうひとつ、その隣には高澤義人という元補充兵としてこの地に駐屯し、悲惨な状況を体験した俳人の句碑がある。「補充兵われも飢えつつ 餓死者の骸焼きし宮古よ 八月は地獄」「犬、猫、みな食いつくし熱帯魚に極限の命つなぎたる島」。
日本兵の句碑の隣に、「慰安婦」の碑を置くということに、当時は賛否もあったそうだが、ともに戦争の被害者だということで、了承された。
戦後、彼女たちがどうなったのか、記録はまったく残っていない。
準天頂衛星追跡管理局
千代田集落から島の南東端に近い保良集落に向かう。
朝からの曇り空だったが、昼過ぎになって、雨がポツポツと降り始めた。「雨ですねぇ……」と言いながらクルマを走らせていると、急にバケツをひっくり返したような豪雨。かと思うと雨はまた小降りになり、そしてまた豪雨。西川さんの言うように、熱帯のスコールのような雨だ。
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■準天頂衛星追跡管理局 |
保良弾薬庫予定地にて
保良地区は宮古島のほぼ東端の南海岸沿いに位置する。ここに陸上自衛隊の弾薬庫と射撃訓練場建設が正式に通知されたのは2018年1月。地対艦・地対空ミサイルを保管する弾薬庫としては2016年に大福牧場が候補地とされ、地下水源地ということで撤回された経緯があるが、下地敏彦市長は、保良自治会が決議した反対の意志を無視して、受諾した。
弾薬庫の予定地は「保良鉱山」という採石場で、集落からは200mぐらいの至近距離だ。弾薬庫の隣に野外訓練場、射撃訓練場が予定されている。総面積は19ヘクタール。10月施行の沖縄県のアセス条例によって、20ヘクタールを超えると環境アセスメントが必要になるとのことだ。
道沿いの入り口から採石場を見晴るかすと、そのスケールに圧倒される。採石の跡地は足元から大きくえぐれて、前方には大きく陥没した風景が広がっていた。ここに弾薬庫をつくるというのは、建設だけを考えると絶好の場所だとも言える。しかし、弾薬庫はミサイル部隊の核とも言える施設だ。有事の際には真っ先に標的になるだろう。戦時ではなくても、事故があれば大惨事はまぬがれない。
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■弾薬庫予定地 |
この文章を書いている最中、10月28日には、予定地に隣接する七又地区の総会において、弾薬庫の配備について反対が決議されたという報道があった。情勢はさらに緊迫している。
保良の弾薬庫、射撃訓練場予定地からさらに数分東に進んだ海沿いに、海上保安庁の射撃訓練場が予定されている。沖縄初の海保の射撃訓練場であり、海保単独での訓練場としては日本初だ。このように至近な距離に陸上自衛隊と海上保安庁の射撃訓練場が置かれるというのはきわめて異例のことだ。
都市部からは離れた場所で、多くの人びとからは見えないから、なにも知らされないままに、なにごともなかったかのように物事が進められてしまう。怖ろしいことだと清水さんは呟いた。
「ミサイル基地いらない宮古島住民連絡会」による解説のチラシを見ていただきたい。清水さんの言葉によると「宮古島の様相は刻々と異常な軍事オンパレードの実験場・展示場になろうとしている」。それはたとえばひとたび原子力発電所を受け入れた県は、補助金や利権にまみれつつ、次々と受け入れざるをえなくなり、原発なくしては県行政が成り立たなくなる状況に似ているかもしれない。いずれにしても、そのような軍事化の果てにどのような住民の暮らしと未来があるのか、立ち止まって考えてみるときではないかと思う。
南西諸島の軍事化について
清水さんの案内で、宮古島で運営、建設、計画されている軍事施設を駆け足でまわり、現在進行しつつある軍事化の様相について、おおまかに知ることができた。クルマで走れば1時間もあればざっとまわってしまえる小さな島に驚くほどの軍事施設があり、いわば軍事の島と言ってもいいような宮古島の現在だ。しかし、それはなにも宮古島ひとつにとどまるものではない。
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■住民連絡会のチラシ |
石垣島については追って詳細を報告するが、7月18日、中山義隆市長が陸上自衛隊配備の受入を正式に表明、年度内の着工が報じられている。
宮古島はすでに報告したとおり。
ほとんど報道されることはないが、奄美大島では陸自の地対艦・地対空ミサイル部隊や大規模な弾薬庫の配備が計画され、2016年6月から駐屯地の造成工事が始まった。山肌を削り取り、森林を切り開いた広大な造成地が姿を現しつつある。また空自の移動警戒隊の配備や通信所の建設が発表されている。反対する住民たちは、市や防衛省に説明を求めているが、住民全体への説明はなく、配備計画の全体についても知らされないままだ。
種子島の西にある無人島の馬毛島は自衛隊の事前集積拠点、「島嶼防衛戦」の上陸訓練陣地として予定されているが、今年7月の報道では、空海両自衛隊の拠点として活用する方針だということだ。
沖縄本島では高江のヘリパットや辺野古新基地建設など米軍基地の問題が報道されてきたが、一方でそれに隠れるようにして、自衛隊の急激な大増強が進んでいる。2016年現在、沖縄駐留の自衛隊員は約8050人。今も大増員の最中だ。今年2月には地対艦ミサイル部隊の配備方針が発表された。
南西諸島の軍事化についていち早く警鐘を鳴らしてきた元自衛官の小西誠さんによると、「島嶼防衛戦」という形で進められている島々の軍事化、自衛隊の配備は、沖縄本島を含む琉球弧の全体に、地対艦・地対空ミサイルをずらりと並べ、通峡を阻止し封鎖する作戦のためだということだ。さらに空海自衛隊の配備によって、制空・制海権を確保する。しかし、このような攻撃的な配備によって、なにが守られるのだろうか。
国を守るということはどういうことか。それは島の人びとにとって、そして私たちにとっても、「善きこと」なのだろうか。
次回、石垣島における自衛隊配備をめぐる状況や現地の人びとの考え、思いを伝えたいと思う。
(下前幸一:当研究所事務局)