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書評

石田紀郎
『現場とつながる学者人生―市民環境運動と共に半世紀』

少数派の声をくみ取り、真摯に向き合う

“先生”ではなく

 この本は、学生運動が全国を席捲していた頃、京都大学の助手が公害の現場に足を踏み入れ、その後ずっと問題を抱えたさまざまな場所に自らの知恵と知識を提供しながら活動を続けてきた、「石田さん」という人の、半生を綴った書である。

 滋賀県の閑静な田舎で幼少期を過ごし、農学部を探して京都大学に入学したこと、植物病理の助手になった頃に転機があり、公害の現場を走り回ったこと、そして、赤潮が出る前の琵琶湖の汚染調査などを経て、京都での市民運動への参加を経験しながら、人々の輪を広げていったことが書かれている。それらの行動が、その時の著者自身の意味づけとともに紹介されているのが興味深い。調査研究の足場のないカザフスタンで、どうことばの障壁を乗り越え、研究や支援の道を切り開いたのかは、なかなか読みごたえがある

 京都大学の農学部に「石田研」があった頃、大学院生だった私もよくそこに出入りした。本書の中でも出てくる「災害研究グループ」の拠点となった部屋である。私は石田氏とは全くちがう学科だったけれど、周囲の院生の何人かが「災害研」ということばを使っていて、何だろうと思っていた。その頃は、よくわからないまま、興味津々とさまざまな人のことばに聞き耳を立てていたものだ。

 大学では助手になると、“先生”と呼ばれるが、そこでは学生たちが“石田先生”ではなく、“石田さん”と呼んでいた。学生や院生との年齢が近かったこともあるだろうが、災害を解決するのに、権威の側にいる“先生”は必要なく、議論し合えて、知恵を出し合える同志が必要という意味からだったのだろう。

少数派の声をくみ取る

 著者の半生をまとめて読むと、その行動の源と必然性に、納得するし、共感もする。日本経済が“繁栄する”ことだけに終始した結果、負の部分として産み落とされた公害多発の時代に彼は青年期を送り、“傷つく人々”が見えやすい時代の中にいた。

現場とつながる学者人生
藤原書店、2018年 3024円
 しかし、人の生き方はどの時代でも選択肢がいろいろある。社会の多数派に与することで、弱者の立場が見えない生き方をする人がいる一方で、少数派の声をくみ取り、それと真摯に向き合う生き方をする人もいる。

 著者は、安全な環境で安全な食べ物を安定的に生産するために自分の植物病理学の研究があり、その向こうに人の命のためのコメの増産があるはずだと考えていた。ところが当時の農業の現場で、開発された危険な水銀剤が大量に使われる状況を見て、科学技術は必ずしも人の生活や命を守らないということに気づいたという。植物病理学から一度離れるという彼の人生の選択は、時代性というより、むしろ理のある思考の結果であると感じる。

 今、フクシマで、何が起きたかを見ないことにする科学者たちは、著者と同じ時代に若き研究者として生きていても、人の命を守ることが何なのかについて、何も考えようとしなかったにちがいない。

繋がりを大切にする

 この書を読んでいて、一番興味深いのは、著者の活動の原点を過去に遡って紐解くことができることである。特に、彼の人と人を繋げるやり方には、心をひかれる。一つは、研究者同士の繋がり、もう一つは運動の担い手同士の繋がりである。

 1970年代初頭の各地での公害への関わりを皮切りに、ニッソール農薬裁判への支援や琵琶湖総合開発に反対する汚染調査で、著者はたくさんの研究者と繋がり、アンチモン公害調査では規制基準を制定させた。農薬裁判では、年月はかかったが、弁護士と共に敗訴から和解へと持ち込んだ。

 思うに、環境問題が大切だとされている昨今、若い人々は、反公害運動で活躍するということが、どちらかというと反体制側だったなどということを考えもしないであろう。明治時代の足尾鉱毒事件で、告発をした田中正造が、時の政府や警察からにらまれた状況と同じである。著者は、大学もちがい、専門もちがい、一人だけではつぶされそうな弱い存在である若い研究者たちの、ジョイントの役目に労を惜しまなかった。

 この繋がりを大切にする生き方は、研究者に対してだけでなく、公害での現地の人々、住民運動での生活者との繋がり、そして、運動する人々を繋げることへと発展していった。

千手観音のように

 本書に、「命と環境を守る市民講座」に招いた講師の謝礼を支払わなかったという話が出てくるが、この意表を突くアイディアも繋がりの功績である。その市民講座や「きょうと・市民のネットワーク」は、新しい人々を掘り起こし、活動する人々を繋げ、点在する運動を何本もの線で繋いで、面にしていく試みだったと考えられる。組織に属さない多くの人々を、組織に縛られないという長所を生かしたまま、どうやって“もの言う力”にしていくのかという難しい課題への挑戦であった。

 緩やかに集まって、必要なときには一緒に意思表示できたらいい、知らなかった考え方にも出会うことができる。その恒常的な基盤を作るために、きょうと・市民のネットワークの事務所という場を用意した。それが、後に少し形を変えて、今の、市民環境研究所につながった。

 著者はいつでも千手観音のように、いくつもの手を持っていた。今でもそうなのだろう。あそこに行けば誰かいるに違いないと安心して人は著者を頼る。その状況を作るために、誰よりも雑用への労力を惜しまなかったと思う。そこが一番学者らしくないところだと、いつも私は思っていた。

「ちがう人生」の選択へ

 今の著者の課題は「フクシマ」である。事故と被災者を覆い隠そうとする科学者たちを、腹立たしい気持ちで見ている人は著者以外にも何人もいるだろう。国の意向に反駁すると研究費が取れないことを理由に、科学者が黙ってしまうことを正統化する気には到底なれないが、それでも、覆い隠そうと、とんでもない理論を展開する科学者よりはましだ。

 しかし、科学者の姿勢以前の問題として、人々が、人々に共感することができなくなった時代を、今私は肌で感じている。どんな問題も、自分とは関係のないところで起こっていると思いたい気持ちの強さ。近寄ると損をするとばかりに、自分の目を無意識にふさいでしまう。

 元文科省事務次官の前川氏が加計学園問題で発言したとき、何人もの人が胸のすく思いだったと思う。力を持つ地位にいた人はほとんどやらないことを彼はやってのけた。彼は、在職中、全国の夜間中学設立推進の中心人物だったという。権力を手に入れるところにいた人でも、確固たる信念があれば、その場で何かできるということを物語っている。

 人には良心があると信じたい。人には共感する力や、人を思いやる優しさがあると信じたい。世の中全体が保身に走る現在は、絶望的に思えるが、この石田氏の本を読んだ人々が、「やっぱりちがう人生を選択しよう。そっちの方が人として納得できる」と考え、ささやかな行動を起こしてくれるのではないかと信じている。
                           (中川ユリ子:大学教員)


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