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市民環境研究所から

農をキーワードに環境塾再開へ


 不順な気候の中で疲れが取れない日々であるが、もろもろの反省点を踏まえての再出発が市民環境研究所にも求められている。本コラムの第1回(2003年)は、こんな書き出しで始めさせてもらった。

 「今月から環境問題に関する雑感を連載させていただくことになった。まず、何者が連載するのかを知っていただくために、少しばかり自己紹介をしたい。1959年に京大農学部に入学して、今春定年で退職するまでの45年間を大学という特殊な社会に身を置いてきた。この間に、1960年の反安保闘争や1969年の大学闘争を経験したが、それらに対して私なりに主体的に関係し、大学という特殊な社会で営まれる科学的営為の社会性を考えてきたつもりである」。

 そんな本コラムも2003年以来140回ほどにもなった。駄文に付き合ってくださった編集者の方々と読者の皆さんに紙面からではありますが御礼申し上げます。

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 京大退職後は、常勤的な働きはしないつもりだったが、その後9年も働いて、やっと2013年からは市民環境研究所で毎日を過ごしている。今までの活動をまとめながら、その過程で得られた智慧を出し合い、ゆっくりとこれからの世の中のあり様を考えて行けたらと思ってNPO法人を設立した。

 しかし、そんな悠長なことなど認められるわけがなかった。開設の1年前にフクシマの悲劇が始まった。予想されたこととはいえ、それは誰もが表現仕切れない様相を呈して我々に迫ってきた。こんな原発を存続させてしまった我々の世代の責任である。1940年生まれの私は敗戦、朝鮮戦争や中東戦争、沖縄の米軍の軍事基地や警察予備隊から自衛隊となる我が国の再軍備を見ながらの70年の歳月を過ごして来た。

 その過程で、科学と社会との最大の矛盾を表す現象である公害問題に正面から向き合わない限り、次の時代、次の社会が見えてこないだろうと思うようになり、多くの公害現場を歩いた。そうしながら、自分の科学的営為とは何をすることかを模索してきたが、悲しいかな納得できる地点まで行き着く前に定年となってしまった。まあ、自己の人生が定年で終わってしまうわけでもないから、肩書きが変わっても模索をつづけて行こうと決意しての市民環境研究所の設立であった。

 そして、このNPOのもっとも重要な事業として環境塾を立ち上げ、いろんな領域で活動している仲間に問題提起してもらう塾を何十回かは開催し、この塾を通じて多くの新しい仲間ができ、新しい活動分野が広がった。

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 しかし、3.11フクシマ以降は、フクシマの問題が環境塾では背負いきれない課題として押し寄せてきた。その上に、この数年は戦争法や共謀罪や改憲策動に対抗する市民の運動を模索し、左京フォーラムを立ち上げ、3年ほどで20回の講演会を開催してきた。それ以外にも戦争法を成立させた19日には毎月、京大近くの百万遍交差点から京都市役所まで行進し、市役所前広場での全体集会に参加して、四条河原町までのデモに合流してきた。これは新しい市民運動の提起であった。

 フクシマが生じてしまった今となっては、党派色を云々するのではなく、オール京都で脱原発社会を求めようと、円山音楽堂での「バイバイ原発きょうと」を開催している。その一役を果たせたと思っているが、さてその先はどうするのかと思案していた頃に、京都府知事選が迫ってきた。躊躇はあったものの市民と野党連合で4月に選挙戦を戦った。今まで経験したことがない街頭演説もさせてもらった。

 その結果は敗退だったとは言え、今までにないほど肉薄する得票で、左京区では保守候補を上回る票数だった。この選挙も入れて、農村票の伸びが顕著であり、農村の変化が読み取れた。それは農業と農村の瓦解が加速していることを示している。

 フクシマや反改憲の闘いをゆるめる訳にはいかないが、「人と水と農」をキーワードにして社会の在りようを考えてきた自分にとって、農業農村を議論する余裕もなかったこの数年を反省し、農をキーワードにする環境塾を再開しようと思う。これが年次総会を終わった今の決意であり、皆さんのご支援をお願いしたい。

                                           (石田紀郎:市民環境研究所)




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