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2018年フィールドワーク報告

地域に開かれた部落解放運動の模索と展開

箕面・北芝のまちづくりに学ぶ



 北芝は大阪北部、箕面市にある被差別部落。行政名ではないが、住民たちは愛情と誇りを込めて「北芝」と呼ぶ。同対審答申以降の同和対策の成果と限界を踏まえて、この30年近く、北芝の人たちは新たな展開を模索し、地域に根ざした暮らしづくり、まちづくりに取り込んできた。今回、フィールドワークの一環として訪問し、その運動の創生期から活躍されてきた丸岡康一さんとNPO法人暮らしづくりネットワーク北芝・事務局長の池谷啓介さんにお話を伺った。以下、その概要を紹介する。

報告にあたって


 アソシ研のフィールドワークとして、今回北芝のみなさんに御協力をお願いしたのは、主としてふたつの理由があった。

 ひとつは、部落解放運動の現場に触れることで、部落問題について具体的に学ぼうということ。関西よつ葉連絡会の各地域の産直センターでは、たとえば「人権センター」などに物品を配達することもあるし、部落の人たちと新しく関係ができることもある。地域のお祭りに出店したり物品を提供したりすることもある。またもちろん、能勢農場では屠場とのおつき合いもある。部落問題について学ぶことによって、そういった関係を人と人との関係として意識し、深めていくきっかけになればということ。

 もうひとつは噂に聞く北芝の暮らしづくり、まちづくりの実際について学ぼうということ。当研究所の名称のとおり、「地域」というのは私たちが関心をもつ中心的な課題であるし、研究所に関わりのある運動体や経営体も、地域による温度差はあるけれども、地域のさまざま活動とつながり、それを支えたり、支えられたりということを活動の柱にしている。そういった地域活動をさらに進めていくうえで、北芝のまちづくりの取り組み、その歴史はおおいに参考になるのではないかということだ。

 解放同盟北芝支部の創生期からの活動を担ってこられた丸岡康一さんには部落差別の現状と北芝支部の歩み、そこから「自分たちのまちを自分たちで守り育てる」というまちづくりの方向へ転換していった経緯について、池谷啓介さんには北芝でのまちづくりのさまざまな取り組みとその背景にある考え方について話していただいた。そのあと、北芝のまちづくりを担っているいくつかの施設を案内していただいた。

 今回、フィールドワークを企画する中ではじめて知ったのは、北芝の人たちと池田・豊中・箕面をエリアとする産直センターや能勢農場とは物品のやり取りや往き来もあり、浅からぬ縁があるということだ。丸岡さんの方からはじめにその話を聞いて、距離が縮まったけれども、たった1日お二人の話を伺い、まちを案内していただいただけで、多岐にわたる北芝の運動をトータルには理解できるはずもなく、ひっくり返した宝箱を観たという印象だった。しかしそれでも、とても大事なことを体験しているという感じはあった。読者の皆さんが今回の報告に接して、それぞれの立場でなんらかのお宝をひろい、それを育てていただければと思う。(下前幸一)



丸岡康一さんのお話
(部落解放同盟北芝支部顧問)

あいつぐ差別事件と差別の実態

 まず始めに、部落差別について、残念ながらぜんぜんなくなっていないという現状についてお話しします。みなさん、いろんな形で情報に接すると思いますが、たとえばインターネットでは、ヤフーの知恵袋であるとか、2チャンネルであるとか、良いも悪いもいろんな形で情報発信があります。そこに部落のことが載せられているという実態があります。 鳥取ループというインターネットのブログでは、「部落の人間は……」とあからさまに書いてある。部落地名総監というのをネット上で売ろうとしたり、部落に関する情報を拡散したりしています。私については、部落解放同盟大阪府連のまちづくり運動部事務局長というように名前が勝手に載せられています。それについて裁判をしていますが、そういうことがあたりまえのようにあるということです。

丸山康一さん
  ■丸山康一さん
 ヤフーの知恵袋では数年前にこういうことがありました。この萱野のあたりは新しく開発されていて、大きなショッピングモールができたり、マンションや新しい家がいっぱい建っています。知恵袋に「私は大阪市内から引っ越してきますが、萱野というところが分からない。子どもは小学校5年生になりますが、萱野小学校というところに通うことになる。情報をお持ちの方は」と書き込むと、すかさず「そこはやめなさい」と、「昔から問題がある地域です」という答え。「どういうことですか」と返すと「お察しください」と。回答者は年配の方かと推測しますが、追跡は難しくて、行為者が不明な差別事件というのが多い。

 また、ここは萱野中央人権文化センター(らいとぴあ、隣保館)ですが、箕面には他に桜ヶ丘人権文化センターがあります。人権文化センターという名前だから、そのまわりは部落かどうかという問い合わせが市役所に頻繁にあるということです。3年前のことですが、市役所のまちづくり推進室に、「桜ヶ丘の何丁目は部落か」と聞きに来た人がいます。なぜかと聞くと、「お客さんが部落に家を構えるのを嫌がっているし、部落民と間違われたらあかんと言うてます」とあたりまえのようにその不動産屋さんは答えたということです。そのことが部落差別であるということが分かってないというのが多い。

 この萱野でも結婚差別というのが、いまだにとても多いです。もちろん結婚はできるのはできるのですが、結局、部落以外の相手方の両親は結婚式に来ないとか、「勝手にしなさい」と縁を切られたような状態になったりということがあります。あるいはつい3年前のことですが、結婚式場を予約して結婚をする寸前だったが、お父さんの反対で、お母さんも反対に転じて、結婚できなかったということがありました。北芝の中でも、結婚差別というのは連続していまだに起こっているんです。
 部落差別だけにかぎらずに言えば、去年一昨年連続して、箕面の公共施設、図書館や市営駐車場のトイレや、メイプルホールのトイレ、さらには茨木市の駅構内のトイレにも、障害者に対する差別落書きがありました。また今年には、福島の人に対する差別事件があり、差別というのが非常に多様化しています。これはいままでなかったものということではなくて、もともとくすぶっていたものが出てきているというのが現状です。

 表に現れた差別の背景には、地域の生活における差別というものがあります。北芝はもともと小作の村で、なかなか普通の仕事に就けなかった。部落差別によって小学校すら行けず、文字を奪われた生活というのをずっと続けてきた。文字を奪われる(非識字)ことで、仕事も奪われるということになる。小作、日雇いなど、肉体労働ということになり、年金もかけられない。北芝には無年金者が多いんです。社会制度も奪われる。そして子どもにはまた、満足に教育を受けさせられないということになる。こういった悪循環が長年続いてきた。その結果、物事をマイナス思考で捉えるようになり、ポジティブに考えられなくなる。このことは実態調査でもはっきりしています。お父ちゃんお母ちゃんから子ども、子どもから孫へと、無意識のうちにそういう負の連鎖が伝わってしまうという現状がある。


部落差別の背景について

 大阪府の人権問題意識調査というのが、2000年から5年おきに行われています。ここから忌避意識に支えられた差別意識というものを見ることができます。

 まずさきほどの結婚についてですが、自分の結婚相手を考える場合に部落民かどうかを考えるという人が増えている。親という立場で、自分の子供の結婚相手を考える場合も、部落民かどうかを考える人も増えています。同和地区に対する忌避意識ということで言うと、さっきも言いましたが物件、住宅の話ですが、同和地区や同じ小学校にある物件は避けると思うという答えも増えています。

 なぜ避けるのかということを、もう少し掘り下げるために、「部落出身者」とは誰のことかという設問があります。41%が、本人がいま現在同和地区に住んでいれば部落民だと規定されるという答えです。他には、本人の本籍地が同和地区にある、本人の出生地が同和地区であるという答え。悪質なのは、職業によって判断しているという答えがあります。なんという差別かと思います。

 部落には昔ながらの部落産業があります。皮革とか食肉産業など。ということは屠場で働いていたら部落民だと規定されて差別を受けるということです。戦後、部落の人たちの仕事を確保するために運動をし、行政と話し合いをして、部落の産業としてし尿とごみ収集が入っていったという歴史があります。ごみ収集やし尿収集を見たら、きたないという差別意識がありますが、イコール部落民という差別意識もあります。こういう職業差別が部落民という規定の中にあるんです。

 他に、父母あるいは祖父母の本籍地が同和地区にあるという答えもあります。ここから言えるのは、部落民という規定は曖昧だということです。曖昧であることが今の差別を大きくしている要因なのです。

 部落についてまったく知らない人が、部落に対する偏見を、いろんなところからマイナス思考で言われたら、そのことが頭に入ってしまいます。3、4年前に、神奈川からご夫婦で梅田の会社に転勤で来られた方がいました。ご夫婦とこどもさんで「らいとぴあ」の前をうろうろしていました。意を決したのか、奥さんがうちの職員に「すみません。同和地区ってなんですか」と質問されたんです。梅田に近く交通も便利だから箕面の萱野というところに住みたいと会社に相談したところ、会社の人から萱野はやめとけと言われたとか。あそこは部落とか同和地区で怖いところだと。

 このように差別は私たちが知らないところで、いっぱい情報として残念ながら流れています。さっきも言いましたが、インターネットでもそうです。いろんな情報、まちがった情報が流されているから、若いご夫婦もそういうふうになる。

 部落差別というのは属地属人と言われて、部落に生まれた人が部落民だということでしたが、今はそういう次元ではなくて、自分が部落の人間と思われる、みなされることに対して避けようとする忌避意識が、部落差別を大きく助長する、温存することにつながっているということです。

 箕面市にも、単独で意識調査をするように要求し、10年ほど前に行われました。自分の子どもが被差別部落出身者と結婚することについて、認めるは56%ありますが、認めないも35%あります。住宅を選ぶ際に同和地区や学校区内に同和地区がある物件は避けるかという問いには37%がこだわらないですが、避けるは33%で、校区内ならよい、同和地区は避けるが24%で、合わせて50%以上になっています。箕面市の中にもこういう状況があるということです。


北芝支部結成と同和対策事業

 去年、部落差別解消推進法というのができました。部落差別があるというのを前提に、差別をなくさなければならないという法律です。それ以前には1965年に同対審答申が出されました。そのきっかけとなったのが「オールロマンス事件」です。

 その昔、京都に『オールロマンス』という雑誌があり、そこに「特殊部落」という小説が掲載されました。京都の部落は、だいたい12ぐらい地区があるのですが、それを全部名指して、こういう被差別部落はトラコーマが多いとか、ボウフラがいっぱい湧いてとか、子どもが裸で走っているとか、そんな差別的な話が掲載されて、その時に解放同盟(の前身である部落解放全国委員会)は行政闘争というのをやりました。

 行政はオールロマンス社に対して行政指導をしますと言ったのですが、解放同盟は、もちろんこの差別をやった者は悪いけれども、そのネタになるような地域事情を放置してきたのはどこの責任かと追及していった。たとえばトラコーマについては、その原因となる下水道処理されていない、井戸水で生活をしているのは京都市内のどこかと地図でチェックしていった。次に道路整備されていないのはどこか、こどもたちが教育を受けられていない、不登校の子どもたちが多いのはどこか、結果的に12カ所の部落が見事に印で埋まったんです。ここにこの差別事件の本質があるのではないかということで、追及したのが始まりでした。

 もともと皮革、屠場というのは部落の仕事とされていて、北芝にも昔は屠場がありました。勝尾寺の手前に瀧安寺というお寺があって、そこの落ち葉を拾う仕事を北芝の人たちはしていました。瀧安寺は天台宗で、もともと北芝も天台宗だったんです。それが蓮如さんと実如さんという浄土真宗の親鸞聖人のお弟子さんたちが来て、天台宗から浄土真宗に変わったという歴史があるんです。その天台宗のときですからかなり昔ですが、北芝の人たちは瀧安寺の落ち葉拾いの仕事をしていたということで、差別を受けていたという歴史があります。その落ち葉拾いの以前に、北芝には屠場がありました。

 1965年に同対審答申が出されました。これは画期的なもので、部落差別が残っているのは国の責任だと、国民的課題なんだということを国が認めた。部落差別をなくすことは国の責任で、法的措置をもって差別をなくしていこうと言ったのがこの同対審答申なんです。それを受けて、69年に同和対策特別措置法という法律ができました。

 同和対策事業により隣保館が建つ、住宅が建つ、学校も整備される、保育所もつくるなどの事業が行われました。学校には同和加配というのがあって、本来40人学級のところを部落だけは35人学級に定数が引き下げられ、そのために先生が余分につけられます。ここの隣保館も部落の人たちの生活の安定ということで、文化事業や読み書き教室、女性部の活動などをやっていました。
改良住宅
  ■改良住宅

 ソフト面では、同和対策事業として奨学金制度がありました。小学校に入る前、中学校に入る前に、奨学金が支給される。保育所などは減免制度がありました。こういうことが同和対策として、部落の人たちの生活基盤安定に向けた施策として実施されてきたわけです。さらに、一番大きいものとしては、行政職員の優先採用というのが昔ありました。

 行政の職員は、事務職、技術職、技能職ということで三つに分かれています。技能職というのは、ごみ収集やし尿収集であるとか、学校公務員さん、学校調理員さん、そういった職種の人が技能職で、北芝は優先採用されてきたという歴史があります。行政施策として、経済の安定というのが大事だということで実施されたわけです。

 それで、部落産業はなんですかと聞かれたときに、北芝では、かつては農業ですと言っていたのですが、この制度が入ってきて、1980年代の中頃には、公務員部落になっていました。北芝部落はだいたい180世帯ぐらい、500名ぐらいの、大阪のなかでも小さな部落なんですが、180世帯の中でも公務員が一番多い時で、120人でした。そのうちの90%が技能職で、あとの10%が事務職や技術職でしたが、そういった同和対策がありました。今はもちろんありません。


「甘え・依存」から自立支援へ

 1988年、89年に子どもたちの教育の実態調査というものを箕面市全体でやりました。子どもたちの今の到達段階、子どもたちの自尊感情、親の自尊感情というのを調べました。その結果、子どもたちの学力というのはまったく上がってなかったんです。良く理解できる、理解できる、理解できない、全く理解できない、と単純に輪切りで調べたのですが、北芝の子どもたちは、良く理解できるは全くなしで、理解できるは20%、理解できないが60%、全く理解できないが20%。これだけ同和対策をやって先生をたくさん配置しても、子どもたちの意識あるいは教育実態は変わらないという結果でした。
 結局、勉強は学校に先生にお任せということになっていました。学校だけではなくて大人の間にも、「いつか」「どこかで」「だれかが」「なんとかしてくれる」的な発想があり、支部や行政に対する「甘え・依存」の傾向がありました。北芝支部としてはこのことをおおいに反省しました。これではダメだということで、自分たちの手で、自分たち自身の自尊感情が高まっていくような、もっと言えば北芝という村が高まる事業とはなにかということを考えて、同和対策をいっせいに返上して、新たな取り組みをしていこうということで踏み出したのが1992年、93年です。
 同和対策はお金の切れ目が縁の切れ目みたいなところがあって、その後の運動はなかなかうまくいきませんでした。保護者組織もなくなってしまいました。そこから自分たちの運動のやり方を考えていこうということで、現在の「まちづくり」ということに到達して、進めているということです。


池谷啓介さんのお話
(NPO法人暮らしづくりネットワーク北芝・事務局長)

 北芝は最近、まちづくりや地域福祉で注目されているのですが、なぜそういうふうに転換していったのか、その前提の部分を丸岡さんに話していただきました。

 北芝では1960年代までは「寝た子を起こすな」という発想でした。行政からのアドバイスもあり。北芝住民は解放同盟支部を結成し、丸岡さんの話にあったように1960年代末から80年代まで20年かけてやってきて、下水も通り、道路も整備され、改良住宅も建てられました。しかし差別の実態はなかなか変わらなかったし、住民自身の支部や行政に対する依存の傾向が残っていた。それを反省して、行政依存を克服して、同和対策事業に頼らないやりかたを模索したわけです。


さまざまな取り組みがスタート

 たとえば、1999年にスタートした食の福祉サービス「おふくろの味」というのがあります。高齢者への配食サービスですが、地域のおばちゃんたちが、単身高齢者たちがスーパーのお総菜などを一人で食べているのを見て、もっと暖かくておいしいものを食べてほしいという思いで始めました。

 また、生きがい福祉就労の「まかさん会」というのがあります。箕面市の敬老祝い金制度を返上し、その代わりに箕面市から公園や道路の清掃などの仕事を請け負うというものです。箕面市には独自のNPO登録の制度があって、登録すると箕面市の事業ができるのです。一般業者なら機械を使って2、3人の若者があっという間に仕事をしてしまうところを、5、6人の高齢者が一緒になって作業をすることで、地域に役立ち、体も動かし、ちょっとの収入も得られる活動として、ワーカーズコレクティブという手法を使ってやっています。

 それからもうひとつ、子どもたちの自尊感情という面で言うと、和太鼓活動があります。それまで学校の勉強についていけなかったり、自分に自信が持てなかった子どもたちに、和太鼓を通じて自尊感情を育てようと活動しています。当時、大阪府下の部落で和太鼓チームがたくさん立ち上がっていましたが、北芝でも北芝解放太鼓保存会「鼓吹」という名前のグループを立ちあげて、結成25年ぐらいになります。これはもともと、地域活動として考えていて、北芝の子も周辺地域の子も集まって、切磋琢磨して太鼓をがんばってやっていこうという趣旨で始まりました。この中から、3人のプロも生まれました。

池谷啓介さん
  ■池谷啓介さん

NPO法人を中心とした取り組み

 こういう流れをくんで、地域に関わる個人や団体の支援をしていく目的で、2001年にNPO法人「暮らしづくりネットワーク北芝」がスタートします。最初は2人だけの組織で、なんとか会費と地域の寄付でやっていましたが、いろんな地域の困り事や「つぶやきひろい」をしながら、それを解決していこうというプロセスに入っていきます。この「つぶやきひろい」のやり方が面白いということで注目を集めていますが、僕らが大事にしているのは、多数の人が言ったことだけが困りごとではなくて、一人がつぶやいたことも、ちゃんと地域の困り事として捉えようということです。

 あるワークショップの場で出たことですが、ある高齢者の方が、「最近、病院や市役所に行くのがすごく大変で、年金も国民年金だけで少なくて、タクシーに乗るのも経済的にしんどいし、箕面市の送迎サービスも予約がなかなか難しい。だれか病院や市役所まで送ってくれないかな」とつぶやき、そこからスタートしたのが「かやのテクシー」という取り組みです。地域の人が地域の高齢者を送迎する会員制で相互扶助型のサービスとして実施しました。いろいろ箕面市にアドバイスをいただいて実施できるということになりました。病院や市役所以外にも、ちょっとカラオケに行きたいとか、お寺さんに行きたいとか、お風呂に行きたいというのもOK、そういう活動として定着しています。また、送迎はコミュニケーションや関係づくりの場としても大事です。

 最近の面白い取り組みのひとつに、「茶がゆの会」というのがあって、4年ぐらい前にスタートしました。北芝にはボランティアグループで「がってんだ」というのがあります。もともとは2002年にヘルパー2級の講習を受けて資格をとったメンバーのグループで、毎月26日(ふろの日)に高齢者をお風呂に連れて行こうと、車を2、3台も連ねて、いろんなスーパー銭湯に高齢者を連れて行ったというボランティアグループです。

 その取り組みのひとつに「茶がゆの会」というのがあります。元気高齢者の居場所としてデイハウスも僕らはやっているのですが、そこに来ていたある高齢者の方が日に日に痩せていくのにスタッフが気づいて、よくよく聞いてみるとそのおばちゃんは週3回のデイサービスでご飯を食べているけれども、他の日にご飯をちゃんと食べられてないのではないかという話になって、近所の人の話も聞くと、どうやら認知症の初期症状がでているのではないかということでした。その方は茶がゆが好きだという情報があったので、「がってんだ」が土曜日のお昼、老人センターの一角を借りて、「茶がゆの会」をやることにしました。

 その「茶がゆの会」は、おばちゃんだけのためにつくったと言ったら、おばちゃんは断るかもしれないので、子どもでも大人でも誰が来てもいいという会にして、そのおばちゃんにも声をかけました。そしたら案の定、そのおばちゃんも来てくれて、ご飯を食べるようになった。そこから介護保険の認定を取ったり、その後に配食サービスにつなげたりとか、その方は安定をしていって、ずっと単身高齢で団地に住み続けました。

 その他に、子どもの取り組みで言いますと、「キッズカフェ」というカフェをやりました。それは僕らがやっている駄菓子屋さんで、ある子どもの「昨日の夕飯、食べてないねん」というつぶやきや、他の子の「ひとりで夜、カップラーメンを食べている」というつぶやきがあって、その子たちに、食べることは楽しいことであるとか、自分で作ったらこんなことができるということを体験してもらうために、うちのレストラン(510kitchen:ごっとうキッチン)で研修をして、材料の購入から調理から片付けまで全部やるというプログラムを行いました。
510kitchen
  ■510kitchen(ごっとうキッチン)

 お客さんも子ども、オーナーも子どもというミニ・レストランです。普段はそれこそ、道ばたで会って、「おはよう!」って言ったら「はぁー」みたいな返事が返ってくる子どもたちがここでは「いらっしゃいませ」と言っていたりするわけです。すぐにはもちろん彼らの行動が変わることはありませんが、こういう体験を積んでいくことの重要性を僕らは大事にしています。じつは当時の子が一人うちの職員になっています。一人は学校の先生になりました。こういう取り組み通じて、地域の中で若者が育って、地域の役割を担っていくというのはすごく大きなことです。


開かれた広場としての芝樂

 また、芝樂という名前の広場で、芝樂市という朝市をやっています。これは北芝に来るきっかけとしては非常に入りやすい、ハードルの低い取り組みで、月に一度第3日曜日にやっています。安くておいしい野菜が買えたり、平飼いの卵かけご飯が食べられたりということをやっていますが、この朝市のポイントは、月に一度顔を合わせられる場だということです。若いスタッフが、地域の高齢者で名前は分かるけれど、顔が分からない見たことがないという人がいました。そういう人は老人センターや「らいとぴあ」などという地域の居場所に全然顔を出していない。そういう人たちが顔を出しやすい場として、おいしいご飯がある朝市を始めたんです。
芝樂
  ■芝樂

 そしたら案の定、ちょっとずつ来始めるようになって、今では月に一度でも顔を合わせられる場になっています。また、若者の就労支援とか子どもの社会体験のために、手伝いとか社会参加の場として芝樂市を使っています。あと、相談員であるとかスタッフであるとかいう立場を越えた普通の住民同士の関係の場でもあります。さらには、実はこれが一番の狙いになりますが、他の地域から北芝に足を運んでもらえる、内と外がしっかりつながる場、中間的な位置を担っている場ということで、この芝樂市を大事にしています。

 芝樂という広場をつくったのが2003年です。NPO法人が活動を広めていくきっかけになりました。広場にはコンテナを置いて、いろんなお店をやっています。チャレンジショップということで、駄菓子屋さんやバー、お総菜屋さんをはじめいろんな取り組みをしてきました。


「老人いこいの家」と「らいとぴあ」

 北芝で僕らの活動が拡がっていったきっかけは、2007年にはじめて老人センター「萱野老人いこいの家」(※)の指定管理をとって、3人の職員を雇用できるようになったことです。2010年にはこの隣保館(らいとぴあ)の指定管理を受けました。生活相談や教育相談、就労相談、他にセミナーの企画や子どもの居場所、貸し館、子育て支援センターがあったり、図書館分館などの機能があり、子育て支援センターと図書館など直営の部分が残っていますが、多くは指定管理で運営しています。このときに職員が一気に増えて、8人ぐらい雇用しました。この職員をベースにいろんな事業を展開しています。
らいとぴあ
  ■らいとぴあ(萱野中央人権文化センター・隣保館)

 現在、2期目、2025年までの指定管理を取っています。これはすごく地域にとって大きくて、10年間の指定管理を取ると、10年間いろんなプログラムを積み上げられるわけです。10歳の、たとえば小学校4年生の子がいて、20歳になるまでを見越して、いろんなプログラムを組める。行政が管理していると、行政職員はだいたい3年から5年で移動になり、スタッフが変わってしまう。子どもは9年間ずっといるわけで、それをていねいに見ていくということを含めて、指定管理のメリットが出るんじゃないかと、いま一生懸命やっているところです。


地域通貨「まーぶ」について

 NPO法人の取り組みとして、「まーぶ」という地域通貨をやっています。「まーぶ」というのは、「学ぶ」と「遊ぶ」という言葉をつなげた造語です。「自分の未来のためになること」や「誰かのためになること」をすることで手に入れることができたり、逆に地域の行事へ参加できたり、箕面市内のお店で買い物ができたりとか、社会体験をしながら、ボランティアをしたり働くという感覚を身につけていくということでやっています。実際、いろんなところで稼げて、いろんなところで使えるということが実現できています。

まーぶ
  ■まーぶ
 近畿財務局に2015年に申請して、地域通貨の登録に1年ぐらいかかりました。デパートの商品券などと同じ位置付けになっていて、箕面市内にある130店舗ぐらいで使えます。今、実際に流通しているのが300万円ぐらいですが、トータルで2000万円ぐらい出しています。団体とかお店に対しては現金との交換ができます。

 「まーぶ」が利用できる場として、隣保館の1階でやっているお昼の地域食堂があります。「ぴあぴあ食堂」といいますが、春休み夏休み冬休みの長期休みにやっています。隣保館で、お昼近くなるとさーっといなくなる子がいたり、カップラーメンを買ってきて食べる子もいたんです。ちゃんと子どもたちに暖かいご飯が食べられるようにしようということで、2012年からスタートしました。

 100まーぶでお昼ご飯を食べられるようにしました。おとなは500円か500まーぶで食べられます。地域の人や学校の先生もシェフとして関わってくれています。黒字にもならないですが、赤字にもならないラインで上手にやっていて、シェフになると有償ボランティアで、地域に関わってちょっとお小遣いをもらったりということで成り立っています。夏休み、多いときで40から50食ぐらい出るときがあります。

ぴあぴあ食堂
  ■ぴあぴあ食堂
 (そのほかに、いま力を注いでいる取り組みとして、毎週月曜日に市営団地の集会所を使った地域食堂の開催がある。みんなでつくって、みんなで食べる子ども食堂的な場所。市営団地は2002年以降一般募集をしているので、住宅にはいろんな人が入っている。たとえばひとり親家庭とか、難病を持った方とか、障害者とか。気軽に地域参加ができるフラットな中間的な場所として運営している。)


若者支援の取り組み

 2011年から2016年末まで、北芝からちょっと離れたところで、「あおぞら」という若者の社会的居場所事業をやっていました。今は終わってしまったんですが、特に引きこもりや生きづらさを抱えた若者たちの居場所事業をやっていました。その流れを引き継いで、若者が参加できるプログラムをいくつかやっています。その中の一つにコーヒー焙煎、コーヒーショップをこの隣保館の1階でやっています。

 また、面白い取り組みとしては、「なんでもやったるday」というのをやっています。高校を中退してしまった子や、中学校を卒業して仕事に就いたけど半年で辞めちゃったという子たちが隣保館に来ていて、「地域でなにかしたい」とつぶやいたことから始まりました。地域の高齢者のちょっとした困りごとのお手伝いをしています。高齢者への電球の交換や笠の掃除、粗大ゴミを代わって捨てるとか、地域のゴミ置き場を掃除するとか。ちょっと引きこもり傾向の子や、高校を中退した子とか、今まで20人から30人ぐらいの子たちが出入りしていました。

 活動経費としてトヨタ財団の補助金を受けるために、カラフルなつなぎを着てプレゼンをしたりしました。2年間補助金をもらったんですが、上手に運営して、ビラを地域にまいて、高齢者を対象としたインフォーマルな活動として事業を展開しています。高齢者の困り事を若者が支える、一方でそういう仕事を地域の人が若者にまわすことで若者を支えるという、お互いを支えるしくみというふうに思っています。また、たとえば網戸の張り替えなど、若者たちができない仕事を、ちょっと手先の器用な50代、60代の日曜大工の得意なおっちゃんが手伝いに来てくれたり、お昼と夕飯をお節介なおばちゃんたちが作ってくれたりとか、僕らが想定していなかった場面も出てきました。

 社会から排除されがちな若者が、地域の役に立つことで、支援される側から地域の課題を解決する側に立つことで得られる有用感というのは非常に重要だと思っています。彼らが地域の中での役割を持っていく、担い手であるということが重要です。この隣保館の前に農機具の倉庫があって、近所の家のかたが昔農家をやっていたときに使っていた農機具の倉庫ですが、もう農業を辞めて空いていたので、貸してくださいと頼んだら、そういう取り組みをするんだったらいいよ、ということで貸してもらっています。そういう地域の支え、地域にあるものを上手に使ってやっています。

 他にもコミュニティーハウスを活用した若者支援をやっています。ここも、10代20代前半の若者がここを経由して自立をするというサポートをしています。ここのポイントは公的な施設じゃないので、地域とのつながりを大事にした居場所、若者支援を行っていて、スタッフだけではなく、ちょっとご飯を食べにおいでと言ってくれたりというような形で、地域の人たちがサポートしてくれています。

 いろんな地域にあるものを上手に使いながら、若者が活躍できる場、地域での就労体験の場というものを大事にしています。「ニート引っ越しセンター」と称して、引っ越しの手伝いもやっています。引っ越しは「安い、丁寧、早い」というのが売りなんですが、僕らは「安い、丁寧、遅い」というのを売りにしていて、引きこもりの若者たちとスタッフが一緒に行って、本来3人ぐらいでやってしまう仕事を、6~8人ぐらいで行って、ゆっくりていねいにやっていて、そういうのを理解してくれる人たちが増えてきています。ほかに、遺品整理も増えています。
コミュニティーハウス
  ■コミュニティーハウス

 そういう取り組みを活用しながら、若者たちの社会参加の場であったり、自分たちが担う場をつくっていくということをやっています。特に若い世代の子たちが支援をされる側から担い手側になるということを意識して、地域のお祭りとかでも役を持って取り組める場をつくったり、ということをていねいにやっていこうとしています。


質疑応答

 【質問】解放同盟の北芝支部とNPO法人とはどんな関係になりますか。

 【池谷】僕らの活動として、大きく5つの団体があります。反差別、反貧困の運動をしている部落解放同盟。NPO法人はいろんな社会課題を解決するグループをバックアップしたり、いろんな事業を行っている法人。民間事業体として、ビジネスの手法で活動するイーチ合同会社。高齢者の事業を担う福祉サービス「よってんか」、これは箕面市の登録NPOです。あと、北芝まちづくり協議会というまちづくりを推進する協議体があって、自治体や地域の団体、解放同盟も入っています。以上5つの団体が、部落解放北芝まちづくり機構として連携しています。

 すごく複雑ではありますが、反貧困、反差別という運動体が基礎になっていると思っていただけたらと思います。ただ北芝の面白いところは、部落問題を前面に出してやっていくというようなことだけでなくて、部落以外にもしんどい人はいっぱいいるのだから、さっき言ったようにいろんな社会課題をともに解決していくことによって、社会が豊かになって、北芝が部落だということを表明しても、差別されない社会をつくっていくということが、最終的に目指しているところだと考えています。

 【質問】「つぶやきひろい」のことですが、一人のつぶやきから「かやのテクシー」とか、認知症が始まった人が個人的に茶がゆが好きだからと「茶がゆの会」を開いたりとか、いまのシステムだとできるだけたくさんの人の関わる問題が優先されるのが一般的ですが、逆に一人の声を大切にするというのは、意識してそういうふうにされているのですか。

 【池谷】社会問題というと、マジョリティーが言っていることが課題だとされがちですが、地域の人の直接の声から、よくよく見たら他の人たちにも同じような課題があったり、それを通して他の課題にもアプローチできるということがあります。だから、なんでもかんでも取り上げているわけではなくて、これは大事だと感じたことをやっています。まちの中のつぶやきを取り上げて一個一個積み上げていくこと自体がまちに愛着をもつことにもなります。丸岡さんは当時書記長でしたが、同和対策事業で獲得していくことから、自分たちでまちを担っていく方向に転換していく、そのためには地域のニーズ、つぶやきをどれだけていねいにひろえるかというのが、当時のコンセプトだったと思います。

 【丸岡】部落差別がなくならない原因として、日本社会に古くからある「文化」「風土・風習」「けがれ意識」を全国の仲間とともになくしていく取り組みを進めていくのと同時に、重要なのは自ら住んでいる地域の中にこそ、部落差別をなくしていくための本質があるということです。自分たちが地域の人たちとつながり、人と人との豊かな関係の中で、部落差別をなくしていく。部落差別は地域の中でこそなくなっていく。そのスタート段階として、僕らはまちづくりにこだわったということです。


参加者の感想

インフラ整備の「後」を示す取り組み

 当日、案内してくださった東京出身の池谷さんが、なぜ北芝に住み始めたのかについて、次のようにお話されました。大学時代の先生が、海外のスラム街か国内だと被差別部落が現在もっともまちづくりで進んでいる地域だから、まちづくりについて学びたければ、スラム街か被差別部落地域に行きなさいといわれたそうです。それが理由の一つだと聞き、被差別部落への差別を撤廃する活動として、まちづくりから取り組むということに興味を持ちました。

 以前から行政の支援の下で、被差別部落地域の街づくりはされていましたけれども、道の整備や上下水道を整える、公営住宅を提供する、あるいは、地域の子どもたちの教育を支援するなど、生活の基盤となるものを整えていくということにとどまっていたように思われます。北芝の方たちの取り組みはそれらを超えて、カフェやバーそして芝樂市などを開催し、北芝地域の人とその周辺に住んでいる人たちとを結ぶ工夫がなされていました。

 被差別部落の方たちの努力で、日本各地にある被差別部落の住環境は概ね改善されましたけれども、まだ地域に対する偏見は残っています。インフラが整った後、差別撤廃のために何をしていくのかについて考えていくのに、北芝の方たちの取り組みは参考になるのではないかと思いました。

                                (河村明美:よつ葉ホームデリバリー京都南)



問題意識と組織運営に魅力を感じた

 昔は「寝た子は起こすな」という考え方について、積極的な支持ではないにしても後の“同和問題においては有効ではないか?”と思っていました。高校生の時、クラスメイトが突然「自分は被差別部落の出身です」と発表した時も(いつも授業をさぼって不在だったから、正確にはそう聞いた時ですが…)「何でそんなことをわざわざ打ち明けるのか。聞いたところで付き合い方が変わるわけでもないし、気にするやつらだって言わなければわからないのに」と思った記憶があります。

 今はもちろん、そうした考えには全く同意できません。被差別部落の問題は数ある差別のひとつであり、全ての差別が起こる根幹は同じだという立場だからです。例え被差別部落に対する認識がなくても、誰しも己の中にそういう弱い部分があり、世界中で同じ構造の問題が存在していることを理解しなければ、誰しもが差別されない社会の実現は不可能でしょう。

 ただ、今回のフィールドワークで具体的なデータを提示してもらい驚いたのは、被差別部落に対し差別意識を持っている人の割合は、それが深く刻まれている世代がどんどん減っているにも関わらず、少なくなっているどころか増えているという事実でした。つまり、「寝た子は起こすな」は被差別部落の問題だけに限っても全く有効ではなかった…。やはり、どんなに遠回りでもきちんと知り、考え、伝えていくことが唯一の方法なのだと実感しています。

 北芝における取り組みには、上記のような観点が包括されているように感じました。悲観的にならないよう意識し、内向きにならず外に向かって問題を発信していく姿勢を持ち、まちづくりを通して人々にとって普遍性を持つ問題も一緒に考え取り組む中で、無知による誤解や偏見を溶かしていく。

 スタッフとしてそこに集うのは部落出身の人もそうでない人もごちゃ混ぜで、それぞれの問題意識に寄せた活動も大事にしながら仕事に関わることができるという弾力性も魅力的でした。可能であれば、そういった組織の構成や運営方法を詳しく知る機会があれば、今後の自分たちの活動の参考になると思っています。

                                          (松原竜生:大阪産地直送センター)




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