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アソシ研リレーエッセイ

ポピュリズムを積極的に捉えれば



 ポピュリズムに絡む話題が続いている。頑張ってつなげていきたい。

 さて、ポピュリズムについて、ネット百科事典ウィキペディアの英語版ではこう説明されている。
 「ポピュリズムとは、特権的エリートと闘うピープルの権利と権力を支える政治哲学である。」

 一方、同じウィキペディアでも日本語版では次のように説明されている。
 「ポピュリズムとは、一般大衆の利益や権利、願望、不安や恐れを利用して、大衆の支持のもとに既存のエリート主義である体制側や知識人などと対決しようとする政治思想、または政治姿勢のことである。」

 両者を比べると、英語版では「ピープル(民衆、人民)」が主役だが、日本語版では大衆の感情を利用する者が陰の主役となる。そのため、日本語版の方が積極的な意義付けは低いように感じられる。

 実際、日本では「大衆迎合主義」といった訳語をあてられることが多く、とかくマイナスイメージで語られがちだ。日本の政治文化に特徴的とされる「お上意識」の影響かもしれない。

 たしかに、これまで役人や選良(エリート)あるいは制度化された政治に対して批判や揶揄は投げかけられても、明らかに対抗的な政治運動は少なかった。この間、ようやく小泉劇場や橋下維新などポピュリズム的な動きが現れたものの、内容から見て積極的な評価にはつながりにくいのも事実である。

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 歴史的に見れば、19世紀末の米国や20世紀のラテンアメリカに典型的なように、もともとポピュリズムは特権的な少数派による支配を打破し、民主主義の実現を求める解放運動として生まれた。

 資本家や地主などを中心とする少数の特権層が政治を牛耳り、農民や労働者をはじめとする民衆は既存の政治構造から疎外されっぱなし。そんな状況を跳ね返し、自らの声を政治に届けるべく、民衆は団結して政治エリートに攻撃の矛先を向けたのだ。

 この点を踏まえ、水島治郎『ポピュリズムとは何か』(中公新書)では、次のように述べられている。
 「ポピュリズムは民衆の参加を通じて「よりよき政治」をめざす、「下」からの運動である。そして既成の制度やルールに守られたエリート層の支配を打破し、直接民主主義によって人々の意思の実現を志向する。その意味でポピュリズムは、民主的手段を用いて既存のデモクラシーの問題を一挙に解決することをめざす急進的な改革運動といえるだろう」。

 私たちにとって「既存のデモクラシー」とは、政党を軸とする代表制民主主義と見ることができる。すなわち、人々は地縁・血縁や職場を通じて、政党の支持基盤となる諸団体(農協や労働組合など)と日々の暮らしの中で関係する。そうした諸団体が人々の要求をまとめ、それに基づいて政党は政策を打ち出す。人々はそれに賛成票を投ずる代わりに、見返りとして政策の実現という利益を受け取る。

 しかし、20世紀には機能した「既存のデモクラシー」も、この間、年を追うごとに集約力を弱めている。人々と諸団体との関係は希薄化し、職場は多様な人々を抱え込むことが難しくなっている。その結果、人々は20世紀型の代表制民主主義に対して、もはや自らの声を政治に届ける経路とは見なさず、それに代わる、より直接的な経路を求めようとする。

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 こうしてみると、ポピュリズムが「大衆迎合主義」であり、デマゴーグ(民衆煽動者)に操られて民主主義を破壊するものだといった評価は一面的に過ぎる。むしろ、民主主義の深化にとって重要なきっかけと捉え直すべきかもしれない。

 もっとも、「下」からの動きだからといって、すべてが積極的に捉えられるかといえば、そうではない。デマゴーグに操作される面はたしかにある。そもそも民衆の選択が頭から正しいわけでもなく、間違った選択をしたり、集団的に暴走する場合もある。なにしろ、ヒトラー政権は民主主義に基づくワイマールの共和制から生まれたくらいだ。

 いずれにせよ、事態は現に進行しており、後戻りすることはないだろう。ポピュリズムを民主主義からの逸脱ではなく不可欠の契機と捉えながら、それがもたらす負の側面に限定を加え、民主主義の深化をはかっていくのか――。私たちを待ち受けているのは、こうした甚だ歯切れの悪い陣地戦の過程であるような気がする。

                                          (山口協:当研究所代表)



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