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よつばの学校 全職員向け講座 最終回 報告

地域とアソシエーションをつなぎ
変革の基盤づくりをめざす



 関西よつ葉連絡会の職員を対象にした「よつばの学校」全職員向け講座、2017年のテーマは「能勢農場・よつ葉の活動を通して、社会を考える」。よつ葉グループの第一線で長く活動してこられた津田道夫さんを講師に、能勢農場・よつ葉の40年以上にわたる実践をめぐって考えました。その最終回として昨年11月17日、田畑稔さん(季報『唯物論研究』編集長、哲学)から、これまで6回分の講座の内容についてコメントをいただき、若干の論議を行いました。以下、その概要を掲載します。



田畑さんからのコメント


◆自己紹介ふうに一言


 私は「よつ葉」の皆さんとはまったく別世界の、哲学畑の人間です。津田さんたちと交流が始まったのは、私たちが1986年に大阪哲学学校を始めた頃です。この頃から能勢農場で哲学学校の合宿をやらせていただいたり、津田さんや津林さんから言われて、一村和幸さん(元豊中市議)の後援会長をやり、現在は豊中市議の木村真さんの後援会長もやっております。津田さんたちとの交流を通して、自分としては社会運動の現状について、多少なりとも具体的に知る貴重な機会を与えていただいたことを感謝しています。けれども私はまったく別世界の人間ですので今日の話は外から見た感想ということになると思います。

 私はインディペンデント(無党派)の人間です。『唯物論研究』という研究誌を37年ほど編集しているのですが、この研究誌は1930年代の日本知識人の幅広い抵抗運動だった「唯物論研究会」の流れを受け継いでいます。だから新旧左翼、市民主義からリベラルまで一緒に議論しながら研究をする、多様な政治的思想的立場をもった人たちの研究と討論の場所である、こういう姿勢で編集をしてきました。そういうこともあっていろんな立場や運動体の人とコンタクトがあるのですけれど、私の目で観察させていただくかぎり、皆さんの「よつ葉」の運動は、経済活動と社会運動の結合という点でも、第一世代から第二世代、第二世代から第三世代へという世代間継承という点でも、ずいぶん注目すべき運動をやっておられるんじゃないかという感想を以前からもっております。もちろん外部の目には見えない課題もいっぱいあるでしょうが、逆に当事者だからかえって見えにくい面もあると思います。


◆感想を5点申し上げたい

 さて、津田さんの報告を6回分読ませていただきました。そのうちの5、6回分はテープを起こしした元のものを全部読ませていただいたので、比較的良く理解できたのですが、前の4回分は地域・アソシエーション研究所の通信で骨子だけ読ませていただいたので、十分理解ができていない恐れもある。そういうことで4、5、6回分を中心に私なりの感想を述べさせていただきます。

  ■田畑稔さん
 第1点は「原点は能勢農場にある、それを今後もどう生かしつづけるのか」ということです。2番目に申し上げたいのは、社会的経済とか連帯経済についてです。ただ財やサービスの質とか価格で買ってもらうというだけじゃなくて、「意味」を買ってもらわないといけません。その「意味」の再生産をどう確保するのかということです。3番目に「地域・アソシエーション研究所」という名称に込められた考え方について。これは津田さんのイニシアチブではないかと思うんですが「地域」視点と「アソシエーション」視点をつなぐという基本姿勢を打出された。これは日本全体を考えても非常に先駆的な方向付けだったんじゃないかと思います。第5は、生活の力と言葉の力についてです。これはちょっと準備不足だったかなと思うんですが、非常に大事な問題なので津田さんからも補足的なお話をうかがえたらと思います。


◆第1点「場所」としての能勢農場

 第6回目の講座で津田さんはこう話された。

 「でもやっぱり、空間ってなったときに、自然があって初めて空間的な場所としての意味があるのではないかと思います。そこに、多様な人がいる。考え方が一緒で、いつも同じ方向を向いている人たちばかりでは、やはり場所にはならない。子どももいて、年寄りもいて、男性もいて、女性もいて、すごく真面目な人もおれば、酒飲みでええ加減なのもおる、遊ぶのがすごく好きでいつでも遊びに行っている奴もおれば、本ばかり読んでいる奴もおる、そういう多様な人がその場所の中で、関係をずっと作って積み重ねていける、そういうのが非常に大事なのではないかと思います。そこで、生活があって、生産がある。そういうことを、場所を形づくっていくための、一つの、必須の、必須というと非常にあれだけれども、非常に大事な要素として、そういうものを、そういう場所づくりをめざしたい。」

 こういう能勢農場みたいな「場所」は、じゃあ明日つくろうかと思っても、それはできないことです。先輩がいて何十年も苦労して、当初は別の意図から行われたかもしれませんが、いろんな試行錯誤の結果として、こういう「空間」「場所」があるわけです。それを新しく意味づけて、いわば運動の「基地」にして、第三世代も運動を再生産していく。私は津田さんの6回の報告を読ませていただいて、一番の核心はここかなと思いました。

 それ自身が社会運動であるような「場所」です。社員も会員も若者たちも、そこで一緒に生活し、一緒に労働し、一緒にお酒を飲んだりしながら、日常とは別の生活体験ができる。参加したい市民も受け入れる。宗教のケースで言うと、修行道場ですね。社会運動としてのそういう「空間」、体験の「場所」。こういうものとして能勢農場という「場所」それ自身が社会運動として機能していく。これは今後もぜひ色んな経験や創意を持ち寄ってポジティブに位置付けていただきたい。

 みなさんもよく聞くと思いますが、政治というのは選挙とか、議員活動だけが政治じゃなくて、男女の関係も政治、どんな生き方をするかも政治、飯を誰がつくるのかも政治です。そういうのをライフスタイルの政治と言います。非常に幅広く政治を捉えないと、今の政治を捉まえられない。能勢農場で生活すると通常の世界とは違うけれども、苦しい若者や迷っている大人にもなにか新しい価値、新しい生き方に触れることができる。そういう「場所」の再生産も重要な「政治」でしょう。

 もうひとつここで面白かったのは、津田さん自身が「権力奪取の国家革命」から「生活中心の変革論」へ変わっていく。そのきっかけが非常に鮮明に描かれていることです。津田さん自身が政党オルグとして全国を走り回ったあと、ある疲労感、徒労感をもって能勢農場にいわば「帰還」をした。そこで立ち直る。立ち直るだけじゃなくて、そこで変革のあり方について再出発をする。この話も若い世代には身近に感じられたのではないでしょうか。できれば津田さんに補足的に話をしていただければと思います。


◆第2点「意味」も買ってもらう経済

 続いて、社会的経済、連帯経済、あるいは市民経済などいろいろ表現されている経済と普通の資本主義の市場競争の関係の話です。この点は、津田さんのお話にもありましたけれども、ある意味、たいへん難しいといえば難しい。国家権力を握って世の中を一挙に変えるということじゃないですから、資本主義が主役の(ドミナントな)社会のなかでも、連帯経済とか社会的経済とか市民経済と言われるものをきちっと進めていかなければなりません。しかも社会運動とつながる経済は単純な類型化を許さない。労働者協同組合や消費者協同組合、農民や中小零細企業の協同組合もあれば産直運動や有機農業もあれば障がい者の社会企業もある。よつ葉の諸事業ももちろん単純ではないでしょう。先日、大阪労働学校にボローニャ大学のジャンフランコ・マルゾッキ教授が来てイタリアの社会的連帯経済の現状を話されました。日本はこの面では非常に遅れているというか、まだまだこれからということでしょう。

 津田さんが確認されたように、さまざまな社会運動を背景として持っていても、市場でほかの営利企業と一緒に競合しつつ事業を行うわけですから、市場なんか無視して、価格なんかどうでもいいという話ではありません。そういう点で単なる理念運動でもなければ国家の福祉事業でもない。しかし津田さんが強調したいのは、よつ葉は財やサービスの品質とか価格だけではなくて、社会的な「意味」も買ってもらうんだという姿勢が不可欠だということでしょう。

 「意味」も買ってもらうということは、つまり生産側、流通側、購入側が経済行為そのもので社会的な「意味」でも繋がっている。よつ葉がやっている活動、産地と消費者をつなぐ活動の「意味」を購入者側も支持する、あるいは参加する。そういう側面を持つのが社会運動としての経済には不可欠であって、この面を次の世代でも再生産できるかどうかが問われてくる。これは今ある意味、よつ葉にとっても「のるかそるか」の局面であって、津田さんは責任ある立場ですから非常に厳しいお話をしておられます。

 念のための話なのですが、こういう社会運動としての経済は「市場競争に徹底できないので、いずれ負ける運命にある」ということではありません。資本主義が支配的な経済システムのなかでも、たとえばイタリアやオランダやカナダなどでは、GDP(国内総生産)のかなりの比率を占めている社会的経済、連帯経済があって、我々の生活の再生産にとっては、資本主義の暴走に対する大きな抑止力として働いている。もちろんこういう抑止力が働きにくい国もある。資本主義社会といっても純粋資本主義だけで経済が成り立っているわけではありません。純粋資本主義は理論として理解しておくことは必須ですが、それが直ちに実在の経済そのものだということではない。

 例えば資本主義の歴史的に検証されている特徴としては、「ミクロの合理性」で突っ走ります。「ミクロの合理性」というのは、短期で結果を出さないといけないということと、利害が狭いということです。そういう枠組みで激しく突っ走る。その結果として、マクロで、つまり長期の社会的人類的視点で見ると「非合理」がいつも溜まってくる。具体的には、バブル崩壊で爆発したり、戦争で爆発したり、公害で爆発したり、外国人ヘイトスピーチで爆発したり、非正規雇用で爆発したり、原発事故で爆発したりします。「ミクロの合理性」と「マクロの非合理」というのは、資本主義の裏表です。従って、一方では、ちょっと待て!という市民運動や野党や異論が必要だし、労働運動や人権運動も必要なんですけれど、他方で、経済活動そのものの領域で「もうひとつの経済」というものを実践していくことも非常に重要な意味をもっている。

 これらは単に理念として「そうあるべき」ということではなくて、不十分だとはいえ現に働いている力です。先ほど申し上げたような財やサービスの質とか価格だけじゃなくて、「意味」も買ってもらう。買うというのは消費行動であると同時に運動への参加の形なんだということです。そうすると運動する側は、そういう意味も自覚し、伝えないといけないし、あるいは「意味」も再生産する努力をしないといけない。これからもよつ葉ネットワークの場合にも問われている。これが津田さんの強調点の2点目だと思います。


第3点 地域とアソシエーションをつなぐ

 3点目は「地域」という考え方と「アソシエーション」という考え方、これをつながないとダメだということです。これは恐らく津田さんたちが日本でも最初に提唱されたんじゃないかと思います。

 私はアソシエーション論を強調する当事者の一人なので、活動家たちからしばしば「アソシエーションという横文字を使うなんて、この日本で一般民衆と一緒に運動する気があるのか」と言われるんです。いろいろな事典のアソシエーションという項目は私に執筆依頼が来ることが多いのですが、ポンと翻訳できるんだったら、誰も苦労しないわけです。それだけの理由があってのことです。つまり我々が「結い」とか「結社」とか「協同組合」とか既存の言葉のどれか一つだけで固定すると、肝心のかなめが死んでしまう。だから横文字のままにしているわけです。

 資本主義は私利追求の激しい競争社会であり、会社は経営者の「専制権力」です。商品経済は人と人との関係を物と物との関係にどんどん置き換えていく(物象化)。「ソ連型社会主義」とされたものも実体は国家主義であり、自発的連帯組織は抑圧され続けました。かといって部族や親族の伝統的な農業共同体に戻れるわけでもない。社会民主主義が勝ち取った成果である国家による再分配型の福祉も官僚主導と「個人化社会」化のリスクを背負っています。たしかに、国家による再分配としての福祉は重要で、現状ではそれを前提にする面が多いと思いますが、一方で障がい者の「社会的企業」のような参加型の福祉への前進も問われています。

 これらの歴史的総括の中から問題意識としてクローズアップされ、いろんな形態で実践され始めているのがアソシエーション、つまり共通の目的を実現するために生活者や労働者や市民諸個人が自主的に連帯組織を作り、自治的に運営し、他のアソシエーションとの間で行動調整や政策調整や経済調整やモラル調整をしていくような個人や社会のあり方なのです。こういう個人や社会のあり方を実践する能力を我々はすでに持っているだけでなく、実際、非常に大規模に無数の形態で実践しています。
 いま問われているのは、これを原理的に位置づけなおし、質量ともに画期的に前進させることです。もちろん国家や市場や会社がすぐに一掃されるなどという幻想を持っているのではありません。ドミナンス(主役)をめぐって長期にわたる不均等な激しいあるいは妥協的な対抗が続くでしょう。とはいえ歴史的条件と主体的闘争の質にもよりますが、ポスト資本主義の未来社会が少し顔をのぞかせ始めているとも言えるでしょう。

 アソシエーションという言葉は、社会を自分たちでつくるという意味です。アソシエーションの中には「ソーシャル」という言葉が含まれていますが、これは「仲間」ということです。つまり、アソシエートというのは仲間関係になるということ、社会を自分たちでつくろうじゃないかということです。

 これは家族や会社とは異なります。家族の場合、子どもは自分から家族に加わるわけではなく、「生まれ込む」わけです。会社は自分たちでつくることができますが、現実には権力組織ですから仲間関係になろうとしても限界があります。むしろ、上下関係があって頭を下げないといけません。

 それに対して、アソシエーションは自分たちで社会をつくって財や知恵や力を持ち寄って自治で運営しよう、他の組織ともネット型で調整しようということです。こういう生活文化、社会文化、政治文化が爆発的に多く強くならないと世の中は変わりません。逆に多数者が「アソシエートする技」を身につけずマス(顔のない大衆)に解体する状態が続くと、煽動家の餌食になり、権力の奴隷になることも忘れてはならないでしょう。

 しかし「アソシエーション」だけでいけるのかと言えばそうでなく、もう一つ「地域」という根付くべき空間、場所の視点が必要です。それがないとアソシエーションはユートピア(どこにも場所のない国)に浮動してしまいます。この点は長年、地域闘争で頑張ってこられた津田さんから学んだことで、大変ありがたかった。地域という言葉にはコミュニティーをあてる人もいますが、地域・アソシエーション研究所のようにローカルという言葉をあてる場合が多いです。「地域」は中央権力から見て周辺部というだけでなく、生活世界、住民家族や住民共同体、自然環境、経済地理学的諸条件、文化的歴史的ストック、生育環境、原風景、つまり故郷もあるわけです。この意味で「地域」というものは、アソシエーションで皆で今日つくろうと思っても、それは無理です。「地域」は結成するものではなく、何百年、少なくとも何十年かかって成熟するものです。

 しかし、それなら地域だけで地域起こしができるのかと言うと、現実の農村を見ても、現実の都市の地域を見ても、これはアソシエーションが頑張らないといけない。地域かアソシエーションか、ではなくて地域とアソシエーションを結ぶことが大事です。村の有力者だけでは村の将来展望は全然立たない。やはりグローバルな視点をもった若者が、村で新しいアソシエーションをつくってどんどん実践してもらい、失敗もしてもらわなければなりません。それが地域です。

 アソシエーションから見たら、地域はアソシエーションが活躍する「場所」なんです。地域というものなしにアソシエーションが空中に浮遊しているわけではありません。逆に、地域にしてみれば、アソシエーションがなければ、伝統的な有力者支配みたいなものでジリ貧です。新しい農業もできない。有機農業も有機農業団体というアソシエーションがやるわけです。こういう視点が運動論としても非常に大事だし、今、成果をあげていると思います。

 ついでに申し上げておくと、私は、豊中市議の木村さんの後援会長を、名前ばかりですが、やらせていただいていますが、豊中みたいな大都市地域でも、エコロジー団体もあれば、九条の会もあれば、いろんな文化団体もあれば、労働組合もあれば、協同組合もある。こういう市民の運動が、政治という目標で木村さんを擁立して、つながっていく。地域で政治的行動調整をして、「タコツボ」に入らないで、一緒にやろうやないかとつながっていく。これはやはり地域とアソシエーションのつながりです。地域とアソシエーションをつなぐという非常に画期的な視点を、よつ葉の運動は出しているわけです。そういうことを私としては申し上げたいと思います。


第4点「自分にこだわる」ことと「連帯する」こと

 津田さんは若い頃の体験を回想しつつ「自分にこだわる」ことと「連帯すること」の関係について語っています。能勢農場の生活を通して、自己改造というか、宗教的な表現だと「回心」でしょうか、こういう体験が印象深く語られておりました。これは最初に挙げた「原点」としての能勢農場の問題ともからむのですが、今の若い世代にとってもつながる問題です。「自分にこだわる」ということは、そんなに悪いことなのか、自分にこだわるということと「連帯する」ということとは、どうつながるのか、あるいは亀裂が入るのか、こういう問題は次世代の人との対話のベースになると思って、津田さんは、運動で生きてこられた人なので、意識して語られたのだと思います。
■会場の模様

 津田さんの体験はこうです。革命を標榜する自分があるけれども、一方で実態としては自分しか意識していない自分もいる。こういうことでずっと悩み続けていた。「私」と言うときに、現実の他者と話をしたり、他者から指導を受けたり、他者に反発したり、ケンカしたりしながら生きているわけですが、津田さんが悩んだ問題というのは、「外の他者」じゃなくて、いわば「内なる他者」でしょう。

 我々は必ず自分のなかに対話対象をもっている。この「内なる他者」といつも対話し相談しながら、現実の他者とも対話ややり取りをしている。「私」は「内なる他者」と「現実の他者」を相手にして、小さな回路と大きな回路の二重の回路をいつもぐるぐるまわりながら生きています。これが「私」というものなんです。

 ところが若き日の津田さんの場合、ある時期、この「内なる他者」が「完璧な革命家」となってしまった。するとどうなるかというと、めった打ちしてくるわけです。「お前、自己批判しろ。そんなことで革命家になれるか」ということになってきます。

 津田さんも書いておられましたが、完璧な人間こそが世界を革命するんだという発想は克服しないとダメです。若い世代もそうですが、「完璧な他者」を内側に立てると完璧なものを要求してきて、別の角度から見ると自分を不自然なほど過小評価する事態に陥り、抑鬱状態になってしまうケースが多く見られます。これは自縄自縛でやはりダメなんです。

 1970年代に活躍した市民運動のリーダー小田実の言うように、“人間みんなチョボチョボや”ということにならないとアソシエーション運動なんかできません。じゃあ、どうしたら、“みんなチョボチョボ”になれるのかということです。これは津田さんが「異質な他者」の受容体験という、能勢農場という原点にもかかわる実に貴重な話をしておられるので、皆さんも共通の問題として、ぜひ自分に突き合わせしながら考えていただいたらと思います。

 時間がありませんが、あえてもう一つだけ。この前、中国で共産党大会が行われましたが、提案された議題には全員が賛成しますね。少数民族の衣装でやってきた人たちも、誰も反対しません。これはやっぱり、このパターンです。つまり完璧を装わないとダメなんです。装わないといけないので異論とか異質な人間に対して攻撃するわけです。嫌疑の対象にする。そうじゃなくて、むしろ人間、男と女、北京の人間と少数民族の人間、見る見方が違うのは当たり前なんです。そういう多様性や対立を財産にしないとダメです。

 沖縄の人と本土の人と、見え方が違うのは当たり前です。それを「パースペクティブ」と言います。つまり同じ世界を生きていても見る位置によって見え方が違うということです。こういうものをこなさないとアソシエーション型の運動になりません。一枚岩と言っても装っているだけで、対立を隠すだけの話です。“人間みんなチョボチョボ”というのがアソシエーション型の運動のベースだと思います。それがあって初めて多様な「異質な他者」からも学ぶとか、また「異質な他者」とつきあって、ああよかったな、自分は得をしたなという姿勢になるわけで、「完璧な人間」を内に抱えないようにしなければなりません。津田さんの話は、非常に良い自己総括のひとつの形ではないかと思います。


第5点「生活の力」と「言葉の力」

 最後ですが、「生活の力と言葉の力」の第5回は主旨に異存はないのですが、ちょっと準備不足を感じました。ここで言おうとされたことは「生活の力」と「言葉の力」が不可分だということでしょう。生活の力は反復の力であり、草の根に根付いている。従って、そう簡単に変わらない。生活世界を変えようと思うと、まずはそこに住み込んで、一緒に生活をしながら時間をかけて、変えていかないといけない。これは非常に正しいことで、この点に反対はありません。生活世界こそ運動の出発点であり目標地点だと私も考えます。

 しかし生活世界は歴史世界を織り込まないと織り上げられないのも現実です。歴史世界も自然世界も織り込まないで、生活世界だけ純粋形で織り上げられるというのは日常生活に常に存在する切実な願望ですが、それこそ日常性のユートピアです。生活世界が歴史世界を織り込み、歴史世界が生活世界を織り込む際に生じる色んな衝突や亀裂、これに直面して生活世界側から歴史世界に向けて言葉を発信し運動化しないといけない。これが社会運動の役割になろうかと思います。津田さんもこういう展開を想定しておられたと思いますが、講演録を拝読するかぎり、明示的には出ていなかったので、若干補足させていただきました。

 「言葉の力」を強調しますと、ネットを見ても今は生活の現実抜きに言葉だけ氾濫してるじゃないか、という反論が寄せられます。ましてトランプ大統領のように事実も嘘も政治効果次第という権力者による見境のない言葉の濫用もある。「ポスト・トゥルースの時代」と社会学者たちは例によってさっそくレッテルを提出してくる。それは分かりますけれども、問題を混同しています。生活の力を背景に持たないで言葉だけが氾濫しているというのは社会現象です。情報化革命のひとつの帰結です。それと我々が現実に生活の力をベースにして言葉を発信していくというのは別のことです。

 生活クラブの言葉で言うと「生活者の論理」ですが、それは生活の力と言葉の力の結合ということでしょう。どちらも欠けたらダメなんです。言葉が氾濫しているからといって「生活者の論理」を発信しないというのはごまかしですし、社会運動にとっては致命的な間違いでしょう。そういう人は活動家の中に結構多いですが、私のような書斎派の哲学者に対する批判としては的中するかもしれませんが、社会運動が自分自身の課題を放棄する結果にならないようにしなければなりません。偉そうな言い方で申し訳ありませんが、そういうことを津田さんも言いたかったんじゃないかなと思って、最後に触れさせていただきました。


論議と質疑

 
【津田】ありがとうございました。最後の方は怒られている気分で聞いていましたけれども。

 最後の「生活の力と言葉の力」ですが、最初にこの講座を構想したとき、その前に「地域と職場をつなぐ」というテーマをもう一回入れようと考えていました。生活の積み重ねが蓄積しているその地域というのと、僕ら、関西よつ葉連絡会もそうだし、能勢農場もそうだけれども、事業として自分たちで組織している職場というものをどう考えて、つないでいったらいいのかというのを、いろいろ考えていたことがありました。

 会社の中の人間関係というのは、責任者がいて、一定の権限がその人に与えられて、その指示の下で動くという形を、必然的にもっていますよね。よつ葉の会社は、わりとそこらへんが曖昧になっている面があるかもしれないけれども、それでもやはり、最終的な責任の所在としては会社の代表者にあって、その裏返しとして、会社の最後の決定権はその社長が担っている。

 こういう、どちらかというと縦系列の会社、職場の中での人間の関係と、そういう会社も含み込んだ地域というのを、どんなふうに考えたらいいのかということ。

 たとえば、よつ葉の配送センターが地域活動を積極的にやろうとずっと言ってきたけれど、配送センターが地域活動を組織するというのは、どういうイメージで、どう考えたらいいのかということをいろいろ考えていて、そういうところを自分なりに整理してお話ししたいなと最初考えたのですが、なかなかうまく人様に聞いていただけるような中身にならないまま、えいやっ!とそこは端折って、「生活の力と言葉の力」というところに行ったんです。

当日の模様
  ■当日の模様
 ただ、後から振り返って自分自身がちゃんと話ができなかったのは、地域を越えて、生活の領域を越えて、まったく会ったこともない、もしくは時間も越えて、空間も越えて、人の営みがつながっていく、その可能性は言葉だろうということです。

 そういうものを、僕らの中できちっと位置付けないと、さっき田畑さんから厳しく指摘されましたけれども、なにか自分たちの仲間の日常の中ですべてが完結して、その中で終わってしまうというのでは、本当に自分たちが目指すような社会をつくっていく力にはならないんじゃないかということを言いたかったのですが、そんなふうな話になっていなかったのかもしれません。

 
【田畑】先ほど紹介させていただいた生活クラブは、最近は大阪にも出ているみたいですが、関東を中心にした新しい型の生協として、社会運動もやり、政治運動もやっている。その創業者の一人である岩根さんが「生活者の論理」と言っていて、これには学ぶことが多いと思います。

 それを私が紹介させていただいたのは、生活の力と言葉の力は、生活者の論理として発信していくことが、言葉の洪水という状況下で逆に大事なことだということです。実態をもって言葉を発信していく運動というのがないと、言葉の自家消費の傾向は克服できないので、いろんな意味で大事かなと思いました。

 
【津田】田畑さんから、先ほどよつ葉の事業を、連帯経済とか社会的経済ということでまとめていただいたことに関して、付け加えたいと思います。

 よつ葉は生産、流通、消費の分断をつなごうと言ってきたけれども、その意味はどういうことなのかということで、12月号の『よつばつうしん』に、よつ葉のPBとは何か、というテーマで少し書きました。それはたぶんここで田畑さんが出していただいたような話につながると思います。

 PBというのは、プライベート・ブランドで、これを広辞苑で引くと、大手のスーパーマーケットや百貨店、つまり流通側が生産メーカーに、ある商品の規格やいろんな内容を提示して、メーカーに生産を依頼し、できたものを自社のブランドとして独占的に販売することで、価格を安くする、というものです。

 よつ葉のPBというのはこれとどう違うのかということですが、よつ葉のPBの原点は、僕は能勢の食肉だと考えています。いまでこそ豚は能勢では肥育していませんが、以前は能勢農場で牛も豚も肥育して、それを自分ところの加工場で精肉化して、よつ葉に販売してもらっていた。これが元祖よつ葉のPB。よつ葉の方から言われて始めたわけではなくて、農場の方がそういうのをつくったからよつ葉に売ってくれということで、つくられてきた。ここがひとつ大きく違います。流通側が生産側に依頼して、できあがった商品、しかも安い商品というのとは全然違う。

 もうひとつは生産側と流通側が、今の食べものをめぐる生産、流通のあり方が自然に反している、本来の食べもののあり方に反しているという共通の問題意識をもって、協同してそういうのを変えていこうということで生まれた。これが、よつ葉のPBのもうひとつの大きな特徴ではないかと思います。

 そういう意味では、僕はよつ葉が扱っているすべての食べものの原点が、よつ葉のPB工場、農場でつくられている食べもののイメージにあるのではないかなと思って、そういうことを書きました。そのイメージの一番中心が、単に食べものとしての品質がすごくいいということではなくて、その食べものをつくっている現場の人間と、それを消費者のところに届けている人間とが、その食べものに対する考え方を共有しているということが、よつ葉のPBと呼ばれている食べものの特徴ではないかと思っています。

 生まれてたぶんもう35年以上になって、PBの生産工場、農場を担っている現場の人たちの世代も変わって、生産側から見れば、注文が来てつくったら買ってくれるという、ある意味で安易な馴れ合いも生まれるだろうし、流通側から見れば、なぜこんなに高いのか、なぜこんな価格でしかつくれないのか、なぜこんなに品質にバラツキがあるのか、なぜこんなに欠品がうまれるのか、というような疑問、不十分さが、今よつ葉のPBの中にはすごく出てきていると思います。でもそういうのをもう一回原点に引き戻すことが大事だと思います。

 田畑さんが話していただいたような、単なる物というだけではなくて、それをつくっている生産現場の意味、そこに込めようとした意味、それを自分たちの食べものとして消費者に届けようとしている人の意味が人間的に共有されるような、原点に引き戻すように現状を変えていく努力をしないと、よつ葉のPBはだんだん埋もれていってしまうのじゃないかなと思っています。連帯経済というふうに田畑さんがまとめていただいたところの話は、よつ葉の実態に則して言えばこういう領域に位置付けられているんじゃないかなと思います。

 
【質問】第5点目の「生活の力と言葉の力」でお話しされた中で、「生活者」というふうにおっしゃいましたが、それはどういう意味合いというか、どういう人たちを表すのかなという疑問です。

 文学なんかを通して社会運動をしておられる人たちが書いていた文章で、その人たちの家族や兄弟は、“自分たちと違って生活者だった”という言い方をしていたので、それがすごく引っかかっています。そしたらその人たちは生活者じゃないのかなと思うんだけれど、そもそも生活者ってなにかというのが疑問です。

 
【田畑】適切ないい質問ですね。労働者という言葉は、一面では実在の労働者を捉える言葉なんですけれども、社会運動では労働者のあるべき姿という理念化された面をもつわけです。たとえば、職場の人権侵害に対して、現実の労働者はほとんどが泣き寝入りしていますが、現在の社会でも毅然と闘うのが労働者の権利であり望ましい姿なんです。

 生活者についても同じです。実在する生活者はいろいろですが、社会運動としては「生活者として」「生活者の立場に立って」というように「あるべき生活者」、「ありうる生活者」を前面に押し立てた運動が必要です。こういう面で「労働の思想」からそれを含む「生活の思想」へということが進んでいる。職場の権力関係や労働条件改善をどう闘うかを考えても、「生活の思想」が直接問われる。

 さらには資本主義そのものが、「次はこのスマートフォンを買って下さい」とか「原発堅持」とか、別に職場だけで対峙しているわけではなく、生活全体で資本主義と向かい合わないといけない。こういう背景があります。

 アソシエーションというのは、ユニオン、協同組合、政治結社、九条の会、グリーン、シールズ、フェミニズム、独立メディアなど非常に多様な運動です。一見バラバラで、思想としてのまとまりも見えませんが、これら多様な運動が直面する政治課題で行動調整を重ねていくことが不可欠です。その共通ベースは「労働の思想」というより、労働も含まれる「生活の思想」になるのではと思います。一枚岩ではない多様な「生活の思想」というのがいろいろ出てきて、行動調整も進んで、なにか国会中心でないが地域に根差した政治的圧力を発揮できる新しい政治にもつながるんじゃないかなと思います。

 
【津田】今年4月から8ヶ月にわたって、仕事が終わってからの時間、あまりまとまってもいない僕の話にお付き合いをいただきまして、どうもありがとうございます。これからのよつ葉を担っていく皆さんに、なにか考えてもらう刺激になったら非常にうれしく思います。ゲストに来ていただいた田畑さんに拍手を。どうもありがとうございました。



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