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花崎皋平さん講演会 報告

民衆思想とその方法から学ぶもの


 去る10月30日、大阪経済大学で「民衆思想とその方法について」と題し、哲学者・花崎皋平さんの講演会を開催しました。当研究所および大阪哲学学校、季刊「唯物論研究」刊行会、北摂ワーカーズの共催によるものです。急に決まったため、時間的余裕のない中での開催でしたが、当日は40名以上のご参加をいただきました。以下、簡単ですが内容について報告します。



花崎さんについて


 まずはプロフィールを簡単に紹介しておこう。

 花崎皋平さんは1931年生まれで現在86歳。1964年に北海道大学に着任し西洋哲学を講じる一方、66年にはベトナム戦争に反対する市民運動「札幌ベ平連」の結成に参画。70年にはデモ参加者をかばって公務執行妨害で逮捕されたり、北海道大学で大学闘争が激化した際に被告学生の刑事裁判で特別弁護人を務めることになり、それを機に71年には大学を退職する。

 これ以降は翻訳や執筆を生業としながら、北海道での伊達火力発電所反対運動、泊原発反対運動のほか、成田空港建設反対の三里塚闘争をはじめとする各地の地域住民運動、アイヌ民族との連帯活動にも携わってこられた。

 1989年にはピープルズ・プラン21世紀国際民衆行事で世界先住民族会議の運営事務局に参加。その後、長年の友人・武藤一羊さんとともにピープルズ・プラン研究所を創設。また北海道では1990年、さっぽろ自由学校「遊」の発足に加わり、2005年まで共同代表を務められた。

 当研究所との関わりで言えば、花崎さんは北九州の社会運動家・村田久さん(故人)とともに2回ほど当研究所を訪問され、「田をつくる」と銘打った、地域住民運動の相互交流と社会変革の長期的な展望を論議する運動への参加を要請された経験がある。

 振り返れば、花崎さんと村田さんは1980年代、日本各地の地域住民運動の経験交流と連携をめざす「地域をひらくシンポジウム」という運動を推進されており(筆者も学生時代、京都で行われたシンポジウムに参加した記憶がある)、こうした活動の歴史的な蓄積の上に「田をつくる」の運動もあったのだろう(ちなみに、当研究所では2005年の「米子[鳥取県]シンポジウム」、2009年の「長井[山形県]シンポジウム」に参加している)。

 このように、花崎さんは「知識人」であり「学者」ではあるものの、大学など「制度としての学問」とは意識的に一線を画し、生活現場や地域に内在しながら、そこから思想の営みや社会変革の可能性を抽出するスタイルを堅持し続けている。

 そうした花崎さんにとってライフワークとも言えるテーマこそ、今回の論題でもある「民衆思想」だ。


「民衆思想」とは?

 「今日の論題の「民衆思想」については70年代から考えてきました。そのため、これまでの繰り返しになるかも知れません。しかし、繰り返し、反復というのも重要なことです。これは田中正造から学んだことです。彼はこう言っています。『真理は芋を洗うが如し。同様類似の古き話を幾回も幾回も繰り返すと、自然に真理に徹底するものなり』。」

 冒頭でこう話された後、花崎さんは「民衆思想」の内実に言及する。

 「民衆思想とは、その言葉どおり生活の中での実践、生きる活動、そういう具体的な働きをしながら形成してきた思想を意味します。」

 ただし、専門の思想史家が行うような包括的な定義づけに興味はなく、自身が出会ったり学んだりした人々に即して得られたものだという。花崎さんの著書『田中正造と民衆思想の継承』(2010年、七つ森書館)には、次のように記されている。

 「民衆思想家は著書、論文などで知識層にはたらきかけるいわゆる学者思想家ではなく、民衆と共にあり、その生活、経験のなかから生じる問題をめぐって思索し、主張や見解を述べる立場を貫く人であり、第一義に実践家であるような思想家である。」

 もちろん思想と言うからには何らかの普遍性がなければならない。しかし、それは数学の公式のようにどこでも誰でも同じように適用されるようなものではなく、本人が生きていく上で不可避的に、自ずとなされた結果として現れるものである。その意味で、民衆思想は民衆思想家の生き方を離れては見出しにくいのかもしれない。

 「民衆思想家は、必ずしも「本」という形で思想を残しているわけではありません。もちろん著作を残している人もいますが、それよりも「話」つまり友人や周囲の人に語ったことや日記や書簡といった形で思想を表現している場合が多いんですね。」

 「本がないので思想家と言えないんじゃないか、と言う方もいると思います。著書がなければアカデミーの研究に載りにくいのも事実です。でも、振り返ってみると、釈迦も孔子もキリストも、世界の古来の大思想家はいずれも本を書いたわけではないんですね。彼らが話したことを周りの人たちが書きとめて残す、それがその人の思想として伝わっているわけです。本を書くことが主流になったのは、もちろん悪いことではなく一つの進歩ですが、元からそうではなかったということを忘れるべきではないと思います。」

 私たちは、ともすると思想というものを何か体系のような、首尾一貫した理論のように想定してしまいがちである。しかし、思想の根源に遡れば、それは自らが生きていく中で直面するさまざまな問題に、自分なりに答えを見出そうとする行為や活動、さらにはその蓄積にほかならない。

 この視点から見れば、すべての人々は潜在的に思想家である。ただし、そのほとんどは自分の考えを対象として捉えているわけではない。だからこそ、そこに思想を見出す「眼力」が問われてくるのではないだろうか。


松浦武四郎について

 「私が民衆思想に興味を持ったきっかけは、1970年頃、田中角栄の「新全国総合開発計画(新全総)」で沖縄と北海道をエネルギー基地にするための開発が進められようとしていたときのことです。北海道では伊達市に火力発電所の建設計画が持ち上がり、それに反発した漁師たち、伊達の古くからある村にずっと住んでいたアイヌの漁師、和人の漁師が立ち上がって建設に反対する運動を始めました。

 当時は全国で反公害・反開発という考え方や運動への関心が非常に高い時代だったこともあって、私たちもその闘いに参加し、「援漁」と称して(実際には邪魔をしに行ったようなものですが)漁師のところへ行っては泊めてもらい、頻繁に話をしていました。私は、そこで初めて地元のアイヌに出会い、その人に魅力を感じたことがきっかけで、かつて北海道を歩いてアイヌのことを詳しく記した松浦武四郎の書いたものを読むようになったんです。」

 松浦武四郎は幕末から明治にかけて活躍した探検家。当時は蝦夷地と呼ばれていた北海道を6回にわたって探査したが、すべてアイヌの案内で廻り、アイヌ語を覚えてコミュニケーションできる希有な人物だったという。

 花崎さんによれば、松浦は著作も残しているが、それ以上に数多くの日記を残しており、その中から思想をうかがうことができるという。

 たとえば、松浦は探査の過程で松前藩のアイヌへの暴虐な振る舞いに怒りを覚えるようになる。しかし、自身も雇い(下級官吏)という立場のため、表立って異議を唱えることができない。

 「代わりに何をしたかというと、訪れる村で人別帳(戸籍)を徹底的に調べたんですね。すると、労働可能なアイヌの若者たちはすべて徴用され、無償労働にかり出されていることが分かりました。どこの村に行っても同じなんです。そうした事実を克明に記録することによって一種の告発という仕事をしたわけですね。」

 また、松浦は一般に「北海道の名付け親」と言われるが、そこには認識の齟齬があるという。

 「彼が蝦夷地の代わりにいくつか提案した名前の中に、音が同じ「北加伊道」というものがあったのはたしかです。しかし「加伊」というのはアイヌが自らを「カイノ」などと呼ぶことから「アイヌの暮らす島」という意味合いで提案したものだったんです。それが、実際に取り上げられた際には「北海道」になってしまったんですね。」

 松浦は明治になってからは北海道から引き上げ、二度と渡ろうとしなかった。それは、アイヌが蝦夷地で安心して暮らせるようにしたいと考え、提言してきたにもかかわらず、実際にはそれと真逆の振る舞いをする明治政府に失望したからだという。

 「そこで彼は江戸に帰ってきてから『近世蝦夷人物誌』という本を書いています。北海道探査中に会ったアイヌの人々について記したものですが、その選び方がユニークなんです。漁師や猟師はもちろん、障害を持ちながら生きている人、貧困な状況の中で生きている人、親孝行な人、自殺した人なども「人物」として取り上げています。

 その際、人を評価する上で、社会一般の価値基準とはまったく離れた、それを超えたところから、「人としてのあり方」という点で対等に取り上げているんです。その見方に非常に感銘を受けました。

 それから、最後にまとめのような一章を書いているんですが、それは箱館(函館)で和人の役人や御用達請負人や問屋などが宴会をやっている夢を見た、という内容です。彼らが宴会で食べている刺身はアイヌの肉、呑んでいる酒はアイヌの血、それをアイヌの人たちが外から見ていて「ああうらめしや」と言っている。そういう夢を見たという終わり方なんですね。この本は明治政府が「出版相成らず」と発禁にしました。」

 花崎さんは、こうした松浦の考え方を知ることを通じて、単なる探検家や観察者にとどまらない側面に注目し、大文字の思想家ではない実践家としての思想家、すなわち民衆思想家として捉えるようになったという。


田中正造について

 さて、花崎さんが「民衆思想家の中で一番重んじている」のが田中正造(1841年~1913年)だ。田中は一般には、日本初の公害事件と言われる足尾鉱毒事件で農民の先頭に立って闘い、明治天皇への直訴にまで及んだ社会運動家として、また衆議院議員選挙で当選6回を数える政治家としても知られる。

花崎さん
  ■花崎皋平さん
 そのため、往々にして「義人・田中正造」というイメージで捉えられがちだが、花崎さんによれば、それにとどまらないものがあるという。1966年に木下尚江編『田中正造の生涯』が復刻され、その中で田中が衆議院議員を辞めて以降の書簡や日記が詳しく紹介されていたことがきっかけに、それまであまり注目されてこなかった側面が明らかになったとのことだ。

 「田中正造の場合、公害に反対する谷中村の農民たちを知るにはその群れに入らなくてはならない、外側から見ていたのではその人たちの真の姿を捉えることはできない、そう考えて谷中村に住み着くわけですね。こうした姿は、松浦とは異なるもう一つの民衆思想家としての姿を示しているのではないかと思います。」

 足尾銅山の鉱毒汚染水が渡良瀬川に流入し、洪水となって下流域まで汚染するのを防ごうと、政府は栃木県の谷中村に遊水池を設け、汚染水を沈殿させようと試みる。しかし、全村廃村・村民移住を不可避とする計画に村民は猛反対し、田中は村民を支援すべく谷中村に移り住む。

 「彼は何かする際には徹底的にする人で、人間だけではなく大地の側に一体化するような思想に立つんですね。政府は谷中村を立ち退かせようと思ったので「耕作禁止」を命じました。それに反対する田中正造の文章がありまして、“耕すのは食べるためだけではない、自分が食べなくてもいい、とにかく大地の富を実りの形にすることが大切なのだ。国が取り上げても構わない、収穫しなくてもいい、とにかくつくらせろ”そんなことを言っています。」

 ちなみに、前出の木下尚江は田中が晩年キリスト教に接近したことを受け、田中が「義人」を超えた「聖人」の境地に至ったと評価する。花崎さんは「それには賛同できない」としつつも、田中が宗教的もしくは霊性的(スピリチュアル)な観点から世界を見ていた点については強調している。上に挙げた耕作問題と同じく、渡良瀬川の治水問題でも“水を治めるには水の心にならなければダメだ”と主張しているそうだ。すなわち、途中で堰をつくって堰き止め、無理やり流路を変えるのではなく、自然の高低差によって自然に海に出て行こうとする“水の心”に沿うべきだということである。

 こうした姿勢は、谷中村住民との関係でもうかがえるという。

 「谷中村の農民たちはほとんどが文字を知らない人で、それゆえに“愚かである”と蔑視されてきたわけです。田中正造はそんな農民の中に神を見る。人間として真剣に生きていることに注目するわけです。知識がないために人には騙されやすいけれども、天の目で見れば愚かではない、「衆愚ハ愚ニして天ニ愚ならず」と言っています。徹底して価値観を逆転させているんですね。」

 田中自身は衆議院議員を務めた経験はあるが、決してエリートではなく、幼少期に寺子屋に4~5年通ったくらいで、いわゆる学校教育を受けた経験はないという。にもかかわらず(それゆえに、と言うべきか)、これまでの自らの実践や経験を基盤にして独自の世界観を形成し、それをもとに現実のさまざまな出来事について判断している。

 それは、花崎さんによれば、「ある種の抽象作用を行っているんです。思想になるためには具体的なものをある程度抽象化する必要がありますが、そういう作業がなされていると思います」となる。

 「話の最初に紹介した「真理は芋を洗うが如し」。これは反復のことでもありますが、反復を通じて偶有(偶然)性がそぎ落とされて核心が残るということ、つまり抽象化ということでもあります。

 同じ民衆思想の例として、東海地方にあった被差別部落に残された民話が本になっていて、その中に「部落に伝わる根っこ話」というものがあります。「根っこ話」とは、人から人へ語り継がれる中で、葉っぱが取れ枝が落ち、最終的には幹もなくなり根っこだけが残る、そういう意味だそうです。これも一つの抽象で、民衆が思想を形成するやり方を表していると思います。」


同時代の民衆思想家

 もちろん、民衆思想家は過去の人々ばかりではなく同時代人でもある。花崎さんにとって、一人は前田俊彦さん(故人)である。

 前田さんは戦争中、非合法の共産党員として捕まり、治安維持法で7年ほど投獄されていた。戦後は故郷の村で村長を務めるが、辞めた後は『瓢鰻亭通信』という個人通信を発行しながらベ平連運動や三里塚空港反対運動に積極的に関わり、国内外を広く歩いて通信で主張を説いた。また、どぶろくをつくる権利を主張した「どぶろく裁判」でも有名である。

 花崎さんが注目するのは、『瓢鰻亭通信』の内容のほとんどが対話形式で書かれていたことだ。

 「実在の対話ではなくて、前田さん自身が対話するという形が多かったですが、その対話形式自体が私は大事な民衆思想の方法ではないかと考えます。」

 その背景にあるのは徹底的な平等主義だという。たとえば、前田さんは『瓢鰻亭通信』の基本的な立場として「野心にもとづいてものを書いてはならんのじゃ。おたがいにもっとよく考えてみようじゃないか、という問いかけとしてものを書かねばならんと思うんじゃが」と主張する。

 あるいは「ブレーンとハート」という文章では、「ブレーン」つまり「脳味噌」に個人差があるのは仕方がないとしながら、「しかし、たかが味噌の問題なのです」と笑い飛ばす。一方、「ハート」つまり「心・命」には個人差などなく、誰もが平等・同一だとする。こうして「『ハート』にいたっては何らの差別はないということが、私どもが万人が平等であると称する最大の根拠であるのです」と結論づける。

 「ハート」において万人は平等であるからこそ、「味噌の問題」を超えて、「おたがいにもっとよく考えてみよう」という対話が成立するのだろう。

 こうした前田さんの思想を端的に示すのが、没後に刊行された編著のタイトルにもなった「百姓は米をつくらず田をつくる」との言葉である。

 「運動のあり方として、私が前田さんから学んで大事に思っている言葉です。米そのものは工業製品のようにつくり出すことはできません。豊かな田をつくることによって、結果として米ができるわけです。それは人も同じです。人はつくれるものではない。育つ場所をつくることで、結果として育つという考え方です。

 私は社会運動をそのように考えようと思いました。いきなり結果を出すような活動は、必要な場合もあり、できることもあるでしょうが、基本的には難しいと思います。それよりも、そこで人が育つような関係の中で運動が行われるということが大事なのではないか、と思うようになったんですね。」

 先に触れた、花崎さんが村田さんとともに取り組んでいた「田をつくる」の運動は、こうした意味を含んだものと捉えることができる。

 花崎さんはさらに同時代人の民衆思想家として、沖縄・金武湾での石油備蓄基地建設に対する反対運動で中心的な役割を果たした安里清信さん(故人)、水俣病の被害者である漁民たちの運動や患者たちの苦悩・希望を描いた小説『苦海浄土』で著名な石牟礼道子さんを紹介された。紙幅の都合で各々の内容は割愛せざるを得ないが、前田さんも含め、共通する思想的な基盤の存在がうかがわれる。


反復・抽象・歩くこと
 
 花崎さん自身の言葉で言えば、以下のようである。

 「(一)人間の根本的平等の立場
   (二)生存の基盤を重視する立場
   (三)天地自然に、生命を育む悠久の働きが存在することを信じる霊性の立場」
(花崎皋平「営みとしての思想 第3回 民衆思想について」『季刊ピープルズ・プラン』第75号、2017年2月)

 これらは、田中正造の思想における哲学・倫理・宗教的な側面の特色として挙げられたものだが、同時代の民衆思想家の中にも何らかの形で見られるものである。というより、この三つの特色を軸に田中の民衆思想の継承を展望しているのだから、当然と言えば当然である。もちろん、花崎さん自身にも、この三つの特色を踏まえて自らの思想を展開しようとする指向があるものと思われる。

 さて、お話の最後に、花崎さんは民衆思想の「方法」について改めて言及された。

 「反復、抽象について言いましたが。もう一つ、民衆思想家はよく歩くんです。いろんなところへ出かけていく。歩くというのは現場に行くという意味がありますが、単純な行為でもあります。これも一種の反復でしょうが、何時間も続けるといろんな雑念が振り払われて単純になるんですね。その単純さというのは複雑なものを圧縮してできた単純さだと思います。思想を生み出す方法として、歩くことを考えられるんじゃないかと思うんですね。

 振り返ってみると、いわゆる偉大な思想家はよく歩くんですね。デカルトやカントもよく歩いていたし、もちろんキリストもソクラテスも歩いていました。歩くということが思想をつくる際に果たす役割も少なくないんじゃないか、と思っています。」

 この点でも、思うところは多い。私たちはともすれば机に向かって文献を読んだり、あれこれ考えたりすることを思想の営みと考えがちである。もちろん、それ自体を否定しても意味はない。しかし、それらは思想という営みの、ごく限られた局面に過ぎない。歩くこと、行動することを通じて現実に向き合い、身体全体で考える。それはまた「生きる」ということそのものでもあるだろう。

                                                (山口 協:研究所代表)



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