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アソシ研リレーエッセイ

シェイクスピアから考える

「ポピュリズム」の両義性



 「民衆あってのローマではないか?」シェイクスピアのローマ史劇『コリオレイナス』の中の台詞です。飢饉で食糧不足に陥ったローマ市民は暴動を起こし、「金持ちに都合の悪い法律はどんどん廃止して、貧乏人を金縛りにする過酷な法令を次々に布告する」と国を支配する貴族に不満をぶつけます。

 とくに主人公の貴族ケイアス・マーシャスは、隣国のヴォルサイ人との戦いで勇敢に戦って国を守ったことを称えられ、コリオレイナスという称号が与えられるものの、市民のことを「野良犬ども」と呼ぶなど、あからさまに民衆を愚弄し、傲慢な態度をとるので、他のどの貴族よりも市民から非難されています。

 ローマ市民の意見を代弁し、国の支配者たちに意見することができる護民官が設置されていますけれども、この話の中では、市民を扇動して自分の立場を有利にする者として登場しています。

 では、貴族や護民官の民衆をないがしろにした政治に対するローマ市民の態度はどうかというと、マーシャスは彼らのことを「きさまらは、一分ごとにくるくると心変わりする。憎んでいたものを立派だと持ち上げ、崇めていたものをけしからんとこき下ろす」と言っており、扇動されやすく気まぐれです。

 きちんとした分析は専門家にお任せするとして、個人的にこの作品は、ローマ市民のエリートへの不信やポピュリズムがテーマになっていると思います。『コリオレイナス』のような状況は、現代の社会にも当てはまるのではないでしょうか。

 例えば、イギリスのEU離脱の際、グローバル化を進めようとするエリート層の多くが残留を、グローバル化によって仕事が減るのではないかと懸念した非エリート層ほど離脱を支持し、階層による考え方の違いが出ました。結果は、皆さんのご承知のとおりです。

 『コリオレイナス』の時代の貴族は世襲で、現代のエリートの多くは実力でその地位を手に入れるという違いはあるものの、社会的な力やその影響力の点から見れば、両者は同じものといえるでしょう。学歴社会を勝ち抜き、能力に自信のあるエリートたちが政治や経済の中心になり、国の制度や政策を決めています。しかし、彼らが打ち出した制度や政策が失敗した場合、その影響を受けるのは多くの一般市民です。

 その一方で、市民の方もカリスマ的な政治家が現れると、その時の社会の雰囲気に流され、なびいてしまうこともあります。このポピュリズムに乗り、エリートのヒラリー・クリントンに反感を持つ人々の票をうまく取り入れて当選したのがトランプ大統領です。

 ポピュリズムは、衆愚政治につながるものとして否定的にとらえられることが多いですけれども、政権や特権階級の不正を正す政治エネルギーにもなりえます。市民運動など各地で起こっている小さな民衆のうねりは、緩やかにつながりながら知恵を出し合えば、やがて社会を変えるエネルギーに変わるのではと思います。民衆あっての社会が続くよう、相互の連帯は必要でしょう。

 ※文中の『コリオレイナス』の台詞は、小田島雄志訳『シェイクスピア全集V』白水社を参考にし、意味はそのままで一部変更しています。

                                   (河村明美:よつ葉ホームデリバリー京都南)




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