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福島現地訪問・交流 報告(上)

震災・原発事故6年 福島を生きる人びとの今

復興と分断と、悲観と希望のモザイク


 当研究所では7月1日~2日および29日~30日の2回にわたり機会を得て福島を訪問し、現地の方からお話をうかがった。東日本大震災と東京電力福島第一原発事故からまる6年が経過し、政府を中心に「復興」が喧伝される一方、現地の状況に関する報道は徐々に少なくなり、実態が見えづらくなっている。それぞれ短期間の訪問で、しかも全体を網羅できるわけでもないが、現地の事情を知る上で、いくらかでも資するところがあれば幸いである。今回は7月1日~2日の訪問について掲載する。



はじめに

 2011年3月11日の東日本大震災と東京電力福島第1原子力発電所の破滅的な事故から6年以上が過ぎた。この間、政府やマスメディアによる相次ぐ避難指示解除や、さまざまな復興キャンペーンによって、原発事故の影響は第1原発そのものと帰宅困難区域を除いてはほぼ収束したかのような印象が拡散されている。とりわけこの関西の地にあっては、福島は遠く、なんらかの手触りをもってその現実に触れる機会は少なく、それに追い打ちをかけるかのように、関西電力の高浜原発3、4号機の再稼働が強行された。

 だが、本当にそれでいいのだろうか。原発事故の収束と復興が喧伝されている福島の現実は、本当のところどうなのだろうか。福島の被災者たちは6年後の今、どのような思いで暮らし、その思いに私たちはどのように向きあったらいいのだろうか。7月1日、2日、関西よつ葉連絡会の研修部会と、よつば関西保養キャンプ実行委員会による共催として、福島現地訪問・交流会を行った。

 研修部会はこれまで原発問題に継続して取り組み、読書や映画、講演などによる学習活動や関連する現地訪問などを続けてきた。よつば関西保養キャンプは福島の子どもたちを招き、能勢農場の保養林間を引き継いで、よつ葉連絡会の取り組みとして保養キャンプを行っている。ともに福島の現状を知り、触れることによって、自分たちの取り組みの意義を再確認することを目的とした。折しも居住制限区域と避難指示解除準備区域の避難指示か3月31日と4月1日に大きく解除された直後でもあり、「復興」の現段階を目の当たりにすることになった。

 日程は以下の通り。
 7月1日(土):①希望の牧場(浪江町/南相馬市)の吉沢正巳さん、②佐藤佐市さん(二本松市の有機農家)、③いいたてホーム(老人ホーム)の三瓶政美さん、④葛尾村議員の松本操さん、⑤都路市民測定所の深田和秀さん。
 7月2日(日):福島第1原発のある浜通りを訪問(牧野悠、平田誠剛両氏の案内)。
 全体のコーディネーターは葛尾村在住の一ノ瀬輝博さん。


都路市民測定所・深田和秀さん

 実際の訪問の順序とは違うけれども、まず最初に参加者の半分が宿泊でお世話になった都路市民測定所の深田和秀さんから伺った話を紹介したい。というのも放射能汚染の現状を押さえておくことは、今回の訪問を振り返るにあたって必須のことだと思うからだ。

 深田さんは元福島市の在住だったけれども、放射能測定の利便性を考えて、現在の田村郡都路町に移ってきた。友人の有機農家の住まいだったが、小さい子どもが三人いることもあって、その友人は現在長野県に移住し営農している。都路町は福島原発から30km圏で避難指示が出たが、比較的早期に解除された。転居して、地区の区長さんに挨拶に行ったとき、この地域の土壌は測定しないこと、村の秩序を乱さないようにと、クギを刺されたと言う。避難指示が解除されても、放射能は人々の暮らしに深い影を投げかけている。

深田和秀さん
 ■深田和秀さん
 放射能については気にする人とそうでない人とは歴然と分かれていて、気にする人は定期的に子どもを保養に出したりもするが、そのこともまた人との感情的な軋轢を生んだりする。保養に出すのは郡山やいわき、福島などの都市部の人が多い。農村部では共同体の縛りがきつくて、隣近所の目もあってなかなか出すことができない。へたをすると家族内でも隠れて出さなければならないということだ。

 しかし福島はほぼ全土が放射能に汚染されている。しかも放射線管理区域レベルでの汚染だ。放射線管理区域は放射能の表面密度が4万Bq/㎡以上の場所で、関係者以外は立ち入り禁止、18歳未満は就労禁止、飲食も禁止で、モニタリングを実施。しかしそれは放射線業務従事者についてであって、(福島の)一般人には当てはまらないという政府の見解(!)だ。

 放射能に関しては食品の汚染が問題にされ、それはその通りなのだが、一方で農家の被曝が問題だと深田さんは言う。土壌から作物への移行は1千分の1から、お米の場合で1万分の1だと言われている。逆に言うと、1.2Bq/kgが検出された野菜を栽培した畑は、その1千倍から1万倍、ほぼ放射線管理区域の汚染度だということになる。

 実際、深田さんたちが週刊誌の「女性自身」と協力して昨年3月、福島県の小中学校周辺60ヵ所の土壌をランダムに測定した結果、約8割の場所で放射線管理区域の4万Bq/㎡を超える汚染が観測され、ひどい場所(二本松市)ではチェルノブイリの移住対象区域に相当する100万Bq/㎡という汚染が確認されている。

 また時間とともに、セシウムは土中により深く染み込んでいき、空間線量が一見下がったように見えても、土壌汚染は解消されていない場合もある。また除染も土壌表面だけで済まされてしまうことも多い。行政の避難指示解除の判断は空間線量によるものであり、必ずしも放射能汚染の実態を反映したものにはなっていないのだ。

 現在、深田さんも協力して「ふくいち周辺環境放射線モニタリングプロジェクト」が取り組まれている。南相馬市を中心に、地面を約300mメッシュで区切って土壌と空間線量を測定している(ちなみに国が行っているモニタリングは2kmメッシュ)。政府も自治体もまじめに取り組もうとはしない放射能汚染の実態を、現場視点による科学的なデータの集積で把握し、被災者の再度の被曝を防ぐことを目指しているのだと言う。


西谷さとう農園・佐藤佐市さん

 それでは、福島訪問のスケジュールに沿って報告したい。当日は、福島空港から常磐自動車道などを経由して南相馬市と浪江町の境にある希望の牧場を、まず最初に訪問した。常磐自動車道は2年前に全線が開通したが、大熊町、双葉町という避難区域を走っているので放射線量は高く、2μSv/hを計測した。希望の牧場については、次号で触れる予定なので、ここでは省略。二本松市まで車をとばし、西谷さとう農園の佐藤佐市さんの圃場を訪問した。

 二本松市は福島市の南、福島原発からは北西40km以上の距離があり、避難区域ではないけれども、「女性自身」の調査でも分かるように、放射能汚染からは免れてはいない。ちなみに当日の福島民報によれば市役所東和支所で空間線量は0.13μSv/h、年換算で1.14mSvだ。

 佐藤さんは有機農家で、ハウスで、家庭菜園用の野菜苗(6万ポット)、トマト、ほうれん草、小松菜などの秋冬野菜、菌床しいたけ、などを作っている。他に路地で、多品種の野菜、棚田で米を作っている。米づくりでは国士舘大学の学生を受け入れて実習を行っているが、赤字でも米づくりを続けるのは、集落のコミュニティーを維持するためだ。物づくりは決してお金のためだけではないのだと言う。野菜苗は農業資材の店に半分、残りを道の駅などで販売している。野菜や米はなのはな生協との取り引きや、千葉の消費者との提携による販売、農民連(農民運動全国連合会)を通じての販売の他、農協にも出荷している。

 震災後、路地野菜で放射能が出たけれども、今ではほとんど検出されていない。カリウムなどを入れなくても、土が放射能を吸着して、野菜には移行しないということだ。土づくりの大切さを実感している。震災後の取り引きは農民連の分はほとんどダメになったが、ようやく4割くらいに回復。千葉の消費者とは半分くらいに減って、そのまま。なのはな生協の分は震災直後には7割くらいに減った。
佐藤佐市さん
 ■佐藤佐市さん

 なのはな生協とは、東電からの賠償をめぐって、一緒に裁判を闘ったということだ。放射能汚染がそんなに心配なら、生産者を代えればいいというのが東電の言い分だったが、損害賠償で実質的に勝利の和解が成立した。同じ流通に携わるグループとして、生産者を切るのではなく、ともに闘ったなのはな生協に、参加者一同大いに感心した。また佐藤さんの言葉の端々から、なのはな生協に対する信頼感がうかがわれた。

 佐藤さんはまた、道の駅「ふくしま東和」を窓口にして、新規就農の受け入れや農業相談、商品開発やいろいろなイベントなどにも関わっている。二本松でも東和地区は新規就農が20人以上で、一番多い。ほとんどが有機農業を志望しているということだ。福島県では佐藤栄佐久知事の時代から、有機認証について手厚い補助がある。しかしそれでも、なかなか米や野菜が売れなくて、耕作放棄が広がっているし、この集落でも九州や四国に移住した人もいる。避難区域の方から来るのか、猪が増えてきて、畑を荒らしている。罠を仕掛けて捕っているが、放射能のために食べることはできない。写真を撮って、申請して、1頭2万円。自分で穴を掘って、埋める。なかなか厳しいところもあるけれども、なんとかやっているのだということだ。

 原発に反対し、祝島にも訪問した佐藤さん。ともに原発をなくすために頑張りましょうという言葉をいただいた。


いいたてホーム・三瓶政美さん

 二本松から飯舘村の特別養護老人ホーム「いいたてホーム」に向かった。飯舘村は20km圏外だけれども、放射能汚染はひどく、積算線量が20mSv/年以上になるということで全村が計画的避難区域(のちに居住制限区域)に指定され、その後この3月31日に避難指示が解除された。

 震災時、停電と断水のため、灯りはローソクと懐中電灯、床暖房が使えないため、暖房器具を近隣から調達し、トイレの水は雪を溶かして使用、飲料水は井戸水などを近隣から調達、お風呂はしばらく中止という状況だった。しかも余震が頻繁に続く中でのホームの避難生活。雪の降る寒い中を、情報もないまま、職員は不眠不休で対応した。

 原発が爆発して放射能汚染が広がる中、全村が計画的避難区域に指定され、1ヶ月以内の避難が求められた。それに対するホームの対応として、①指示に従い県内外の施設に分散避難、②仮設の施設に避難、③現在の施設に残り介護を継続、が検討されたが、避難バスの乗り降りや放射能のスクリーニング、慣れない生活環境など、たとえば座位を保つのも難しいお年寄りにとっての避難はリスクが大きいこと、遠い避難先にまでついて行ける職員は少ないこと、放射線に関しても基本的に屋内生活であり、被曝リスクは大きくないと考えられること(0.2μSv/h程度)から、現状での介護継続を決めたということだ。(政府は村内9事業所について、村外避難の例外措置を決定。2011/5/17)。

いいたてホーム
 ■いいたてホーム
 しかしながらケアの質を落とさないということは並大抵のことではなかった。職員については村外避難をしているので、ホームの利用者か、自分の家族か、どちらを助けるのかという厳しい選択を迫られたということだ。避難所からの遠距離通勤で、しかも放射能の危険もあるということで、辞めていった職員も多く、残った職員には負担が大きくのしかかった。流通も一部を除いて止まったまま。病院も薬局も避難してしまった。また、ホームが汚染区域に残るという選択をしたことに対する非難・中傷もあり、それは辛かった。それでも続けてこられたのは支えあう「仲間」と利用者の「笑顔」だということだ。

 当初130人いた利用者は、現在は34人で、平均90歳。職員は59人で、なんとかバランスがとれている。3月31日に避難指示が解除され、郵便、新聞が届くようになり、極端な不便は解消されつつあるが、避難先から通う職員の条件は変わらない。職員の不足や負担増、損害賠償打ち切りによる財政の問題がある一方で、職員個々も、飯舘村出身であることによる心ない差別や、早く辞めてほしいと家族に言われて悩むことなど、問題・課題は山積している。


葛尾村議員・松本操さん

 いいたてホームのある南相馬市から葛尾村議員の松本操さん宅へ。次の日に浜通りを案内していただく牧野悠さんと平田誠剛さんも交えて、松本さん宅での交流会を行った。牧野さんは4年前まで大阪に住んでいて、釜ヶ崎での支援や関西仕事づくりセンターでの活動を経て、福島での除染作業に従事。全国一般全国協議会いわき自由労働組合の執行委員として除染労働者や原発労働者の相談・支援活動を行っている。平田さんはNPO大震災義援ウシトラ旅団理事長。主にいわき市の仮設住宅で、富岡町からの被災者・避難者を支援する活動を行っている。

 昨年6月、大阪から葛尾村へ移住した一ノ瀬輝博さんの紹介で松本操さんを訪問し、震災直後から昨年6月の避難指示解除に至る葛尾村の状況をうかがった。その報告を本誌No.140(2016.7.31)に掲載したので、当研究所のホームページを参照していただきたい。それからこの1年間で、ほとんど変化がないというのが実情だ。村人口1510人(450世帯)のうち帰ってきたのは126人(50数世帯)ぐらい。1割にも満たない。多くの家族は避難先や新天地に居を構えたりして、バラバラになっている。帰ってきたのは年寄りばかりだという。食料品の商店はようやく1店が開店したくらい。来年4月には小中学校が開校するが、どれだけの子どもたちが戻ってくるか。先の見えない状況はなにも変わってはいない。「復興」ということが言われているが、とてもそういう状況ではない。

 一方で、平田さんによると、村がまとまって避難生活を送れたのは不幸中の幸いだという。富岡町の場合だと人口は16000人、主にいわき市の仮設住宅に避難したが、とてもまとまってとはいかなくて、コミュニティーはバラバラになってしまった。葛尾村の場合はまとまって避難生活を送ることができ、松本さん自身が仮設住宅の自治会長であるように、村の自治活動を継続することができた。そこは人口規模の違いが大きく影響している。同じ仮設住宅への避難と言っても、それぞれの地区によってそのあり方、困難はさまざまだ。


大熊町(復興拠点)周辺

 次の日(7月2日)松本さん宅に全員が合流し、牧野さん、平田さんの案内で、大熊町、楢葉町、富岡町を中心に浜通りの被災地を訪問した。

 葛尾村から川内村を経由して大熊町へ。道路を走っていると、「この先、帰宅困難区域につき通行止め」の黄色い看板とバリケードが何度も目に入ってくる。葛尾村で0.2μSv/hの線量計の数値は、0.3~1.1μSv/hに上昇した。大熊町は双葉町とともに第1原発の立地自治体で、ほとんどが帰宅困難区域に指定されていて立ち入ることはできないが、南部の一部、大川原地区は居住制限区域で、今秋にも解除が目指されている。町は大川原地区を復興拠点と位置付けて、「帰ろう路線」を強く打ち出しているということだ。

 東電はこの大川原地区を原発事故収束作業の拠点としていて、東電社員のための単身寮や盗電ヒルズとも揶揄される社員寮、大熊食堂や給食センターなどが整備されている。以前は、原発関係の作業員は広野町のJビレッジに集合して、第1原発に向かったのだが、現在はここから出発している。多くの東電社員が暮らしているが、町民の宿泊は認められていない。「復興」というのは、昔に戻るということではなく、原発処理に特化した町になるということなのだと平田さんは言う。

 大熊町から富岡町の滝川ダム(山中から北東11kmに、第1原発を望むことができる)を経て、JR常磐線、夜ノ森駅。常磐線は現在、浪江-竜田間が不通、2020年には全線を開通させるということだ。夜ノ森駅は構内を含む東側が帰宅困難区域、線路の西側が4月1日に解除された。そこから構内を見渡すがもちろん人影はない。かつて構内にはツツジが咲き誇り、花見に賑わったということだが、放射能汚染がひどいということですべて伐採されてしまった。1.10μSv/h。駅の付近には有名な桜並木があり、一軒家も建ち並んでいるが、人の気配はない。


広野町、楢葉町あたり

 南に向かって走っていると、広野火力発電所の丈高い排気筒が視界に入ってきた。福島県の浜通りは福島第1、第2原発以外にもいくつかの火力発電所が誘致され、稼働している。いわき市の常磐炭鉱以来、首都圏へのエネルギー供給基地だった浜通りの歴史が、福島原発事故、災害の背景にはあるのだ。

 広野町と楢葉町にまたがるJビレッジ。原発事故時には事故対応の前線基地となり、また収束作業員の中継基地でもあったが、現在は2020年に向けて、復旧作業が行われている。またこの周辺には高濃度放射性物質(燃料デブリ等)の処理技術や作業ロボットの開発などの産学連携拠点が設置され、福島・国際研究産業都市(イノベーション・コースト)構想と呼ばれる国家プロジェクトが推進されている。

 遅々として進まない復興、希望の見えない避難生活、離散状態の家族など、厳しい生活状況の一方で、廃炉に関する研究開発や次世代エネルギー開発、先端技術を活用した農林水産業の再生など、さまざまな国家プロジェクトが巨大な資本を注ぎ込んで進められている。そのとほうもない落差に、どうしようもない違和感を感じざるをえなかった。

 楢葉町の佐藤さん宅。あるじは郡山に避難していて事故以来の空き屋。牧野さんの知り合いの家だということで、特別に入らせてもらった。二階建ての立派な家。雑草が蔓延った庭を通って足を踏み入れると、亡くなったおじいさんの初七日を迎える祭壇と散乱する家具、壊された金庫、幾度も空き巣に入られたのだということだ。2011年3月のままのカレンダー。畳んだままのふとん。割れた食器。すべてがあの時のまま、荒らされ朽ちてはいるが、あの時のままだ。ただ、屋根には応急にシートを被せたままなので、二階は雨漏りがひどい。避難区域でなかったら、ここまで荒廃することはなかっただろう。原発事故でさえなかったらという思いを禁じえない。


富岡町から国道6号線

 楢葉町から富岡町へ、海沿いを北上。一面の荒れた野と、津波の水位を表示する標識。除染廃棄物置き場の長い塀。一時は黒いフレコンバックが山脈のように積まれていたが、少しずつ運び出されているのだという。

 JR富岡駅周辺。津波にさらわれた跡地に、津波による廃棄物や除染廃棄物を分別し、処理する巨大な処理場が建設されていた。当時の新築住宅街と思われる一角には、1階部分が津波に破壊された家屋が所々に残されている。その北側には真新しい復興住宅が立ち並ぶ開発地があり、その対比に目がくらむ。富岡駅は急ピッチで新しい駅舎が建造されているが、そのあたりはこの6年間で幾度も風景が激変したのだということだ。人々で賑わった駅前の商店街は津波に飲まれて壊滅してしまった。ガレキが整地され一面の沼となり、その後を除染廃棄物のフレコンバックが占領した。今はそれも運び出されて、駅の建設工事が進んでいる。
福島第一原発
 ■福島第一原発を望む

 大熊町の帰宅困難区域を北上する国道6号線。車だけが通行できるが、バイク、自転車、歩行者は通行不可。国道の両側にはバリケード。打ち捨てられた家電量販店、ガソリンスタンド、洋服店、レストラン、等々。雑草が生い茂る田畑や、朽ちていく家屋。第1原発から2kmくらいの夫沢という場所に停車し、第1原発の排気塔や鉄塔を望む。進入禁止のバリケードの脇で、7~9μSv/h。あまりにも高い線量計の数値と、なにも感じない五感との落差に、恐怖に似た感情が過ぎる。

 その日、朝9時頃から14時すぎまで、牧野さんの積算線量計で計測したところ2μSv。年間に換算すると3.5mSv。ウクライナのチェルノブイリ法では移住の権利区域(年間1~5mSv)にあたる。

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 震災と原発事故から6年が過ぎ、現地福島においても、当初の衝撃は通り過ぎたかのようだが、それぞれの暮らしや仕事、生き方の中にその影響はより深く及んでいるように思った。

 それぞれの困難な状況のなかで、なんとかして状況を切り開いていこうという人々がいて、福島の現実は決してただ一つの答えによって裁断できるようなものではないということを知らされた。そして、あなたはどうするのかと問われ続けた福島訪問でもあった。答えは、まだない。

 ※研修部会長の松本恭明さんのレポートを一部参照させていただきました。

                                                    (下前幸一:アソシ研事務局)




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