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市民環境研究所から

福島原発事故刑事裁判始まる

「忘れ去られる死」を阻止するために


 連日の猛暑は真夏並みで、その上に、豪雨禍は島根、福岡、大分と続き、北に飛んで秋田と新潟へ。まだまだ予断を許さない今年の夏である。久しぶりに東京に出かけた。現役でなくなった身には東京は縁遠い街だが、この件だけは、通わなければならない街である。

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 東電福島第1原発の崩壊によって何十万人もの人が被害を受け、その内の6万人以上が未だ自宅に帰れない生活を強いられている。避難者というよりも、難民にしている国の対応である。それに反して、東電の元会長の勝俣らは何の責任も問われることなく、のうのうと暮らしている。彼らの責任を追及し、原発崩壊の真の原因を明らかにしようと、福島の人々の呼びかけに応えた全国からの告訴人が結集して始まった福島原発告訴団の訴えは、三度目の検察審査会でやっと東電幹部3名の強制起訴が実現し、刑事裁判が6月30日に東京地裁で始まった。

 2000名近い告訴人が結集した「福島原発告訴団・関西」は市民環境研究所を拠点として2012年以来、告訴運動に参加してきた。そして、第1回目の初公判の傍聴に佐伯さんと出かけた。数百人の傍聴希望者が集まり、わずか90人ほどの傍聴席をめぐっての抽選で、二人ともクジにはずれ入廷・傍聴できず、被告を見ることもできなかったので、原告団のホームページでの報告を引用する。

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 「裁判官は、男性2人と女性1人。傍聴席から右側に検察官役の指定弁護士。左側には東電側の弁護士。3被告は、写真撮影が終わり傍聴人が着席した後で、おもむろに入廷しました。裁判官の前に進み出た3人は、それぞれに原発事故への謝罪を口にし(勝俣被告は声が小さく聞き取れないほどでしたが)、その後で「津波の予見は不可能であり、無実だ」と主張しました。

 被告側の主張は「津波の予見は不可能」であり「津波対策の義務はなかった」し、「対策をしたとしても、3.11の規模の津波は防げなかった」というもの。そのことを裏付ける証拠45点を提出しましたが、ほとんどが旧保安院による証言ばかり。指定弁護士たちが示した証拠の数々は、事故前の東電会議の議事録、御前会議議事録、津波担当者らのメールなど。東電が大津波を予見し、その対策を不可避と考えながら、怠っていたことは明らかでした。この裁判、負けるわけがありません」とある。

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 何年続くか分からないが、東電の責任を明らかにし、責任を取らせよう。刑事告訴がなければ、そして東京地検の不起訴処分にも諦めず検察審査会に異議を申し立て、2度の「強制起訴」議決を経なければ、これらの事実はきっと闇に埋もれたままだった。

 傍聴できなかった支援者は参議院議員会館に集まり、原発崩壊時の貴重な資料映像を見たが、それ以上に私にとっては大きな出来事があった。3.11まで、福島の知り合いはたった一人だったが、この会場で二十数年ぶりに出合った方が田村市から長野県への避難者で、この裁判で被害者に認定されていたのだ。学生時代に京都におり、私の自主ゼミにもしばらく参加していたという。私も一段と頑張らねばと思った。

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 告訴団は裁判が開始してからは福島原発刑事訴訟支援団へと変わった。裁判後に福島から届いたメールには、「告訴人1万5000人→検察審査会への申立人5000人、→支援団へは3500人参加」と支援団への移行についてはなかなか厳しいものである。「もう、世間的には、原発事故は終わったこと、考えたくないことなんだなと思いました」とあった。公害問題にやってくる最後の死は「忘れ去られる死」だと思い、その死に至らない闘いまでが公害問題に関わる身の務めだと思ってきた。

 現地からのこのメールを皆さんに届けますので、一人でも多くの方が福島原発刑事訴訟支援団に登録されるよう御願いします。

                                                 (石田紀郎:市民環境研究所)




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