HOME過去号>150号  

アソシ研リレーエッセイ

21世紀の表現は
具体的な関係性が基礎になる



 大阪を拠点としたミニコミ紙『人民新聞』というメディアの端くれで仕事をしている人間として、「場所と表現」とのテーマは逃げることができないテーマだ。高いハードルだが書いてみる。

 テレビを観なくなって久しい。興味を引くドキュメンタリー番組や落語・音楽ライブなどの娯楽番組は録画して、時間のある時に観るが、リアルタイムでテレビを観ることはほとんどない。録画は視聴時間を自分で決められるし、早送り・巻き戻し再生ができ、何よりCMをカットできる。

 しかし子どもの頃の私は、猛烈なテレビっ子だった。勉強するのが嫌で、親に怒られながら深夜までテレビにかじりついていた。今から思えばテレビは、嫌なことやしんどいことを忘れさせてくれる「逃避の場」だったのだろう。

 もうひとつ。『人民新聞』の定期欄に執筆してもらっているMさんのエピソードを紹介したい。Mさんは、シングルマザーの大学院生。3才の娘が治療法がみつかっていない難病に罹り、日常が崩れていく不安を吐露したうえで次のように綴った。

 「3才の娘に対し独りきりで向き合っているとき、この世界から取り残されているような気分になることがよくある。そんななか、そもそも憂鬱になるニュースは見たくないし、疲れが少しでも緩和するような楽しいメディアに触れていたい。今の私にとっては、政治から離れるという消極的な選択が、当面の生活をやりくりするという意味で、『自分を守る』合理的行動である」。

 ジェンダー論を専門とする彼女が「政治から離れる」ことは、思いもよらなかったに違いないが、バラエティ番組は今を生き抜くための逃避の場だったのだろう。

 逃避は、「自分を守る」ために必要な第1の防衛手段だ。テレビ番組といっても千差万別だが、お笑いやバラエティ番組、「恋愛至上主義」的ドラマなどは、こうした需要で成り立っているのだろう。非正規職の蔓延・生活の不安定化によって「生き延びるのに精一杯」というワーキングプアが生み出されている。彼(女)たちにとってこうした番組は、厳しい現実を忘れ、束の間の夢を見させてくれる重要な「逃避の場」なのだ。

 ひるがえって『人民新聞』は、「読むのがしんどい」と言われる。「仕事で疲れて、読む余裕がない」、「ほっこりする記事が欲しい」という感想も寄せられた。

 私が読者でも、重いテーマが並ぶ新聞が10日ごとに送られてくれば、全記事に目を通すことは困難。1面記事と興味を引くテーマのに目を通して、あとは時間と気力がある時に読むだろう。

 ただし、知っている人が書いた記事を後回しにすることはない。その人の考えや近況を知りたいと思うからだ。実際的な人間関係があると、受け取り方が深まるし、広がっていく。不特定多数を対象とした一方向のメディアや表現でも、実際の人間関係の基礎の上に成り立っていることが確認できる。

 21世紀の表現が、マスではなくミクロな、具体的な関係性を基礎としたメディアという方向へ向かっていくことは間違いない。漫画の世界でも、出版を前提とせず、コミック総合サイトである「ピクシブ」やツイッターなどのネット上で発表し、ファンを獲得する手法が、すでに主流となり始めているという。表現者の思いや日常がツイッターで語られ、作品の理解を深め広げる。出版を前提とした限定されたプロによる表現から、アマチュア・セミプロの表現へと移行しつつあるそうだ。

 排除なき複数性のための政治哲学を提唱したハンナ・アーレントは、複製性こそが公共空間を形作る条件とした。それは多様な意見・少数者の意見を排除せず、関係を保ち続ける営みであるとの主張だ。

 今後、テレビ・大新聞といったマスメディアの地位は相対化されていくだろう。経営難に陥るメディア企業も出てくるだろう。これに代わるのは、インターネットという土俵の上で活動するミクロな表現者たちだ。多様なテーマと表現方法が繚乱することで、21世紀の表現活動は活性化する。

 そうした時代に『人民新聞』は生き残れるのか? それは、「逃避の場」をも含んだ複数性を担保できているのかどうかにかかっている。

                                         (山田洋一:『人民新聞』編集長)



©2002-2017 地域・アソシエーション研究所 All rights reserved.