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現代社会を見る眼A:民主党の勝利と民主主義の危機

民主党の勝利と民主主義の危機

これまでさまざまな機会を通じてお話をうかがったことのある識者の皆さんにお願いし、現代社会を鋭く射抜くような内容のエッセイを掲載させていただくことになりました。今回は、その第二回目として、フランス現代思想の研究者であると同時に反グローバル運動の実践でも知られる杉村昌昭さんに、民主党主導の連立政権の誕生を踏まえ、私たちが留意しておくべき点について記していただきました。

忍耐強い日本国民も、さすがに今度だけは少し“革新的”になったようだ。事前からの予測が的中して衆議院選挙で民主党が単独過半数を占めるという圧勝を達成したわけだが、他方でまだ組閣も終わっていない段階から、民主党大丈夫かとマスコミが盛んに国民の不安を煽り立てている。このマスコミの発する“大丈夫か”というおせっかいな心配には、おそらく三つくらいのニュアンスがあるのだろう。まずひとつは“子ども手当”や“高速道路無料化”などの公約を果たせるのかという心配、二つ目はアメリカとの関係をうまくやっていけるのかという心配、三つ目は官僚機構との軋轢で国内が混乱に陥らないかという心配。しかし、このうちどれひとつとして心配すべき課題はない。公約はできるだけ果たせばいいだけのことで、“約束違反”に対する国民のしっぺ返しを恐れる(とくに来年の参議院選挙における)民主党はすくなくとも公約を果たそうと努力するだろう。がんばってもこれだけしかできなかったという結果も含めて、国民はそこに自民党との差異をみつければおおよそ納得するだろう。アメリカとの関係悪化に関しては、心配するほどのアンチ・アメリカ勢力は民主党内に存在しないし、国民にしてからがもともと親アジア的というより親米的な傾向が濃厚なのだから、民主党が突出して反アメリカ的になるはずがない。三つ目の巷間ささやかれている官僚機構との軋轢に関しても、民主党としては官僚とたたかっている姿を見せつけさえすれば、国民は最低納得するという読みがあるだろうし、官僚にしたところでなにも身を賭してまで政権とたたかう必要もなく自らの利権を最低限守ればいいわけだから、適当なところで妥協するにきまっているわけで、たいした混乱も生じないだろう。こう見てくると、あたかも民主党政権は順風満帆にすすんでいくように見えるが(そして上に述べた三つの心配に関するかぎり実際にそうなるだろうが)、われわれにとっての問題はまったく別のところにある。

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つまり、民主党政権になったところで、税金の使い方が少し改善されるだけで世の中がたいして変わらないのであれば(もちろん税金の善用によって社会的変化が起きるのはいいことにはちがいないが)、そしてそうしたわずかな変化でこの政権が固着化してしまうとすれば、なにか大きなものを失うことになるのではないかという不安である。その大きなものとは何か、これが問題なのではないか。

今回の選挙前に、民主党が政権をとったところでたいした変化は生じないだろう、あるいは自公政権のときよりももっと悪くなるかもしれないという声が少なからず聞かれた。こうした声の主はどちらかというと左派系・革新系の運動などにかかわっている人々に多かった。そういった声に対して、私は“民主主義”のいきづまりを打破するには政治的状況の流動化が必要なのであって、民主党の勝利はそのための第一歩、少なくとも流動化を引き起こすきっかけになるだろうと反論した。そのとき心に思っていたのは、選挙で政権がかわったのをきっかけに、多くの人々が政治とは何か“民主主義”とは何かという問題を改めて考え始めるのではないかという期待であった。つまり政権そのものの変化、税金の使い道の変化などというよりも、人々の政治的意識の変化、とりわけその潜在的欲望の浮上という精神的変化をこそ待望したのである。そうでなければ、ポスト民主党政権への展望は閉ざされてしまう。いまの段階で、はたしてそのような精神的・内面的変化が生じうるのかどうかを判断するのは早計であろうが、もしも人々がかつて自公政権下で蔓延したような、選挙で選ばれた政権なのだからとあきらめてさまざまな政策の理不尽を甘受する傾向、あるいはたかだかマスコミが騒ぐ政治的スキャンダルだけに反応するといったような態度に終始し続けるならば、未来は明るくないだろう。あれほどの腐敗しきった政権に対しても、人々は街頭に出てこれに異を唱えるという行動にはほとんど出ることはなかった。民主主義を選挙に矮小化するという傾向は左右の政党を問わず、国民のなかにも深く浸透しているのである。この“選挙民主主義”の壁をいかに突破するかが、今後の大きな課題であろう。

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早い話が、民主党は“国家戦略局”なる装置をつくり、これを官僚機構の上位に位置づけて重要な政策の決定と執行を行なおうしているようだが、これはなにやらいわゆる“寡頭体制”を想起させるところがある。われわれが忘れてはならないのは、われわれ自身がそのような“国家戦略局”のさらに上位に位置する存在であるということである。要するに、われわれはわれわれが選んだ議員たちに権力を全面的に委譲したのではなくて、権力の部分的な一時的代行をまかせたにすぎないのである。民主主義の起源と言われる古代ギリシャのデモクラシーという言葉は、よく知られているように、貴族制や寡頭制や圧制に対する民衆の権力を意味する。選挙で議員を選ぶ行為が民主主義の実践ではないのである。選挙はあくまでも近代社会において民主主義を実行するためのひとつの方便にすぎないということを今一度想起しなければならない。選挙で選ばれた議員たちの政治を常時監視し、これをコントロールするのが民主主義の実践なのである。

自公政権が国家官僚機構と一体化した“利権寡頭制”であるという認識を人々がかなりの程度共有したことが、今回の民主党の勝利に寄与したということは、選挙においても民衆の権力が少しは機能するということを証明した。しかし、選挙が民主主義のすべてではない。むしろ選挙後の趨勢こそが民主主義が本当に機能しなければならない政治空間であることを、いま改めて認識すべきであろう。“国家戦略局”なる政治装置が“寡頭体制”に堕する可能性は大いにある。そのとき、人々の潜在的な政治的欲望がいかなる方向で機能し始めるか、それを正確にキャッチするとともに、来たるべき未来に向かってどのように後押ししていくか、これがまがりなりにも日本の左派的大衆運動を担ってきた人々の責務であろう。そして、そのためには、われわれがいかなる世界と日本の未来図を描くのか、われわれ自身の“戦略構想”を打ち立てることが早急に求められてもいるだろう。(2009年9月9日記 杉村昌昭)


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