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現代社会を見る眼@:「政権選択」選挙の夏に思う

はじめに

この号から、これまでさまざまな機会を通じてお話をうかがったことのある識者の皆さんにお願いし、現代社会を鋭く射抜くような内容のエッセイを掲載させていただくことになりました。今回は、その第一回目として、グラムシ研究で著名な立命館大学名誉教授の松田博さんに、与野党政権交代の可能性がかつてなく高まる中、そうした状況を現出せしめた背景について記していただきました。

「国民に「みなさま」がつく四十日」「バラマキの本家分家をこき下ろし」「開店と閉店セールマニフェスト」(「朝日川柳」より)。

この小文が活字になるころには、選挙結果をふまえた新政権船出の時期となっているであろう。どのような政府形態になろうとも、当面する内外の重要課題からすれば既成政党間の単純な「足し算」で推移するという保証はどこにもなく、諸政党の「掛け算・割り算」による政界・政党再編の可能性も強まるであろう。またそれと関連して「第三極」の可能性も中期的には注目される。しかしながら有権者にとって数年に一度の総選挙が個別政策のみならず「政権選択」選挙としての政治的意義をもつことは、政治システムの活性化とともに主権者意識の質的発展にとって画期的なことと考える。「マニフェスト」というには財源も、具体的な実現方法・工程表も曖昧なものが少なくなく、その意味では「マニフェスト選挙見習い・研修中」という印象だが、それにしても国民が「政権」を選択することの意義を私は重視したい。この両者つまり「政権選択」と「マニフェスト」選挙が今後どのように定着、成熟していくか、有権者にとっても「おまかせ民主主義」ではなく、みずから支持した政党の監視と評価を次期総選挙にむけて持続させることが肝要となろう。いずれにしても新政権は雇用、年金、医療、教育、地方の疲弊等々の国民生活にかかわる深刻な諸問題や安全保障、憲法問題もふくめて統治能力が試される年月となろう。その意味でわが国の政治がそれぞれの「ヘゲモニー・プロジェクト」をめぐって国民的支持を争う段階に(つまり「ヘゲモニー段階」に)移行しつつあるといえるのではないだろうか? グラムシは政治の「同業組合」的段階から「ヘゲモニー段階」への移行を重視したが、それは政党と国民・有権者との関係においても重大な変化をもたらすであろう。

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30年前の1979年に興味深い日本論の著書が出版されベストセラーとなった。アメリカの社会学者エズラ・ヴォーゲルの『ジャパン アズ ナンバーワン』(TBSブリタニカ)である。同書の副題は「アメリカへの教訓」であり、「日本の成功」からアメリカは学ぶ点が多いというのが著者の視点であった。私が同書のことを思い出したのはTVドラマの「官僚たちの夏」(城山三郎原作)を観ているときであった。戦後の復興期から高度成長期の時期に日本経済の再建、発展に献身したエリート官僚たちの物語である。ひたすら国家、国民のための産業政策実現に取り組む彼らの奮闘が、いささか美化されて描かれているものの、彼らがいかに「国家の背骨、柱石」としての強い誇りと信念をもっていたかがこの社会派ドラマの基調になっている。かつてわが国では戦後社会の発展を支えた「優秀な官僚制」があったのに、近年ではその機能不全、マイナス面が露呈しているのはなぜか、というメッセージが込められた作品といえよう。

ヴォーゲルは、政治指導者、企業、教育、福祉、治安など各分野における日本の優れた点(アメリカと比較して)を詳述し、その根底に「好学心の衰えぬ日本人」「よく働きよく遊ぶ民族」という国民性があることを強調している。また交通機関の整備などとともに「浮浪者が目につかず、スラム街がほとんど存在しないこと」もあげている。同時に彼は日本社会の「コストと危険」として「個人の権利・個性・創造性の圧迫」、「冷遇される異端者、対立相手、少数者」、「不適格者」とされた人の過酷な人生、「愛国主義の鼓吹」などをあげて「日本人が成功に払った代価は大きい。その代価とは、コンセンサスの実現に向かっての強い圧力であり、そのコンセンサスと異なった意見を持つ人や、集団に属してないために力のない人を犠牲にすることによってそれを達成したことである」と述べている。ヴォーゲルが現在の日本を分析したらどのように言うだろうか、聞いてみたいものである。少なくとも彼が美点、長所としてあげた政治、経済、社会、教育などのエリート層の誇りと責任感、ノブレス・オブリージェ(指導者精神)などについては大幅な改訂・変更をするであろう。さらに「コストと危険」についも大幅な加筆、修正をすることになろう。

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ヴォーゲルの著書から30年、「政権選択」選挙の夏である。「利益誘導型政治」の部分的手直しではなく、その統治方式の根本的「構造改革」の第一歩になるか否か、たんなる当面の政府形態の問題を超えて注目したい。ヴォーゲルは、同書の末尾で「日本で成功したように、アメリカが、現在直面している新しい挑戦を克服し、良い社会を築くためにあと知恵ではなく、先見の明をもち、難局に際しての場当たり的対応ではなく、事前に計画を立てて事態に対処できるように、という願いを込めて」執筆したと記しているが、それはそのまま今夏の選挙公約・マニフェストを評価する視点としてもおかしくないだろう。今後の問題としては新政権の「危険とコスト」への目配りを忘れることなく、それをチェックしうる勢力、つまり有権者、市民社会との連携、協同を潜在的に強化しうる人士・党派が小選挙区・比例代表並立制という選挙制度の制約のなかでどの程度議席数を確保できるかが、選挙後の政治過程における重要な要素になるであろう。新政権がきちんと国民のために仕事をするように市民社会の監視とチェックはこれまで以上に重要な要素になるであろう。

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昨年末の「年越し派遣村」の村長を務めた湯浅誠氏は次のように強調している。「私たちの目指す支え合い・社会連帯は、個人・団体・社会の「溜め」を増やし、財政的に言い逃れをさせないための、物言う支え合い、意義申し立てする社会連帯でなければならない」(『反貧困』岩波新書)。「溜め」のある市民社会・アソシエーション形成のための連帯のあり方とはなにか? 人間の潜在的活力を発現させる「溜め」のあるアソシエーションとはなにか? 定期的な「政権選択」つまり「ヘゲモニー・プロジェクト」の更新を国民が「選択」するという「ヘゲモニー段階の政治と市民社会」の関係性という視点からみれば(それはまだ萌芽的な段階といえようが)、各アソシエーションがその固有の経験知・実践知を生かして政党政治に発信し、あるいは説明責任を要求する「溜め」、グラムシ的にいえば「市民社会と政治社会との適正な関係」を構築するための「溜め」はどのようにして実現可能であろうか? その意味で今夏私たちが経験した「政権選択」選挙は、わが国の今後にとっても、またわが国の市民社会の形成・成熟にとっても、きわめて重要な経験であったといえよう。市民社会やアソシエーションの活性化に象徴される「政治の季節」にしたいものである。私自身にとっても、研究者として、市民として、そして主権者としての「溜め」を増強しつつ、つながりのある諸アソシエーションとの絆を大切にしていきたいと考えている。 (2009年8月15日記・松田 博)


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