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市民環境研究所から

山上のキャンパスからのメッセージ

わざわざ言うことでもないが、1月ぬる2月逃げる3月去るという言葉を思い出しながら、3月31日消印有効の助成金申請書をなんとか郵便局に持って行き、これで少しは休めると思いきや、現実はそんなやさしいものではないよと手帳のメモが教えてくれ、月末締め切りのこの原稿を書き出した。正月明けから去り行く3月末まで、休めた土日は1回くらいだったろうか。この年齢になっても、こんなに参加させてもらえる行事があることを喜ぶべきかもしれないが、大半は怒りをぶつける機会なのだから困ったものである。

そんな3ヶ月間だったが、忘れられない思い出となったこともある。1月末に、高速バスに5時間以上も乗って島根県出雲市に到着し、そこから山陰線の鈍行電車で江津駅に出向いた。冬の日本海の海岸に打ち寄せる白波をゆっくり見たくて、2時間かかる鈍行を選んだ。何年ぶりかで見る真冬の日本海は寂しいよりも楽しい眺めだった。この旅をさせてくれたのは、キリスト教愛真高等学校で、フクシマの話をしてくれという、福島から京都に避難されている方からの要請であった。高校生相手の講演は何年ぶりかで、何をどのように喋ればよいかと迷いながらの訪問だった。

日本海に近い小山の山頂にキャンパスがあり、校舎と生徒の寮と教職員の宿舎がある。林に囲まれたキャンパスには、もちろん運動場もあるが、畑も何ヶ所かにあり、作業も管理も生徒がしているという。全校生が寮で生活し、料理も掃除も畑仕事も分担してやっているので、彼らのなめらかで爽やかな身の動かし方は、日頃見ている京大生を弟子入りさせたいと思うほどである。彼らと一緒に5回も食事ができ、食事の度にテーブルが変わり、いろんな生徒と話ができるようにしてくれていた。夕方にはお祈りの集いがあり、その日の当番が自分の考えていることを静かに語り、生徒も教職員も聴いていた。語る言葉は誰かが事前に相談にのっているのかいないのかは訊かなかったが、しっかりとしたものだった。この学校では、テレビと携帯電話は禁止だという。もちろんスマホなどはない。生徒たちは休み時間に、廊下に置かれている新聞を読んでいた。山の上の宿泊だから、先生が気を使って、車で下の街に行きませんかと声をかけてくれた。もちろん江津市の街や港も見たかったが、それよりもこのキャンパスを散策し、風景と生徒たちの動きを見ている方が楽しかったので、翌朝の出立まで山の上で過ごした。

夕食を終わって宿舎に帰ろうとしていると、一人の女子生徒が封書のメッセージをくれた。そこには、3月に卒業して農村に入り、農業のイロハから学ぶ意気込みと、そんな人生選択をどのように思いますかと書いてあった。帰洛してから返信を送った。また翌朝、校長先生ほかの見送りに挨拶して、車に乗り込む際に、一人の女子生徒が駆けつけてくれ、畑で抜き取ったばかりの太い大根をくれた。感謝して京都の我が家でいただいた。この子も、卒業したら就農したいと手紙で伝えてくれた。久し振りに、年寄りを元気にしてくれた若者たちに出会え、こんな高校があったのかと安らぎながら、重たい大根を背負って京都に着いた。

京都駅から地下鉄に乗って自宅に戻るのだが、地下鉄に乗るたびに嫌な気分になる広告がある。黄色い用紙に“なんで私が”の見出しがあり、三人の笑顔の写真と“東大へ、京大へ、医学部へ”と書かれている。要は、こんな難関の大学になんで合格したかといえば、この広告主の予備校の教え方がよかったということである。確かにその通りかもしれないが、小学生の頃から塾へ通いつめて、パズルの解き方だけを教えられた賢い子が難関大学に合格してくる現実がある。この広告を見る度に、今の大学生への皮肉のように私には思える。合格したのはめでたいが、それだけのことだと本人が自覚し、合格後は別の自分を、別の学習を模索してほしいと思い続けた大学勤務だった。スマホの手さばきだけを磨かないでほしいと思ってきた。江津からの帰り道だったので、余計に“なんで私が”が薄っぺらく惨めに見えた。

(石田紀郎:市民環境研究所代表)

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