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アソシ研リレーエッセイ

『逃げ恥』は見ないが役に立つ

――家事労働と私

3年ほど前にド田舎に引っ越したが中山間地で電波事情が悪く、テレビは地域の共聴アンテナに頼らざるを得ない。年会費は3000円。何となく癪なので加入しなかった。それ以来、家でテレビは見ていない。だから前号で高木君が紹介した『逃げるは恥だが役に立つ』も当然見ていない。もっとも、よくも悪くもネット社会、世間で評判になっていることは知っていた。まさか下記のような問題につながる内容だとは夢にも思わなかったけれど。

「過去に、家事労働は労働力価値を構成する要素として妥当かそうではないかという論争があったらしい。(中略)女性の労働者は生産労働と再生産労働(家事労働)と二重に搾取されているという主張をするフェミニズムの運動があったらしい。」(前号本欄)

このくだりを見て思い浮かんだのは、マリアローザ・ダラ・コスタ『家事労働に賃金を』(インパクト出版会、1986年)という、そのものズバリの本だ。著者はイタリアのフェミニズム活動家である。訳者の解説によれば、ダラ・コスタの主張のユニークさは、「性による差別と抑圧の問題を、資本主義とのかかわりで、……解釈した点に求められる」という。どういうことか。

場面1。労働者は職場で生産労働に従事する。生産したものが売れ、経営者は利益を手にする。経営者が手にする利益は労働者が受け取る賃金よりも大きい。つまり、労働者は本来受け取るべき利益を搾取されている。

場面2。疲れて帰宅する労働者を妻が迎える。ご飯も風呂も用意し、仕事のことでグチる労働者をなだめ、翌日も元気に職場へ送り出す。こうした家事は、家族として当然の振る舞いであり、賃金云々の対象とは見なされない。

各場面の主役として、一般に1は男、2は女が想定される。こうして、生産労働にかかわる賃労働者の労働力を再生産する労働という家事労働の本質が明らかになる。資本主義が円滑に機能するために不可欠な要素と言えるだろう。にもかかわらず無償である。その意味でも、資本に二重に搾取された労働と見ることができるわけだ。

個々の事例を見ればいろいろあるが、こうした性別による役割分業が20世紀の資本主義にとって重要な機能を果たしていたことは間違いない。ところが、この点は長きにわたり問題にされることはなかった。搾取の問題は専ら生産労働にかかわる賃労働者の問題であり、家事労働は労働としての位置づけすら与えられず、家族内部の私的な問題と見なされがちだった。性の違いに基づく差別と抑圧からの解放は、法的・形式的な男女同権の達成、あるいは旧弊な意識の変革として扱われてきた。

そうした状況が変わりはじめたのは70年代のウーマンリブの運動から。さらに80年代中ごろには上野千鶴子や小倉千加子といったフェミニズムの論客が現れ、議論の枠組みも拡大、深化していった。ちょうど学生時代と重なったこともあって仲間内でよく話題にもなったし、当事者としてではないが、男性の無自覚な発言や行動をめぐる女性からの糾弾にも遭遇した。自らの社会的な「立場性」について、反省的に捉えるきっかけの一つになったように思う。

それゆえ、高木君の「…あったらしい」という記述には、ある意味で非情な時間の流れを感じざるを得ない。考えてみれば、もう30年も経っているのだから当然だが。

が、問題そのものはたしかに「あった」し、テレビドラマの話題になるくらいだから現在も「ある」はず。おそらく、高木君も日々の生活の中で折に触れて実感しているのではなかろうか。私自身は幸か不幸か、これまで実践的に問題に直面したり、矛盾に苛まれる機会はなかった。独身だから!どうやら今後もなさそうだ(涙目)。

(山口協:研究所代表)

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