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アソシ研リレーエッセイ

散髪屋で考える労働価値説

今期をもって運営委員を退任させていただくことにした。運営委員が持ち回りで書いているこのリレー・エッセイの担当も今回でおしまいだ。研究所設立当初から運営委員をしてきたから、かなりの数の駄文を書き連ねてきたことになる。退屈させたり、不愉快な思いをさせたりしてきたのではないかと気にかかる。それも今回までなのでお許し願いたい。

さて、表題の散髪屋だが、私は1000円プラス税の低価格店を利用している。理容労働の価値をひきさげる消費行動だと思う。けれども所要時間が短くて気に入っている。カット後の洗髪もなくて掃除機で吸われる。吸われるときに人間存在の哀しみを感じてしまうのは、まあ仕方がない。

それに私の場合には、料金は妥当だと思っている。もともと毛が細いうえに、本数も少なくなってきたので、刈り上げてテッペンだけハサミでチョンチョンしてもらうと、ものの5分もあれば終わる。ところが観察していると髪の豊富な女性の場合、ゆうに私の5倍ほどの作業時間が費やされているようなのだ。同じ1000円で。

彼女は私の5倍は支払うべきだとか、そういう話をしたいのではない。資本制があるかぎりマルクスの資本主義批判は有効だという話をしたいと思っている。彼の労働価値説では価格は価値(投下労働量)の現象形態だとされる。松尾匡にならえば価格(現象)は「見た目」、価値(本質)は値打ちの「正体」だ。そしてマルクスは、「見た目」は「正体」からズレると言っている。変動する価格の、変動の中心点が価値であって、需給関係とは無関係にその商品に費やされた労働量によって決まるとする。現象と本質はズレるものなのだ。「もし事物の現象形態と本質とが直接に一致するなら、あらゆる科学は余計なものであろう」。う~ん。それにしても、わがこととしての5倍の価格差は大きすぎる。

けれども、「見た目」がふくれあがることだけにしか関心をもたない金融資本に対抗するために、身体をもった私たちはリアル(実体的)なものを取り返さなくてはならない。そのとき、実体的なものの根拠を人間と自然の関係にさかのぼって探り、個々人の相互依存関係としての社会を生身の人と人との関係に立ち返って把握しようとするマルクスの理論は、いまも強力な参照軸だ。

散髪屋の待ち時間にはそのようなことを考えていて忙しい。ところが、他人にはとても退屈しているように見えるらしいのだ。1年ほど前、小さな男の子が見かねたように本棚から本を持ってきてくれた。「これ、おもろいで」と渡されたその本は、福山雅治の結婚を特集した女性週刊誌だった。話し相手が女性だった場合、福山雅治や西島秀俊の結婚話に話題が及んだときには不用意な発言はしないほうがよい、くらいの心得は私にもあった。しかし、小さな男の子と福山雅治の結婚話というレアケースは想定外だった。

ハトが豆鉄砲をくらったような顔をしていたのだろう。その子はすぐにUSJの話題に変えてくれた。そのほうが助かる。行ったことはないけれど。それにしても二重に気をつかわせてしまった。不甲斐ないことだ。で、「不甲斐」は語源的には価値がないことだ。頭の中で価値論をコネ回している場合ではない。相手の親切に応える実践性が問われていたのだ。ところで、そんなやりとりをしているうちに、理屈が腑に落ちないもどかしさは、その子の親切によって解消されていた。

理屈っぽい話はひかえめに、ありふれた親切を多めに。最終回だというのにありふれた結論になってしまった。このへんで失礼したい。

(関西よつ葉連絡会事務局・下村俊彦)

P.S.その散髪屋は最近店じまいした。遠くないところに業界大手のフランチャイズ店がオープンしたためだと思う。あの男の子にはもう会えないだろう。資本主義は無慈悲だ。


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