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フィールドワーク『大阪・大正区 リトル沖縄を歩く』
「違和共生」「正しさの暴力」を考える

関西沖縄文庫主宰・金城 馨さんに聞く

 『大阪・大正区 リトル沖縄を歩く』フィールドワークを4月23日に開催しました。案内は関西沖縄文庫の金城馨さん。4人に1人が沖縄にルーツをもつと言われる大阪市大正区において、40年前からエイサー祭りを続けてこられました。関西沖縄文庫は、書籍や映像、CDの収集、貸し出しの他に、沖縄をめぐるさまざまな活動の拠点でもあり、文化的な活動の場でもあります。「違和共生」や「正しさの暴力」など、金城さんの語りは、参加者の1人1人に深く考えさせるものだったと思います。以下、その要旨を報告します。

大正区における沖縄人集落

大正区は周囲を運河に囲まれている
 大正区の住民のうち沖縄出身者やその関係者が4分の1になりますが、大正区にそのままの沖縄社会があるわけではありません。大阪という場所において変化が起こっています。自然に起こる変化とともに、同化や迎合など、対等ではない関係による変化があります。そのことを見ることによって逆に、日本社会の本質というのが見えてくるのではないかと思います。自分自身のことを理解するためにこそ、他者を知ることが大事なのではないかということです。

 まず大正区の地形のことからですが、尻無川と木津川に西と東をはさまれた形になっています。尻無川の西が港区、木津川の東が西成区になります。ここは江戸時代からの新田開発で広がっていった地区で、北村とか岡島とか、開墾者の名前が地名に残っています。

 今日の話は明治以降のことになりますが、1880年代から始まった近代紡績産業が日本の近代化を引っ張っていったのです。その中心は大阪にあり、東洋のマンチェスターとも言われていました。大正区には今の東洋紡の前身である大阪紡績の三軒家工場という大きな紡績工場がありました。JR大正駅の近くです。そこにはたくさんの労働者が働いていましたが、沖縄からも2000人くらい来ていたという記録が残っています。また、木津川の向かいの西成区にはユニチカの前身である大日本紡績の津守工場があって、そこにも沖縄出身者が働いていました。

 大正区はそれ以外に、材木関係の市場がありました。元々は大正区の真ん中あたりには池がたくさんあった。どんな池かというと材木、丸太を浮かべる貯木場。材木の取引をするところです。そこに運河が張り巡らされていた。運河があって材木を移動させるためには担ぐ人がいるわけです。そういう肉体労働のための労働者が必要とされていました。そこに沖縄から人が来て、この地域でそういう仕事に就いて、そのまま地域の職場の近くで集落を構えていく。そういうふうに、どんどん沖縄から人が集まってきて、どんどん増えていくという形で、大正区には沖縄の人が増えていったのです。

 あとは大正区の南部には鉄関係の産業が盛んでした。大阪製鉄や中山製鋼など鉄鋼関係や、造船など重工業的なものが海の方にあるのですが、沖縄の人は紡績と材木関係に比べれば多くはありませんでした。だから、沖縄出身者は大正区の真ん中あたりに集中していった、ということが言えます。

 沖縄の人が集住していた地域ですが、戦前からの地域はオカジマ(北恩加島)と呼ばれていました。また戦後はさらにクブングァーという集落ができました。クブングァーというのは語感から想像できるように「窪んでいる」という意味です。本来住居には適していない湿地帯で、まわりよりも3~4メートルも低い所です。新聞記事などで、沖縄スラム,不良住宅地域という呼び方をされていました。大正区にはこの二つの沖縄人集落があったのですが、1950年代後半、オカジマの人たちはもともと畑地であったところが区画整理された平尾という地区に移動することになります。1970年頃、クブングァーの人たちは市営の改良住宅の方に移りました。今は、大正区に沖縄人集落というのはありません。

琉球と薩摩そして大正区

千島体育館前にある「具志堅幸司顕彰碑」横で
説明をする金城さん
 江戸時代の大正区の風景を描いた絵図です。木津川口はなかなかいい港で、行楽地のように見えます。よく船が着いて、停泊していたようです。

 日本の戦国時代、1400年代に琉球は国家として統一されます。それまで、三山(さんざん)といいますが北山、中山、南山に分かれて争っていましたが、統一されて1879年(琉球処分)まで続くことになります。三山統一後、各地の有力者は首里周辺に住まわされた。やがて彼らは「貴族」化し、戦うということを忘れていきます。100年以上も争いのない社会が続きましたが、1609年、薩摩が侵略して支配します。秀吉の朝鮮出兵もほぼ同じ時代のことです。

 薩摩は貧しい藩でしたが、琉球を支配し、その富を収奪することで財を蓄えます。それが明治維新の財源にもなったのです。

 薩摩の時代に、琉球から江戸に使者を送る「江戸上り」(あるいは対等な言い方では「江戸立ち」)というのがありました。支配はされていましたが、独立の琉球としてです。薩摩が琉球を完全に滅ぼさなかったのは、琉球と中国との関係があったからです。琉球と中国とのあいだには朝貢関係(主従関係)があり、中国から与えられる富が琉球にはありました。薩摩が琉球を完全に支配しなかったのは中国からの富を失いたくなかったからです。

 「江戸上り」は十数回もありましたが、そのひとつのルートとして、琉球から江戸への船が着いたのがここ木津川口でした。ここまで外洋船で来て、川船に乗り換えました。ここから淀川を伏見へ向かいます。さらに京へ、江戸へと旅を続けます。そういう足跡が残っているということです。

違いと同化、「正しさ」の暴力について

平尾本通商店街で見かけた手作りシーサー
 これは具志堅幸司という体操選手で、オリンピックで金メダルを取り、また体操界に貢献した人を讃える碑です。具志堅という名前は沖縄の名前です。私の名前は金城ですが、沖縄で一番多い名前です。その次に多いのが比嘉です。他に大城とか、沖縄にしかない名前というのがあります。朝鮮人、中国人、日本人も名前で分かります。大事なことは違いがあるということです。違いを認めあう、対等である社会を私たちは求めているのですが、そういうふうにはなっていない。同じであるということが、マジョリティーへの同化につながっている。このことがはっきりと現れるのが、名前です。

 私は金城「きんじょう」という名前を一応紹介されましたが、正確に言うと「きんじょう」ではありません。私の本来の名前は金城「かなぐすく」です。これが沖縄人の発音で、「きんじょう」などという発音は、本来はありません。名前が日本的に変えられているわけです。違いが認められていないのです。このことから、ここでは「正しさ」の暴力について考えたいと思います。

 「きんじょう」や「かねしろ」は日本語として正しいのですが、沖縄語としては間違っている。ここでマジョリティーとマイノリティーの関係が問題になってきます。日本の中で沖縄人の占める割合は1%です。日本人は98%。あとの1%は在日の朝鮮人とか中国人とか。1%の正しさと98%の正しさとが向かい合うことになります。そうすると98%はあたりまえのように「きんじょう」「かねしろ」と呼びますし、学校でもそのように教えます。正しさのうしろには力関係が働いています。強い方が勝ち、弱い方は潰される。「正しさ」の暴力によって違いが否定される。沖縄人がたどった歴史はそのように捉えられると思います。

 沖縄にいる沖縄人の場合は暮らしの中に日常会話としての沖縄語があります。大人にはなかなか日本語を強制できないので、まず子どもに同化を強いることになります。学校で日本語を教え、学校内で沖縄語を使えないように「方言札」などの罰を与えて、日本語を話すように強制します。それでも反発する「問題児」が出てきますが、そういう子たちは学校にカバンだけ置いて、出ていってしまう。そういうのを沖縄では「山学校を歩いた」と言います。学校の優等生たちは日本語を習得し、やがて沖縄語は使えなくなり、日本に同化したエリートになっていく。そういうふうにして、学校から沖縄社会へと同化が進んでいきます。

 沖縄ではそういうことですが、こちらではどうだったか。ここ大正区に出てきた沖縄人たちは出稼ぎとして来ました。ここで仕事を探すのですが、「朝鮮人、琉球人おことわり」という「但し書き」が貼られていた。差別があったのです。日本社会の中で圧倒的に少数の沖縄人として、差別に直面したとき、どういうふうにそれと向きあうか。大きく言って、三つあると思います。

 ひとつは組織化して闘うということです。1924年に結成された関西沖縄県人会に現れています。それに先立ち赤琉会などが、沖縄人の階級的な意識に目覚めた組織としてできてきます。部落の水平社宣言(1922年)の影響を受けています。まずは親睦を図るのですが、職場などで組織化が図られます。そのようにして差別に対する抗議や異議申し立てをします。しかし、やがて中心となった人たちの中に労働運動、階級闘争の中で、沖縄人としてよりも、日本人と一緒に闘うという方向にエネルギーが行ってしまったように思います。日本共産党の顧問になった松本(真栄田)三益という人物などがいましたが、沖縄人としての運動からは少しずつ離れていくことになります。

 生きのびるための二つめの方法は、同化と迎合です。日本人のようになろうというわけです。名前でばれるといけないので、具志堅さんは志村さんに変えます。金城さんは「金」を「岩」に変えて、岩城「いわしろ」「いわき」さんになります。比嘉さんは日吉さん。このようにして名前を変えることによって生き延びるのです。

 三つ目は沖縄人集落に固まるということです。先ほど就職で「朝鮮人、琉球人おことわり」ということがあったということを話しましたが、それはアパートを借りるときにもありました。具志堅と言えば、有名なプロボクサーの具志堅用高もアパートを借りられなかった。東京に行って、アパートを借りようとしたときに、「お前どこの人間か?」と聞かれた。「沖縄ですけど」と言ったらダメだと言われた。去年も一昨年も、彼はテレビや雑誌でその話をしています。「いや、自分はアパートを借りれなかった。いまは借りれるよ」というふうに。これはストレートな抗議ではなく、ボクシングでいうジャブです。わざわざそういう発言をするというところに彼の日本社会への不安があるのだと思います。

 さて、沖縄人集落のことですが、家を自分たちで建ててしまうのです。アパートを貸してもらえなかったら、自分たちで建ててしまう。そういうふうにしてバラックの家を、家といっても小屋みたいなものですが、建ててしまうのです。ちょうど材木はそこらにいっぱいありましたから。そして仕事も作ります。養豚です。豚を飼ってその横に家も作って、仕事場と住居が隣同士になる。そういうことはどこでできるかというと、日本人が住んでない場所です。みんなの住んでいる場所の横ではできないですから、空き地。どういうところかというと、水が溜まってるようなところ。低い土地。住宅に適していないところに住居を構えることになります。そして仕事もそこに作る。沖縄人が集住していたオカジマやクブングァー。行政的に不良住宅地域だったクブングァーはマスコミでは沖縄スラムと書かれるようになる。

 沖縄人集落では、沖縄を隠すことはありません。そこでは沖縄人がマイノリティーではないのです。だから、沖縄の文化もそこで受け継がれます。沖縄から来た人たちの中には沖縄の唄や三線ができる人もいました。ここで舞踊の研究所が生まれ、三線教室が生まれ、沖縄の文化としての言葉が飛び交うわけです。生活スタイルも沖縄のままでいける。そのようにして沖縄人の沖縄が生き延びていける。

 ここで私が大事だと思うのは、「閉じる」ということです。「閉じる」と言うと、閉鎖的だとか排他的だとか、負の意味で語られることが多いですが、閉じることによって、沖縄人の文化は守られてきたのです。逆に、連帯とか一緒にということで、同化が強いられる場合が多いのです。

デイゴとエイサー

 皆さんはデイゴを見たことがあるでしょうか。まだ花は咲いていませんが、真っ青な空に真っ赤な花が咲いている光景が沖縄を表します。沖縄の県花です。沖縄の気候風土を象徴しているとも言えます。そのデイゴの花が大正区にあるということは、ここに沖縄の人がいるということです。そういった思いで植えられているのです。これは沖縄県人会が植えたものですが、県人会は差別問題に触れたくないという感覚の強いコミュニティです。だから、表にあまり沖縄を出さないけれど、こういう形で、大正区には沖縄の人がいるんだよという思いで植えたのだと思います。

 沖縄を離れて大阪に来た1世たちは、出稼ぎだったので、もともとずっと住み続ける気はなかった。お金が貯まったら帰りたかった。しかし、結果的には帰れなかった人たちがたくさんいるわけです。帰れなかったということは、大阪で亡くなったということです。大阪に定住化したとよく言われますが、大正区へ、最初の人は100年前に出てきていますが、そこから定住が始まったわけではない。定住は、帰ろうとして10年経ち、20年経ち、30年経ったころに、もう帰れないんじゃないかと思ったときに、定住という決意をしたのだろう。

 デイゴの花を通して見えてくるのは、沖縄から出てきた人たち、帰れなかった人たちの思いです。私の母親もそうなのですが、15歳くらいで出てきて、亡くなる前、10数年間寝たきりになりました。車椅子で散歩に行くのですが、そのときにやはり帰りたい、帰りたいとずっと言っていた。でももう、体調が悪くて、帰れない。車椅子でここを散歩するぐらいだった。そうすると、やはりデイゴの花が見たいと言う。子供のころからデイゴの花をみて大きくなってきたわけですから。母の心の中、からだの中にはデイゴの花がいっぱい咲いているのだと思います。この場所でちょっとでも沖縄に近付きたいという思いが、デイゴの花を通して伝わってくるような気がしました。

 亡くなった人たちや、もっと以前に亡くなった人たちの骨が土に帰って、この花を咲かせている。いままで沖縄に帰れなかった人たちの思い、その人たちが土になって、花を咲かせている。自分たちはただ単に現在生きているのではなく、その先人たちが辿った多くの時間が詰まった場所に、その上に生きているという思いがします。そういうふうに時間の移動を促し、先人たちの当時のことを考えさせる花なのです。

*   *   *   *   *

 ちょっと後ろの大きなグラウンド(千島公園グラウンド)を見てください。このグラウンドで自分たちは、1975年、第1回目のエイサー祭り(当時は沖縄青年の祭り)をやりました。そのとき、だいたい200人くらいでした。だだっ広いグラウンドで200人だから、ちょっと閑散として盛り上がっていないような感じがしないでもないですが、自分たちのなかでは盛り上がっていました。ここでエイサーの太鼓を打ち鳴らして、「やったぞ!」みたいな。まわりに人が見にきているかといえばあまりいないのですが、それはどうでもよかった。とりあえず自分たちの思いをエイサーという形で表に出した。これは非常に重要な意味を持っています。

 しかし、沖縄出身の先輩たちから、「恥さらし!」と石を投げてくる人が出てきたのです。「沖縄の恥だ。恥ずかしい、やめろ」と言って怒っていた。そのようにして先輩たちがエイサー祭りのスタートに花を投げるのじゃなくて石を投げてくる。そういうことがありました。とても衝撃的な出来事でした。それ以降、自分の頭のなかでずっと「恥さらし」という言葉が、動き回りました。そして「先輩たちは、もう誇りはないのか。沖縄の誇りはないのか」というような気持ちで、反発しました。まだ20歳前後でしたから。

 いま、考えてみると、先輩たちは沖縄を表に出すのを恐れていたということだと思います。差別がまた起こるのではないか。やっと表に出さないでなんとか日本社会で生きてきているのに、お前たちがそんなことをすると、また差別を受けるのではないかという、そういう恐れだと思います。その当時はそんなに冷静には考えられなくて、先輩の言うことを聞かなかったわけです。だから、自分たちはそのままエイサーを続けます。先輩たちが言っていることを聞かなかったわけです。

 若かったということと、もうひとつは、沖縄人としての誇りを取り戻すという目的があったのです。沖縄であることの差別は、誇りがあれば跳ね返せると思ったのです。当時は集団就職の時代で、差別によって誇りを奪われ、つぶされていく仲間が多かった。うまくコミュニケーションが取れないことで、犯罪に走ったり、誇りを守るために自ら死を選んだ仲間もいた。だから自分たちはエイサーを通じて、沖縄の文化を通して、堂々と差別を跳ね返したいと考えた。これは私もその中のひとりですが、解放教育を受けてきたメンバーが何人かいて、自らの沖縄を隠すのではなくて、ちゃんと表に出して向き合おうという、そういう考えでもありました。

 現在、エイサー祭りは40回やってきて、2万人が来ています。全国から集まって来る。しかし、2万人も来たから凄いだろう、と自慢できるかというとそういうことではありません。2万人が来るというのは自分たちの祭りの中身が変化したからかもしれない。沖縄そのものの表現から、日本に伝わりやすい表現に変わっているから、日本人が参加しやすくなったという可能性があります。日本人が理解しやすい日本語の入った音楽とか、日本人が楽しめるものへと広がった。沖縄だけの表現だったら日本人はそんなに来ないと思います。エイサーというのは先祖を供養するものなのです。そのエイサーの意味を薄めている可能性があります。

 いま、恥さらしだと言った先輩たちの言葉を振り返ってみると、思い当たることがあります。沖縄のことを日本人に伝えても分からない、だから自分たちのなかでやれという意味だとしたら、あの恥さらしという言葉は当たっています。恥さらしと言われたことを、いまは半分感謝しています。自分たちはもしかしたら薄めているのかもしれないと。だから、その薄まっている部分を自覚しながら、どういう祭りにするかを今は考えています。薄まっているから悪いかというと、必ずしもそうではないと思います。同じ沖縄人の中だけでやるべき表現と、日本人も含めてやる表現と、二つあっていいと思います。閉じるということ、自分自身の沖縄、その文化を守ること。もうひとつは社会変革に向かって、外へ関わること。自己防衛と社会変革の二つの方向があり、どちらもが必要だということです。

 最初は沖縄人だけで主張したかった祭りが、日本人も含めて一緒になって、そこで考える祭りになる。先祖供養の祭りという意味では、いまのエイサー祭りは間違いかもしれないけれども、間違いを共有化する、違和共生の文化ということで、違いを認め合う、違いを確認できる、間違いをきちんと自覚できる祭りとしては意味があるというふうに思います。間違いを否定したり糾弾したりすることではなく、それを共有化し、正すということが大事だと思います。

ソテツ地獄の時代

ソテツの木の植え込みの前で
 これはソテツです。ソテツというのは、沖縄ではソテツという言葉では終わりません。沖縄ではソテツという言葉のあとに「地獄」という言葉がよく使われます。「ソテツ地獄」です。

 ソテツには毒があって、普通は食べません。でも、食べものが何もなくなったらこれも食べないと飢えるわけですから食べるのです。ソテツを食べざるを得なかった時代、社会状況をソテツ地獄と言うわけです。1920年代前後が「ソテツ地獄」という時期に当たります。

 当時、沖縄はサトウキビを中心に作っていました。明治政府の政策で、モノカルチャーとしてサトウキビだけを作らせるようにした。これは沖縄を支配する植民地政策です。沖縄の経済の発展を敢えてさせない、自立させないようにするということです。そのために、砂糖が暴落するということが起ったときに、結果として、沖縄の経済は破綻しました。飢えを凌ぐためにはソテツも食べるという状況でした。沖縄では生きていくことができない、そのため、沖縄の外へ出ざるを得ないということで、海外への移民や出稼ぎという形になったのです。そのようにして沖縄にとってのソテツ地獄という社会状況は、大阪に沖縄の人がたくさんいるということと繋がっているわけです。

 出稼ぎのために沖縄の人は沖縄を離れ、日本へ、特に工業化されていた大阪に向かって出てきたのです。1880年代には、船会社が大阪と沖縄間の航路を開きます。最初は不定期だったものがしだいに定期化し、最初は貨物から始まって、客船が出てきて、どんどん移動しやすくなってくる。そういう意味で大阪というのは一番出てきやすい場所だったのです。大正区の海の方にオカジマ(北恩加島)があり、その隣にクブングァー、この2ヵ所が沖縄人集落になります。

 私の母親は15歳くらいで出てきたのですが、近江絹糸という滋賀県の彦根の方でまず働いたようです。そこは、やはり仕事がきつかったのか、逃げ出します。そこを逃げ出して、辿り着いたのがオカジマです。オカジマには親戚がいたのかと聞いたら、いないと言います。親戚がいなくてもオカジマに行けば何とかなるというふうに言われていたようです。沖縄から出てきた人たちにとって、大阪のオカジマは沖縄なのです。沖縄に帰りたくても帰れない人は、なんとかそこで生き延びていくという、そういう沖縄と直結した地域だったということです。

 先ほど言った、車椅子で散歩のときもここを通りました。これを見ると、ソテツを食べたという話をします。おいしかったと言うのです。けれど、不思議です。だいたい他の人に聞いたらまずいと言います。母親はおいしいと言うのですが、ちょっと認知症が入ってきてるからと思ったりもしたし、本当においしかったとしたら、よほど食べものがなくてなんでもおいしく感じたのか、おいしく食べる方法を自分で見つけていたのか、よく分かりませんが、おいしかったという母親の言葉をずっと自分は大事にしています。

石敢當(いしがんとう)

T字路や三叉路の突き当たりに設置された「石敢當」
 石敢當(いしがんとう)です。なぜ、ここ大阪にあるかというと、ここに住んでる人が沖縄の人だからです。これは中国の習慣です。中国から沖縄に入ってきて、沖縄で定着しました。沖縄ではよく見かけます。日本にも入ってきていますが、定着しませんでした。日本には数えるほどしかありません。

 ここはT字路です。沖縄では、T字路のところに家があったら、その家を守るためにこの石を置いておく。そうすると、魔物は直進するものというイメージがあって、魔物が入るのを払いのけるのです。石敢当にはそういう力があると言われています。迷信だと軽んじられるかもしれませんが、しかし大事なものだと思います。迷信であろうと、自分は生活に定着した文化、精神的なことは大切だと考えています。

 これも恐らく、定住することを決意したときに置いたのだろうと思います。すぐに帰るつもりだったら、わざわざここまでやらないだろうけれども、家も建てて定住するのだと決めたときに、家を守りたいと思ってこれを置いたのでしょう。このあたりで、私は五つほどしか見つけていませんが、沖縄の人にとって大事なものです。



関西沖縄文庫にて~フィールドワークを振り返って

辺野古浜から海を望む。
ゲート前の座り込み・海上の抗議行動は現在も続く
 今日のフィールドワークを振り返るにあたって、歴史的な背景というものをおさえておきたいと思います。まず、沖縄がいつ沖縄県になったのか、その発端が1879年の琉球処分になります。琉球が沖縄県に変わります。琉球国という独立国家、アメリカなどとも修好条約を結んでいた独立した国を、どのようにして日本に組み込んだのか。琉球の意思を無視し、中国と半分ずつにするとか、三分の一ずつとかいう考えもあったようです。しかし、台湾で琉球人が殺された事件を利用して、台湾征伐という形で明治政府が介入した。それによって琉球は日本のものだとする方向を強引に作っていったのです。明治政府は武力により現状を変更し、琉球国の支配者を拉致もしています。

 日本と沖縄との歴史は武力による、強いものによる弱いものに対する支配・被支配の歴史だということです。沖縄で徴兵令が布かれるのが1898年です。日本に遅れること25年。なぜそれだけ遅れたのか。また、軍隊には府県ごとに連隊というのがあったけれども、1945年においても沖縄連隊というのはなかった。沖縄人は他の連隊に分散して編入された。つまり、国家は沖縄人をまだ日本人だとは考えていなかった。そのことがはっきり現れたのが沖縄戦です。沖縄を守るためではなく、本土防衛のために沖縄が犠牲にされました。沖縄人は沖縄語を使うとスパイだと言って処罰され、日本軍のために壕を追い出され、また集団自決を強いられました。つまり沖縄を日本だと見なしたことはなかったのです。

 もうひとつの記憶すべき例として、1903年に学術人類館事件が起こっています。大阪の天王寺で開かれた第5回内国勧業博覧会の「学術人類館」において、中国人、朝鮮人、琉球人、アイヌ、台湾、ジャワ人、マレー人など合計32名の人々が、民族衣装姿で一定の区域内に住みながら日常生活を見せる展示を行ったのです。東京帝国大学の坪井正五郎という人類学博士によって中身が作られた。そして、1903年の3月1日の博覧会開始から7月31日まで5ヶ月間展示をやりました。中国人(清)や琉球人から抗議があり、中国人と朝鮮人の展示は除去し、琉球人の展示が2ヶ月後取り止めということになりましたが、それ以外の人たちは展示され続けたのです。だから、事件とは言いますが、事件にはなっていないのです。展示は続いたわけです。展示という人を見下すような眼差し、見る見られるという関係を作り出すということは続けたのです。そこから分かることが二つあります。

 まず、沖縄人と日本人は違うという概念を、坪井正五郎は間違いなく持っていた。学問的に見ても違うと彼は思ったのです。違うという捉え方は間違いではない。しかし対等な視点がなかったのです。要は、日本人が見る側であり、それ以外のアジア人は見られる側であるという関係です。文明と未開という概念をそこに作り出しているということです。

 坪井正五郎という人物は1880年代にロンドンに留学しています。1889年にパリ博がありました。そこに植民地館というべきものがあったのです。ヨーロッパ人がアジアを侵略し、そこで収奪してきた珍しい動物たちや鉱物とか、いろんな珍しいものを展示していたのですが、途中から人間を展示することをやり始めたのです。それが植民地館。これを見て坪井正五郎は、これをやろうと思ったのです。文明である自分たちが未開である人を展示してもいいのだということをヨーロッパから学んでしまった。この文明と未開という考え方が、当時明治政府が進めていた朝鮮半島への侵略と植民地支配に結び付きます。

 これは日本人の問題です。しかし沖縄人にも問題があります。沖縄人は1903年に展示されたときに何と言って抗議したか。アイヌや台湾と同じ扱いにされたのは侮辱であると、私たちは見る側であると、日本人として扱ってくださいと言ったのです。差別に対して、差別をする側に私たちも入れて下さいと。残念ながら沖縄人は差別を否定しなかった。自分たちはその人類館を克服してはいないのです。

*   *   *   *   *

 さて、これまで大阪における沖縄人の歴史的な足跡をたどりつつ、いろいろな出来事を通して沖縄と日本とはどういう関係だったのかを見てきました。次に、これらをどう捉え、どうしていったらいいのかを考えたいと思います。

 よく、「理解することが大事だ」と言われますが、逆に理解が差別を生むのではないかと、私は思います。理解というときに沖縄人が求められるのは、沖縄のことを日本語で説明するということです。沖縄人は日本語を使わないといけない。沖縄語で理解するということは考えられていない。にもかかわらず、理解ということが正しいとされるとき、そこに同化と迎合が生まれます。理解ということによって、暴力が自覚されないまま、隠されるわけです。だから、違和共生が大事なのです。理解ではなく、分からないことを大事にする、受け止めるということです。違いを認めあうということです。先にエイサー祭りのことをお話ししましたが、もうひとつの例として大綱曳のことをお話ししたいと思います。

 沖縄における三大大綱曳(おおつなひき)のひとつである与那原大綱曳(よなばるおおつなひき)というのを大正区にもってきましたが、私たちは綱をもってきて綱曳をやっただけで、伝統的な行事を真似しただけです。与那原大綱曳というのは、与那原町で400年前から続く神事で、集落ごとに役割を分担して縄から編むという過程があるのです。本当はよその人は参加できないことを、大阪でやっているのです。与那原大綱曳としては、正しくはないのです。しかし間違いを共有化することによって、別々の価値観をもつ人々が共生することができる。正しさの中に閉じていないから、他の人も参加できるのです。間違いを共有化することによって、コミュニケーションが可能になる。ひとつにはなれないけれども、共生できるということです。これが違和共生ということです。ひとつにはならないで、違ったままでいるということです。ひとつになるということは、先ほど述べた多文化共生という名の「人類館事件」、同化政策につながるので、違和共生という同化政策ではない方法として考えてみたのです。そのようにして、そもそもの出会いにおいて問題のあった沖縄と日本の関係に対して、「出会いなおし」がどうしたらできるのかを考えています。

 正しさは暴力を生むのではないかと思っています。正義がいちばん暴力を生みやすい。間違っていると思いつつ、暴力は続けにくいけれども、正しさの暴力はなかなか止められない。国家が正義を語ったら、もう誰も止められないのです。もう一歩考えを進めると、戦争と平和は同義語ではないのかと思っています。戦争が醜くて残酷であると認識していたら、戦争はできない。戦争が平和だから戦争ができる。戦争の横顔は平和なのです。戦争の横顔としての平和しか、私たちはまだ知らないのです。平和を守るために戦争が行われる。安倍政権がやっていること、積極的平和主義とはまさにこのことです。だから、平和を守るということは、戦争を拒否する力にはならない。逆に、平和ということがくっつくことで初めて戦争ができるのです。

 正しさには暴力がくっついている。正しいから暴力が見えないだけです。だとしたら、正しさとはどういうことでしょうか。正しいことを求めるよりも、私は間違ったことを止める方がいいと思います。その方が正しさの暴力を食い止めることができる。自分は正しいのだと、正しさを求めるよりも、少しずつ間違いを止めていく方がいい。平和は守るのではなく、鍛えるのがいいのではないか、と考えています。

 今回は、大正区におけるフィールドワークということですが、正しさの暴力に関して、沖縄の米軍基地の問題があります。暴力は拒否しなければ、その暴力は移動していく。辺野古の新基地建設という新たな暴力を拒否しているのが、辺野古の戦いといえる。しかし、米軍基地が日本から県外移設され、沖縄に集中し、現在その暴力が継続していることにどうむきあうべきか。やはり暴力を拒否する意思を明確にし、行動に移す必要がある。そして、沖縄がいっている「県外移設」とは暴力を拒否する意思であり、基地引き取りという運動はその行為である。平和運動のあり方を考える重要なときなので、今回のフィールドワークを踏まえて考えていただけたらと思います。

フィールドワークに参加して

▼参加するにあたって、最近、大正区で会員募集のポスティングをしていて、沖縄出身者と思われる表札や玄関前にシーサーの置物をよく見かけることがあり、なんで?…と思っていました。なぜ沖縄出身者が多いか、大正区の町を歩きながら、知っていく1日となりました。

 このフィールドワークのテーマは「何故、大正区に居住したか? そこから日本社会を考える」というものでした。

 明治以降の近代化でこの地域が日本の紡績の発祥地であり、その他にも鉄工、材木産業が盛んで、沖縄での生活が豊かでなかったため、働き場所を求めてここに来た。しかし、沖縄出身者であるために、部屋を貸してくれないから、湿地帯となっている広大な空き地にバラックを建てて生活していくしかなかった。

 歴史を遡ると、琉球という言語が異なる国が存在し、日本よりも中国との国交が盛んだった事実があり、侵略によって日本の国に滅ぼされた。太平洋戦争で沖縄が日本本土を守るため犠牲になったこと、そして今は米軍基地を押しつけられている、沖縄が本土に復帰して本当に良かったのか、など、関西沖縄文庫の金城馨さんの話を聞きました。

 沖縄出身者が日本の人口の1%というマイノリティ、本土がマジョリティ、そこから違いを分かり合って対等性をつくるのは大変だと … 自分自身を含む社会自体が、違いを分かって相手を理解しようとしているのかなと?考えてしまいました。

 フィールドワークでは大正区に沖縄出身者が多いそのルーツを知ることができ、差別が存在したことも … 参加するまで知らなかったこと(関心がなかったこと?)、沖縄の歴史から現在の基地問題に繋がっているということを知った(ほんの少しだけですが…)1日となりました。

(大阪産直 若井智広)

▼沖縄と本土の関係性そのままに大正区に暮らす沖縄からの移住者たちは差別を受けて生きてきた。

 案内役の金城馨さんは言う。─「正しさの暴力」。

 先日あるデモでこんなシュプレヒコールがあった。「米軍基地は沖縄から出て行け、沖縄を日本に返せ」。

 沖縄は、ほんとうに日本なのか。

 では、「沖縄の基地を本土に」という議論はなぜ敬遠されるのか。

 畢竟、基地問題は沖縄の問題として留まり、これまで同様固定化されたままではないのか。基地は必要ない。でも現状を変えるための「対等」な議論すらできないのか。そんな問いかけだったと思う。

 40年前、金城さんら若者が地域との交流、沖縄文化への理解を目的に提案した「大正区エイサー祭り」。いまや2万人が集まる。

 しかし当初、町の年長者たちからは激しい反対にあったそうだ。「目立つことをすると本土の人間からまた差別される」。

 沖縄が抱えこまされてきた現実に対する、本土の人間の無自覚さ。そのことに改めて気づかされたフィールドワークだった。

(高槻市議 高木隆太)

▼私自身の人生経験の少なさからか、これまで差別というのを、出生の違いや肌の色の違いのこととしか思わず、他人事のように、何故そういう事が起こるのかと思っていました。今回のお話を聴き、身近な職場などに置き換えて考えると、仕事の能力や考え方の違いによって受けていた嫌な事を思い出しました。今度は嫌なことを自分が受けないように、そのために少数の方に身を置かないようにと、考え方を固定化してしまった結果、理由は何であれ多数の方に同化・迎合を選び関わってしまった事。

 99%の正しさ、1%の正しさなら強い方が勝つ、「正しさの暴力」という言葉が金城さんの発した言葉の中で特に強く印象に残りました。今回フィールドワークに参加し、これまで自分から知ろうとする機会を作らなかった沖縄に関する事を通じて、更に知りたいと思うだけでなく、自身を省みる大切な時間にもなりました。第2回以降も希望します。    

(大阪産直 渡邊拓郎)

関西沖縄文庫

開館:午前10時~午後8時/定休日:月曜
〒551-0011 大阪市大正区小林東3-13-20
tel&fax:06-6552-6709
http://okinawabunko.com/
[アクセス]
JR(大阪環状線)・大阪市営地下鉄(長堀鶴見緑地線)「大正駅」下車、市バス約10分「小林」停留所下車。
南に200m、セブンイレブンを左折、200m先の右手。

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