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畜産ビジョンをめぐる

能勢農場の歩みと放牧

─能勢農場代表・寺本さんと

あかうし担当・古市さんに聞く─

  こ の春、能勢農場が取り組みを始めた放牧のためのノシバ植えの援農に参加した。能勢農場脇の、山の裾野の傾斜地はでこぼこして歩きづらいが、放たれ た2頭のあかうしは跳ねるように動き、そこここの草を食べていく。あかうしのいるこの風景の向こうにはどのような展望が開けているだろう。主とし て事業としての見通しから疑問の声も聞く放牧だが、今に至る経過、畜産ビジョンをめぐる能勢農場の歩みと放牧にかける思い、今後の見通しについて 寺本さんと古市さんに語っていただいた。  (事務局)


下前:能勢農場にはいつ入ってきたのですか?


僕は42歳の時だから、9年前。
 それまでは全く畜産のことなんて知らない、ど素人で。ホルスに和牛の種を付けて、出てきたF1(エフワン)を肥育してる、ということくらいは知って たけれども。

下前:F1って、和牛とパッと見比べたら全然違うのですか?

寺本:白い部分が必ずある。和牛は真っ黒け、絶対白い毛が生え てこない。F1は真っ黒く見えても、よーく探したら、白いところが1ヵ所でも、2ヵ所でも必ずある。まあ、それぐらいしか知らなかった。

下前:そのときの9年前の能勢農場といったら、どんな感じでし た?

寺本:津田道夫さんと、それからあと嶋吉さんと、寺山さんと、 後藤健次郎君と、それだけ。4人やった。そこへ僕が入った。新しい二階建の牛舎ができたばっかりの時。

下前:それで、牛は何頭くらい?

寺本:ここはね、100頭ちょっとしか入らへんのよ、109頭 か。市場で買ってきた奴を預託で6ヶ月までは他所で飼ってもらって、それを瀬戸田農場へ持っていって、16ヶ月になった奴をこっちに戻して。うちで 27ヶ月ぐらいまで飼うという形。それと橋本牧場というところを借りていて、そこで36頭飼ってた。それで、月に12頭出荷。
 餌はほとんど草も、配合も外から買ってた。唯一、豆腐工場のおからだけはずっと自分のところで調達してたけれども、それだけでは足りないから、当然 外からも取ってたし、それで全体の容量を賄っていた。

BSEと畜産ビジョン


下前:寺本さんが入ったころはそんな感じやったんやね。

寺本:あと。津田さんが出て行ってから、畜産ビジョン(よつ葉 がめざす畜産ビジョン)が考えられて。

下前:どうして畜産ビジョンというのが出てきたのですか?

寺本:いまの畜産の歪さというようなものを、津田さんが「農場 だより」の紙面なんかで書いてきた。一番大きなきっかけは、BSE。それまでは、言うてみれば普通の畜産、自分らのところで牛を飼うっていうこと以外 に牛の飼い方について、何か指針を持ってという取り組みはほぼやってなかったと思う。

下前:BSEって、肉骨粉を餌にまぜて与えたという。

寺本:そう。それが日本で何頭か出た。その前にヨーロッパで出 ていて、BSEの牛は脳みそがスポンジになる、みたいなことで大騒ぎになって、イギリスなんかはほとんど全滅に近い状態まで追い込まれた。その肉も人 間が食べると移るとか、移らないとか言われていて、その辺のいきさつも含めて津田さんが「農場だより」に当時書いていた。
 BSEが問題になる前は、はっきり言って畜産の世界は何でもありやった。偽装なんて当たり前やったし。ホルスの肉を和牛と言って売ってるところも あったし。もっと言えば、オーストラリア産を「国内産」と言うて売ってたとこもあったし、何でもありやった。

下前:業界の体質がね。

寺本:肉そのものも、需要があってよく売れてた。一時、肉の自 由化で騒がれた時代があったけれども、それを乗り越えて差別化したことで生き残って、BSEまでは凄くみんな順調やった。特に何か規制が掛かるという こともなかったし、生レバーでも食べ放題やったし、何でもありやった。何でもありと言い切ったら語弊があるけれども。
 だから、餌についても肉骨粉を使うというようなことも平然とやられてた。草食動物やのに、動物性蛋白を与えることで乳の出がよくなるとか、乳脂肪率 が高くなるとか、肉牛なら早く太るとかね。いろんなことがやられてたのが、BSEという事件をきっかけにして、世界的にも変わったんだと思う、詳しく はわからないけど。日本でもその頃から個体識別番号というのが耳標で付き始めた。10桁で管理するという。

下前:トレーサビリティーということやね。

寺本:あれが入ってきてから、偽装などの問題が赤裸々に取り上 げられるようになってきた。牛がどこに何頭いるかということについて、あれで全部管理されるから。耳に耳標が付いてない牛は、たぶん、いまいないと思 う。闇でそれを扱うなんていうことも、いまはもうできない。

下前:でも、BSEのときには、焼き肉屋さんが潰れたりね、肉 の消費がガクンと落ちたでしょう。

寺本:そう。落ちた、落ちた。

下前:そのときは能勢農場はあまり影響を受けなかった?

寺本:受けた、伸びた。
 いかがわしいところじゃなくて、はっきりしたところで買うという流れができた。消費者の指向としては、スーパーで売ってるものはまやかしや、という ことになってきた。それまで、よつ葉はずっと偽装のことについては書いてたし、耳標こそ付けてなかったけど、自分ところで育てた牛を、自分ところで加 工して、自分らで配達するという、この基本を会員に発信し続けてきた。それでよつ葉の肉の需要量が上がった。そのときにたぶん農場もいまみたいな規模 にまでなった。まあ、その時期、関西よつ葉連絡会の会員拡大も併せてやってたということもあったし。

下前:トレーサビリティーって、何か国の決めたやり方みたいな ものがあるよね。

寺本:ある。生まれたときに10桁番号を決められて、それを登 録せなあかん。

下前:あまり覚えてないけど、よつ葉は独自のやり方をするとい う話があったと思うけど。

寺本:そうそう。それはどういうことかと言えば、国は耳標を付 けて管理しますと言ったものの、1頭まで管理するというシステムにはなってない。例えば、肉をスーパーで買うと、その履歴がわかるようにはなってるけ れども、この50頭のなかのどれかとか、この20頭のなかのどれかとか、そういう表示しか出てこない。結局、1頭1頭までは追えない。それは、言うて みたら、国がこれ見よがしに、そういう仕組みを作るということが目的であって、それをきっかけに行政が手を出せなかったところを整備するという意図が あったと思う。
 例えば、屠畜にしても、そういう場所には行政が手を出せなかったとこがあるわけ。保健所なんて全然手が出せなかった。でも、時代と共に、衛生的にも 基準に合わなくなってきていて、そこを何とかしたいと考えていたと思う。それで、このBSEをきっかけにして屠場に保健所の獣医がそれまで1人だった のが2人〜3人と入ってきた。そして、屠畜現場も整備され、統合されてきた。牛を割って、それを検査してということも含めて、徐々にそういうことが整 備されてくるなかで、これまでの慣習が崩されていった。それが決定的になったのはBSEやと思う。
 では、国のトレーサビリィティーできっちり消費者に繋げられるかというと20頭のなかのどれかっていう話では、全然繋がってない。よつ葉はそれを1 頭1頭ごと管理するというシステムにするということで、ドイツへ視察に行って、その方法を持ち帰ってきて、よつ葉風に作り直していった。

稲わら回収と地場牛の取り組み


寺本:その辺から農場も変わってきた。ちょうどその変わり目く らいに僕が農場にきて、頭数も増えたということで、ここに牛舎を造ったと思う。そのあとで代表が津田さんから僕に代わり、それまでの畜産をめぐる考え 方を集約して「よつ葉の畜産はこういうことを目指してやります」という指針、畜産ビジョンが作られた。
 当時はその少し前から、稲わら回収を始めてた。稲わら回収を自分たちの事業としてやろうと言い出したのが、僕が入った年やった。

下前:米農家に呼びかけて。

寺本:米は集荷をずっとやってたから、米農家に稲わらを回収さ せてくれと呼びかけて。そのあとにお礼に堆肥を散布しますよという仕組みを、津田さんが有機米の生産者のところに声掛けてやり始めたのが、僕の入った 年。

下前:その頃、すでにお米の取引があったということは、その頃 にはある程度、村の農家の人たちと能勢農場は近い関係になってたということやね。

寺本:いや、もうすでに野菜の集荷事業はずっとやってたから。 野菜を出荷してくる農家に「米も出荷してもらえませんか」と呼び掛けて。それはもう、ずいぶん前やと思う。
 稲わら回収も僕が初めてやったときは、ちっちゃいロールで3000ロールやったから、いまの4割くらい。それでも1階の牛舎の半分くらい稲わらで いっぱいになった。それをちょっとずつ機械で切って与えていくというのをその頃から始めた、外から買ってきた飼料に稲わらをちょっとずつ混ぜながら。

下前:僕も稲わら回収の援農で、近所の大きなハウスに稲わらを 積んだ。

寺本:それはもう、そのあと。次が4300になって、その次の 年が6500くらいになって、その次の年が7000ロールくらいあった。

下前:6000や7000くらいあったら、どれくらい行けるん ですか。
寺本:それでやっとここにいる牛100頭だけを1年賄えるくらい。畜産ビジョンができて、その考え方に沿って次に始めたのが、地場牛の取り組み。飼料 だけを完全に国産化する、つまり、国産のものしか食べさせないというのを始めた。

下前:それは、どんな飼料?

寺本:稲わらと、豆腐工場のおからと、国産のふすま。国産の小 麦を精製して出てくるふすま。これだけ。トウモロコシを作って残茎をちょっと切って入れてみたりとかぐらい。

下前:穀物はやらない?

寺本:そう。当時は博労(ばくろう)からも「そりゃ、虐待や」 と言われて。人間で言うたら、ご飯と漬け物しか与えない、みたいなね。それは栄養価的にも偏るし、肥育という意味で言うと、それはもうほとんど肥育 じゃない、人間のエゴやと。
 そんなとこには牛は出せないみたいなことまで言われた。サシも入らへんし、ガリガリになるし、そんなもん肉にはなれへん、というふうに当時は言われ て、僕らも全然知識がなくて、でもやり始めた以上止められないから、「すいません、すいません」と頭を下げながら、「こういこともね、やってみようと いうことになったんです」と。
 それで1頭目が仕上がって、割ってみたら、ちゃんとサシが入ってた。肉も凄く美味かった。博労もびっくりしてた。穀物を一切与えないのにこんなにな るのかと。そのときに、結局、いまの畜産の形というのが、一体どういう経緯で作られてきたのか、というのが知りたくなって、そこからいろいろ畜産の在 り方みたいなことを自分で勉強し始めた。いま普通にやられてることと違うことをやってるということで、それがどういう結果を生むのか、批判も含めてど ういう結果が出てくるか、ということについては僕も興味があった。
 でも、素人やから興味があったで済んだ。プロやったらできないと思う。こんなこと絶対に、考えもしない。車はガソリン入れて走るものやと、普通、誰 でもそう思ってるわけで、それと同じくらいのレベルで穀物を与える、トウモロコシを与える、配合を与えるというのは当たり前の行為としてやられてき た。でも、ど素人であるが故に穀物を抜いても一応食うんやから育つやろうと思ってやり始めた。僕はそのレベル。そりゃ病気になったり、ガリガリに痩せ て死んでいくというのやったらそれは話にならないけれども、それなりにいけるんならええやないかと。それで飼えるんならね。

下前:倉庫の前で餌を作っとったね、発酵させてるか何かして。

寺本:そうそう、それはそのあと。ふすまをもっと栄養価の高い ものにしたいなと、それを恒常的にやっていく仕組みを作った。そのきっかけが北海道の興農ファームの本田廣一さん。

下前:そこは牛?豚?

寺本:両方。国産の飼料だけで飼ってる。

下前:肉にする牛?

寺本:そう。粗飼料と普通の残渣を混ぜて発酵させて、それを飼 料として与えていくという、残渣を利用した飼料作りというのを、もう何十年と続けておられて。いまでこそTMRという名前が付いて、そういう考え方が 定着してきてるけれども。要は巻いてラップに包んで発酵させる。乳酸発酵させる。

下前:丹波の春日で、酪農の牛舎の近くに、包んで畔に置いてあ るのを見たことがあるけど、ああいうやつ?

寺本:あれ、乳酸発酵させてるところ。あれをちょっと開けたら ヨーグルトみたいな匂いがする。白いヨーグルトみたいなものがそこら中に付着して、乳酸菌が広がって中で活発に発酵した結果、ただの草が栄養価の高い ものになる。例えば、生のキュウリと漬け物のキュウリぐらいの違いがあるわけ。それに残渣物、例えば、おからであるとか、残茎であるとか、酒粕である とか、いろんなカス類とかを混ぜて。要するに、粗飼料とそういう固形の飼料を一緒にして全部を発酵させて。

下前:配合飼料は使わない?

寺本:使わなあかん。でも、それはいまの肉の基準にあったもの を出すという考え方があるから配合をやらんとあかんことになる。サシが入ってなかったらあかんとかね。ただ大きく健康に育ってくれたらええというのな ら、それだけでも別にかまわへん。でも牛を割ってみたら、それが例えば、等級が一番トップの5等級からずっーと下がって3とか2とか1とかにしかなれ へん。それは直接キロ単価に跳ね返ってくるから、みんなは上を狙う。同じ400キロでも5やったら、いま和牛やったらキロ2400円、1やったら 1600円とか1400円になるわけ。1000円の差がある。同じキロでも、やっぱり2400円を目指す。そうしようとしたら、高カロリーの配合飼料 をやらなあかん。

下前:地場牛以外は、標準的な餌をやってたんやね。

寺本:そうそう。他所と変わらない。

下前:屠畜したときに、他所の牛は内蔵がぐちゃぐちゃであると か、能勢農場の牛は内蔵がきれいでびっくりされたとか、そういう話を聞いて会員さんにも説明したりしたけど、それはどういう違い?

寺本:筋肉に脂肪が入る(サシが入る)ということは、いわゆる 病気にさせるということやから、それは草食動物であろうとも雑食動物であろうとも一緒。結局、太るっていうことは、個体差はもちろんあるけれども、徹 底して太らせて、行くところがなくて脂肪が筋肉に入って行くみたいな。それをより入りやすくするための技術がある。

下前:餌の技術?

寺本:餌のやり方と餌の中身でね。通常で言えば、粗飼料1キロ に対して配合飼料3キロぐらいやる。最後の仕上げ3ヶ月。
 能勢農場は少なくともそれはしてなかった。粗飼料5に対して、別院食品(豆腐工場)で作ったおからの量が3、で配合が2と、こういう比率でずっと やってた。当然内蔵には負荷がかからない。そのかわりサシも入らない。個体差によって入ったり入らへんかったりするだけで、基本的にサシが全部入って いくという仕組みではない。結局、そういう基準に当てはめてやらないという方針だから、うちが市場に出すとしたら、どんなにがんばっても3か、2。
 それをやったらどうなるのか。コントロールできない。それをやろうと思ったら、病気で立てなくなる手前で屠場へ連れて行くことになる。見極めをせな あかん。体付きと、これはまだ保つ、いま出しても大丈夫、でももう歩き方がおかしくなったとか、いろいろと見分けがある。サシがどこまで入っているの か。病気になったときにその兼ね合いをどこで判断して連れて行くかという見極めが必要となってくる。個体差がどうしてもあるんだから、それを均一にサ シを入れていくという技術があるんですよ。

下前:やっぱりその道のプロやね。

寺本:いわゆるプロの領域。そういう目を身に付けなかったら、 結果的にはできない。よつ葉はそんな方向へ進むのかという話になってくる。それは違うと思う。病気にして出すということは、考え方にそぐわない。それ は違う。健康に育てるというのが前提にならなければならない。追及していいのは大きくするかしないかだけ。
 大きくするというのはある意味許容されているけれど、サシを入れていくというところまでは追及しない。あくまでも自然な形で負荷を掛けない飼い方と いうのを目指そうということ。

下前:それから地場牛はどないなった? よつ葉の配送の職員み んなで試食もしたけれど。

寺本:凄い個体差がはっきり出てきた。420(kg)、 430、450で350とかね。均一にならなくなってきた。牛によって凄いばらつきが出てきた。結局、人間でいうと、太る奴と太れない奴、そういう個 体差が出てくるわけ。それを均一化させていくための技術なんや、いまの技術というのは。太る奴は太らせたらいい。痩せ気味の奴をいかに太らすかとい う、そこから出てきた飼料設計。

稲作と牧草、酪農と畜産のつながりとは


下前:ちょっと話が飛ぶけど。稲わら回収と、牧草もやってるよ ね。牧草は稲刈りがすんだあとで植えるんですか?

寺本:そう。昔は二毛作というのが当たり前で、裏作で牧草とい うのもあった。米で二毛作というときにまず思いつくのは麦やね。でも、牧草も作られていて、ここの府民牧場というのも、昔、種畜場と言うて、普及改良 センターみたいなところがあった。
 昔、乳牛の優秀な種畜を開発したり、もしくは預かってそれをまた酪農家の元に返していくとか、そういう事業をやってるところがあった。まだ大阪にも 畜産団地とか、それなりに乳を搾ってるところが結構たくさんあったから。その頃に、この辺の人らは米の裏作に牧草を作ってた、イタリアンを。その牧草 を、種畜場に売っていた。米っていうのは、昔、5月の終わりか6月の半ばくらいがだいたい田植えの真っ盛りで、いまみたいに4月の終わりからというの はなかった。そういう品種だったということ。で、米を取った後に牧草を蒔く。次の年の4月から5月に牧草を回収して、そのあと田植えをする。これで二 毛作をやっていた。

下前:それが段々なくなっていったわけね。

寺本:米の品種改良と共にね。    米の作付けがどんどん早くなってね。前倒しで、1日でも早く新米を出す。

下前:そのうちに、裏作というのをしないようになったと。

寺本:そう、品種改良と共に。農協がそういう指導をした。冬は 天地返しして置いときなさいと。それはなぜかというと、元肥として有機堆肥、有機物を入れなくなったから。米の作り方が激変していく。そんな堆肥を入 れなくても、化学肥料をバラっと蒔いたら米が作れますよと。そしてさらに、田植機を開発し、肥料を蒔く機械を開発し、コンバインを開発し、そういう指 導のもとでやってきた。
 米を作ってる側はなぜ堆肥を入れたくなくなったか。日本の畜産が外国から飼料を買う。その飼料を食って、それが糞になって堆肥にしてまかれる。そし たら外来品種の雑草が生えてくるようになった。農薬で叩けなくなってきた。その結果として、みな嫌がった。
 同時に畜産農家は肥大化していく。どんどん集約化されていく。一ヵ所に牛をどんどん集めて大きくなっていく。結果として地元の農業とつながっていた 仕組みは崩れていった。牛の糞は1ヵ所に集めて、機械でひっくり返して、それをベルトコンベアーで運んで、一袋何キロで積み上げられて、ホームセン ターとかに納品される。で、家庭菜園のほうに全部分配されていくという仕組み。だから、畜産農家の目の前にいる農家は、回り回ってそれを買うことにな る。

下前:そうか。凄いね。

寺本:もっと言うたら、アメリカの戦略という背景がある。戦 後、備蓄として作った穀物が大量に余った。その備蓄をどうするかということで、敗戦国に売り付けた。売り付けただけではダメやから、いまの近代畜産の 形を押しつけた。それは欧米から入ってきたもの。こうやって畜舎に入れて、穀類与えて、太らして、そういうサシの入った肉を食文化のなかに定着させな さいという話。そうしたら穀物を売りつけられるから。
 だから戦後、アメリカの戦略として、敗戦国を餌付けするためのひとつの手法として穀類を使った。小麦もそう。それに全部乗っかって、小麦は作られな くなった。大豆もそう。こちらで大量に作って安く売ってあげるから、そちらで苦労してつくる必要はないと。そういう話。

下前:日本の農政の背後にはアメリカの戦略があると。

寺本:そういうふうに整備されてきたということ。だから、本来 は、畜産農家は米作りに非常に近い存在でもあるし、さらに酪農家との距離も非常に近かったと思う

下前:でも、いまは酪農農家とか、畜産農家とか、普通のお米の 農家とかね、別でしょう。別々に専門にやってる。

寺本:でも、稲わら回収しようと思ったら、お米を作ってくれな かったら回収できない。F1を引っ張ってこようと思ったら、酪農家がいなかったら引っ張ってこれない。酪農家あってのうちの事業、つながってるわけ や。ひとつひとつは分断されて見えるけど。それは市場が、例えば、牛で言うたら生体市場が入ってるから見えないだけで、直接的な関係は見ようと思えば 見えるし、それがあって初めてそれぞれの事業が成り立つ。酪農だってF1取ってくれる奴がいなかったら成り立たない、出産させなかったら乳は絶対出な いんだから。出産させるためにずっとホルスタインばっかりを付けるのかといったら、そんなには増頭できない。その頭数をコントロールするためにF1と いう副産物を生み出した。

下前:それぞれのつながりが市場の取り引きによって見えなく なっている。

寺本:だから、能勢農場がまずホルスを飼って、よつ葉に供給し てきたのを、品種を替えてF1に切り替えた。これが10年前。F1に切り替え、最初は市場で買った6ヶ月くらいの子牛を飼ってた。それを、仔牛からの 履歴を統一させようということで、産まれて間もない仔牛を能勢農場の履歴にして、それを博労に預けて預託で飼ってもらうという仕組みに替えた。それで 同じ6ヶ月でも、預託で履歴が1本に統一されるという事業を津田さんがやって、それを僕がこの6ヶ月を自社農場としてやるということを始めた。預託を 止めて、哺育現場を作って、博労に仔牛を買ってきてもらって、それを自分らでミルクをやって育てるというところからやるというように改めた。

下前:丹波の春日でね。それは、どのくらい前?

寺本:5年前。それで入ってくる仔牛は、静岡とか栃木とかいろ んなところから入ってくるけれども、この履歴を信州と兵庫に統一した。要は酪農家から直接導入をするという仕組みを作ったのが去年。もう市場から買う のを止めて、直接農家から履歴のはっきりした仔牛を買ってくるというふうに改めた。

下前:その兵庫というのは丹但酪農?

寺本:そう。兵庫県は丹但。信州は新しく開拓したところ。今 は、要するに高いときに高く買い、安いときに安く買うんじゃなくて、市場に振り回されない安定した供給をそれぞれ支え合う仕組みを作るという段階。
 いま丹但は、雄が16万、雌が13万で入ってくる。市場はだいたい雌で平均が19万。雄が21万くらい。普通は市場へ出す。でも、13万以下になる ときもある。当時は農家の手取りはまだ8万ぐらいしかなかった。それをうちは13万で買ってた。13万を越えたあたりくらいでも13万で買う。ずっと 事業を続けていくために、うちは13万で買い続けますよ、市場がどんなに上がり下がりしようとも、ということを働きかけて、それに答えてくれる酪農家 がちょっとずつ増えてきた、兵庫で。これを信州でもやろうという話になってる。

  食べられるだけではない牛の役目がある


寺本:でも、ここまでは牛を肥育して肉として出すということを 越えない事業。餌も配合に代わるものを開発しましょう、アメリカからくる干し草は止めて、地元で取れた牧草を食わしましょう。これはやりますよ。やる けれども、肉専用で育てているという枠を越えられない。牛の立場は何も変わらない。食われるということ以上の役割は何も変わらない。糞してそれが堆肥 になるだけ。それ以上には役目を果たしてない。
 でも、一昔前の人はそうは思っていなかった。牛はそれ以外に車の代わりをしたり、トラクターの代わりをしてたし、もっと言えば草刈り機の代わりもし てた。牛は食べるものである前に、人間の労働の補助をしてもらうという役割をずっと担ってきた。牛はいまとは全然違う価値観で人間と一緒に寄り添って 生きてきた。畜産ビジョンを紐解いていくとそういうところが見えてきた。
 もっと言えば今回やろうとしてる放牧も、これは非常に林業と密接に関係してた仕事だった。だから、山を管理させようと思ってる、あの牛に。

下前:林業と放牧?

寺本:放牧という言葉で、どういうイメージが浮かぶかという と、北海道のだだっ広いところで、白黒の牛が何頭かボツボツボツボツ歩いていく、そんなイメージ。普通の人が考える放牧って、それ以外にないでしょ う。

下前:見たことないもんね、ほとんど。

寺本:けれど、林間放牧、山地酪農、育林放牧、いろんな形があ るわけ。全国に分布してた。場所によっては、人口より牛の頭数のほうが多かったらしい。山のなかにおびただしい牛がいたという時代もある。北海道はま あイメージできる。ではこの辺はどうだったのかというと、実はこの辺でも、つい戦前まであった。山のなかに牛が放されていた。村ごとに山を管理すると いう風習があった。自分の子供に、次の世代に家と山を残す。結婚したときに植林して、その木で息子の家を建てる。こういう風習がずっとあった。山を管 理するということは、代々に渡って家業を引き継いでいくという大きな仕事のひとつやった。
 だから、育林したら雑草を、いちいち鎌で刈ってられへんから牛を放しとくという、そういうやり方があった。牛を放して草を食べさせようとしたら、密 にしてしまったら草も生えへんから、ある程度光が入るようにしないとあかん。そこに人が入り、時々整備し、そのあとを牛が草を食い、木を全部倒したあ とに開墾するのは牛の仕事やった。

下前:牛が開墾するというのはどういうこと?

寺本:だから、木を倒すでしょ? 牛をそこに放しておく。 ちょっと多めに牛を入れる。そうすると多めに糞をする。牛が足で耕す。で、草を食う。そうやって牛が全部処理したところで、牛を出して、ものを植え た。そういうことが割と全国的にやられていた。
 地形に合わせて放牧技術というのはそれぞれにあった。いわゆる北海道でやられているような放牧技術なんかももちろんあった。でも、こういう山林のな かで放牧させていくという技術もあった。それをやってたのが高知、あの山の険しいところで。

下前:ちょっと見てへんから想像できないけれども。山地?

寺本:山林。山林のなかで牛を飼うという放牧。牛にそういう役 割を与えて、そこで牛を育てて同時に山を管理し、ということをやってた技術が、いまでも形に違いはあるけれども細々とやられている。何人かの人がそう いう日本型放牧、日本型畜産というものを、もう一度現代版に復活させようというようなことをやっていて、その人が書いた本に僕はたまたま出会った、当 時。シバ型草地というやり方。

下前:シバ型草地?

寺本:ノシバ、日本のノシバで草地を作る。いまみたいなイタリ アンとか外来品種じゃなくて。
 高知の畜産試験場に勤めている上田孝道という人が、放牧を利用した日本型畜産の復活を全国に呼び掛けて、高知の畜産試験場以外にも徳島、愛媛、いく つかそれに応える地区があった。その人が書いた、「ノシバ放牧」という本に出会って、そこで放牧というものが、全国、地域地域にあったということがわ かってきた。本来の畜産の形というのは、もっと人間の生活に寄り添うものであったはずやと。そういうところに、今回の放牧をやろうとするきっかけが自 分のなかで整理されてきた。

下前:いま放牧を始めてる、あの土地はどういう土地?

寺本:田んぼだったところ、いわゆる棚田。戦後、それが怒濤の ごとく消えてなくなった。それは戦災で何もないところに家を建てなあかんから、田んぼとかのやりにくいところ、機械化できないようなところを、これも 農協の指導だけれども、全部植林させた。木が儲かるぞと言うて。いま、うちの放牧場は石だらけや。たぶん上のほうに行くと、かなりの広範囲まで、その 跡が残っていると思う。

下前:その山の裾のほうは伐採されてたわけやね。

寺本:そう、たまたまあそこが伐採されてほったらかしになって た。あとで見てもらったらわかるけど、牛放す前、牛放した後ってはっきり分かれてる、区切りのところでね。もう全然違う。一方はすごいスピードで荒廃 していく。将来的にはこれを山のなかに進入させていこうと思ってる。
 それには何が必要かと言ったら、山をきっちり管理せなあかん。ある意味、人間が好き勝手に植えた木をある程度伐採して、光が入るようにして。そした ら木もしっかり育つ。いまなんか、密に立ってるから細い細い木。結果的には全くお金にならない。

下前:間伐してないということやね。

寺本:もうほったらかしで、誰も管理しないから。そこにいろん な雑木が生えてくるから、もうどうしようもない状態になる。

下前:じゃあ、その林業っていうことも考えてるの? 木、切って。

寺本:そうそう。間伐して、光を入れて、そこに牛を放す。そう したら牛がそこで草を食べ、糞をし、それが元肥になっていく。木が太る。結果として資産としての価値も上がるし、山を残す意味が出てくる。あくまでも 産業として立てる以上は、いまの経済活動のなかで人間が生活していけるっていうものにならなかったら困るでしょ? だから、そうやって管理していくこ とで、林業そのものがもう一度いまの形で復活させられるやないかと思ってる。
 今までと決定的に違うのは、牛を食すということの限界があるということ。食べるもんじゃないという考え方。もちろん、仔を取るよ、繁殖させる。仔を 取って、その仔をどうするか。そこの山に放すのか。それとも里帰りさせるのか。いまのところ、里帰りさせようかと言うてるけどね。
下前:あれは高知からきてるのね。
寺本:1頭は放牧してた牛。そこの現地もたまたまやけど見た。 吉野川沿いにずっとシバ草地ができてる。牛が牛舎から出てきて、草を食いながら川まできて、川の水を飲んで帰ってくる、というようなことをやってる。 それを通して景観保護と山の管理をやってるんやと思う。林業なんてどんなに短く見積もっても50年単位で動く仕事やから。そういうサイクルのなかで、 牛は更新されて生きてきた。
 いま能勢農場でやろうとしてるのは、もちろん、稲わら回収も牧草作りも大事やけれども、牛を配合飼料で飼ってるいまのやり方を変えるのも大事やけれ ども、もっと人々の生活に寄り添って、役割をちゃんと持って、その役割を果たしていく存在であるということを、この地域を基礎に試験的にやりたいと。 それでできてくる景観、結果を受けて、村がどう言うか、こっち側がどんなことを提案していくか、これからそういうことを考えていこうと思ってる。その ために仕事をしっかりと覚えてもらってるわけ、あいつらに。

下前:あいつらて?

古市:牛、牛に。

寺本:それを具体的にやっているのが古市さん。

あかうし担当の古市さん


下前:古市さんはいつ頃から能勢農場にきてるんですか。

古市:4年前。最初はこども動物園に入ったので、全く牛のこと は興味なかったんですけど。動物園やって2年目くらいから、さっき話に出てた哺育の現場を交代でやらせてもらうようになりました。畑邊さん中心で、 ずっと餌やりとか管理は畑邊さんがやってて、そこに一足先に入った高橋さんと私とで交代で月の半分を高橋さん、半分を私が行って。だんだん牛のほうに 興味が出てきて。で、この放牧の話がきたときにやりたいと思って、それで担当というか、やらせてもらえるようになりました。

下前:あの牛は高知のほうからきてるということで、高知の牧場 というか、見に行ったのですか?

古市:最初に高知に行ったのは、先ほどの「ノシバ放牧」の上田 孝道さんに会いたいということで高知の試験場に行ったんですよ。そこの牛を飼ってるところを見て、話も聞かせてもらって。高知の試験場には研修にも行 かせてもらったりして、行き来が結構あるんですけれど、実際に飼われている農家さんのところには行けてないんです。
 あの子らがもともと飼われていた農家さんとは、市場であの子らを買ったときに直接会って、これから世話しますというので挨拶をしたんですけれども。 農家さんのところに行って現場を見たわけじゃないので、見に行きたいなというのは凄く思ってるんです。

下前:そこの農家さんは繁殖させているんですね。

古市:そうです。あかうしの繁殖をされているところで、出てき た仔牛はそこで繁殖牛として育てるのもあるし、市場にも素牛として出している農家さんです。

下前:あの牛はもともと日本の牛ですか?

古市:大元たどっていくと韓国の牛です。韓国に原種というか、 その大元になるのがいて、それが日本にきたということです。あかうしというのは熊本にもいるんです。高知のあかうしは土佐あかうしっていう種類なんで す。特徴的なのは、目と鼻と、あとお尻の陰部のところが黒いんですよ。凄いクリクリした目をしていて、目黒鼻黒という別名があるぐらい。よくジャー ジーと間違えられるんですけど。

下前:ジャージー牛乳のジャージーですよね。

古市:そうです。茶色くて、よく乳の出る、それこそ外国の牛な んですけれども。それと毛の色がそっくりなんで、会員さんも何人も見学に来られたんですけれども、ジャージー牛ですかとよく聞かれる。あれはあかうし ですと言ったら、名前を初めて聞く人が多いです。あかうしという牛がいるんですねって。見た目がちょっとかわいいというのはよく言われますね。
下前:ホルスタインとか和牛でなくて、あかうしというのは、高知の放牧をやってるところがあかうしだったから、こっちで放牧するのもその牛でというこ とだったんですか?

古市:もともと選んだ理由が、やっぱり最初のきっかけになった のは、高知の上田さんが書かれた本を見て。そこでノシバで実際にやっているのも、あかうしでやっていたんですね。まあ、それとは別に、そうやって高知 で放牧されているところが多かったんで、放牧に凄く慣れてる牛。あとは性格が凄い温厚だと言われてるんですよ。
 以前、長野に放牧しているところがあるということで見に行ったんですけれども、そこはホルスタインと黒の和牛をやってたんです。ホルスタインは結構 気性が荒い子もいるっていうのも聞いたし、和牛は和牛であんまり草を食べないっていうこともあります。個体差はあるんですけれども。
 あとは暑さに強いということもあって、せっかくやるならあかうしでやろうかなと思いました。まあ、惚れたんですけどね、惚れましたね。

下前:雄雌ですか?

古市:どっちも雌なので、人工授精しないといけないんですよ。 勝手に受精することはないので、人工的に種を付けなきゃいけない。

下前:それはそういう時期やなと思ったらするわけ?

古市:発情周期があるので、そのタイミングを見逃さないように して、これというときに精液を入れて。

下前:それなら、子どもができたら牛乳が取れるよね。

古市:取れないですよ。子どもを育てる量しか出ないんです。ホ ルスタインとかだけです、あんなに量を出してくれるのは。

寺本:ホルスタインは品種改良されて出るようになってるだけ で、本来は必要な分だけしか出ない。人間と一緒。発情もくれば生理もあるし。人間と一緒ですよ。

古市:だから、ほっといたら勝手に乳は出なくなって行くんです よ。もう子どもがいなくなったら勝手にしゅーっと。結構、この子らは、本当に必要最小限しか出ない。

寺本:もうちょっと付け加えて言うなら、なぜ黒にしなかったの かというと、黒もそういう遺伝子を持ってるけど、もう淘汰されてしまってる。ほとんど、そういう世界から離れて畜舎に入れられて、繁殖する奴はただ繁 殖するだけ。
 それを呼び起こすよりは、放牧を細々とでもやり続けているところ、そういう遺伝子が引き継がれているところから取ってくるほうが素人がやるにはやり やすい、という判断ももちろんある。なぜあかうしなのかということについて、随分二人で議論した。黒でもいいんちゃうか、ホルスでもいいんちゃうか と。場合によってはホルスのほうがいいという意見もあったし。

古市:今後を考えた上で、いま肉用にF1を飼ってるんで、こっ ちにあかうしを増やして、それを肉にするかどうかってなったら、どうしてあかうしを選ぶのかっていうのは、自問自答じゃないですけど、結構、話はして います。

牛のいる風景とは

寺本:話は元に戻すけれども、昔はこのあたりでも放牧というの があった。80歳以上の人はみんな覚えてる。塩見さんも昔、小学校の頃、水田酪農というて、ホルスを水田に放して代掻きとかしてたと言ってた、背中に 乗って。

古市:塩見さんって?

寺本:ああ、ごめんごめん。丹但酪農組合の組合長さん。背中に 乗ってペシペシ叩きながらホルスで代掻きしてた。小学校から帰ってきたら、「行ってこーい」いうてお父ちゃんに言われて。

下前:小学生がやってた?

寺本:そう。牛に乗ってペシペシしながら代掻きしてたらしい。 それぞれみな家にいた。雑草は牛に食わせ、残飯は豚に食わせ、鶏に食わせって、こういうふうにして家族のなかに家畜がいた。
 代掻きしたりするでしょ。で、入会放牧といって春になったらそれを全部山に放すわけ。村のなかで管理してた牧区というのがあって、それぞれ地域ごと に持ってて、それぞれは家があるけれども、春から夏にかけてはそこの牧区のなかにみんな牛を持ってきて、地域で牛を管理してた。牛の集団がひとつの大 きな牧区のなかで生活してた。山の管理をしてた。人間からみれば山を管理してもらってる。牛からみれば草が食えるっていう世界やね。仕事があれば引っ 張り出して仕事させてはまたそこに返し。草がなくなる冬になったら家に帰ってくる。
 そういう世界やった。もう年やとなったら博労さんにお願いして、牛を割ってもらって、肉として帰ってきたのをみんなで、村のなかでお裾分けをする。 で、博労さんがまた牛を1頭入れて、自分とこの牛として育てて、仕事を覚えさせて一人前にして、生まれた仔牛は博労さんが持っていって、また次の新し い受け入れ先を探してきて、っていうようなこと。博労ってそういうことをしてた。そういう社会のなかで家畜というのは人の生活のなかに寄り添ってた。

下前:いま放牧をやってるこの山って、ずーっと続いてるの?

寺本:続いてる。ずーっと上のほうまであるよ。

下前:そこも借りてるの?

寺本:借りてない、まだ。まずはここを牧野にして、使用前使用 後みたいな感じで見せて、これを育林放牧という形で山に広げていきたい、と。ついては、山の管理をうちでやらせてくれというようなことを、将来はした いなと思ってる。間伐で切った木を山から引っ張り出して、それを地元の製材屋に持っていったらお金になるからね。そうしながら、山をある程度間伐した ら、そこに牛を放して、牛がそこで草を食べて前進していけば、糞になってシバの種を落として芝生が生えてくる、と。こういうことを高知でもやってる。 「うまいこといけへん」と言いながらね。ここでもやろうと思ってる。

下前:なるほどねえ。そうですか。いやあ。たっぷり聞かせてい ただきました。
 ありがとうございました。

寺本さんと古市さんへのインタビューを振り返って


 もう何年も前のことになるけれど、よつ葉の東大阪産地直送センターの倉庫で、能勢の焼き肉を試食しながら、産直のメンバーと寺本さんの話を聞いたこ とがある。畜産ビジョンや能勢農場をめぐるいろいろな話の後で、出てきたのが、「放牧をやりたい」という話だった。能勢農場がいくら農村地域で牛を 飼っているとはいえ、放牧というのは唐突で、遠い夢というような感じで受け止めていたことを思い出す。当時の産直のメンバーにとってもそうだったと思 う。
 今年になって放牧ということが実際に動き始めたことを聞いて、自分はどうして放牧を夢物語だと思ったのか、そういう自分の感覚と能勢農場で実際に動 き始めている現実との落差とは一体何なのかを探ってみたいと思い、寺本さんに時間をとってもらった。能勢農場に来てから今までどのように思いながら畜 産の事業に関わり、そしてどのように思って放牧を始めるようになったのか。
 長時間話を聞いて、少しだけ分かったことは、畜産ビジョンとそれを軸にした取り組みがなかったら、決して放牧という発想は出て来なかっただろうとい うこと。畜産におけるいろいろな取り組みの中で初めて、食べるものという以上の牛の具体的な姿が見えてきたということだろう。
 さらに言えば、畜産ビジョンを生み出した背景には、社会変革と、社会に生きる自分たち自身の変革を志した能勢農場のあり方があっただろうし、能勢農 場とつながる都会の各地域でのよつ葉の運動があった。よつ葉のまわりには農薬を使わない農業を志す農業者たちがいたし、農薬や添加物におかされていな い自然な食べ物を求める消費者の願いがあったと思う。そういう意味で、放牧というのは単に寺本さんの思いつきでは決してないし、そのようにとらえるべ きではない。
 しかし一方で、もう一つ逆のことを言えば、畜産ビジョンを軸にした取り組みを進めていけば、自然と放牧に至るのか?と言えば、決してそんなことはな いと思う。そこにはある飛躍というか、決断がある。そのことを僕たちはそれぞれの場においてとらえかえしてみるのもいいかもしれない。昨日と今日との 続きに明日があるのではなく、それをふまえた上で、明日は一歩を踏み出したその先にあるということ(寺本さんの話の最後は、実はそのことをめぐっての ものだったのだけれど、残念ながら今回はその部分はカットせざるを得なかった)。
 今回のインタビューを今振り返ってみて、もちろん不十分なことがたくさんある。たとえば、能勢農場も決して無縁ではあり得ない、畜産をめぐる全般的 な状況のこと。その中で、能勢農場が実践している畜産のあり方、そして放牧はどのような意味と可能性を持つものなのか、ということ。とりわけTPPが 動き始めようという今日の状況の中で、鋭く問われることになると思う。高知やその他の地で行われている放牧の取り組みについてももっと知りたいし、ま た放牧と林業について、日本の林業をめぐる現在の状況や、放牧との関わりについてもっと知りたいと思う。また、実際にあかうしの世話をされている古市 さんには具体的な作業のことなど、不十分にしか聞けなかった。
 疑問や問いかけから始まった今回のインタビューだが、よりたくさんの疑問や問いかけを残したかもしれない。今後の課題としておきたい。                                                                                                    (下前)

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