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それぞれが考え、自分の言葉で話す

─関西よつ葉連絡会・研修部会の取り組みか ら─

  生 産と消費をつなぐ関西よつ葉連絡会を構成し、その流通を担っているのが、関西各地に独立した法人組織として設立されている地域の配送センターだ。 関西よつ葉連絡会が組織している部会の1つ研修部会(約30名)のメンバーはこれらの配送センターで働く職員が中心で、農業、畜産、水産、福祉の 体験研修など日常の仕事に関わることはもちろん、今直接には関わらないけれど、考えるべき社会的、政治的な問題もとりあげ、自分たちで年間計画を 立てて部会の運営を行っている。この夏、安保法制や辺野古新基地問題、原発再稼働をめぐる大きな動きの中で、研修部会が行った取り組みから二つを 紹介する。            (事務局)


大湾宗則さん講演会

辺野古基地 「問題」敗戦70年・沖縄の今


 大湾宗則さんは京都沖縄県人会の前会長で、現在「No bace! 沖縄とつながる京都の会」代表世話人。寸暇を惜しんで、辺野古新基地反対、安保法制反対の闘いを京都で続けておられる。辺野古新基地建設をめぐって、その問題点、私たちに 問われていることを、沖縄戦から現在に至る歴史をふくめて話していただいた。以下は講演の要旨。

 「戦後70年」の歴史認識を問う


 歴史認識ということから始めたいと思います。歴史認識というと国策としての誤りを認めるか認めないかというような安倍首相の歴史認識が問題にされ、 それはそれとして大切なのですが、いま私がお話したいのは、私たちの方の、自分自身の歴史認識ということです。
 「戦後70年」という言い方があります。「自衛隊が海外に行って人を殺すこともなかったし、殺されることもなかった、経済も発展した」「平和憲法の 下で独立した日本は平和だった」、これが平均的な日本人の歴史認識だと思います。
 この同じ「戦後70年」を沖縄から見れば、沖縄戦後、米軍政下27年と日本復帰後も米軍基地の75%を押しつけられ、その被害と加害に虐げられて ずっと戦時だったし、今現在も戦時中と言わねばなりません。

 沖縄戦、米軍統治から講和、復帰へ


 まず沖縄戦のことから始めたいと思います。沖縄諸島は珊瑚の死骸がつもった隆起石灰岩でできているので、痩せた土地です。
 1945年4月、読谷村から米軍が上陸、激しい地上戦になりました。沖縄に押し寄せて来た米軍は53万人で、そのうち戦闘員は18万人。残りは武 器・弾薬の補給など後方支援。艦砲射撃、空爆、火炎放射、砲弾で沖縄島は隆起石灰岩が掘り返され真っ白になりました。普通、家や山などが焼けたあとは 真っ黒になるけれども、沖縄戦では風景が真っ白になりました。廃墟の首里城跡も真っ白。沖縄住民・軍属・兵士約15万人、日本軍人約7万人、朝鮮人軍 属・慰安婦約2万人、アメリカ兵約2万人、あわせて約26万人が死にました。梅雨が終わって、痛いほど灼熱の太陽。アメリカ兵以外、その死体はそのま ま風雨にさらされ、夜になると電気もないので真っ暗。死体は黒く、膨れあがって、夜、誤って死体を踏んだら、ひどく臭う。生きている者は難民収容所、 捕虜収容所に収用されました。沖縄はそのようにして大日本帝国本土防衛のための捨て石にされたのです。
 戦争終結後、沖縄の人たちは収容所から家に帰されますが、家は焼かれるか破壊され、難民収容所にいる間に、家、土地はあっちもこっちも基地にとられ て帰れなかったのです。日本軍の基地は米軍に接収され、さらに嘉手納基地、普天間基地など大きく拡張されました。土地の接収は占領下から講和発行後も 拡大し、これが返還後も続くことになります。
 さて戦後、1949年、中華人民共和国が成立します。朝鮮半島でも、38度線を境にして、ソ連とアメリカが管理していましたが、朝鮮全土で人民革命 の運動が燃え上がり、朝鮮を共産主義から守るというアメリカの意図で「南」に大韓民国を建国し、米韓軍事協定を結んで米軍が介入しました。これが朝鮮 戦争の始まりです。日本の基地は在日米軍基地となり出撃基地になりました。その数は日本全土700ヵ所にも及びました。
 アメリカは日本占領当初は憲法第9条、軍事産業の解体など、民主化を推し進めますが、中国革命、「朝鮮戦争」を契機にして爆弾の製造やその試射・訓 練のための基地拡張・増設を図ります。それに対して各地の在日米軍基地では激しい反基地闘争が起こりました。内灘闘争、砂川闘争、九十九里浜、富士山 麓などなど。その結果、海兵隊を含む多くの基地が日本からたたき出されて、沖縄へ移されていきました。岐阜や山梨県にあった海兵隊は辺野古にキャン プ・シュワブを建設し、そこに移しました。
 いま本土の反基地闘争は停滞しているように見えますが、日本民衆は激しい反基地闘争の結果、本土から米軍をたたき出したのです。その歴史を思い起こ し、誇りを取り戻さなければなりません。「戦後70年」の歴史認識として、このことを忘れてはならないと思います。
 1952年サンフランシスコ対日講和条約が成立し、4月28日、日本は独立しました。しかし独立は奄美以南をアメリカに差し出すことが条件でもあり ました。アメリカは日本に革命又は反米的な政変が起こっても、沖縄など南西諸島を押さえておけば極東とアジアに自由に軍事戦略を展開できると踏んでい たのです。アメリカ軍政下の沖縄では1955年の由美子ちゃん事件(6歳の少女に対する強姦・殺人事件)を始め、沖縄の苦しみが絶えることはありませ んでした。
 アメリカ軍政下の1969年の佐藤・ニクソン会談では、「核抜き、本土並み、72年返還」が合意されました。それに対して、米軍基地を残したままで の頭越しの復帰合意に、沖縄の人びとは反発しました。69、70年、全軍労3万人近くが72時間の全組合員ゼネスト(一斉休暇闘争)を何度も闘い、ま たコザでは米軍の横暴に対して人びとが立ち上がり、多数のアメリカのYナンバー車を燃やし、嘉手納基地に突入しました。
 1972年、沖縄は日本に復帰しましたが、その裏では核密約が交わされ、有事の際の核持ち込みOK、毒ガスも基地もそのままでした。基地問題は何も 変わらなかったのです。復帰して以来6000件もの事件・事故に沖縄の人びとは苦しみました。特に女性に対する強姦事件は言葉で表せません。

 沖縄の現在状況


 1995 年、12歳の小学生が、海兵隊員2名と海軍軍人1名によって輪姦されるという事件がありました。少女は泣き寝入りを拒否し、告訴をし、現場 検証に立ち会いました。戦後沖縄の強姦事件で初めての告訴です。しかし日米地位協定のために、有効な捜査は阻まれ、これに怒った10万人もの人びとが 抗議集会に立ち上がりました。
 1996年、クリントン・橋本会談において、普天間返還が合意されました。しかし最終報告書では、その代わりとして辺野古へ基地を移設するというこ とがセットになっていました。97年「辺野古新基地建設」の賛否を問う名護住民投票が行われ、圧倒的に基地反対の民意が示されました。しかし98年の 名護市長選では反対派は敗れてしまい、それ以降名護市、特に辺野古区は、2010年稲嶺進市長の誕生まで、賛成反対で家族も地域・友人もまっぷたつに 分断されました。
 2004年には辺野古埋め立て第一次ボーリング調査が強行され、おじぃおばぁが座り込み、それを支える沖縄、全国からの応援で押し返しました。そし て同じく2004年には沖縄国際大学に軍用ヘリが墜落炎上するという事故がありました。2007年、高校教科書から「集団自決」に日本軍が強制関与し たことが削除され、それに対する11万人の抗議集会が行われました。2008年にはまた、中学生の女の子が強姦されるという事件があり、人びとの怒り が沸騰しました。2009年、「最低でも県外」を掲げる民主党・鳩山内閣が成立。しかし迷走の内に退陣を余儀なくされました。翌2010年には「海に も陸にも新基地はつくらせない」を公約にした稲嶺進氏が名護市長選に当選。その年に行われた名護市会議員選挙でも反対派が勝利しました。
 2012年、新基地が危険なオスプレイ基地であることがハッキリしました。オスプレイ配備反対県民大会が開催され、2013年、沖縄全41市町村の 首長と県議会ら代表者がオスプレイ配備撤回と普天間飛行場の県内移設断念を求める「建白書」を安倍総理に手渡しました。オスプレイ配備に反対する人び とは普天間基地前に座り込み、3つのゲートを実力封鎖(3日間)しました。しかし沖縄挙げての反対にもかかわらず、オスプレイは二次にわたって、24 機が普天間飛行場に配備されました。このあたりのことはドキュメンタリー映画の「標的の村」で知られていますが、ヘリパットに反対する高江でも辺野古 でも現地での実力抗議の闘いが行われつづけています。
 このような状況の中で、2014年に行われた各種選挙、名護市長選、名護市議会選挙、沖縄県知事選、衆議院選、全てで反対派が勝利します。一方で、 本土では衆議院選において自民党が圧勝、強硬な政策を次々と進めてくることになります。
 2014年7月、第二次辺野古埋め立てと集団的自衛権行使容認が同時に閣議決定されました。第二次ボーリング調査が再開され、人びとは海のカヌー 隊、キャンプ・シュワブのゲート前での連日の座り込み、非暴力の実力闘争を続けています。沖縄の人びとのこの闘い、ねばり強く、あきらめず、屈しない 闘いが、いま状況を切り開きつつあります。
 ホテル(観光)、コンビニエンスストア、土建業(建設業)という経済界も反対の意志を明らかにしています。労働組合、市民団体、弁護士団体、医者も 含めて、沖縄島ぐるみ会議というものが沖縄全土にできて、いま交替でゲート前、辺野古の浜で座り込みを行っています。
 2015年。今年4月下旬、翁長・菅、翁長・安倍会談があり、翁長県知事の筋の通った沖縄の意見がテレビ、新聞で報道されました。その直後の全国各 紙の世論調査でも辺野古埋め立て反対が賛成を上回るようになりました。安保法制(戦争法案)に反対する人びとの声が国会前・全国各地で鳴り響いていま す。
 安保法制=集団的自衛権の行使容認(海外派兵)と海外派兵の前進基地・辺野古新基地建設は一体のものと理解されるようになりつつあります。

 安保法制の狙いと辺野古新基地


 何 故、安倍首相は安保法制にこだわり、辺野古にこだわるのか。
 アジアに進出している日本企業は30000社と言われています。アフリカには500社、中東その他3000社。アジアにおける投資額の60%以上を 日本が占めています。労賃の安い労働力と市場を求めて資本は進出を加速しています。そして、低賃金、過酷な労務支配、労働条件に対してアジア各地で人 びとが立ち上がっています。インドネシアでは2012年に200万人が参加するストがあり、「われわれは中国や日本企業の奴隷として働かされている」 と訴えました。インドでもスズキの工場で3000人の労働者が立ち上がりました。日本にまではなかなか伝わっては来ませんが、タイやカンボジア、中国 などで争議は無数に起こっています。この日本資本の企業権益、これを確保し、脅かすものを排除するために、安保法制(海外派兵)はあるのです。
 中国の海洋進出、北朝鮮の核開発、ミサイルを取り上げて、安全保障環境が根本から変わったから、ということが言われますが、全くのウソです。日米ガ イドラインにおいて、尖閣諸島の問題ははっきりと日本の問題だとうたわれています。安保の範囲だけれども、日本の問題だと。核とミサイルの時代の現代 に於いて、アメリカは中国と事を構えるつもりなどない。お互い貿易の30%ずつを占める国なのです。現代世界において、国家と国家が正面から戦争する ことなどありえなません。
 安倍内閣は2014年の中期防衛計画(5年計画)で25兆円を確保しました。建造・購入予定の兵器はオスプレイ17機、水陸両用戦闘輸送車、無人 機・グローバルホーク、ステルスF35、強襲揚陸艦、ヘリ空母型護衛艦、潜水艦など。明らかに海兵隊仕様の装備です。これらの兵器は現代の核兵器やミ サイル保有国同士の国家間の戦争で使用する兵器ではありません。もし使用するとすれば米中が殲滅戦を覚悟したとき、どちらか制空権・制海権を確保した 側がこれら海兵隊使用の兵器を使うことができるのです。現実に考えられるのはたとえば イラク、アフガン型の戦争か、内戦状態の国家で、その国や勢力か らの要請で派兵した朝鮮戦争、ベトナム戦争、シリアでの反体制派への支援等でしょう。
 海外 権益をどう守るか、というのが中心課題なのです。新幹線、原発、郵便・水道などインフラを輸出し、資源権益を確保する、これらの経済権益を反政 府勢力から守る、そのための軍備増強であり、集団的自衛権なのです。先の大戦でも始まりは、満州の権益、インドネシアの石油確保のためでした。今も昔 も経済的利害を抜きに戦争はありえない、むしろ経済的利害が戦争を生むのです。
 日本資本の権益防衛のための出撃拠点として、まさに辺野古新基地があります。辺野古には海兵隊のキャンプ・シュワブがあり、海兵隊の訓練所として キャンプ・ハンセン、さらに辺野古弾薬庫、八重岳米軍通信基地があります。ここにV字の滑走路が二本建設される予定です。さらに強襲揚陸艦やヘリ空母 が接岸できる岸壁が計画されています。この辺野古新基地の主力兵器はオスプレイ。滑走路のいらないオスプレイは「山岳、砂漠、ジャングル、市街戦」の ための兵器なのです。
 防衛省はキャンプシュワブに日米共同訓練した海兵隊仕込みの陸上自衛隊600人を常駐させています。米軍との共同訓練を押しすすめ、更なる一体化を しようとしています。新基地建設完成後は、米軍と自衛隊で共同使用することになるでしょう。

 安保法制を廃案に


 安倍政権、自公の与党は議会の中では圧倒的多数です。しかし議会の外は安倍総理の天下ではない。潮目は変わりつつある。小選挙区制という悪法の下 で、議会は民意を反映していません。私たちは主権者として、意志を表し、民意をはっきりと示さなければなりません。参議院で否決されるか、議決できな ければ、衆議院へ差し戻し、衆議院の2/3で再可決できると安倍は考えているようです。しかし公明の支持母体・創価学会の青年部・婦人部が「平和と福 祉の党を守れ」と声を上げ、国会前に登場しています。自民単独では2/3には届かないのです。乾坤一擲、まさに日本の民主主義が問われています。安保 法制を廃案に追いこむことは可能です。
(2015年8月6日)

【参加者の感想】

 60年安保闘争にも参加され、長年にわたり米軍基地の反対運動をされてきた大湾さんのお話は、迫力があり説得力がありました。そして1955年の由 美子ちゃん事件のことなど、沖縄の歴史を振り返れば、まだまだ知らないことがあると思い知らされました。戦後70年とは言いますが、沖縄にとっては今 もずっと戦中である。私達の歴史認識が問われています。
 特に印象に残ったのは「なぜ、日本政府は辺野古にこだわるのか?」というお話でした。今アジア各国に進出している日本企業が3万社あり、各地でデモ やストライキが起こっている。企業の紛争解決に当該国政府からの要請があれば集団的自衛権を使って、辺野古から自衛隊を派遣するのではないかというこ とです。それと海兵隊訓練所や弾薬庫、通信基地などが揃っているので辺野古以外は適当でないとしている。辺野古はオスプレイ総合基地にされようとして いる。そのオスプレイは滑走路なしで市街戦などの為に開発されたものである。それだけではないかも知れませんが、確かにそうした要因で日本政府は、辺 野古にこだわっているようには考えられます。
 あと、「人が変わるには、何に時間を使うかと何に金を使うか。」「辺野古へ行くことを親が亡くなることと同じくらいに考えられるか。そのように考え られたら辺野古に行ける。」と言われていました。自分はそのように考えられるのかと、心を揺さぶられました。やはり実際に“辺野古に座り込み”に参加 して、自分の目で見て肌で感じることが大事だと思います。それと、東村・高江の北部訓練場のオスプレイパッドが新設されつつあるのでそちらも放ってお けません。
 大湾さんのお話を聴いていて、改めて辺野古に米軍基地はいらない。沖縄にも日本各地にも米軍基地はいらないという思いが強くなりました。1992年 に憲法改正により米軍を完全撤退させたフィリピンを見習うべきだとも思います。
(松本恭明・研修部会部会長、奈良産地直送センター)



◎ 宝塚すみれ発電所 見学会

宝塚における再生可能エネルギーの取り組み


 宝塚の地において「原発のない社会」「自前のエネルギー」をめざして現在、太陽光発電の宝塚すみれ発電所を運営しておられる非営利型株式会 社「宝塚すみれ発電」。その第2号機を見学、案内していただいた後、代表取締役の井上保子さんに、これまでの取り組みと今後の方向について話 していただいた。以下は、その講演要旨。

 市民主体で作る発電所


 私たちの作った「宝塚すみれ発電所」は市民発電所と言っています が、普通の営利目的の太陽光発電所との違いは、非常用電源の設置(コンセン トをつけている)です。非常時に電源を地域の住民に解放するかどうか、社会貢献ということに対する企業の姿勢、倫理観が問われてきます。
 今、すみれ発電所は第1号から第3号までありますが、宝塚市からのトップダウンで進んできたわけではなく、川下から川上へと流れを変えた取 り組みです。市民が主体になって取り組みを進めてきました。
 組織の成り立ちですが、「NPO法人新エネルギーをすすめる宝塚の会」はNPOとして再生可能エネルギーの普及啓発活動を専門に行い、非営 利型株式会社「宝塚すみれ発電」は事業体として、市民発電所の管理運営を行っています。非営利型株式会社というのは、あまり聞いたことがない 言葉だと思います。この言葉を私達が知ったのは2013年、京都での気候ネットワークの全国集会でのことです。事業活動で利益が出た場合、配 当を出資者に戻すのではなく、地域貢献、社会貢献にまわす、具体的には市民発電所の建設にまわすことを定款にうたっています。会社法としては 認められているのではありませんが、定款に、わざわざ営利を目的にしない、を謳うことで、私たちの意気込みを表しています。
 活動の始まりは「原発の危険性を考える宝塚の会」という市民運動で、今年34年になります。1979年のスリーマイル島の原発事故をきっか けにして、始まりました。2011年の福島原発事故から再エネ(再生可能エネルギー)の活動を始められた人が多いのですが、私たちの場合はも う少し活動が長いです。
 原発のことや再エネのことを問題にして、ずっと活動していたのですが、当初は行政との接点が全くないという状態でした。交渉は簡単ではあり ませんでした。行政と私たちの言うことが全くクロスすることがない、全く通じないという状態。生産性がゼロの状態。そういう交渉をずっと10 年以上もやってきましたが、もう意味がないので、もう少し戦略的にやっていこうと考えていたところに東京電力福島第一原発の事故がありまし た。
 2011年6月には市長への要望と、市議会に対して請願を行いますが、「再生可能エネルギーでまちづくり」ということだけをテーマにしまし た。3.11のあとのあわただしい時期で、議員にとってもこれからのまちづくりに関する提案で、特に反対する理由が見つからなかったのでしょ う。さくっと採択されました。請願が採択されたことで、市はいやでも市民と話し合わなければならない。私たちも講演会でもなんでもやって、食 い下がって食い下がって、事を進めていきました。翌年の3月には環境エネルギー政策研究所の飯田さんを呼んでもらって、市長も交えて話をし て、市長判断で2012年4月、新エネルギー推進課をつくろうということになりました。それをふまえて、私たちも市とステイタスをもって交渉 しようということでNPO法人を立ち上げたのです。
 さて、市では懇談会を何度もしますが、私たちも仲間に声をかけて参加し、行政の背中を押しました。2012年7月に固定価格買い取り制度 (FIT)、つまり再エネで発電された電気を一定期間、固定価格で買い取ることを電力会社に義務づけた制度ができ、市民発電所をつくろうとい う話になりました。2012年12月にはすみれ発電所1号機をつくり、次の年には2号機をつくっています。
 1号機は宝塚市の北部、山間地の西谷というところにあります。文字通り手作りの発電所で、11.16kw、私たち市民の手でだいたい5時間 でできました。新エネルギー推進課の3人も一緒に作業をしました。ここは多結晶と単結晶の太陽電池パネルを並べています。効率を比べてみるた めですが、値段ほどは違わないという結果でした。パネルの傾斜は5度という低い傾斜です。神戸の新星電気さんが開発されたやり方です。普通は 10度、15度ですが、遜色はありませんので、このやり方がいいと思います。315万円かかりました。32口に分けて1口10万円の疑似私募 債という形でNPOが集めました。
 次の2号機は47.88kw、1号機の5倍近くの大きさです。1800万円もかかりましたので、銀行からの借り入れが必要でした。NPOで は借り入れができないので、2013年5月には会社を興しまして、銀行からすったもんだして1000万円借り入れをしました。あとは社債とい う形で出資を募りました。1ヶ月くらいで集まりましたが、10年間10万円を借りて11年目に11万円にしてかえしますという条件で、その時 は利率が良いと思ったのですが、今思えばそれほど大したことはありません。
 2号機の建設では、資金調達がたいへんでした。合同会社を設立して、銀行からの借り入れと社債で資本金として1800万円を賄いましたが、 銀行との取り引きでは非常に厳しい条件がありまして、私達にとっていいことはなにもありません。ただ銀行にも、こういった取り組みに融資を行 なっていくという事例作りになれたら良いと思い、条件は良くなくても借り入れを行ないました。
 また、銀行との取り引きの問題以外に、売電での収益があり、NPOは収益事業は行わないという活動法人だったので、NPOが母体となって合 同会社を立ち上げ、同じ年に、非営利型株式会社「宝塚すみれ発電」に組織変更をしました。今、「宝塚すみれ発電」が管理運営を行っているとい うことです。

連携・協同のコツ


 行政との関係ですが、行政はできないことだらけです。できないことはいくら言ってもできない。だから、できることだけ要求すればいい。期待 してはダメ。そういうスタンスでやっていけばいいと思っています。それで、市には何をしてもらうかということですが、補助金は要らない、手を 貸せと言ってきました。市としてのできること、まずは広報誌に載せてもらうということ。広く市民に私たちのやっていることを知らせてもらうこ と。市が補助金やその他のお金を出して終わりというようなことでは全然良くありません。
 もうひとつは大学との連携があります。地元の甲子園大学は市と地域包括連携協定を結んでいます。その立ち上げのシンポジウムに参加しまし た。食と農とエネルギーを教育の中心にすえたいというのが学長の考えで、再生可能エネルギーにも積極的な考えをもっておられます。食と農とエ ネルギーをテーマにした講演会やワークショップを、学生と一般市民交えて行いました。食事は西谷の農家の野菜を使ったメニュー。たくさんの人 たちで賑わいました。よく集まりなどで、どうしたら若い人が来てくれるかと問われますが、待っていてはダメ、若い人の所に行けばいいと思いま す。
 宝塚市の北部、西谷というところは再生可能エネルギーの宝庫です。私はそのように言っています。宝塚市の人口は22万7千人。西谷に住んで いるのはそのうちの3千人です。田んぼ、畑が広がっていて、牛も800頭もいます。農村地帯です。そこにきちんと目を向ける必要があると思っ ています。
 市にやってもらいたいことの一つに条例づくりがあります。再生可能エネルギーのビジョンをしっかりと示した条例。市の職員は数年でどんどん 移動しますが、市としての指針さえしっかりとしていれば何が起ころうと再エネを進めるという方針に揺らぎはないはずです。そして、「再生可能 エネルギーの利用の促進に関する基本条例」が2014年6月にでき10月に施行。「宝塚エネルギー2050年ビジョン」が定められました。条 例がきちんと行われていくのか、見守っていくのは市民の仕事です。現在は、この条例に基づき、市の業務委託で再エネ相談窓口をやっています。 再エネに関するどんなことでも相談にのっています。またエネルギーカフェというお祭り的な仕掛けも行っています。発電自転車、ロケットストー ブ、ソーラークッカーなど、再エネを身近に感じてもらえる仕掛けをもって、いろいろな場所へ出かけています。

バイオマス発電で地域活性を


 去年、市民発電所モデル事業がスタートしました。市有地に宝塚市と私達の共同事業で市民発電所第3号ができました。45.36kwです。緑 のリサイクルセンターの生チップで草おさえをしています。堆肥として緑の循環システムに使われるものです。その土地の資源を利用し、自分たち の地域でまわしていく仕組みを考えています。私たちの会社はそのお手伝いをしたいと思っています。
 兵庫県の地域主導型再生可能エネルギー導入促進事業というのがあります。兵庫県温暖化対策課から相談をうけて、私たちの経験をお話ししまし た。私たち市民が必要なのは資金。補助金はいらない。資金を貸してほしいというお話をしました。それで県の促進事業として1千万円まで20年 間無利子貸し付け、というのが実現しました。地域の自治会や小さなグループが借りて、再エネ事業を進めています。すみれ発電第3号もこの事業 を利用しています。
  さらに、第3号の建設に当たっては自己募集型無配当ファンド「宝塚すみれハート2015」という試みを行いました。再エネというのは未来に 対するプレゼント、配当なんか要らないという声があります。自分の心や思い、あるいは志を形にするということが市民発電所の意義だと思ってい ます。「宝塚すみれハート2015」は1口5万円で100口。日本で初めての試みでしたが、満額を超える出資申し込みがありました。
 今後は太陽光の市民発電所から一歩進めて、再生可能エネルギーの取り組みとして、バイオマスというのを考えたい。丹波の方で畜産クラスター (房)事業というのを進めつつありますが、発電事業が絡み合うことによって地域活性につなげていく。畜産、乳業、飼料会社など地域での事業に バイオマス発電、再エネを交えた地域活性を考えています。糞尿処理という厄介なものをお金に変えるしくみ。発電のあとの残渣は液肥として循環 を考える。みなさんの仲間に能勢農場がありますが、ぜひ話をしたいと思っています。事業の最後を支えるのは消費者ですが、生産者と消費者とい うだけの関係ではなくて、踏み込んでいきたいと思っています。
 再生可能エネルギーをつかって、何を目指すのか。農業や漁業、酪農をどう支えていくのか。食べ物、農や環境を守ることを再生可能エネルギー を使って求めていきたいと思っています。そして福島を二度と繰り返さないということを願っています。                   (2015 年8月8日)

【参加者の感想】

 今回見学したのは2号機で、私が昔見た太陽光パネルと比べたら、だいぶ薄く頑丈な物でした。私も誤解していたのですが、こういった太陽光パ ネルから電磁波が出るという噂は違うという事。直流の為、電磁波が出るのは交流からとの事。直流を交流に変換するパワーコンディショナーとい う機械がパネルの下についているのですが、そこから電磁波が出るが、防ぐ方法はそこから離して配置していれば問題ないとの事でした。あと、こ ういった太陽光発電所の見学に行ったらコンセントはありますか?と聞いてみてくださいと。それがついているかいないかで、作った企業の倫理観 CSR(地域、社会貢献)が問われるとの事。
 1号機を設置している所は元々地元の耕作放棄地だった場所。今後やろうとしているのは、ソーラーシェアリング。1号機の付近にその農地がで きた。下が農地、上が太陽光の設備。宝塚西谷地域は再生可能エネルギーの宝庫だということ。22万7千人も宝塚市にいるのに、この地域は 3000人しか住んでいない。牛もいる農村地帯。今後バイオマス発電を丹波の酪農を巻き込んで糞尿のバイオガス発電をやってみようとしてい る。乳業メーカー、飼料会社、生産者らが新しい事業を立ち上げているのでそこで発電業者として入っていけないかとお願いしているという話を聞 いて、以前農場で聞いた放牧の話で、飼料会社と一緒にやろうとしている話を思い出し、もし再生可能エネルギーも一緒にできるなら糞尿でバイオ ガス発電といったエネルギーが作れる。他の生協は風力発電をやっている所があるが、これは自社で農場を持っているよつ葉にしか出来ない新たな 資源が出来るかも、と感じた。そういった事を考えてみながら話を聞かせて頂きました。
 再生可能エネルギーを使って何を目指すかという話で、農業、漁業、酪農をどう支えていくのか、再生可能エネルギーを通して表現していきた い。食べ物を守る事が自分達の命を守る事になる、自分の守りたいものを守っていく、そして福島を二度と繰り返さないことを思ってやっている、 と聞き、これは違ったアプローチからの「原発はいらない」を実践しているのではないかと感じました。私自身も以前から興味があったジャンルな ので、今回の見学会で再生可能エネルギーに更に強い興味を持つことが出来ました。さて、理科から勉強し直すか…。
(大阪産地直送センター 渡邊拓郎)

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