書評 『い ま、なぜ 食の思想か』−豊食・飽食・崩食の時代
人 間とは食べるところのものである
(フォ
イエルバッハ)
こ
の原稿を書くまでに3回読み直した。
1回目はとにかく「食の思想」って何なんだというのにひっかかってしまって思うようにこの本の世界へ入って行けなかった。
と言うのも、中学生の頃からの受験教育で徹底して教科の好き嫌いをなくす、個々の教師を好きにもならない嫌いにもならないとたたき込まれ、実際
にそうしてきた。おかげでオール5はしょっちゅうとれるようになったが、理屈っぽくて、花にも鳥のさえずりにも感動せず、まともに恋愛もできず、
いびつなつまらない人間になってしまった。だから、食べることぐらいは理屈ではなく、うまいものをたらふく食べようと思った。そんなだから「食の
思想」なんてピンと来ない。
3回読み直したあたりで、著者はちゃんと「はじめに」で、いま、なぜ食の思想かと書いていることがちゃんと入って来たが、1回目はダメ。第1章
「日本の食(文化)を考える」で和食の無形文化遺産登録について展開しているが、おそらく、とっつき安い話題から書いてくれているのだろうが、
「和食のイデオロギー」とまで言われるとちょっと意識過剰じゃないのと、反発が先に立ってしまう。
それでも、この章に登場する「正食」の桜澤如一がヒトラーの食政策(第3章「ベジタリアニズム−ヨーロッパに貫通する食思想−」に詳しい)を評
価し、自らも戦争協力者で国粋主義者だったと言うのは初めて知ったし、自分の不明を恥じた。
自然食品を扱う我々のような仕事をしている人間にとって、ムソー食品とか、正食協会とかそこの機関誌「正食」とかは何10年も前からおなじみの
もので、しかも自分は桜澤如一の「あなたはあなたの食べたものでできている」という言葉を学習会でしょっちゅう使ってきたのだから、何ともまあ。
ただ、「正食」に対しては反発があって、食べものや食べる事に正しいとかまちがっているとか、(玄米菜食主義は支持しているのだが)そんな言い方
がおかしいと思っていたから、機関誌は一度も読んだことがない。またムソー食品の社名も彼が唱えた「無双原理」から来ているわけで、ヒトラーがひ
とつの民族、ひとつのドイツ、ひとつの鍋と、とにかく「ひとつ」を強調したこととつながる。つまり、唯一絶対原理であって、だから正食であり、ム
ソーでは意味がわからなくなってしまう。
第4章「食の感性哲学」でフォイエルバッハの「人間とは食べるところのものである」との言葉に触れて、初めて、この本の中で心から共感できる部
分に出会うことができた。と言うのも、若い時にマルクスの数々の著作を読んで自分なりに、「むずかしい事を言う人も、エライ人も結局のところメシ
を食わなきゃ生きていけないんで、どのようにメシを食うかが最大の社会問題であり、歴史問題なんだ」、と理解していたものだから、我が意を得た感
じがした。
そこで、桜澤如一とムソー食品のこととフォイエルバッハのことを書いて本稿としようと考えたが、それではあまりにつまみ食いに過ぎるからともう
一度読み返してみることにした。
今度は第2章「ヨーロッパの食(文化)を考える」のうち第2節古代ギリシアの食の哲学が面白かった。今から2500年も前に、彼らは人間につい
て、自然について、社会、文化、精神について哲学し、「食」についても重要なテーマとして議論をしたというのですから、すごい。ソクラテス、プラ
トン、アリストテレスらも当然のように食について言及しているそうです。
なかでも、「シュンポシオン」=宴会・会食について触れている部分がいい。クレタ島のアンドレオンやスパルタでは、男子のみの自由市民による公
的会食・宴会が盛んに開かれたそうだ。多い時は30人にも及び、ソファに寝そべって、給仕奴隷によって運ばれる移動テーブルの上の様々な食べもの
を手でつまんで食べ、ワインを飲みながら政治、芸術、哲学、文学、人間、セックス、食材、食べ方などについて自由に談議し、時には数日にわたるこ
ともあった。世界で最初の食の哲学書を書いたプルタルコスをして「われわれが食卓につくのは食べるためではない。一緒に食べるためである」と言わ
しめている。そして食卓で哲学することを推奨し、コミュニケーションの方法論、会話の仕方(哲学対話)について具体的に詳しく書いている。
関西人はナベ料理が好きで冬場の宴会と言えば決まって何とかナベとなる。数人ずつでナベを囲み、誰が指名するのでもないのにナベ奉行がその場を
とりしきる。ナベだけでなく会話が上手にはずむようにするのも奉行の役目だ。関西弁(厳密に言うとこんなものはなく、京都弁や大阪弁などなんだ
が)は実によくできていて、会話をはずませてくれる。ナベ料理が好きだというよりもナベを囲むことが好きなんだと思う。ただし関西人にはこれら一
連のことに自覚がないので、その場を楽しめば終わりで、プルタルコスのように宴会を哲学する者は出て来ない。
一方、自分の出身地の愛知県の方では宴会も全て膳料理で、会話もはずまないし、なかなかうちとけない。宴会も法事の席も変わりがない。膳料理は
おそらく、禅宗の坊さんの食事が起源で、食べることも修行のうちで、しかも内省的だから、しゃべることすら禁じられてしまう。これも、ギリシアや
関西とえらい違いである。
また、禅宗における「食の思想」について参考にしようと、黄檗山万福寺について資料をとりよせた。この寺は臨済宗のルネサンスのために中国から
隠元禅師(インゲン豆や煎茶をわが国にもたらしている)を招いて創立された。今でも厳しい修行で有名だから、食事もさぞかし質素なんだろうと思っ
たがこれが全然違って、実に華やかである(写真を見る限り)。しかも、中華料理のように数名でひとつのテーブルを囲んで食べるというのだから、膳
料理でもない。臨済宗開祖の栄西はお茶(抹茶)を中国から持って来て、ほとんど健康読本と呼んでいいような書をあらわして支配階級(武士)にとり
入り、法然、親鸞、日蓮などの改革派から顰蹙を買っているが、この当時はいざ知らず、その後の禅宗の膳料理は実に日本的なものなんだ。そこから生
まれた茶の湯や茶懐石が日本的なのは当然のことだ。
と、このあたりのことを本稿にしようと書き始めたが、原稿を書くとなるといやでも読み返すことになる。この時初めて、変な抵抗やつっぱりもなく
読めたような気がする。実に3回目にしてようやくこの本の世界に入ることができた。
巷に食の本はあふれているが、料理本(豊食)かグルメ本(飽食)かダイエット本(崩食)あたりだ。「何でもあって、何もない」状況に著者は食の
思想から斬り込んだ。いやいや、論調は穏やかで静かなものだから、斬り込むと言うよりは分け入ると言う方が当たっている。他にはない、たった1冊
の本だが、それはヒトラーや桜澤如一の言う「ひとつ」ではない。少し長くなるが著者のこの本への思いを引用する。
食べられないような大量の食べ「モノ」を前にして、わたしたちは「食べること」がどういうことなのか、分からなくなってきています。食べ物と人
間や自然との関係や、「食べること」をめぐる家族や集団の役割の変化について、考えてみることが必要ではないでしょうか。豊食が飽食、崩食でもあ
る現代の食の世界について、こうした原初的な問いを発し、そこから考えてみることが必要なように思います。本書では、とくに食の思想という視角か
ら、そうしたことを考えてみたい。(表紙カバーより)
古今東西の食の思想をたどる中から、ただし、東の食の思想については著者あとがきで認めているようにちょっと物足りないし、ぜひとも今後チャレ
ンジしてほしいのだが、「共食」と「共生」の思想を拾い出して、提起してくれている。(詳しくは本書を読んでほしい)
また、最終章の「食の終焉をめぐって」でイタリアで始まった「スローフード」運動が掲げる「おいしい、きれい、ただしい」という3つの標語を、
これからの食の指針として支持している(詳しくは本書を読んでほしい)。賛成。
食にこだわる人もこだわらない人も、読んでほしい。何故こだわるのか、どうしてこだわらないのか、自分の人生についていろいろと考えさせてもら
える。「人間とは食べるところのものである」から。
(やさい村 河合 左千夫)