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ネパー ル・タライ平原の村から(47)

ネパー ル大地震の近況報告 その1


  4月25日、カトマンドゥ北西81q付近でマグニチュード7.8の地震が発生。内務省集計によると死者8617名、70万戸以上の家屋が全半壊し ました(5月19日時点)。

 ちょうど僕もカトマンドゥ滞在中、地震にあったのですが、無事でした。正午前、留学生の仕事のお手伝いで、ツーリストエリアで知られるタメル 地区にいました。日本人の方とレストラン(2階)で注文後、突然、長い横揺れが始まりました。少しの揺れで驚くことはないのですが、だんだん揺れ が激しくなり、建物全体が柔らかいモノのように、くねくねと…。“はっ”と危険を感じました。揺れに対する不安でなく、ネパールの建築物の耐震性 に対する不安です。2分程の揺れが収まった後、日本人の方が泊まられていたホテルが最新で、耐震性もあると思われたので、そちらへ避難させてもら いました。

 翌朝、日本の方が帰国する日で空港は起動している“らしい”情報が入ったのですが、タクシーが拾えず。自転車に2人乗り座席が付いたリキ シャーで空港へ移動。道中、崩壊した建物を見ながら、リキシャ―の運転手に「あなたの家・家族は、どうでしたか?」と尋ねました。「家は、バネパ (カトマンドゥから西20q程)。家族は無事だったが、家は、潰れてしまった」「すぐに帰りたいが、帰る手段がない」とのこと。

 空港到着後、混乱の中、日本の方を見送りました。その後、また大きな余震があり、車(タクシー)で戻ることに不安を感じたので徒歩で戻りまし た。そして、自分が宿泊していた、プンマガルのコミュニティーの人が利用する現地向けゲストハウスに着いたところ、施錠がしてあったので、再び避 難していたホテルに戻り、1階レストランのソファーでこの日は宿泊。この時点でほぼ、全てのホテルが、安全が保証できないため屋外待機、テント泊 となっていました。シャッターが降り、カトマンドゥに人の気配がなくなり、非日常的な雰囲気となりました。

 ホテルのテレビでは、崩れた瓦礫の街並みや寺院が映され、映像からはカトマンドゥの全てが崩壊したような印象を受けます。が、実際は、古い建 造物やそうした地域に限定されます。ただし、山あいの地域では、集落そのものが崩壊したところもあります。また、大きな地震が初めての体験という こともあり、みな不安が募り、屋外にシートを張って過ごしていました。狭い通りの両側に、建物がずらりと並ぶカトマンドゥ、避難場所のわずかな広 場も、決して安全とは思えない、そんな印象も強く受けました。一方で避難キャンプ地のインタビューであるような水・食糧が不足する事態は町中では なく、小さな食料品店は、限られた時間で開店。マオイスト問題や王制解体時に数日間の非常事態を既に経験していたり、日常的に停電があることもあ り、落ち着いている印象も受けました。

 3日目、シャッターはどこも降りた状態でしたが滞在先ゲストハウスに限り、早々開いたので、思い切って戻りました。従業員によると「家族と広 場でシートを張って宿泊したが、夜雨で濡れ、たまらずゲストハウスに戻って来た」とのこと。この日から、路上で野菜売りを見かけたり、バスが数台 運営されてあるのが確認されました。カトマンドゥを脱出する人で大渋滞とのニュースを聞いたので、交通量がある程度回復した4月30日、定員過剰 のマイクロバスで地元へ戻りました。震源地から離れている地元地域、家族とも被害は全く無く、家屋も、トイレ床に少しヒビが入っただけで大丈夫で した。ただし、みな不安で3日間、畑で寝泊りしたとのことです。

 読者の皆さんから、「大丈夫ですか?」「何か必要なものは?」と安否を気遣うメールをいただきました。よつ葉に何の貢献もしていない僕なので すが、その一言に励まされます。同じ言葉を被災した山岳部の知人らに伝えればと思いました。



ネパール大地震の近況報告 その2


  地震発生から2週間後の5月7日。日本の報道機関が引き揚げ始め、ネパール地震の消費期限が切れた時期。カンティプル紙に「都合良いところに、救 援物資が届いた」という、見出しの記事が掲載されました。写真はダディン郡で80%の家屋が崩壊したクマール村にて、女性が配給されたインスタン ト麺を瓦礫の中、バイオガスの火で沸かしているところです。
 記事の内容は交通網があり、報道機関・政府・国際機関・NGOが写真を撮って日帰りするのに、ちょうど良い距離のダディン郡、シッタル村に支援 が集中しているという、被災地支援の一例が挙げてありました。行政による配給が物資のばら撒きだったため、たくさん手に入った人、手に入らなかっ た人がいた。各地区毎の配給場所に、家族を分散させて貰いに来た人がいた。十分足りていた救援物資を、記録を付けずに配給したため、全員に行き渡 らなかった。交通網が整備された配給場所まで、長時間かけて歩いて来たある被災者は、家族7人に関わらず、お米2マナ(約0.6s)だけの配給を 受け、長い道のりを帰って行った、と書かれてありました。被災地支援の現場での調整不足と混乱が伺えます。また、車がたどり着ける範囲の限界。山 あいの一番困っている人のところに物資が届いていない、その難しさ、実情がだんだん把握されて来たところです。
 僕の身近なところでは、この連載(No.29)で取り上げたことがある、山岳部ミャグティ郡のプンマガルの村に訪問時、いつもお世話になるチェ マ(妻の父の姉妹の呼称)の家が崩れてしまいました。連絡したところ、「元々壊れかけていた家だったから、ガハハハー」とそれ程、動揺しておりま せん。なぜかと言うと、チェマは家畜を引き連れ、暑季と寒季で、標高の高い所と低い所にある2つの家を季節移動しながら暮らしていて、もう1つ家 があるからです。
 ただし、同地域では3つの家が崩壊したと聞きました。震源地から、離れていることもあり、全くニュースにならないミャグティ郡。そこで内務省集 計を確認すると、死者数はゼロ(現時点)でありながら、全半壊家屋が1192戸あることがわかりました。
 また、トレッキングコースとして知られ、雪崩・地滑りで跡形もなく消失したランタン村(403名が行方不明)があるラスワ郡。死者579名、全 半壊民家9050戸のこの郡には、妻が2003年までNGOワーカーとして、住込みで働いた少数民族タマンの集落、ガッタラン村があります。そこ に住む知人に連絡したところ、「逃げ遅れた高齢者4名が亡くなった」とのこと。
 そして5月12日、マグニチュード7.3の大きな余震で、元々半壊だった集落の民家が、全て崩れてしまったとのこと。救援物資は、一度来て、 シートと米一袋(20〜30s)の配給を受けたと聞きました。すぐに駆け付けたい気持ちになるのですが、僕の地域からミャグティ郡まで片道2日、 ラスワ郡まで3日必要です。雨季(6月〜)に入ると土砂崩れがどこも必ずあり、山あいの被災地訪問は厳しくなります。
 これから、どんなふうに被災地と関わっていくのか?と考えた時、僕は援助団体ではないので一番被災した、目につく地域を選ぶことはありません。 必要なモノを直接つながりある人に届けられるような、細々とした関わりを大事にしたいと思っております。


 (藤井牧人)

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