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『雪調に学ぶ講座』主催・ネットワーク農縁

今和次郎は終わらない

─ 雪とすまいの考現学 ─

 山形新幹線の終着駅、新庄に降り立ったのは、3月28日(土)の 12時すぎ、大阪を出発しておよそ6時間半の行程だった。途中、福島を越えたあたりから、田畑や山間部は白い雪に覆われ、積雪のほとんどない大阪 から初めて訪れる新庄という地を、ちょっとした異郷のようにも感じさせた。たまたま温暖な日に当たったため、寒くはなかったが、駅前から見渡す と、うずたかい除雪の雪がまだまだ残っていた。山形最上といえばずいぶん遠いという印象だが、また一方わずか6時間半の行程といえばすぐ近く。不 思議な感覚。迎えのクルマに乗り込んで、会場の「山屋セミナーハウス」に向かう。
 今回この地を訪れたのは、新庄の農家と首都圏の消費者との提携組織であるネットワーク農縁により開催された「第5回 雪調(せっちょう)に学ぶ 講座」に参加するためだ。講座の内容については後に報告することにして、ネットワーク農縁は関西よつ葉連絡会とは浅からぬ縁があり、私も最近まで よつ葉の配送センターで働いていたので、今回の報告をまず農縁のことから始めたいと思う。          (事務局 下前幸一)


ネットワーク農縁のこと


 ネッ トワーク農縁の名を初めて知ったのは、「まけるまい!」と名付けられたお米を通じてだった。東日本大震災の復興支援の一環として、山形の農家団体が癒 しのツアーを企画、自宅や田畑を津波で失った被災者たちに呼びかけた。温泉でゆっくり被災の疲れを癒してもらい、自分たちの田を提供し、ともに田植え をし、久しぶりの土と農の感触を楽しんでもらった。そのときに植えた苗が秋に「まけるまい!」として結実した。
 当初は全量を被災者たちに分配する予定だったのだが、震災の記憶を風化させないために、震災を「語り継ぐ会」を首都圏各地や大阪でも実施し、「まけ るまい!」販売の収益をその運営費にあてたのだという。当時、私も大阪の地で、よつ葉の配送員として「震災の被災者が頑張ってつくったおコメです」と 言いながら配達したのを覚えている。「まけるまい!」の取り組みは四年後の今も継続しているとのことだ。
 さて、震災後いち早く被災地の救援、復興支援に取り組んだ山形県新庄市の農家グループ・農縁とはどういった人たちなのだろう。救援、復興支援とひと くちに言っても、生活必需品や支援物資の搬入から、廃材や泥の除去作業、野菜苗や堆肥など資材の搬入、炊き出し、餅つきなどのイベント、新庄での祭り への招待、など多岐にわたっている。加えて、「まけるまい!」を通じての「語り継ぐ会」の開催。このような支援活動は、ある日災害があったからといっ て、「さあ、やりましょう」といってできるものではない。そこにはネットワーク農縁の日常的な取り組み、山形・新庄という地に根ざした農業の現場から 革新的な取り組みを行い、状況を切り開いてきた長い歴史がある。
 農縁の結成は1995年。新庄市内の農家14戸と、東京や神奈川など首都圏の消費者の間で結ばれた提携組織だが、その前史はさらにさかのぼる。高度 成長の陰で活気をなくしていく集落の現状を憂い、1975年に結成された農家の若者グループ「豊稲会(ほうとうかい)」。その名前は放蕩息子をもじっ たということだが、遊びや研究会を通じて結束を強めつつ、低農薬有機栽培のコメ作りを始め、たまたま知り合った東京の消費者との産直を皮切りに、首都 圏消費者との結びつきを広めていった。「豊稲会」の高橋保広さんの呼びかけで、新庄市内の農村問題研究グループである「北国から発信の会」、コメ作り の研究グループである「仁田山実り会」が合流し、農縁が結成された。有機米の産直を軸に、農作業体験なども行う生産者と消費者の提携組織。
 農縁の活動は単に産地直送で有機米をやりとりするだけではない。生産者が消費者へ一方的に米を送るだけではなく、消費者からも生産者に働きかけ、新 しい活動を広げていくというのが特徴。その一つが大豆畑トラスト運動。安全性が疑われている遺伝子組み換え大豆に対抗するもので、「減反した田んぼで 安全な大豆を作ってほしい」という消費者の要望で取り組みが始まった。自然環境保全のためのトラスト運動から発想して、大豆というモノではなく、大豆 畑という農の場をトラストしようという取り組みで、農縁の運動が発端となって、全国に広がっていった。
 2000年からは遺伝子組み換え作物に対抗する取り組みの第2弾として、水田トラストも開始した。市場流通には適さないために姿を消していた山形県 在来種の「さわのはな」を無農薬無化学肥料で栽培し、口数に応じて収穫を分け合うというシステム。信頼できる食べもののために、草取り、稲刈りをとも に行い、水田という生産の場、自然環境の中で人と人の交流を豊かにし、積極的に生産者を応援しようという試みだ。
 さらに、農薬や遺伝子組み換えに対する取り組みを踏まえて、農縁は農の土台となる自然環境を見直すために、新庄市内の農業用水と地下水の水質検査を 神奈川県の市民団体とともに実施。一部で高濃度の窒素が検出されたが、情報を公開し、水問題のシンポジウムを開いて、改善を訴えた。また市民団体と共 同で、水質浄化や田んぼの土壌改善に効果のある微粒子炭を自前で作るプラントを設立。有機農業の取り組みを応援し、いっそう展開しようと試みている。
 衰退するムラの現状をなんとかしたいという若者たちの思い、慣行栽培のコメ作りに対する疑問から出発した農縁だが、農村と都会、生産者と消費者、農 家と市民という枠を越えて、人と人との結びつきを生み出し、共に生きていく土壌を開墾しつつある。また、農縁の活動から有形無形の影響を受けた人びと が、農の活動、環境保全の活動、教育・文化の活動など、様々な新しい試みを生み出している。関西よつ葉連絡会も農産品や加工品の取り引きを通じて、新 庄の人たち、グループとつながっている。
 以上、紹介したような農縁の取り組みの蓄積、農をめぐる人と人とのネットワークがあって初めて、東日本大震災に際しての被災地支援、復興支援の取り 組みは行えたのだろう。私自身もその購入者のひとりだったのだが、「まけるまい!」の手のひらに載るほどのコメのなかには、農縁の長い運動の蓄積と、 そしてもちろん被災者たちの苦しみと明日への思い、希望が詰まっていたのだと思う。


雪調と今和次郎のこと


 新庄 駅前からクルマですぐ、セミナーハウスの前にはネットワーク農縁の佐藤恵一さんがいて、出迎えていただいた。佐藤さんは農縁の中でも新庄における文 化、伝統に詳しく、今回の講座でも中心になってその進行を支えておられた。講座は100人弱ほどの参加だったが、2、30歳代の若い人たちの参加が多 いのが印象的だった。
 さて、今回の集まりは「第5回 雪調(せっちょう)に学ぶ講座」と題され、テーマは「今和次郎は終わらない ─ 雪とすまいの考現学 ─ 」というもの。講演に先立ち、最上の手仕事調査と、新庄の歴史的文化財の調査と保存に関する研究発表があった。講演は東北工業大学教授の沼野夏生氏。雪調と今和次郎との関 わり、雪国における家屋改良という取り組みを支えた思想、成果と問題点について話された。以下、沼野氏の講演内容に従って報告しておきたい。
 雪調というのは、1933年(昭和8年)山形県新庄市(当時は新庄町)に設置された農林省の試験研究機関で、正式名称は積雪地方農村経済調査所、地 元では雪害(せつがい)の愛称で呼ばれていた。山形県選出の代議士松岡俊三を先頭として、地方行政や住民を巻き込んで繰り広げられた雪害運動の成果と して設立された。雪害運動は雪による災害の存在を国に認めさせ、法の下の平等を訴えることで積雪による被害や雪国のハンディを償う施策を要求したも の。雪あるいは積雪を自然現象として、ただ受け入れるべきもの、耐え忍ぶべきものとしてではなく、それに向き合い、対策を立て、克服すべきものとして 捉えるということだ。
 雪調の初代所長は山口弘道。雪国における農家経営や雪害の実態把握に努めるかたわら、対策の基礎として雪に関する科学的研究を重視し、広く一線級の 学者を新庄の地に呼び集めた。その一人が、今和次郎。一方で、山口は雪国の生活文化の継承と発展を重視、「現実というものは…深く深く合理性に根ざし ている」として、暮らしが生み出す手仕事の価値を評価し、副業の発展を通じた経済更生を展望した。
 雪調の招きによって、今和次郎は雪国における住まいや暮らしの問題に取り組むことになる。柳田国男の民俗学の影響から出発し、やがて農村や都市にお ける暮らしにそのまなざしを向けた今和次郎の仕事は、民家研究から考現学と呼ばれる生活領域における研究、建築設計、都市計画など多岐にわたるものだ が、日本の民家についての研究にその思想が凝縮されている。
 今和次郎著「日本の民家」(岩波文庫)より一節を紹介する。
 「…都会の人たちは物好きに汽車の窓から変った恰好の田舎の家をながめて、その建築の工夫に驚くことがあるかも知れないが、でもそれは、その土地の 人たちにとっては極めて自然な建築的工夫なのである。また反対に、極めて気のきかない間取のやり方だと考える家を沢山見るかも知れないが、それもやは りその土地の田舎の人たちの日々の生活を本当によく知らなければ、むざと批評することが出来ないことなのである。農村住宅の改善ということは、しか し、十分くふうされなければならないことだ。家の間取りについて、構造について、屋敷全体の処理について。…」
 「…すなわち空間(自然)は人間によって征服さるべきものにあらず、空間の有する固有の力は厳として認めなければならず、それを私たちは単に利用す るに止むのであるという事を。私たちは私たちの先入観念から少しの空間をでも十分駆使し得たと思うところにいつも私たちの工夫の破綻が芽を出して来る ということを考えなければならないのである。…」

 「雪国の生活を明るくするには、まず雪国の家屋改良ということからはじめなければと痛感される…」と考えた今は、雪調の依頼にこたえ、精力的な調 査・研究活動の後、雪調構内に試験家屋を建設する。1938年(昭和13年)春に完成した試験家屋は、急勾配の自然落雪の屋根、ガラスを多用した採 光、居室の高層化、外階段からの出入り、ストーブの採用、屋根裏の利用など、草屋根と障子の窓、雪に覆われれば全く光が入らない家屋が一般的な当時と しては、画期的なものだった。農家の一家族に実際に住んでもらい、記録をとりながら、自分の仮説を実験、検証を行い、改善していった。
 ここで現代の生活者としての私たちが確認しておかなければならないのは、この試験家屋はただ単なる住居ではなく、農家だということだ。住居であると ともに、農作業や手仕事の場であり、納屋であり、物置であり、また家畜小屋でもある。農という自然を相手にした営みの中に、住という営みが捉えられて いる、捉えようとされているのである。
 しかしこの居住実験は入居家族の突然の辞退と、太平洋戦争へと突き進む時局の進展によって終わりを余儀なくされ、その後も再開されることはなかっ た。試験家屋自体は雪国におけるモデル家屋として普及することもなく、ひっそりと放置され、後に取り壊されるのだが、雪国の住宅改善のための今和次郎 の仕事は、時を越えて芽吹くことになる。
 1970年前後から新庄市や他の豪雪地帯で、高床・自然落雪式の住宅が次第に普及しはじめる。それは今和次郎の存在を抜きには考えられないことだ が、また一方、時代の変遷とともに新たな問題も現れてきつつある。当初、試験家屋は農家として考えられ、雪下ろしの無駄な労働をなくし、他の生産的な 労働や生活向上にふりむけるという経済的社会的な動機によるものだった。それが、子どもが都会に出ても残された年寄りだけでも、雪下ろしのきつい労働 や危険を解消して、安心・安全な暮らしを営むという動機へと移りつつある。それとともに住宅問題は新しい課題をもたらしている。
 今和次郎が設計に携わった雪調の建物の中では、1937年(昭和12年)に完成した庁舎だけが現存し、1997年設立された「雪の里情報館」に移 設・修復され、雪害運動や雪調の事績を展示する資料館として使われている。


受け継ぐべきもの・見出すべきもの


 以上、沼野夏生氏の講演を踏まえて、民俗研究家の結城登美雄氏の司会で、会場の参加者も交えて、対談と話し合いが行われた。その中で印象に残った論 点をいくつか記しておきたい。
 まず最初に、結城登美雄氏について。氏は旧雪調内にあった「農村工業指導所」において一年間にわたりホームスパンの研修を受講。大学卒業後、広告デ ザイン業界に勤めた後、東北地方の農山漁村をフィールドワーク。民俗学に進む。「地元学」を提唱し、「鳴子の米プロジェクト」を初めとして多くの地域 起こしプロジェクトを指導している。
 今和次郎による試験家屋が保存されることなく取り壊されたことをふまえつつ、結城氏は話の取っかかりとして、東北地方における「郷倉(ごうぐら)」 を話題にした。郷倉というのは江戸時代、農村に設置された公共の貯穀倉庫。元は年貢米の一時的保管倉庫であったが、中期以降は凶作飢饉にそなえる備蓄 用、種籾倉として利用された。いわば村落の共同性のシンボルとしてあった。その郷倉が農村の近代化とともにどんどん取り壊されていった。日本の米の三 分の一を生産する東北においてすらほとんど目にすることができなくなっている。それはどういうことか。なにを私たちは失っているのか。国、地域にとっ て、どれだけ大切なものなのか、なにも理解されないまま取り壊されている。そのことを私たちはしっかりと受けとめなければならない。
 その上で、結城氏は今の農村の現状について、今和次郎的に受けとめたいと語る。つまり、集落やその中の農家が今、なにを考え、なにを悩み、なにを求 め、なにをしようとしているのか、農家の今を、考現学的に捉えたい。農水省の相も変わらぬ大規模化、補助金という遺物のような発想ではなく。なぜな ら、国も県も、なにも分かってはいないからだ。なにも教えてはくれない。みんなで考え、共同して取り組まなければなにも始まらない。
 雪調の歴史はそのことを我々に教えている。雪の降らない地方の人はたぶんなにも分からないのだ。どのような方策も立てられない。たとえば、過疎の集 落で80歳のばあさんが一人暮らしている。なにを悩むか。雪のことだ。それに対して、国も県もなにも教えられない。雪とともに生きている人だけが考え られる。雪のことを知らない人をアテにしてはだめだ。雪調はそのようなものだったのではないか。人々が自分の暮らしを自分で考える土台を作ろうとし た。それを受けとめ、活かしていかないと。古いもの過去のものを残し、活かして、どうやって今の新しい生活をやっていくのか。雪調は、雪国のこれから を考えていく私たちの土台である。
 結城氏の、自らのフィールドワークをふまえた提言に、沼野氏が調査・研究の経験から応えた。それは過疎の村、孤立集落、限界集落における高齢者の力 とでもいうべき事実だ。山梨のある集落では、ほぼ100%が高齢者。10世帯で10人というような孤立集落。しかし、そういった集落で、思いがけない 高齢者の力を目にすることがある。高齢者の知識や能力。それは若い人の体力を凌ぐ力を発揮する。いわば彼らは雪に慣れているのだ。
 高齢者2人世帯もやがて1人になる。カップラーメンの食事。けれど週に一回か二週に一回、みんなで食事をしようということになる。当番で、三人が 18人分の食事を作る。三時間ぐらい延々と喋りながら食べる。家族の台所、食卓はなくなっていくけれど、地域の台所、食卓、茶の間ができる。高山(た かやま)の集落では、季節住居というのがある。冬の間、使われなくなった住宅に集まって、共同生活を行う。このように暮らしの現場から、自分たち自身 が一緒にやるということが大事。地域のことを知り、雪のことを知っているからこそ、なにかできることがある。
 工夫によって、高齢者の力を引き出すことができる。例えば、雪かきライセンスというのがある。雪かきボランティアの若者に、高齢者が講師になって雪 かきを教え、A級、B級というライセンスを与える。そのことで高齢者も改めて自分の能力に気づき、自信を持つようになる。あるいは、移住希望者に対す る冬の村、雪の暮らしの体験ツアーなど。いろいろな手だてによって、雪国が外へ開いてやっていくということが大事。また、行政によって、莫大な除雪費 用が投じられているが、発想を変えれば、技や考えを持つ人々によって、地域にたくさんの丁寧で細やかな仕事が可能になる。このようなことは行政主導で はうまくいかない。
 さらに、結城氏は民俗学者としてのフィールドワークの経験から語る。3・11直前の頃。青森県東通(ひがしどおり)のあたりを歩いていたときのこ と、原子力発電所の建屋を眺め、「ああ、原発だな」と考えながら歩いていると、行く先々に煙突のある建物がある。建物の脇にはマキが山のように積まれ ている。原発があり、電気はたっぷりあるはずなのに、なんだろう、と不思議に思っていたが、じつはそれは寄り合いの場所だった。週に一度集まって、お 茶を飲む。暖房はストーブが8割、あとの2割は囲炉裏と火鉢。巨大な原発とは対照的な風景。人間は、身に馴染むもの、自然のものをどこまでも求めるの だと、氏は語った。そして宮本常一の言葉を引用しつつ語った。
 農民は新しきものだけに全てをゆだねない。古いものにある良さ、それを大切にし、古きものと新しきものを合わせ持つ。井戸、水道、電気も使う、しか し一方で、炬燵、囲炉裏、火のある暮らしの良さ、その技術を持続する。人の心を穏やかにし、心を優しく開く古きものの良さ。それが長年生きてきた農民 達の叡智である。
 雪国には、雪の厳しさ、悪いことばかりではなく、雪の中にある良さがある。良いことばかりではなくても、いろいろある。お互い様ということ。結いと か支えあいとか、今風にいえば共同という言葉で表されるもの。雪国はこの共同の概念を説明なしに持っているように思うし、思いたい。
 最後に参加者の方から、こういう講座をもっと恒常的に持てないかという要望があった。雪調を現代に蘇らせるような学びの場。地域に根ざした学びの 場。それに対する答えとして、結城氏から、場や箱ありきではなく、まずどんなカリキュラムにするか、どのような学びを求めるのかが大事だという指摘が あった。例えば、そのひとつとして、漬物の漬け方。漬物は4斗樽のたくあん100本で家族の一人分。漬け方には漬物の五段活用というのがある。乾燥の 度合い、塩加減、ぬかの発酵度合い、重しの重さ、それで11月に仕込んで、1月、2月…と半年おいしく食べられる。味噌も同様。このような知識、技術 が失われつつある。今、教えてくれる受け皿がない。そのような学びの場が必要。お金を稼ぐ力ではなく、作る力、生きていく力、自給の力が大事。自給と はなにも田んぼや畑の作物のことだけではない。もっと深く、大きなものだ。
 沼野、結城両氏の話や参加者の話を聞きながら、私は、3・11のことを考えていた。講座の場では直接的には語られなかったけれども、4年前の3・ 11がこの講座に影を投げかけていたのは間違いないと思う。雪調が雪を雪害として捉え、雪国でどう暮らしを立てていくかを考えたように、地震災害、原 発・放射能災害を経験し、あるいは経験しつつある私たちは、災害をどのように受けとめ、どのように克服し、どのように暮らしを立てていくのかを問われ ている。
 復興と称して被災者の暮らしの現実、その思いや要望とかけ離れた巨大事業や巨大施設が進出し、災害をこれ幸いな口実にして、創造的復興と称する利権 が繁殖する被災地。また過疎と地域経済の疲弊につけ込んだ交付金や利権まみれの原発開発、あるいは原発災害を忘れたかのような原発政策を目の当たりに して、考えるべきことは多い。


新庄における文化グループ


 再び、ネットワーク農縁のことに戻りたい。今回の講座を主催したのは農縁なのだが、ではなぜ、雪調であり、今和次郎なのか。そのことを理解するため に、私たちは少し時代を遡らなければならない。
 ネットワーク農縁は既に紹介したように新庄における三つのグループのメンバーが合流して結成された。そのうちの農村問題研究グループ「北国から発進 の会」は最上の農村青年による文化的なサークル活動という色彩の活動を続けてきて、その活動が「雪調に学ぶ講座」へと受け継がれている。以下、講座の 主催者である佐藤恵一氏から託された資料に基づいてその精神・文化の継承について跡づけておきたい。
 まず最初に取り上げたいのが、最上の青年たちに大きな影響をもった大滝十次郎(とうじろう)。氏は1933年庄内町(現)の生まれ。法政大学文学部 入学直後には血のメーデー事件に遭遇するなど、戦後の政治・社会の激動を体験しつつ、その精神と社会に対する姿勢を形成していった。帰郷にあたって は、機械化や近代化のかげで農村はどう変貌しつつあるのか、農民たちはその変化にどう対応しようとしているのかを、自ら確かめ、できれば記録しておき たいという思いがあったということだ。
 高校で教壇に立つかたわら、山形農民文学懇話会「地下水」の同人として活躍し、また地域史の研究や当時の農民運動に大きな影響を与えた大正デモクラ シーの研究に携わった。いくつもの研究会や新聞各紙に文章を発表し、地域の文化的な営み、その活性化に大きな寄与を果たした。「いつの時代の思想や文 化であれ、それを裾野で支え、活気をもたらしたり見放したり、つまりはその昂揚と衰退に立ち合ってきたのは、多くは地方で暮らす民衆や知識人である。 特定の思想家や文学者だけが存在し、ひとり歩きすることなど、この世にあり得ない」。大滝氏の言葉である。
 大滝十次郎はまた、地域の青年たちを対象にした活動を積極的に組織した。1970年に発足した「最上農村青年のつどい」にも深く関わり、地域の動き やそこでの問題、農業経営の実践記録や田んぼの実態調査などが記録され、講演された。一方でまた、氏は多くの読書会を主宰した。「魯迅を読む会」「宮 沢賢治を読む会」「柳田国男を読む会」「真壁仁を読む会」など。こだわらず、広く文学の問題、地域の歴史、農村の現状、教育などを話題にし、青年たち に大きな影響を与えた。
 読書会などで大滝氏の教えを受けた青年たちの活動は、やがて雪調をめぐる問題へと焦点を結んでいく。1992年に発足した「北国から発進の会」がそ れだ。私の手元にいま、佐藤氏からいただいた会報「雪国」の第2号と第3号がある。当時、北国から発進の会の会員は全国に約70名。雪調(雪害)とそ こで行われた「雪の科学的研究」と「雪国文化の研究」「農村の副業振興」という仕事にこだわった活動をおこなった。
 会報「雪国」には雪調をめぐる思いが綴られている。幼いときから「新庄・最上は遅れている」と思い続けてきたが、ちょっと違うんじゃないかと考える ようになってきた、そのきっかけが雪調との出合いだったという。戦前、地域起こし運動の中心地であった新庄・最上。その核心ともいうべき存在が雪調 だった。多くの人々が忘れかけているいわば歴史の記憶というべきものを、井戸を掘るように、くみ上げ、発掘すること。
 今和次郎設計の旧雪調は新庄市へと払い下げられたあと、全面的な更新整備計画が立てられ、1997年「雪の里情報館」という新しい名で開所された。 会はその間、新設される施設のあり方や旧雪調から引き継いだ資料の保存・活用・展示などについて市に提言・要請・協力を行った。その過程において、民 芸運動の柳宗悦とその子息である柳宗理、シャルロット・ペリアン(ル・コルビュジェに師事、来日し雪調でデザインを指導)らによる雪国農民の冬の副業 としての民芸の模索、その足跡や、日本で初めてのドキュメンタリー映画とされる『雪国』など、貴重な資料が会の手によって改めて発掘された。歳月の中 で風化にさらされ、忘れられていた業績が発掘され、現代を生きる者たちの文脈で読み取られているのだ。
 雪調の業績、雪調を核にした多くの人々の仕事、その情熱に深く接する中で、最上という地域とその将来を見据えた会の活動も広がっていく。雪害という 困難を、自らの力で乗り越えようとした先人の歴史に学び、地域に自信と誇りを持つこと。そのために自分たちの歴史や風土を学ぶこと。雪国、最上地方の 持っている特性を調べ、雪国の未来の可能性を考えること。そして雪調をめぐる人々のネットワークを様々な領域・分野に広げていくこと。会では自らの足 元を知るべく「最上学」を提起し、最上塾を継続しておこなった。郷土の水や森などにテーマをしぼったシンポジウムを開催したり、郷土食の掘り起こし、 雪国に関する冊子を発行したり、地元の劇団と文化活動を行ったり、活動を広げていった。
 現在、北国から発進の会としての活動は終わっているけれども、その精神、その成果は失われることなく、様々な形で受け継がれている。


旧雪調(雪の里情報館)にて


 次の日、農縁の佐藤さんの案内で、旧雪調を訪れた。
 雪調の大きな業績のひとつである『雪国』(1938年)がビデオ上映されていた。今和次郎の試験家屋の紹介から始まって、雪国の暮らしぶりを映しな がら季節と暮らしを追っていく。展示は雪害運動、雪調創設からの資料、雪国の暮らしや民具、試験家屋の模型、それからシャルロット・ペリアンの事績と 作品の展示。新館は事務所・図書の展示と集まりのためのスペース。
 二階のスペースで、午後から『馬』と題された映画の上映会が行われ、参加した。前日、講座のあとの交流会で、お話を聞かせていただいた水越啓二さん が主催。水越さんは北国から発信の会の中心メンバーで、農縁の人たちとも昔から親しく、若い頃、頭を悩ましながら何年かをかけて一緒に「資本論」を読 み進めたのだと語っていた。ようやく最近、新庄という地域、場、そこに生きることの意味が分かってきたと語っていた。ひとつの土地に根っこをはやして 生活していくこと。
 『馬』は1941年(昭和16年)の作品。当時の新庄の農家の暮らし、その春夏秋冬を舞台にして、女優の高峰秀子が演じている。旧雪調の書庫の「映 画関係資料」ファイルにそのシナリオがあるのを、北国から発信の会が発見した。監督は山本嘉次郎、制作主任に黒沢明。農家に仔馬が生まれて、それが成 長し、馬市で売られていく、その過程における様々な苦労と、馬にそそぐ家族の愛情が描かれる。1940年頃の新庄の風景と四季の移りゆきが、今はなき 一本柳の姿とともに映し出されている。最後のシーンは、仔馬が軍用馬として戦地にいくために、たくさんの馬たちとともに、一列になって峠を越えていく ロングショット。(帰りの新幹線の時間のため、私はこのシーンを見ることができなかった。残念!)
 会のメンバーがシナリオに黒澤明の名を見たとき、なぜここに!と驚いたのだという。あの黒沢明が新庄の四季を舞台にこの映画を制作し、それが彼の映 画人生の出発点でもあった。若き黒沢明による新庄の印象、「新庄の一月、これだけの容積の雪を一体どこへしまっておくのだろう。雪というものが、こん なに恐ろしい威力のあるものだとは知らなかった」。

 人びとが生きる今、この社会を捉えるというのはどういうことだろう。明日の方へ希望を描き、将来を設計すること、それはつまりどういうことだろう。 急ぎ足の山形県新庄からの帰り道、私はぼんやりとそんなことを考えていた。前を向いて歩くということは、過去を振り返り、記憶をしっかりと踏まえると いうこと。社会の方へ出ていくということは、自己や社会の内面と向き合うこと。時間と空間の二つの方向の、反対向きのベクトルの、そのいわば交差点に 私たちはいるのかもしれない。記憶に井戸を掘るように、忘れられた歴史を探ること。そのことが私たちを一歩もう一つの場所へと導いていく。引きこも り、自分の内面と向き合う時間があり、なにかが発酵するようにただ待つこと、そのことが私たちを一歩もうひとつのあり方へと導いていく。時間と人とが 行き交う交差点のような場所に、私はあり、そこが地域と呼ばれ、場と呼ばれるものなのかもしれない。
 地域の歴史、共同体、その良さを忘れることなく、むしろその深みに井戸を掘るようにして探り、そこから現代に通じる課題を立てるということ。その課 題に向かって、人と人との結びつき、共同性、考え方のありようを開いていくということ。そのことによって、新しい人との出合い、人と人との結びつきを 紡いでいくということ。たった二日間弱のことだったけれども、雪国・新庄の豊かさ、人々の豊かさの一端に触れたような気がしたのだった。そして、その 豊かさというものは、そのままいくつもの問いとして、私たちの場所に持ち帰らねばならないものとしてあるのだと思う。

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