タイトル
HOME過去号64/65号

活動報告:農業・農村の活性化に向けてA

はじめに

去る2月21日に実施した、よつ葉の農業に関する取り組みについて、現場の担当者から報告を受け、議論する企画。前回の地場野菜の取り組みに引き続き、今回は昨年4月から広島県世羅町で始まった、やさか共同農場とよつ葉グループによる新たな協同事業、世羅協同農場について、中心的な担い手である佐藤隆さんから、設立にいたる経緯と問題意識を軸にお話しいただいた。全文責は研究所事務局にある。

新たな協同事業としての農場建設

よつ葉グループの皆さんとの共同出資によって、昨年4月1日に株式会社として設立した世羅協同農場ですが、当初から麦とか大豆とか加工トマトといった輸入モノがほとんどの作物を中心にやろうと、また瀬戸田農場(よつ葉グループの農業の一つ)の牧草も自給していこうと考え、昨年は実際に生産、加工、流通という一続きの協同事業を展開してきました。この一年でできたこと、できなかったこと、いろいろありますが、むしろ、もうすぐ設立一周年になる今日だからこそ、この協同事業を始めた原点を振り返っておく必要があると考えています。世羅は今、雪の季節で作業に余裕があるので、振り返る時間もあります。僕が長いあいだ取り組み、今も取り組んでいるやさか共同農場の歴史を遡りながら、この協同事業に至る理由や背景に触れたいと思います。

理想の共同体を作ろうとして

やさか共同農場の歴史は、今から40年近く前に遡ります。当時の日本では、コミューン運動とかヒッピー思想の影響もあって、農村で理想の共同体づくりを目指す動きがいくつもありました。僕もその影響を受ける形で、1972年に島根県の那賀郡弥栄村(当時)というところに仲間も含めて四人で入っていきました。弥栄村は、いわゆる「限界集落」に当たるようなところで、1963(昭和38)年の「三八豪雪」の頃から過疎が進んで、人がいなくなる、残った村人も高齢化する、集落の自治機能はどんどん衰退していく、という状況になりつつありました。その中で、僕ら学生とか学生を中退した連中なんかが、共同体をつくって地域の人と一緒に農村の再生をやろう、ということで入り込んだのが元々の始まりです。最初は「弥栄之郷共同体」と名乗っていました。集落5〜6ヶ所の婦人会の人たちが作った自家用の野菜を集会場にもってきてもらい、それを週3回ぐらい広島の団地の消費者に引き売りをすることが事業の出発点でした。農産物の販売を生活の糧にしつつ、それを通じて地域の中に入っていこうとしました。

もともと僕らは、ほとんど農業の経験がありませんから、どうしても物売りが中心になりました。ところが、野菜を中心に販売しているだけでは、採算が合いません。とくに冬場など、当時は1.5mぐらい雪が積もっていましたから、冬に農産物がない。そのため、スタートして3〜4年は、市場の野菜にも手をつけざるを得ない時もありました。なにしろ、弥栄村は中国山地の背骨にあたる山間地にあります。そこでの産直事業ですから、5〜6年ぐらいでは収支トントンになりませんでした。

こうした状況のため、農産物の生産で収入を少しでも上げる必要に迫られていきます。農業については、ともかくドップリ地域に学べということで、和牛を飼って、原木の椎茸をつくって、鶏も少し飼って、米や野菜も作り始めました。まず農家の人たちがやっていることをコピーして、その上で足りないものを自分たちで発見し、付け加えていくという手法をとったわけです。

その際に最大の問題は、先にも触れたように、冬の間に農産物がないことでした。これが過疎を招く原因でもありました。逆に言うと、冬を乗り越えられれば、この地域で暮らしていけると考えて、地域のおばさんたちに来てもらって、麹や味噌造りを始めたわけです。これが今も続く味噌造りのきっかけで、その後に他の加工を始めました。まだ当時は、それを地域の人と一緒になった農産加工場にしていくところにまでは至りませんでした。というのも、それに相応しい規模の流通や、消費者との関係もなかったからです。よつ葉の方々から「ボタンの掛け違えもここまでくると……」と言われていますが、やるからにはとことんやる、ということで、掛け違えたボタンがどんどん増えて、現在に至っています。

それから、農業は地域に学べということから、黒牛を飼いました。この黒牛は、畜産というより役牛をそのまま繁殖したり肥育したりしていたので、黒牛よりも放牧に適した、草をしっかり食う牛として、当時の経済連(農協)関係から岩手県の短角牛を入れ、農場の裏山で植林地放牧をやりました。現在は杉や檜だらけになって顰蹙を買っている「分収育林制度」、そのはしりの頃です。また、豚は最初は鹿児島から黒豚の種を取り寄せたけれども、なかなかうまくいかない。コネも知人もいないから、良い種を分けてくれないわけです。だから三元豚にもう一元かけて四元交配(※)したり、周りはすべて休耕地なので、そこに豚を放して泥と区別がつかないような泥だらけの豚にしたり。

共同体の挫折と地域の発見

このように、農業学校みたいなことをしながら、80年代は経営の基礎をつくっていきました。結果として、畜産と冬場の味噌を中心にした加工によって、何とか飯が食えるぐらいの規模にはなった。畜産と味噌の二つで資金の回転力をつけて農業のほうに投入するという形です。そのころには、税務署も調査に入ったりしたこともあって、そろそろ法人にしなければ、という話になった。ただ、僕らは農協とあまり仲が良くなかったので、とても農事組合は認めてくれない。そこで89年に有限会社として法人化し、(有)やさか共同農場となったわけです。

実際のところ、それまで自分たちがどの程度の資産を持っているか知らなかった。ところが、法人化してみると、誰も1円も払わなくても資産評価できるものだけで1000万ぐらいになると分かりました。また、その反面として、どこの部門がどこを支えているのも、数字に表れてくるんです。以前は皆が皆、必死のパッチでやっていたものが、「俺が一番仕事しとるじゃないか」となる。中でも断トツなのは牛、豚ですね。これはリスクも大きいですけど、ちゃんと回っている限りは資金力を持つわけです。その次は冬の味噌。これもまあまあだった。ところが、農業部門だけがいつまでたってもカネにならない。結局、「何でこんなことを続けているんだ」という話になってくるわけです。そして、こうした構図が徐々に明らかになってきた結果、最終的には空中分解してしまいました。

牛豚の肥育部門、食肉の加工部門、そして当時、広島にアンテナショップとして出していた店舗、こんな形で四つぐらいに、それぞれ暖簾分けして、資産と負債を両方持っていくように分割したわけです。それで、僕はどこの部門をもらったかというと、味噌と手間暇のかかる米と野菜。現在のやさか共同農場としては、結局、こういう儲からない部門が残った形になりました。ただし、それだけでは経済的にとても回らない。さらに、空中分解する前に4000万ぐらいかけて木造二階建ての寮と食堂兼事務所をつくって、その返済がこれから始まるというときですから。どないしようか、とてもやさか共同農場なんて法人を維持する力もない。

ところが、そんな時によく見てみると、実はいるんですよ、人が。集落には共同農場以外にも人が、じいちゃん、ばあちゃんがたくさんいるわけです。この人たちと何か一緒にやらない限り、やさか共同農場の次はないと思って、まずムラ意識の一番強かった門田集落にお願いしました。当時、水田の3割ぐらいの転作があったので、転作地を共同農場に任せてくれ、無農薬で大豆を作らせてくれ、と。それを皮切りにして段々と農地を広げていったわけです。集落営農というのは、やってみるとおもしろいんです。というのも、一集落あたり20〜30ヘクタールある中で、集落全体で協力して、「今年はここで田んぼやろう」とか「ここへ牧草植えよう」とか、そんな「お絵かき」ができるんですよ。人手だって「おーい」と呼びかければ、皆ボランティアみたいに集落でパッと集まるじゃないですか。これはいい、と。機械はといったら、5割、6割の補助金がでる。それも機械がだめになって買い直すのではなくて、機械屋の方から「今度は、こんなええモンがでるぞ」と誘いがあってコロコロ変える、変えるたびに補助金を使う。なんと言うか「こういう農業の状況もあるんだ」と思いましたね。

結局、自分たちの力が弱ってしまって、もう一度考え直したときに、集落の人たちの存在を発見した。そこで僕は、やさか共同農場という組織の中を理想の共同体のようにすることより、むしろ悪臭漂う共同体にしたらいい、僕たちは仕掛け人になろうじゃないか。そのように発想を転換したわけです。それが92〜93年頃ですね。

もちろん、集落営農と言っても、最初からまとまりのいい所ばかりではありません。文句ばかり言う人とか、農業の技術にこだわりすぎて他の人がついていけないような篤農家だとか、そんな人も結構いる。だから、そんな個性的な人も集められるような組織も必要だろうと思いました。さすがに、その頃になると農協との関係も徐々にできていたので、「それなら農事組合をつくろうじゃないか」ということで、森の里工房生産組合というものを40軒ぐらいで作りました。「この指とまれ方式」と言うか、そういう新しいもの好きな先生はどこにもいますし、役場には、そういう先生を呼んできては農家を集めるのが好きな職員もいる。実際、そんな人たちに動いてもらって農事組合を作ったわけです。

ただし、後になってよく分かったことですが、農事組合にしても集落営農にしても結局、そこには行政との関係が常に間にあるんですね。自分たちで作った農事組合なのに、具体的に何をつくるかという話になると、そこには忍び寄るかのように、あれこれ邪魔くさい農業政策がくっついてくる。なんでだろうと思うと、やはり田んぼ、稲作の問題なんですよね、結局は。米ばかり作らずに、3割転作とか言いながら、結局はそこから離れられないというか、お金にしてもそのパイの中でしか動かないという、手狭さというのか、何かいつも行政の影というのか、あれこれの下らない農業政策が邪魔をするという状況を引きずりながらやってきたような気がしています。

第二の転機

やさか共同農場にとって、次の大きな転機となったのは2006年です。それまで進めてきたような有機の圃場が、行政の方針で、有機は全部やめて、JA(農協)が中心になったいわゆる「エコ栽培」の大豆の圃場に変わることになりました。同時に、それまでは行政と一緒にやってきた加工場も、どうも農場が儲けすぎているのではないか、ということで事業主体が第三セクターの公社加工場になり、その結果、僕たちが引かざるを得なくなるという事態に至りました。それまでは、弥栄村という地域行政と一緒に組みながら、集落営農と農事組合を車の両輪としてきたわけで、今後もこの形で進めていけると思っていたものが、まさにハシゴを外されるような形になってしまった。言うならば、村の中で孤立したようなものです。

もちろん、集落との関係や農事組合の中での農場の役割はそのままですが、地域の中で果たすべき役割や機能という点では、孤立に近い状態が生まれてきた。ただ、これは、地域が元気になるような形で役割を果たそうとしてきたにもかかわらず、行政との関係の中にドップリ浸かった結果、自分で自分の足を縛ってしまった、ということでもあります。その意味で、このままでは先が見えないことも明らかになったわけです。そこで、もう一度考え直してみて、自分たちに何が足らないのか、何が間違っていたのか、考えざるを得ませんでした。これが4年ほど前のことです。

その時に思ったのが、かつて70年代に、僕らが広島の近くに農産物供給センターというものをつくって、それなりに広島の消費者とつながりをもっていたにもかかわらず、それを断ってしまった経験です。これ以降は何をしても、全てがいわゆる農業生産の中で括られてしまう、そんな限界を常に感じていました。また、そう感じながらも、自分たちで広島と流通関係を作っていくところには踏み出せずにきました。90年代に入って、やっと経営上の余裕も少し出てきて、ただ生産物を出荷・販売するだけではだめだと考え、まず自然食品店のようなものをつくって、それを中心に宅配の会社も設立しました。しかし、やはり何かが違う。僕らの方からすれば、その宅配会社に対して、数ある生産地の一つであるという以上の関わりをつくることができない。一方で、宅配会社からすれば、ある程度の展開をしようとする限り、多くの産地との関係も広げていかなくてはいけない。こうしたすれ違いが徐々に広がっていくと同時に、僕ら自身がまた空中分解してしまった。

生産・流通・消費の関係の中で

これまでの経験を踏まえて、広島の消費者がもっと頻繁に通ってきてくれて、その中から自主的に農家に入る人が出てくる、そんな関係をつくっていくことが重要だ、と思いました。むしろ、72年に始めた頃のような心情にもう一度戻るべきだ、と何となく見えてきた。と同時に、もう行政はええ、邪魔や、向こうにいってくれ、と。何もないことが一番いい、と気がついたわけです。国とか行政が政策みたいなものを作り、それを下に下ろしていくというような発想をしている限り何も生まれない。なければないなりに、地域で自分たちで考えればいい。その上で、小さな地域の中での生産、加工、流通によって、村と町の暮らしがつながっていくことが重要だろう。そう考えるようになりました。

そこで思ったのは、行政が線引きした何々県とか何々市というところで発想すると、結局そこに絡め取られてしまう危険性がある。それなら、その線引きを跨ぐ形でやったらどうか、ということです。やさか共同農場は大きな組織ではないので、それほど大それたことはできませんが、弥栄村から南を見れば、すぐに広島県ですから、県を跨いで広島にもう一つ農場を作ってやれば、面白い展開ができるのではないか、そんなことをパッと思いついたのが、およそ二年前です。それからいろいろと動き出して、広島県の世羅町にあった国営パイロットファームの畑地が借りられることになったので、2007年に大豆作りから始めたというのが、世羅協同農場の経緯です。

最初は弥栄村から通ったり、獣害のことを考えて車中泊をしながらやったりしましたが、いろいろと問題が見えてきた。一つは、やさか共同農場のメンバーだけでは物理的に維持するのが難しい、それに、単に農場だけを作っても仕方がない、ということでした。やはり流通の側としっかり組んで、自分たちの生産を支えてくれ、一緒に取り組んでくれるような消費者とのつながりが広島になければ、生産の側としても展開できない。それがなかったことが、僕らが行政との関係に偏りすぎてしまった大きな原因だったわけです。そこで僕は、当時は瀬戸田農場にいた加藤さんと知り合って議論し、最終的に、広島での宅配の展開や瀬戸田農場の飼料自給との関連の中で世羅協同農場を位置づけることになりました。

よつ葉は、ただ流通だけをやるのではなくて、加工工場もあれば能勢農場や瀬戸田農場もあって、そうしたつながりを人が育つ場としても非常に重視している。それが凄く魅力に感じたと同時に、そうした関係の中で協同事業として新しい生産現場を作っていくことこそ、実は僕らに一番欠けていて、これから一番やるべきことだと思えた。それで今に至っているように思います。

予想以上の困難

とはいえ、実際にやってみると、やはり大変です。例えば、主力産品の一つと考えている加工用トマトですが、僕は昔から大規模に生産することよりも、特徴のある農産物を作ることの方が燃えるんです。ところが、加工用トマトは加工してしまうので、普通は特徴なんか要らない。特徴よりも面積、収量です。だから、長野でも北海道でも、どこでも地べたで作る。マルチをかけてビューっと植えて、なかなか真っ赤にはならずにピンク色ぐらい、そこまで出来たら蔓ごと一挙に獲ってしまうというのが加工用トマトの一般的な作り方です。でも、こんなことを真似しても面白くない。もう少しおいしいトマトを作りたいということで、支柱で誘引して作りました。

加工トマトでそこまでするのかと言われても、これはチャレンジしないと気が済まない。おいしいものができたらいい、ということで同僚の近藤さんと二人三脚でやりましたが、正直言って大変でした。言葉にならないくらいです。これまで経験したことがないほどの大量のカメムシに襲われて、酷い目にあいました。実が成ったと思ったら、カメムシが飛んできて中味を吸う。外からは早く熟れたように見えて、触ってみると下の方、吸われたところから腐ってズルズルになっている。それを触って軍手は真っ赤、腐って地面に落ちたのを踏んで足元はグチャグチャ。そんなことで去年一年を過ごしたというのが実感です。それでも、反収4トンぐらいは何とか収穫しました。

最初に取り組んだ大麦は、結構うまくいきました。しかし、時間が経つにしたがって、新しいところに入ってやるということがいかに難しいか、篩いにかけられるような経験をしたと思います。大豆は、昨年の8月から9月にかけて大阪の皆さんに来てもらって、集中的に草をとりました。来ていただいた方は分かるでしょうが、計3ヘクタールの大豆畑がどこに大豆があるか見えないくらい雑草に埋まった状態でした。周りの農家も、シルバー人材センターからアルバイトに来てもらった人も、「まさかこれ全部とるの」と訊くので、「いやいや、一番草の多いところだけで、後は諦めてもいいです」と答えましたが、結局、匍匐前進のようにして最後までやってしまった。これには、農家の人たちから「こんなことは初めてだ」と言われましたが、いいアピールになったと思います。経済的効果は分かりませんが、「あいつらは粘り強い、決して負けない」というアピールは十分できたと思っています。ただし収量の面では、当初は1反あたり200キロぐらいを予想していたのが、120キロになるかならないか、全体で3.5トンという結果になりました。

失敗は失敗として総括しないといけませんが、質的な点で言えば、経営なり採算なりは倒れない限り、脇に置いておけばいいと思います。経営を追求するあまり面積を増やし、どんどん機械を入れたらいい、という訳にはいかないと思います。とくに、今後ますます周りの農家の人たちとの関係が深まってきますから、そうした時に、やはり1反の単位で周りの人たちに伝えていけるような、一緒に組めるような作業のやり方をしておく必要があると思います。加工用トマトでも、周りの農家なら竹を使ってハゼを組んでトマトを吊りますから、一本の蔓から獲れる量では、僕らは絶対に敵わないはずです。栽培の仕方や面積については、周りの農家との関係を意識しながら設定していかなければ、世羅協同農場が本来果たすべき役割から、ちょっとしたことでずれてしまいます。ここは踏まえておかなければいけないポイントだと思います。

今後の展望

そんな中で、今年こそ経費と売上がトントンになるよう、経費はあまりかけないように頑張りたいと思っています。ただ、去年はカメムシやヨトウムシに襲われたので、昨年トマトを植えたりトウモロコシを植えた、1.5ヘクタールある上川圃場からは、すぐ撤退しました。その代わりに、今年から新しく福永圃場を借りました。地目が山林なので、農地の半分以下の賃料で借りられました。ただ、まだ地力はないし、石だらけです。全体で2町6反ぐらいという、かなりの広さですが、現在は雪にもめげず、石を出しているところです。

非常に風景明媚な、心が洗われ過ぎて誰も訪れず、猪と鹿しか現れない、時には2人で仕事して誰とも会話しない状態が1週間も2週間も続くようなところですが……。ともあれ、今回はこの福永圃場で新たに加工用トマトも作ります。もちろん、去年より収量が上がるかどうかは分かりませんが、上川圃場に比べて傾斜もあるし、土壌も砂状土という砂混じりの粘土質の土なので、去年よりいいものが作れる可能性はあります。去年の上川圃場は水はけが悪くてベタベタでしたが、それに比べれば何とかなると思っています。

その他では、林圃場での牧草づくり。ここは去年、全体的にイタリアンライグラスを播き直し、堆肥もしっかり入れ、周りに日陰を作っている木は倒したので、今年は増収が見込めそうです。本来なら、これまでに一回ぐらい刈っておいてもよかったんですが、そのままにしておいたら伸びすぎ、上に雪が積もって黄色く雪枯れしてしまいました。牧草については、まだまだタイミングを逸しているのが現状です。それから、川尻圃場では、麺類に使うような薄力粉用の小麦で農林61号、さらに、これはテスト的にですが、ミナミノカオリ、ニシノカオリという中力粉の小麦も作る予定です。鰍ミこばえとの間で商品化へ向けた相談が進んでいます。大麦については、実は麦茶にするのは一年ぐらい原麦の状態で置いた方がいいらしいですね。乾燥具合もいい、麦茶にしても色の出がいいということなので、今年は5反5畝で2年分を作る計画です。

ところで、実は、設立からまだ1年も経たないのに、世羅協同農場は認定農業者の資格をとる必要に迫られました。それをしないと、農業法人が出資者になれないに等しいからです。そこで、今後5年先までの収支予想を立てて計画書を作り、役場に出しました。すると、役場から連絡入って、「この書類どうやって作ったの」と訊くわけです。僕らは、「いや、勝手に作りました」と。向こうは「それで農業普及員とか、そういう人の指導を受けましたか」とくる。「いやいや、そんなものは一切受けておりません」。

というのも、計画書の中味が、5年間にわたって農地は一切増やさない、機械も一切買わない、行政資金も一切要らない、という内容だったからです。ただひたすら、反収と単価を上げて利益を少し出すという単純なことだけです。それは、行政の農業政策だって好き勝手なこと抜かすのだから、こっちだって同じぐらい言ってもいいでしょう。ちなみに、認定農業者というのは1人あたり400万円の農業所得をクリアしないといけないそうです。でも、地元で農業所得が400万円あれば、世羅から出ていく人はいません。長くやっている人ができないものを押し付けるわけで、行政側もそんなことできるはずがないと思いながらも、書類上の整合性が必要なんですね。机上の空論でも単収かける収量がちゃんと合っていればいいわけです。

それはともかく、その担当者が言うには、「この計画書に小麦とあるけど、実は世羅町でも4〜5年前まではよく小麦を植えていた」と。たぶん農林61号だと思います。ただ、何か気候が合わなくて収穫が遅れるとか、収量が低いとか、そんな理由で全部大麦に変わってしまったらしい。そんなこともあって、「どうして小麦を植えるんですか」と訊くわけです。僕は「小麦が要るからです」と答えました。失敗しても補償金をくれなんて言わないから、勝手に作らせてほしいということで、今月中にヒアリングを受けて、全部クリアすれば晴れて認定農業者になれるので、その後はやりたいようにやるつもりです。

それから最後に、僕はよく「七人の侍」への取り組みということを口に出します。これは、僕が黒澤明の映画が好きだということもありますが、単なる冗談ではありません。僕が思うに、よつ葉が今までやってきた人参クラブや大豆クラブ、もっと言えば能勢農場が地域の中で果たしてきた位置が、「七人の侍」のようなものだと感じています。それを真似るわけではありませんが、しかし、世羅協同農場も今後2〜3年にかけて、そうした方向を明確にしていく必要があると思っています。もちろん、その際の「侍」は、やはり広島できちんと人集めをしなければならない。よつ葉農業塾も参考にさせてもらい、「生き活き農業塾」という新規就農に向けた枠組みを作っているところです。現状では、ホームページを開設して問い合わせがチラホラという状況ですが、世羅協同農場の将来構想には不可欠なので、紹介させてもらいました。以上で報告を終わります。

※ランドレース種、大ヨークシャー種、デュロック種の三元交配にハンプシャー種の雄豚を掛け合わせた品種。


200×40バナー
©2002 地域・アソシエーション研究所 All rights reserved.