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活動報告:伊丹労協訪問 地域に根ざした協同の仕事づくり

はじめに

さる5月15日、北大阪商工協同組合の呼びかけで、兵庫県伊丹市にある伊丹労働者協同組合を訪問し、交流する機会を得た。以下、その際に伺ったお話を中心に、労協運動の経過を簡単に紹介したい。

これまで本誌では何度か、「労働者の協同組合」に関する紹介を行ってきた。「労働者の協同組合」とは、雇用主(資本家)と雇用者(労働者)という関係から成り立つ事業体とは異なり、労働者自身が出資して事業をおこし、自ら労働しつつ経営管理も行う事業体を意味する。ただ、これまでの紹介は研究者の報告を中心にした学習会やシンポジウムなどであり、具体的な取り組みに関する事例は少なかった。今回、北大阪商工協同組合を通じて、兵庫県伊丹市で各種の事業に取り組んでいる伊丹労働者協同組合(以下、伊丹労協と略)と交流する機会に恵まれ、専務理事の高木哲次氏にお話を伺うことができた。

伊丹労協の概要

伊丹労協は建設、緑化、建物管理、介護福祉事業の四つを主な事業領域としている。ただし、現在の法律では「労働者の協同組合」に関する根拠法が存在しないので、伊丹労協そのものは「任意団体」であり、四事業はそれぞれに応じた事業体によって担われている。建設、緑化、建物管理については、阪神地域開発事業協同組合(1979年設立、法人格は事業協同組合)、いたみ企業組合(1981年設立、法人格は企業組合)が主に担い、介護福祉事業についてはヘルプ協会(1991年設立、当初の法人格は企業組合、現在は社会福祉法人)、そして兵庫県高齢者生活協同組合伊丹支部(1999年設立、法人格は消費生活協同組合)が担い、それ以外の領域はNPO法人いたみワーカーズコープ(2006年設立、法人格は特定非営利活動法人)が担っている。つまり、伊丹労協とは、以上の各種事業体を総称と言えるだろう。

労協連の設立に至る経過

日本における「労働者の協同組合」には、複数の潮流がある。その中で最も大規模かつ蓄積も豊富と言えるのが、伊丹労協も所属する日本労働者協同組合連合会(労協連)の流れだ。労協連に加盟する労協の多くは、失業対策(失対)事業で働く日雇労働者の労働組合、全日自労(全日本自由労働組合)を源流としている。失対事業は戦後の就業難という状況の下、緊急失業対策法(1949年)に基づき、一般の公共事業とは別個に実施され、その多くは自治体を事業主体として、道路・下水道・公園など公共施設の補修、道路清掃、建設・土木工事の補助作業などを発注し、失業者に就労機会を提供するものだった。失対事業は最盛期の1958年には就労者35万人を数えたものの、政府は高度経済成長の進展によって労働市場が充分拡大したとの理由で事業の打ち切りを決定する。1963年に国会で緊急失業対策法の改正案が強行採決された結果、71年以降は失対事業の新規就労が認められなくなり、各地で失対事業にあぶれた中高年層の失業者が続出した。

こうした事態を受け、全日自労は失業者を組織し、自治体に対して仕事の発注を求める求職闘争を行う一方、自ら一般の公共事業を請け負うための事業体を設立し、積極的に就労機会を獲得する試みを開始した。その先駆けは1971年、兵庫県西宮市における高齢者事業団の誕生である。その後、失業者や中高齢者の仕事づくりを目指して各地で同様の事業団が生まれ、自治体からの委託事業を柱に事業が拡大した結果、1979年には全国36事業団の代表によって「中高年雇用福祉事業団全国協議会」が結成される。その後、事業団は自らを労働者協同組合と位置づけ、1993年には「日本労働者協同組合連合会」と改称するに至った。(1)

伊丹労協の形成

伊丹労協もまた、以上の経過をたどる形で形成されてきたが、同時に地域的な事情も絡んでいる。伊丹市にも跨る大阪空港では、1960年代中頃からジェット機発着に伴う騒音公害が深刻化し、対抗する住民運動も激化した。これを受け、国は1967年に法律を制定し、騒音対策の工事などを始めた。その一つに民家の防音工事がある。民間企業が受注して行うものだが、そのほとんどは地元以外の、大手・中堅の建設会社に独占されていた。

この時期、伊丹労協の源流である全日自労伊丹分会は、従来の失対事業の枠組みが頭打ちになる中、失対事業の継続だけでなく、現に存在する民家の防音工事を失業者で受注できないかと考えた。そこで、全日自労を中心に伊丹地域の18の労働組合を糾合して「伊丹地区雇用失業対策連絡協議会」を結成し、防音工事を地元の労働者に回すよう当時の運輸省に交渉した。しかし、運輸省の対応は「失業者には仕事を出せない」というもの。これに対し協議会の中では、仕事の受け皿となる事業体を設立すべき、との提案が現れる。こうして、1979年に「阪神地域開発事業協同組合」が創設され、防音工事の受注が可能となった。また同年には、全国的な流れに呼応して、伊丹地区中高年雇用福祉事業団も設立された。

ここで注目すべきは、受注によって得られた利益の配分である。伊丹労協理事長の木谷勝彦氏によれば(2)、「この仕事の受注の経過と仕事の継続は失業者闘争であり、一人でも多くの失業者を無くするために取り組んでいる運動」と確認した上で、「得た利益を自分たちだけで配分するのではなく、職業訓練学校を作り失業者に技術を修得させることに利益金を使っていくことにした」という。こうして1981年、建築・造園技術の習得を目的とした「阪神技能学院」を設立。同時に、「事業協同組合は法的に事業者の組織ということで失業者を吸収するには多くの問題があ」るとの理由から、卒業生の仕事の受け皿として「いたみ企業組合」も設立した。

事業の拡大

それ以降、伊丹労協は「いたみ企業組合」を軸に、ホームヘルパー業務(1982年)、学校給食荷受業務(86年)、ビルメンテナンス業務(89年)、公園管理業務(92年)といった形で多様な仕事を創り出していく。

このうち、伊丹地域は伝統的に植木栽培や造園業が盛んだったことから、緑化事業を通じて昆陽池公園をはじめとする市内五大公園の管理を担当したり、街路樹の剪定を行うなど、公共事業領域で力を発揮している。

また、女性の仕事おこしとして始まったヘルパー事業は、市からの業務委託を通じて軌道に乗り、1991年には職種別の組織として「企業組合ヘルプ協会」を設立、さらに2000年には、介護保険制度の施行に備えて在宅複合型施設「ぐろーりあ」を開設するとともに、社会福祉法人格も取得した。この点については、「伊丹市との話合いで18年間の歴史と180名のヘルパー在宅介護の仕事おこしをやってきた……実績から、土地の無償貸与を含め、社会福祉法人の取得に全面的な支援を得ることができました」(3)とのことである。

「ぐろーりあ」は、居宅介護支援事業所、ヘルパーステーション、デイサービス、ショートステイを備えるとともに、伊丹市が指定する九ヶ所の在宅介護支援センターの一つとして、在宅介護に関する地域の総合的な相談窓口の役割を担ってもいる。また、ヘルプ協会はほかに、デイサービスや知的障害者のグループホーム、就労継続支援B型事業所(4)など五つの事業拠点を有している。

まちづくりの視点

以上からも分かるように、伊丹労協が取り組む事業には、行政に関わるものが多い。実際、今回お話を伺った高木氏によれば、9割が行政関連の仕事だという。先に触れたように、その背景に失対事業からの経緯が存在することは確かだが、それは必ずしも単線的な過程ではない。全日自労の創設者であり労協運動を主導した中西五洲氏は、失対事業の廃止に反対する闘いを総括する中で、次のように記している。

「労働組合は要求を前進させるのが主要な任務と考えてその事業の社会的価値には無頓着でした。……私たちは『町のためになる事業にする』という方針をとり、舗装、学校のプールなどの事業を自治会などと相談して自主的に展開しました。」(5)

言い換えれば、共益組織としての労働組合は、単に仲間内の利益を追求するにとどまらず、同時に市民的な利益つまり公益の追求と重なってこそ、運動や事業に社会的な意義を獲得できるということである。この点を重視するが故に、労協/労協連では「七つの原則」の中で、「第一原則:働く人びと・市民が、仕事をおこし、よい仕事を発展させます」、「第三原則:『まちづくり』の事業と活動を発展させます」と記しているのだろう。

伊丹労協でも、例えば、公園管理の業務を通じて、子供や障害者、老人などに対する「園芸福祉」としての展開を提案するなど、「よい仕事」を巡る模索が行われている。公園で犬の散歩をさせる市民の中には、犬の糞を放置する人もいるが、それを単に片付けるだけでなく、注意のカードを置くことによって飼い主のマナー向上を促し、公園を利用する市民の評判もよくなり、働く者にとっても職場環境の改善につながっているという。

あるいは、学校給食の荷受業務では、生徒の残食対策として、国連世界食糧計画(WFP)の協力を得て、世界の給食事情を紹介する展示を開催したところ、残食が減少した。さらに、街路樹の管理についても、単に枝葉を落とすだけの仕事ではなく、刈り込み方法や技術にこだわって剪定することで、市民から市への苦情も減り、仕事の誇り・励みにつながるという。

苦境とその克服

ただ、行政とのパートナーシップ関係は、地域的な定着やまちづくりとの関わりという点では大きな効果を発揮するが、事業収入の安定確保という点では利点ばかりとは限らない。実際、ある研究者は次のように指摘している。

「伊丹市の財政難のため全体の発注額が激減し、競争入札の導入もあって、1990年代半ば以降、建築、造園、清掃などの生活関連事業が減少傾向にあることは否めない。」(6)

また介護福祉事業の分野でも、もともと介護報酬そのものが低水準であり、業界全体が人件費削減競争に追い込まれる中、労協のみがそうした状況と無関係に存在できるわけもなく、苦しいやりくりを迫られざるを得ない。当然ながら、事業高の減少は、組合員労働者の給与の減少にもつながり、一般の営利企業と比較して、労協への定着を妨げることにもなる。

ただし、高木氏によれば、伊丹労協は事業分野が比較的幅広いため、ある分野が苦境に陥っても別の分野が補完するような関係があり、危機的な状態にまでは至ってはいないという。また、苦境に応じて、現場の側から新たな事業提案や改善提案もなされているそうだ。

こうした提案は、主に職場会議などで自主的になされるとのことだが、それが可能な理由に、一つには労働者も一人の市民として、生活の中で地域のニーズを身近に感じており、地域のネットワークを通じて仕事の獲得につながる余地があること、あるいは、協同で出資し協同で運営するという労協の性格から、一般の雇用関係以上に労働者が強い当事者意識を持つとともに、職務上の地位を越えた意見交換や意志疎通が行い易いこと――といった要点が推察できる。

今回お話を伺った中で最も興味深く感じたのは、それこそ全日自労の時代を知る高齢者から高校を卒業したばかりの若者まで、幅広い層が協同で働き、協同で仕事を運営していくことを通じて、「労働者の協同組合」という理念、それが生み出された経験の継承を行おうとしていることであった。この点に絡んで、高木氏によれば、とくに若者は非常に大きく変化するそうで、当初は一般の賃労働として働き始めた人が、仕事そのものの社会的な意義を発見するとともに、そうした仕事を通じた自己実現に目覚め、さらに主体的に取り組むようになる場合も多いという。逆に、そうした意義を発見できない場合は、労協の働き方に馴染めず、短期間で辞めていくらしい。

設立の経緯や事業分野という点では、よつ葉グループとの間にそれほど接点のない伊丹労協だが、仕事を通じて実現すべき目標に対する自覚、あるいはその背景にある社会観や歴史観の継承・共有を重視する姿勢については、重なる点を強く感じた次第である。

末筆ながら、高木氏をはじめ、お忙しい中、交流の機会を設けていただいた伊丹労協の皆さんに、感謝の念を表明したい。

(1)全日自労はすべて労協/労協連に移行したわけではなく、その後も何度かの組織合同を経て、現在も労働組合として存続している。

(2)「伊丹労働者協同組合のあゆみ」『協同の發見』第94号、2000年2/3月。

(3)同前。

(4)障害者自立支援法にあるサービスの一つ。企業に雇用されることも雇用契約に基づく就労も困難な障害者に、就労や生産活動の機会を提供するもの。

(5)『理想社会への道』同時代社、2005年、133頁。

(6)名和洋人「『労働の人間化』を通じた『地域の人間的再生』−伊丹労働者協同組合から見る」『協う』2007年6月号。(山口協:研究所事務局)


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