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新たな政治主体の形成に向けて

─田畑 稔さんに聞く─

   第2次安倍政権が発足して約1年半あまりが経過した。同政権の指向する政策へ の批判的な意見がそれなりに大きなボリュームで社会内に存在するにもかかわらず、そうした声がなかなか国政に届かず、政策に反映されない状況が続 いている。このような政治情況を私たちはどのように把握すべきか。また、こうした情況の転換には、その転換の推進主体となる政治主体の形成が不可 欠だと考えられるが、政治主体形成の核心的ポイントは何か、そのプロセスはどう構想されるのか。
 これらの課題について、マルクスのアソシエーション論を鍵概念に現代の社会変革のありようを導いてきた、哲学者の田畑稔さんにお話を伺った。イ ンタビューは7月10日におこない、聞き手は当研究所代表の津田道夫が務めた。文責は当研究所にあ る。                            

1.暴走する安倍政権



津田:最近の安倍政権の集団的自衛権の問題や、沖縄の米軍基地 の問題、尖閣の問題、原発の再稼働も、客観的に見て国民の中に批判的な意見が多いと思うんですね。世論調査を見ても、半分近くは危惧も含めたら批判的 だと思うんです。しかし、そうした国民の声がなかなか届かない。なぜ国政レベルの政治的な動きと、国民の平均的な意見との間に極めて大きなずれができ ているのか。選挙制度の問題もあるかもしれませんが、今の代議制とか民主主義のシステムとかの不備というか無力感を含めてどう考えればいいのか。田畑 さんのお考えをお聞かせいただけますか。

田畑:私は哲学畑の人間なので、リアルな政治分析などとても で きませんが、もともと首相の権力は絶大なものです。ただし安定した権力基盤を持つことが、その行使の政治的条件になります。その点で、何よりもまず衆 参両院で与党が安定多数を持っていること、そして民主党政権の大失敗の結果、議会内反対勢力が求心力をまったく喪失していること、さらに自民党内でも いわゆるリベラル勢力が質量ともに凋落し、公明党も与党としての地位を放棄する覚悟で自己主張する意志はなくなっていること、これらが安倍晋三の政治 スタイルや手法の突出を許し、世論無視の暴走を生んでいる政治的条件でしょう。小選挙区制のリスクという面からも考える必要があります。社民党や共産 党のような原則批判的少数政党には圧倒的に不利であるだけでなく、自民党の中でも党中央に異を唱える政治家や政治グループは立候補推薦や政治資金面で 締め付けられる。政権交代の可能性を強めるのが小選挙区制のメリットと言われますが、民主党政権の場合でみると、政治権力を担う主体としての政策的基 盤やそれを支える政治的社会的基盤が未形成のまま、自民党長期政権の停滞と腐敗を背景に「マニフェスト政治」ブームで権力が転がり込んできた。ところ が、自分たちの政権では、カードを切るたびに党内分裂を繰り返し、自壊していった。自民と民主では、戦後権力を握り続けてきた集団とニワカ寄り合い所 帯との違いが出ているとも言えますが、いわゆる「野合政治」や「手法としてのポピュリズム政治」が跋扈するなど、小選挙区制のリスクもかなり明確に出 ているのではないかと思います。

津田:そうですね、かつての自民党なら片方で憲法問題ひとつ とっても改憲が党の方針だったとしても、9条なんかについては絶対守るべきだという人も含めて自民党の中でそれなりに包摂できていたのが、今回のこと でもまともに反対がなかったですよね。


田畑:
それともう一つは安倍晋三の政治家としての資質ですね。 「強い政治家」を標榜していて、ある意味世論の逆風を受けたからこそ頑張れるというサッチャー・モデルでやっているわけです。権力を取ったら、やるべ き事は「拙速でも何でもやる」「先送りはダメだ」です。これは彼の信念で、色んな所に書いているのです。そこに利用価値があると一部から見られ、評価 されている。国会論戦を聞いていると、反対派から追及されても内容には明確に答えなくて、饒舌で時間をとって、議論の内容を逸らしてしまい、「あなた は自分に酔っているだけ」と反発を買う。しかし政治的目的を達成することが眼目なのです。そういう辺りで安倍の政治家としての個性が悪い意味で役立っ てるんじゃないでしょうか。

津田:ある意味わかってやっているということですね。
田畑:ええ。石破幹事長とその点で違いがある。安倍は「限定的容認」であれ何であれ「集団的自衛権」はとりあえず枠組みだけ取っておけば、あとは情勢 次第でどうでも行けるという判断ですね。石破は法としての体系性や国民の理解などを緻密に考えるから、今回ビビったわけでしょう。それで公明党との交 渉の主役を降ろされたと言われます。安倍は突撃型、イデオロギー型の政治家ですよね。岸信介も国会を包囲されても頑張ったんだ、それでお国のために結 果を出したじゃないかという彼の信念があるんじゃないでしょうか。

津田:前回の第1次安倍政権が潰れたことが背景の一つにあるん でしょうか。

田畑:そうでしょうね。そういう思いもあると思います。僕が強 調したいのは、民主主義国家といっても、公権力は議会制民主主義ですけど、会社は熊沢誠さんの言うように「民主主義は工場の前で立ち止まる」というこ とです。会社組織はガバメントとしては「専制システム」です。持ち株に応じて票を投じる株主総会で経営権力を選ぶわけで、従業員が一票を投じてるわけ でもなんでもない。従業員は職務命令に一方的に従わなければならないんです。
 ロバート・ダールというアメリカの政治学者が『経済デモクラシー序説』という本を1985年に書いているのですが、現在の民主主義の危ない所は、公 権力は一応デモクラシーでやっているけれど、社会の中では専制システムである会社が支配している。これがいろんな影響力を行使して民主主義を常に脅か す点にあると言っています。企業のガバメントも「企業市民の自治」に改めないと、公権力の民主主義は救えないという。彼はこれを社会主義とは言わず、 「経済デモクラシー」と言うのですが、経済権力も民主主義的な正当性を持たないとダメだと。例えばトヨタは普通の国くらいの経済規模を持っているわけ です。お金だけでなく巨大な人間集団を支配下に置いている。しかし私有権で何十〜何百万人もの人間を支配することは決して正当化されない。私的所有権 は決して人を支配することを正当化しないと、法理論的には言えるわけです。
 そういう文脈で安倍内閣の暴走や橋下大阪市長の「決定できる民主主義」を見ておく必要がある。安倍も橋下も「私が選ばれている、私が責任者なんだ」 と口癖のように言う。

津田:その論調、多いですよね。

田畑:結局、リーダーの「強い意思決定」がないと今時の会社は 生き残れないというモデルで橋下市長などはやっているわけでしょう。彼は人権弁護士じゃなくて営利企業のトラブル解決の弁護士ですからね。決定できな い企業は競争に淘汰されるという考え方です。そのモデルで公権力を運営しようとするわけです。もともと原理的に違うガバナンスの組織なのに経営者モデ ルにできるだけ近づけたいんですよね。選挙で信任されたら全てが自分の自由という発想、嫌だったら次の選挙で落としたらいいと。それで喧嘩腰の、少数 でも構わないからやるという強いリーダーを演じようとするわけですね。そういう政治スタイルは、安倍政権にも見ておかないといけないと思います。

津田:もっとも、安倍政権の具体的な政策は決してうまく動いて いないということですね。

田畑:一見すると景気のよい話ばかりですが、全然うまくいって いないと思いますね。人口の世代間構成の極端なアンバランス、国家財政の1200兆を超す赤字、非正規雇用急増と所得格差の拡大、福祉諸制度の不安定 化、瓦解した原発安全神話と原発災害処理の困難。これらの根本問題はすべて先送りされ、デフレ対策を優先すると総てがうまくいくかのような幻想をふり まいています。しかし肝心の「アベノミックス」の実態についてマクロ経済学者たちの評価には非常に厳しいものが多くなっています。賃金や設備投資が、 したがって有効需要そのものがそれほど伸びず、輸出も伸びず、国債依存だけが深刻化し、資産インフレの危険も出てきている。原発再稼働や原発輸出推 進、兵器輸出の規制緩和、TPP交渉に伴う在来農業の切り捨て、消費税増税と企業減税の同時遂行など、巨大企業優先だけが露骨に出ています。
 外交面では中韓との関係は最悪で、改善の兆しもない。何も中韓に限ったことではない。安倍晋三がナショナリストであり、いわゆる「歴史修正主義者」 であることについての厳しい海外論調が日本人にあまり伝わっていない。正確に言えば、メディアを含め日本人の多くは安倍や石原などの「歴史修正主義」 に非常に甘い。彼らの主張が国際社会でもほどなく通用するかのように思いこみ、「歴史問題」にこだわるのは中韓指導者の政治的思惑にすぎないと思いこ んでいる人が結構多い。この点『労働運動研究』復刊37号、2014年4月号が、海外メディアの安倍内閣評価を特集で紹介しているのが大変参考になり ます。安倍首相の靖国神社参拝に対してアメリカ政府までクレームをつけている。安倍首相はアメリカの政治軍事的地位の低下と中国脅威増大を一面的に協 調して、日本がアメリカを軍事的にも補完し、対中国包囲網を形成するべきだという方向で煽って、特定秘密保護法や集団的自衛権容認へと突っ走っていま す。しかしアメリカと中国は対立するだけでなく、米中対話を戦略的に位置づけ、不均等発展にともなう二大大国間対立を調整しようとしています。

2.どう対抗するべきか


津田:それに対する対抗勢力、批判側が拠って立つ基本的考え方 についてはどう考えておられるのでしょうか。

田畑:先ずは議会外での反対運動や反対行動をベースに考えるべ きで、議会内部の既成諸勢力のなかでたとえば「リベラル結集」をどう進めるかということに議論を収めてしまわないことが肝心じゃないでしょうか。安倍 内閣は、主権者による判断を避けたまま、第9条についての長年の政府解釈を彼の内閣で変えるだけで、これまでの専守防衛を捨て、外国でも武力行使する 体制にしようとしている。また原発でも、これまで自民党政権が安全神話でだましてきたことが明らかになり、百万近くの市民の人生を苦難に満ちたものに し、まだ事故の正確な原因も確認できておらず、廃炉の展望すら立っていないのに、電力会社の既得権を守るため、原発を今後も基幹エネルギー源と位置づ け、稼働再開を促し、原発輸出にまで力を入れている。消費増税しながら大企業優先の景気対策に金をつぎ込み、賃金、社会格差、新たな貧困、福祉の不安 定化、若年層の生活条件劣化などには、景気回復の「恩恵」の幻想だけをふりまいている。NHKの経営委員には歴史修正主義者を送りこみ、露骨な政治圧 力を加えている。こういう暴走が続いて、さすがに若い世代にも、デモや発言が多く見られるようになったように思います。若者の中にも、もちろんその他 の世代の中にも、生活世界と歴史世界が重なり合って自覚される条件が強まったのではないでしょうか。

津田:僕ら以上の世代の中にはすごい危機感が生まれていて、こ のまま行ったら終わる、ダメになるという声が強まっています。危機感そのものはわかるけど、それだけじゃ対抗できるのかと考えると…。

田畑:生活世界と政治世界が重なり合って自覚されるのは、生活 者の視点から見ると、歴史的情況との「出会い」が大きいと思うんです。永遠に人生を生きているわけじゃないので。僕の場合でも田舎から大阪の大学に出 てきたら「核戦争で人類絶滅の危機」が叫ばれた時代でした。年寄りが若者をおいてけぼりにして突っ走っても、運動として続かないのでダメだという思い は、我々の世代には強いですよね。その意味では新しいチャンスが到来しつつあるのかもしれません。私は自分の領域で若者のための「舞台づくり」を心掛 けていますが、自分の考えを押し付けるということではなく、若い人が自分たちで判断し自分たちで表現の場やネットワークをつくる、そういう面でサポー トできることをしたいということです。もちろんいろんな経験も伝えないといけないし意見は言わないといけない。しかしこちらも沢山のことを彼らから学 ぶことができます。

津田:現状で直接的な対抗力として政治勢力が一つの陣型になっ たり、安倍さんを押し止めていくような所までは出来ていないけども、色んな人が動き始めている所がこれからの可能性につながっているということでしょ うか。

田畑:私には「今は結集軸はこれだ」というようなレベルの知識 も経験も能力もありませんので一般論しか言えませんが、小沢一郎さんに期待したり、自民党のリベラル派はどうしてるんだとか。こういうアプローチでは 歴史主体の問題に届かない。社会の中から政治を刷新していく力についてもう一度立ち返って考える。生活世界を足場に、当事者たちが声を上げ、行動調整 し、失敗を含む経験を重ねるなかで、社会運動をベースに新しい質をもった政治ネットや政治集団を輩出させる。具体論を語る資格は私にはありませんが、 方向はそういうことではないかと考えています。

津田:でも田畑さんの世代は、僕らもその最後くらいですけど、 社会変革を考えた時、その中心には思想的にも政治的にも引っ張っていく前衛党が構想されていました。僕らもそれをどう再度作れるかという立て方をして いた時期があったのですが、今や前衛党自体もどういう組織形態・機能・役割なのかまで含めて、僕らが自明だと思っていたことも含めて再度問い直さない と困難な時代だと思います。そのへんは田畑さんの仰るアソシエーションの考え方で言うと色んな地域、生活領域でアソシエーションの集まりが状況を動か していくための一つの主体になって、それは当然脱アソシエーションしたり色々行きつ戻りつありながら、今の資本主義社会のあり方でないものに変えてい くための主体として動いていくことですよね。そういう力の統一というか統括していく政治的な力をどのようにお考えでしょうか。

田畑:これまた私の力に余る大変な質問ですが、幾つかの前提の 確認から始めたいと思います。マルクスの思想は「労働の思想」と誤って考えられてきました。私はむしろ「生活の思想」として理解すべきだと考えていま す。人間たちの生活諸活動の中には、命の再生産、労働、相互行為、学習、遊び、精神的生活活動、危機への対処などが位置づけられるべきでしょう。たと えば会社で働くためには雇用契約を行い職務命令に従って協業の一角をになわねばならない。労働者協同組合で働くためにはアソシエーション契約によりア ソシエとなり自治の主体として意志決定に参画し、協働しなければなりません。だから現実の労働は複雑な相互行為と一体のものです。命令する、服従す る、承認する、愛する、攻撃する、討議する、相互調整する、アソシエーションをつくるなどは、相互行為の活動だからです。もちろん相互行為を重視する 視点が欠けると変革論など展開できません。
 また労働者も生活者であり、家族メンバーであり、市民(主権を構成する能動主体)であり、アソシエ(自治的連帯組織のメンバー)でもあり、学習も し、遊び、精神的活動も行い、危機への対処もしなければなりません。確かに、会社では労働者は経営権力に服属するという「非対称」の関係に立っている ので、自分たちの権利を守るためユニオンに結集し闘うことが不可欠です。その点でユニオンは一連の国で「組織化のセンター」として機能してきたのです が、現在の日本では中小零細企業や非正規雇用の労働者がユニオンとは無縁の状態で、かろうじて個人加盟のコミュニティー・ユニオンが頑張っています。 しかし労働者も生活者として多くは地域のイベント組織や文化・スポーツ団体に関与しており、さらには子育てネット、生活協同組合、障がい者の連帯組 織、消費者運動にコミットしている人も多い。資本主義は何も生産現場だけを支配しているのでなく、欲求を操作し、濫費型の生活スタイルも押し付けてく る。ライフスタイルの闘いもしなければならないし、安倍内閣のような暴走があれば市民として連帯して声を上げねばなりません。つまり生活から生じてく る色んな問題が、ユニオンを含む各種のアソシエーションを次々と生み出してくる。色んな生活のベースから湧き出る様々な問題に立ち向かう形で、生活者 は力と財を結合し自主的連帯組織を作り運営していく。こういうダイナミズムが運動の出発点だと思っています。
 次に問題になるのは、それらの連帯組織や闘争組織が孤立した営みである限りはまったく無力だということです。これはマルクスが繰り返し言っている事 です。どうしたら蛸壺化しないでネットワークにつなげていくことができるのか。これは地域的孤立を全国的国際的ネットワークで克服するというだけでは ありません。むしろそれ以上に、地域という生活世界に近い場所で様々な領域の運動がネットワークを形成して「立体化」し、地域での陣地形成に繋げてい くということが不可欠でしょう。たとえば関西よつばネット系の「豊中を変える会」という会があります。私はほとんど貢献できていませんが、この会は市 民派の市会議員の後援会なのですが、市会議員を中心に地域の住民たち、コミュニティー・ユニオンの人たち、協同組合の人たち、弁護士などの専門家、そ して反原発やエコロジー運動や文化運動にかかわっている人たちの結集の場ともなっています。もちろんこういう諸運動間の地域的連携は長い時間をかけて 実績や信頼が蓄積されてはじめて可能になるものだし、いろいろ課題も抱えながら進んでいる事態なのですが、結合のメリットは明らかでしょう。行動調整 を通して力の結集がはかられるだけでなく、各領域の運動に視野の拡大をもたらし、若い世代が運動を組織するさいにノウハウを伝承するための中間支援組 織としても機能しうると思われます。昔は地域の行動調整は総評の地区評議会などがになったのですが、現在では事実としてどのような形態で行われている のか、客観的調査も必要でしょう。
 第2の理論的前提として確認したいのは、政治(活動としては)や国家(制度としては)は、「社会の公的総括」という固有の領域を持っているというこ とです。従来「政治は経済で決まる」とか「経済的有力階級が政治も支配する」とか、決定論だけでやっていたと思うんですよ。しかし政治とは「そもそ も」なんなのか。それに答えないと、政治の領域で争えないわけです。私はマルクスの幾つかのテクストに基づいて「社会の公的総括」がそれに当たると見 ています。社会には無数の利害や習俗や体験や信念の違いや対立があり、同時に家族や会社や地域などで部分的に一つに束ねられていますが、社会全体をオ フィシャルにひとつに束ねる領域があり、それを職業的政治家や行政司法などの官僚システム、警察や自衛隊などの実力組織が中心的にになっている。例え ば「集団的自衛権行使も第9条のもとで部分的に容認される」というのは、安倍個人の意見でも自民党という一政党の見解でもなく、オフィシャルに国民全 体を一つに束ねる認識になろうとしているのです。それがどれほどこじつけを含み、妥当な手続きを回避しており、戦後日本の最大の歴史的資産を反故にし かねないと多数の国民が反対しても、オフィシャルに国民全体を一つに束ねる認識が変更されようとしているのです。政治活動は制改正でも、教科書検定で も、原発堅持でも、すべては社会の公的総括をめぐる活動であって、その結果は法律や行政により一般市民を否応なく拘束することになります。
 だから生活で精いっぱいで政治にまで関与できない場合は別にして、政治など俺には関係がないとか、政治家は「汚い」などと政治を軽蔑して済ますの は、「票とトクの交換行為」で自民党を支える保守的多数者の政治にさえも及ばない。政治文化の貧しい姿です。社会が分裂している以上、公的総括の過程 も分裂するのは当然でしょう。ドミナント(支配的)な諸勢力による「社会の公的総括」過程に対する対抗運動も常に存在してきたし、権力監視や歯止めや 改良などで一定の役割も果たしてきました。
 だからアソシエーション論でも、縦軸と横軸の両面でその意味を考えねばなりません。市民派の人達は中間組織としてアソシエーションの歴史的意味を確 認します。私的世界と国家権力の中間にアソシエーションがある。この中間組織が国家の奴隷になることから諸個人を守り、他方で個人に公共的関心を喚起 し、中間組織が言論を通して公権力をコントロールするのです。その古典的な事例がトクヴィル『アメリカの民主主義』(1835-40)です。前近代社 会だと都市があったり職人組合があったりして中間集団はたくさんあったんですよね。ところが近代になって自由な諸個人になってしまい、我々がアソシエ イティブに生きる技を身につけないと国家の奴隷になってしまう。だからアメリカ市民はいろいろアソシエーションをつくり、何かがあればミーティングを 行っている、と。このトクヴィルの認識は非常に大事なことなんです。
 しかしそれは縦軸のアソシエーション論なのです。しかし横軸のアソシエーション論も忘れてはならない。支配する人たちも経団連とか原発推進団体とか 「新しい教科書をつくる会」とかありとあらゆる中間組織を作ってくるわけですね。国家機構に直接関与する人々だけが社会の公的総括をになっているので なく、社会の中に色んな自発的集団を作って、ヘゲモニー(合意形成による支配)を実現している。学校もそうで、「サボったらいい大学にいけないぞ」な どと、システムへの同化を促す役割を担っています。もちろんこれに対抗する運動も沢山ある。第9条の会や反原発やエコロジー団体やユニオンなど対抗ヘ ゲモニーをめざしている。つまり対抗的価値や対抗的認識で市民の同意を獲得し、ヘゲモニーを切り崩し、社会の公的総括を変えようとしています。グラム シが言うように、市民社会が分厚く形成されていて、そこでヘゲモニーと対抗ヘゲモニーの衝突が繰り返されているのです。

津田:公的な統括の独自領域を対抗的に担っていく、それにはプ ロが必要だということでしょうか。

田畑:「プロ」の意味を議員や代議士として職業的に生きる政治 家という意味で言われたのかもしれませんし、レーニンの言う「職業的革命家」という意味で言われたのかも知れませんが、アソシエーション論の持ち味 は、社会の公的総括をめぐる対抗過程として政治過程を広く捉え、その主要アクターとしてアソシエーションを位置づけることによって投票行動とは別の形 で諸個人の政治への参加を促す点にあるといえるでしょう。もちろん、政治領域を社会の公的総括をめぐる対抗過程として広く取るばあいでも、対抗的アソ シエーションの中核には専従者も必要でしょうし、専門的知識人との提携も不可欠だと思います。アソシエーション間の行動調整を目的としたアソシエー ションも必要となるでしょうし、それをベースに議会へ進出する努力も必要でしょう。アソシエーションにはボランティアの力を結集できるメリットもあり ますが、中心には専従者としてしっかりやる人間がいて、彼らの生活を支えるだけの条件作りをしないとタフなアソシエーションにはならないと思います。

津田:僕らの学生時代は、まだ学生が社会の中でどこにも組織さ れきれてないような存在として政治意識に目覚めて、それなりに社会の具体的な生活領域の中で色々対抗的に動き出して活動して闘ってきました。いろんな 社会運動に参加してそういう所での活動で経験を積み、揉まれながらプロ的なものを身につけていく。こういう流れで僕らも来ているんですが、今の時代は そこがなかなか難しいのかなと。

田畑:社会の公的総括は政党も必要としますけど、政党だけでや るわけではありません。僕の意見は、あまり完成形で考えず、政党的なものに該当する機能が、いまどこでどう働いているかを考えるべきではないでしょう か。生活世界から次々出てくる対抗的アソシエーションや中間的アソシエーションは、相互に行動を調整しつつ、地域で陣地形成したり、集団的自衛権行使 容認阻止などその時々の政治の焦点に向かって共同の行動をとる努力をしています。また現在の選挙制度のもとで対抗ヘゲモニー側も議員や代議士を議会に 送るための行動調整も行われている。それなりに実績と経験と信頼のあるリーダーたちがおもに行動調整をしているのだろうと思われますが、この努力を自 覚化し普遍化することが、大事なのではないでしょうか。むしろ新しい政党というより、社会の公的総括をめぐる対抗的ヘゲモニーの新しい行動調整ネット ワークが日程に上っているのではありませんか。

津田:でも僕らや上の世代はだんだん60歳代から70歳代に なってきて、こういう時代情況に自分らとしては「何とか対抗の力を」と思った時に、発想がかつて運動をしてた人たちが集まって、その人たちの再結集で 何か事態を動かそうとしようというふうになっているようにも見えるのですが…。
田畑:僕みたいに無党派の人間と違い、組織を持っている人達は そんな悠長な話はしてられないというのはあるでしょうね。事態が動けばこういうカードを切るというのは習性としてついていると思いますし。僕のポジ ションからすれば、急いては事を仕損じるんじゃないかというのもありますが。それ以上言うと「お前は何もしないで何を偉そうなことを言ってるんだ」と なりますけどね(笑)。

3.国民国家と世界秩序の揺らぎ


津田:話は3つ目のテーマなんですが、中国も新疆ウイグルの問 題やチベットの問題をもともと抱えています。内部的にも漢族以外の多数の民族を統括してるというわけで、今は共産党の支配で守られているけれど、内情 から言うと徐々にそこが立ち行かなくなってるという印象を抱いています。ウクライナ、旧ソ連の中での問題も、一方的にプーチンが軍事力で併合したとい うような今の西側の反論だけで事態を理解してよいのかというとなかなかそう単純なものではないし、ウクライナ以外の中央アジアに接するような所でも、 旧ソ連の色んな所はどんどんロシアとの関係で言うと非常に対立というか分解が進んできています。また中東もアメリカのイラク戦争が大きな引き金になっ て逆にエジプトとかの民主化が絡まって第二次世界大戦後の国境の線引きそのものが揺らいできているなという印象を強く抱いていまして、最近出てきてい るようにイスラエルとパレスチナの、子どもの虐殺がきっかけになって相当深刻な状況に進むのではないかと思います。世界をずっと見ていると近代国家の 枠組みそのものが、世界的な歴史の流れの中でもう一度問い直される時期に来てるんじゃないかと思います。民族というか地域での生活をある程度協同を基 本にしてきた人たちが、国家という格好でいびつに括られてきたことの矛盾、軋轢がこれからどんどん進むんじゃないかと。その中で戦争・・・戦争の形態 も第二次大戦の延長で考えるわけにはいかないとしても、戦争が世界的にも見えてきているというかチラチラしてきている中で、これからの世界秩序をどう 考えたらいいのでしょうか。

田畑:津田さんが今挙げられた事例は3つそれぞれ違う背景を 持っているので、それぞれ区別して歴史的に意味付けをする必要があるように思います。私はウォーラスティンらの「世界システム論」などを参照して、現 代世界を@資本主義世界経済、A国民国家としての政治的分立、B科学技術との歴史的ブロック、そしてC中心-周縁構造などを骨格として理解しておりま すが、このうち歴史のダイナミズムを理解する上でもっとも注目すべきはCでしょう。国民国家形成でも中心と高々半周縁部分までを捉えているのであっ て、周縁部は国民国家としての実質を欠いたまま、旧宗主国の都合で国境が引かれ、今日なお国民国家としての経済的政治的統合の条件が形成できずにいる のが実態ではないか。また中心-周縁構造の中には、植民地支配や帝国形成だけでなく、経済的政治的な地域ブロックの問題や地域ヘゲモニーの問題、さら には世界ヘゲモニーの推移の問題も組み込んで考えています。ウクライナ問題は二つの地域ブロックや地域ヘゲモニーの中間にある国民国家がはらむ危機の 問題として理解すべきでしょう。つまり旧ソ連解体の流れで、西欧とロシアの中間地帯をめぐる歴史的的対立が再び顕在化した。これに対してチベットやウ イグル等の問題は中国という国民国家内部の分離主義運動です。近代世界システムの挑戦を受ける以前は中国は一つの帝国であり、東アジア世界の中核で あった。それが国民党政権や共産党政権による国民国家形成の基盤として基本的にはそのまま引き継がれている。しかも過去の帝国は緩やかな支配であった が、国民国家となってはるかに中央集権型、漢人支配型の政治と経済を強要してくる。これが中国の周辺部にある分離主義運動のケースでしょう。
 ただ周辺部での秩序崩壊が進んでいることは事実ですが、これらはあくまで地域紛争であって、システムの主要国が相互に殺戮しあう世界戦争の可能性と いうことで言うと僕は津田さんが仰ったのとちょっと違う認識があるんです。今例えばアメリカのイラク帰還兵で精神病を病む人が非常に多い。以前に大阪 哲学学校で講演した帰還兵の若者は、アルコール依存症で荒れていたが妻の勧めで反戦兵士の会に参加し、やっと健康を回復したと語っていました。日本が 非軍事で行ったはずの自衛隊の兵士たちも帰ってきて病気がいっぱい出ています。

津田:派遣自衛隊員1万人中、帰国後の自殺者が28人になって いるという痛ましい現実があるらしいですね。

田畑:20世紀の前半は2度も世界戦争を行い、第二次世界戦争 の死者は6000万に及ぶと見られています。20世紀の後半も戦争は継続されますが主として冷戦構造下での周辺部での体制選択戦争でした。21世紀に 入ると、たしかに核拡散があり、抑止力のための軍拡は進み、地域紛争は相変わらず多く見られますが、国家間の正面戦争はブッシュ大統領の大失敗だった あのイラク戦争などを例外として、なくなりつつある。国連の存在も戦争抑止力としてそれなりに機能しているわけですが、それ以上に戦争という手段の行 使に伴うリスクがあまりにも大きいことが、一般市民に自覚されている。非国家の武装集団対国家とか武装集団相互の武力紛争が泥沼化している。だから安 心というのでなく、どちらも深刻なのですが、「国家の安全保障」から「人間の安全保障」への、「戦争反対」から「平和構築」への安全保障をめぐる課題 の歴史的推移も見ておかねばなりません。
 中国も尖閣諸島の問題で日本と戦争するなどという事はまず考えてないと思うんです。日本だって考えていないでしょう。ただ安倍さんはこの機会に戦争 のできる国にしておきたいという思いはあるでしょう。「戦後レジームからの脱却」これは戦略的野望ですからね。「中国の脅威」と「アメリカの力の低 下」を騒ぎ立てて、アメリカは退くぞ、日本が何もしないなら見捨てられるぞと。今がチャンスだと思っていると思います。
 安倍さんたちの今出しているカードは、ミクロの合理性ばかり追求してマクロの非合理を蓄積するパターンだと思うんです。これは資本主義のもつ根本的 限界とも言えます。資本主義は本来競争条件に置かれていますから、リスクを外に出してしまう。労働力の流動性を高めるなどと綺麗ごとを言って、大量の 労働者を非正規雇用化する。それに伴う貧困問題は社会の方で解決してくれとたらい回しをする。それからリスクは先送りする。原発依存でも軍事産業への 依存でも。原発も環境破壊も軍事経済も危ないとわかっていてもデフレ対策でカードを切るでしょう。だからミクロの合理主義は必ずマクロの非合理を蓄積 していく。
 「合理化」とは、目的実現に対する手段選択の合理性を最大化することです。では資本主義の目的は何なのか。原理的には株主の目的は配当(不労働所 得)をえること、であり株主により経営権力を付与された経営陣の目的は株主の目的を実現することです。ミクロの目的が狭いからそのための手段選択の合 理性は、マクロの合理性を何ら担保しません。どうして資本主義が戦争を必然としたのかというのは、一般論で言えばそういうことです。資本主義の目的の 狭さこそがその本来の歴史的限界なので、その部分は資本主義である限りは越えられないですよね。もちろん資本主義だけで歴史が動いているわけではない ので、大きな対抗派が必ず出てきますから、それにより必ず修正されます。福祉政策などは社会主義的対抗派があって資本主義が修正されて福祉国家ができ るたのでしょう。対抗派が弱まるとまた自由競争になる。歴史は単純じゃないということをしっかり踏まえて臨むべきだと思います。

津田:長時間にわたってお話し頂いて有難うございました。



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