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研究会報告:アソシ研・短期集中研究講座

地域自給の復権としての有機農業運動

当研究所では今期からの新機軸として、各分野の識者を講師にお招きした短期集中型の連続研究講座を開始した。おおむね月1回・全3回をメドに、当該分野について基本的な知識が得られるものにしようとの企画である。その第一弾として、2月から4月にかけて、これまで何度となくお話を伺ってきた本野一郎さん(農を変えたい!全国運動 関西ネット代表)から、有機農業運動の歴史・思想・将来についてお話いただいた。以下は、その概要と参加者の感想である。概要に関する文責は、すべて研究所事務局にある。

第1回 有機農業運動の思想

●はじめに

私は「有機農業」を通じてさまざまな人と出会い、自分なりの考え方を組み立ててきた。その原点は大学闘争時代、学校をバリケード封鎖して始めた自主講座だ。私は農薬問題を取り上げた。当時は農民や漁民が反公害運動に立ち上がり、政治的にはベトナム反戦運動、地域では反公害の住民運動が燃え盛っていた時代。

農薬問題も、そうした反公害住民運動の一環だ。いわゆる「食品の安全」の文脈ではなく、農薬工場で働く労働者の健康被害、それに対する闘いへの連帯という問題意識だった。もちろん、その農薬を使う農家も、その農産物を食べる人にも健康被害が及ぶ。都市と農村、労働者と農民が連帯して取り組む問題だ。こうした問題が集中的に噴出してきたのが、1960年代の後半。それを踏まえて有機農業運動が現れる、という順序になる。

●近代への不安について考える

ただ、1971年の日本有機農業研究会の発足よりはるかに以前から、有機農業のような農業をすべきだと提唱し、実践してきた人が、世界にも日本にも存在する。そうした動きが最初に出てきたのが、1930年代だ。

この時代は大きな特徴がある。というのも、国家独占資本主義の成立を背景に、それぞれの国で近代科学技術を駆使した「近代主義」が全面的に主導権を握る。しかし、近代主義の覇権は一方で、人々の中に不安と反発を掻き立てもした。「このまま近代化が続くことで、果たして人間は幸せになれるのか」という不安である。人間が自然から離れること、自然との切断に対する不安と言い換えられるかもしれない。

この不安をうまく組織したのがファシズムだ。ファシズムは、とくに初期の段階では、反資本主義的な要素が濃厚な一種の「反近代主義」だった。もちろん、実際には本質的な解決には向かわず、もう一つの近代主義に過ぎなかったわけだが、日本やドイツなど後発資本主義国では、ファシズムが人々を引き寄せていった。

一方、近代化への不安に対して、農業あるいは生命という方向から一定の回答を与えようとした人がいる。ヨーロッパではルドルフ・シュタイナー(1861年〜1925年)、日本では岡田茂吉(1882年〜1955年)である。ただし、二人とも「有機農業」という言葉は使っていない。シュタイナーは「バイオダイナミック農法」、岡田は「自然農法」と表現したが、いずれにせよ、近代的な物質文明、科学技術を通じた生産力至上主義に対する違和感と批判が出てくる。

岡田茂吉は「世界救世教」という宗教団体の創始者である。幼いころは貧しく、体も弱くて幾度となく病床に伏す中、医薬品や医者に頼らず、自然治癒力を重視し、その源として食生活の重要性に気づいたという。自然農法という考え方も、そこから来ている。

現在、三つ団体が彼の思想を継承している。それらの自然農法は有機農業よりも厳格で、除草剤や農薬、化学肥料を使わないだけでなく、動物性の肥料つまり畜糞も使わない。中には、本来の土の力、微生物の力を最大限に生かすとして、植物性肥料すら使わないところもある。もちろん、宗教的な信念もあってのことだろうが、こうした実践を見ると、有機農業もまた近代農業であるという側面に気づかされ、有機農業がそもそも何を目指していたのか、問い返す上で非常に刺激的だ。

生産性・効率性を目指し、化学肥料を使い続けて土が劣化し、作物が弱くなり、農薬を使わざるを得なくなるという近代農業のあり方、その中で生み出された食べものがいかに危険で、まずくて、栄養価がなく、人に癒しを与えないか。だからそれを反省して、有機肥料で土に優しく、無農薬で健康に優しく、自然環境に優しく、生き物に優しく……。ところが、有機農業が主張しようとしたのは、実はそうではない。この点は後で触れるが、岡田やシュタイナーは1930年代、それを直感的に表現したと言える。

もちろん、こうした考え方には賛否両論あるだろうが、少なくとも私にとって、岡田やシュタイナーの思想と実践は、近代というものに対する一つの抵抗である。その意味で、彼らの考え方や足跡はきちんと押さえておくべきだと思う。

と同時に、では自分はどう考えるのか、内実が問われてもくる。以前、有機農家として有名な埼玉県小川町の金子美登さんのお宅に泊めてもらった際、「本野さんはどうして有機農業を始めたのか」と訊かれたことがある。私は、「嫁さんを幸せにするためだ」と答えた。これがウケたようで、今でも金子さんにネタにされる。しかし、もちろん本気だ。自分の最も身近な人間を幸せにしたいというのは、根本的で真摯な欲求ではなかろうか。

●自然観・生命観を考える

ところで「自然」とは何だろうか。ごく簡単に考えてみよう。私は、自然は農業の中で初めて現れてくるもの、と捉えている。なぜなら、人間は自然に囲まれ、狩猟採集生活をしていた段階では、「自然」という概念を持ちようがないからだ。これに対して、一万年前と言われる農業の始まりは種を採ること。つまり、「採種、保存、播種、成長、収穫」という過程を通じて、作物や自然総体を対象化して捉える視点が芽生え、同時に、人間が人間としての自覚を獲得し、「自然と人間」という関係に対する認識も生じるのではないか。

これは確かに、いわゆる「近代的自我」につながるものだ、実際に近代に入ると、元々の出発点から大きく変容を迫られていく。このあたりが、私の近代に対する反感に関わってくる。振り返ると、私の自然観の根底あるのは、近代に対する反感である。私は子供の頃、京都の山科に住んでいた。名神高速道路で京都東インターから京都南インターに至る道、東山の手前あたりだ。今では名神高速が山裾を抉るように走っているが、かつて、そこは私の遊び場だった。栗など雑木林に覆われ、夏はカブトムシやクワガタの天国だった。

それが東京オリンピックの直前、急に鉄条網が張られ、立入禁止になった。大人たちは「便利になる、先進国になる」と喜んでいたが、違和感を持った。はっきりした理由は分からないが、「何か違う」という気持ちが残った。成長して後、反公害闘争の中で、近代化の結果として人間が不幸になっていく事態を目の当たりにするにおよび、子供の頃の違和感は明確な反感に変わり、それが私の自然観の根拠になったと言える。

とくに、遺伝子組み換え作物(種子)が登場しだした時には、私は自分の反感に改めて確信を持った。60年代前半にDNAの二重螺旋が発見される。ここで、生命はすべてDNAの二重螺旋という点では平等だ、と考えられるべきだった。しかし実際は、二重螺旋を発見した人間が特権的な位置に座り、遺伝子に改変を加えるようになってしまった。今日、遺伝子組み換え技術を利用した農業は世界的に拡大している。北米では大豆の9割近くが組み換えであり、日本はその北米から大豆の7割を輸入している。

有機農業推進法の第二条では、有機農業をこう定義している。「化学的に合成された肥料及び農薬を使用しないこと並びに遺伝子組み換え技術を利用しないことを基本として、農業生産に由来する環境への負荷をできる限り低減した農業生産の方法を用いて行われる農業をいう」。なぜ遺伝子組み換え技術を使わないのか。人体に危険だからか。それもあるだろう。だが、私にとっての主な理由ではない。むしろ「遺伝子なんか触ったらあかん」という直感である。そして、そうした直感が生じる点に、自分を信頼できる根拠がある。

有機農業とは、自然循環と生命循環を最大限生かした農業である。有機農業推進法の第三条には「有機農業が農業の自然循環機能(農業生産活動が自然界における生物を介在する物質の循環に依存し、かつ、これを促進する機能をいう。)を大きく増進し、かつ、農業生産に由来する環境への負荷を低減するものである」とある。もちろん、近代農業も自然循環と生命循環に依存しているが、有機農業こそ自然循環や生命循環を促進するものであり、だから国を挙げて進める理由になる。

ところが、遺伝子組み換え作物は、例えばモンサント社の研究室の中で人知れず開発され、種には特許がある。だから、採種したり育種したりすれば、権利侵害で罰せられる。したがって、種は毎年モンサントから買わざるを得ない。ここで、すでに生命の循環は断ち切られている。生命の循環のない農業などあり得ないはずなのに。

1997年、遺伝子組み換え食品の表示を求める署名運動を行い、98年には形ばかりの表示制度ができた。しかし、まったく充分ではなく、結局、大豆を自分でつくらざるを得なくなった。逆説的だが、遺伝子組み換え植物が入ってきたおかげで、自分でつくる機会が増え、食卓は豊かになった。自分で手前味噌をつくって友人知人に配る、その中で今までとは違う人間関係も生まれる。多国籍企業の攻勢に対して、こうした抵抗もある。

●四つのセクターから考える

さて、近代に対する抵抗をより戦略的にやっていくために、我々が現在どのような社会構造の中にあるのか分析する視点として、「四つのセクター(部門)」という考え方がある(編註1)。すなわち、@農村共同体、A国家(公共)、B市場、C協同、である。AとBは@から生まれたものだが、現在ではBが猛威を振るっている。これに対抗する形でCが生まれる。

1930年代はAがBを抑える形で両者の連携が成立し、それに対してファシズムは@の側からAを引き込もうとした。現在はBが優位の形でAとBが結びついている。それに対抗し得るのは、@とCの連携・共闘だと考える。現実には、@はかなりの程度AとBに食い込まれているが、だからこそCと結びつく中で共同体のあり方を再生する必要がある。

これまで、@は積極的に対外的な結びつきを求めなかったが、今日それでは立ちゆかない。また、経済危機の影響で都市に仕事がなくなった裏返しだろうが、史上まれに見る形で農業に大衆的な注目が集まっている。若者の関心も強い。こうした機会を、AとBに対抗し、それに取って代わる@とCの連携を形成するためにどう生かしていくのか、我々に問われている。

ここで私は有機農業の出番だと思う。今から30年ほど前、私は農協青年部の人々と有機農業に取り組み始めた。その中で最も変わったのが、農家の食生活だ。ある農家はトマト専業、生産性をどう上げるか、いくら儲かったか、という話が中心だから、他の野菜をつくる時間も手間もない。自分たちが食べる野菜は専らスーパーで買っていた。それが、有機農業に転換すると多品種少量栽培に変わる。年間80品目くらい必要になる。当然、自分でも食べるようになる。結果、スーパーで買っていた時よりもバラエティに富んだ季節の野菜が食卓に並び、食生活が豊になった。家庭全体も幸せになった。

有機農業の思想の核心は、これだと思う。つまり、有機農業とは何よりも自給運動なのだ。そして、消費者と農家の人間関係を基礎にした提携だ。これが地産地消になり、身土不二となり、地域が自立し、そうした地域同士が結びついていくような、新たな社会像が展望できていく。まさに今、そんな局面になってきているように思う。今日、我々の前にあるような経済崩壊、環境危機などを見るにつけ、政治・経済・社会のどれをとっても、やはり「地域における自給」という問題を基礎にして考えていかなければ、新たな展望は開けない。もちろん、その際に求められる生産や流通、交換のあり方など、具体的に詰めていく必要はあるが、それはむしろ、すでに世界各地でも日本各地でも、必要に応じて取り組まれているはずである。言うまでもなく、そうした実践の中で、有機農業運動は非常に大きな位置を占めている。

第2回 有機農業運動の歴史

●日本有機農業研究会の設立

1960年代後半、高度経済成長の「成果」をどう捉えるか、さまざまな考え方や運動が現れてくる。日本の有機農業運動もまた、その一つだった。一般に、1971年の日本有機農業研究会(日有研)の設立をもって、日本における有機農業の歴史が始まると捉えられている。実際、これ以前に「有機農業」という言葉はなかった。一楽照雄氏による設立趣意書が現在も読み継がれているように、思想的にも画期的な内容を孕んでいた。

一楽氏は60年代、農協の金融部門の頂点である農林中金の理事、農協中枢の全中(全国農業協同組合中央会)常務理事を歴任し、農協関係では「一楽天皇」と呼ばれた人物である。農協の改革構想の中で、信用・共済・購買・販売の各事業を一元化しようとするも、各事業部門から反発を受け頓挫。結局、閑職の協同組合経営研究所に移った。

ここで彼は、自分が農協の中で旗振り役を務めてきた農業の近代化が何をもたらしたのか、その現実を知り愕然とする。とくに、農薬中毒で健康を害していく農民の姿に気がつく。その背景には、水俣病をはじめとする反公害闘争の存在が大きく影響していた。日有研の設立趣意書は、こうした時代状況の中で書かれたものだ。

「このいわゆる近代化は、主として経済合理主義の見地から促進されたものであるが、この見地からは、わが国農業の今後に明るい希望や期待を持つことは甚だしく困難である。」

農業の近代化は当初、農民の期待をもって迎えられた。農薬・除草剤の開発は、その象徴だろう。もちろん、それは同時に、田畑のさまざまな生き物が姿を消す過程でもあったが、経済合理性からすれば除草剤が尊重された。そんな時代のまっただ中である。

また趣意書には、「農薬や化学肥料の連投と畜産排泄物の投棄は、天敵を含めての各種の生物を続々と死滅させるとともに、……環境破壊の結果を招いている」とあるが、この観点は、90年代初頭に採択された「生物多様性条約」に見られるように、今日の中心課題を先取りするものである。

その上で、こうした状況を乗り越える方向として、「食物の生産者である農業者が、自らの農法を改善しながら消費者にその覚醒を呼びかけることこそ何よりも必要である」と記している。消費者の覚醒を通じて、食や農をめぐる世の中の仕組み、社会全体のあり方を変えていくという考え方だ。その際、とくに重要なのは以下の内容だろう。

「農業者が、国民の食生活の健全化と自然保護・環境改善についての使命感にめざめ、あるべき姿の農業に取り組むならば、農業は農業者自身にとってはもちろんのこと、他の一般国民に対しても、単に一種の産業であるにとどまらず、経済の領域を超えた次元で、その存在の貴重さを主張することができる。そこでは、経済合理主義の視点では見出だせなかった将来に対する明るい希望や期待が発見できるであろう。」

つまり、有機農業運動は何よりも近代合理主義を批判する運動であり、その出発点は農業者の使命感だ、と言っている。志がなければ、経済合理性ではダメだ、という形で、農民の主体性を問題にしている。この点は、有機農業運動の中で繰り返し確認されているが、一般的には余り理解されていない。例えば、これまで農水官僚は「有機農業=高付加価値」と了解してきたため、有機農業に対して冷ややかだった。これは「有機JAS規格」の策定の際にも、「有機農業推進法」の制定の際にも争点となった。今もそれは続いている。

しかし、そもそも有機農業の「有機」とは「天地有機(天地に機有り)」という言葉から来ており、「機」とは「仕組み」や「法則」を意味している。要するに、自然や宇宙、生命には法則がある、それに即して農業を営むことが大切だ、ということであり、逆に言えば、自然法則から外れた現代の農業に対する批判を意味してもいるわけだ。

●提携運動としての有機農業運動

ただ、こうして始まった有機農業運動がどう発展していくのか、一楽氏にも確たる見通しがあったわけではない。そこに一つの形を与えたのが、兵庫県有機農業研究会(兵有研)だと思われる。兵有研の設立は1973年。その中心となったのは、戦後直後に小谷純一氏が設立したキリスト教系の団体「愛農会」。愛をもって農業に取り組み、それを通じて平和を実現するという考えだ。愛農会の会長を務めた近藤正氏が引退し、故郷の氷上郡市島町(現・丹波市)に帰って農家や農協、行政に有機農業を呼びかけたことが契機となった。

一方、当時は神戸大学農学部に保田茂氏がおり、農薬の被害について研究し、食の安全について考えていた。保田氏は学習会などを重ねる中で、どうすれば安全な食べものが手に入るか模索していた。こうした中で、保田氏が学習会で育ててきた消費者グループと、近藤氏が市島で呼びかけた生産者グループとが出会うことになった。

一楽氏が考えた農業者の使命感、消費者の覚醒という日有研の呼びかけに、兵有研が具体的な一つの形を与えたと言える。後に「提携」と呼ばれる関係。すなわち、消費者と生産者が直接出会い、農産物の生産・出荷・流通・消費について顔の見える関係を形成することである。

その後、日有研では、これを「提携10カ条」として定式化した。例えば、第二条に「計画的な生産」とある。私の経験に基づいて言うと、春夏作と秋冬作、年二回の作付け会議を行う。その際に、消費者側から「これこれをこれぐらいつくって欲しい」という要求が出され、生産者が検討して決定する。ただし、それは消費者側の要求でつくる以上、豊作でも不作でも全量引き取りでなければならない。これが第三条の「全量引き取り」。

価格については、「生産者は生産物の全量が引き取られること、選別や荷造り、包装の労力と経費が節約される等のことを、消費者は新鮮にして安全であり美味な物が得られる等のことを十分に考慮しなければならない」ということで、第四条の「互恵に基づく価格の取決め」になる。もちろん、現実には難しい問題がある。

注目すべきは、第七条の「会の民主的な運営」だ。「……多数の者が少数のリーダーに依存しすぎることを戒め、できるだけ全員が責任を分担して民主的に運営するように努めなければならない。ただしメンバー個々の家庭事情をよく汲み取り、相互扶助的な配慮をすることが肝要である」。これは協同組合主義である。一楽氏の提案の根本には、協同組合の相互扶助を通じて資本主義を乗り越えようとする問題意識があった。要するに、有機農業運動が目指すべき社会は協同組合社会だ、という主張である。

私はその後、提携の実践を通じて、「10カ条」に批判的な視点を持つことになる。最も引っかかったのは、第一条の「相互扶助の精神」。「生産者と消費者の提携の本質は、物の売り買い関係ではなく、人と人との友好的付き合い関係である」。これはいい。「すなわち両者は対等の立場で、互いに相手を理解し、相扶け合う関係である」。これは疑問だ。というのも、実際には、買う側(消費者)が上で、売る側(生産者)は下の関係になってしまうことが多いからだ。

同じく、「それは生産者、消費者としての生活の見直しに基づかねばならない」とあるが、主に生活の見直しを迫られるのは、実は生産者である。有機農業は今でこそ広く知られているが、近代農業が全盛の時代には時代に逆行する「奇行」と見なされた。それでも貫こうとすれば、近代農業を信奉する両親との葛藤、地域のムラ社会との軋轢など、それまでの生活の見直しを切実に迫られる。それに比べ、消費者は生活の一部を見直すだけだ。要するに、経済的にも思想的にも「対等の立場」とはいえない。この点を先ず認識しなければ、逆にある種の原理主義に進んでしまう。実際、有機農業が「変わり者の運動」から脱せなかった要因の一つは、ここにあると思う。

●有機農業の間口をどう広げるか

とはいえ、「10カ条」の通りにやっているところは、皆無に近いだろう。日有研の中心部分でも「努力目標」となっているのが現実だろう。「10カ条」は70年代の後半につくられたのだから、80年代後半あたりには総括の機会を設けるべきだった。というのも、その時期は、さまざまな意味で日本の農業、流通業の転機だったからだ。生協やスーパーなどの「量販店」という業態が、八百屋や魚屋といった小売業を売上高で逆転する。ところが、そうした流通革命が進展し、消費者がそれに吸い寄せられる中で、有機農業の陣営は生協や農協に対して、自らの側に巻き込むような働きかけを行えなかった、そうした戦略を持っていなかった。これは、有機農業の定着にとって決定的な問題だったと思う。

この時期、私自身も農協労組の運動などで挫折が重なり、心身ともに不調の状態が続いた。それが復調したのは、95年の阪神淡路大震災の復興過程で「いのち」の重要性に再び気づき、町と村の連携の中で神戸の人々が飢えずに済んだことに気づいた経験による。ここからもう一度、有機農業運動を進めようという気になった。

その中で、4年前から取り組んだのが「有機農業推進法」の制定運動だ。JAS法(編註2)の改定、有機JAS規格の誕生によって国家の支配下に置かれた有機農業を再生させるには、別の形で政治的なカウンターが必要だと考えた。単なる表示規制ではなく、生産段階から有機農業を振興するような国家政策を形成しなければ、農業だけでなくこの国の根本が腐っていくだろう、そんな問題意識が一つ。もう一つは、団塊世代が還暦を迎えようとする中、このままで終われるかという意地。これらが合わさって、議員の動きと結びつき、有機農業を絶対に認めようとしなかった農水官僚を上から抑え込んだ(06年12月4日に成立)。

私が最も特徴的だと思うのは、第四条。「国及び地方公共団体は、前条に定める基本理念にのっとり、有機農業の推進に関する施策を総合的に策定し、及び実施する責務を有する」とある。つまり、一つの農法に過ぎないとも言える有機農業に対して、国及び地方公共団体に義務を設けている。これは、極めて異例の内容と言えるだろう。

実際、官僚の抵抗は大きい。関連予算は初年度も二年目でも、同じ4億5000万円。転作奨励金に2000億円も使っているなら、有機農業や環境保全型農業に2000億〜3000億くらい使っても不思議ではないが、そうはならない。一方、これまでそうした資金とは無縁だった有機農業運動の側も、予算をどのように活用するのか、困っている面もある。いずれにせよ、法律の後押しを受けつつ、ここ2〜3年で有機農業の間口をいかに拡げていけるのか、有機農業運動の大きな課題だろう。

第3回 有機農業運動の未来

●地球環境サミットから

1980年代の終りから90年代はじめには、ベルリンの壁崩壊、東西冷戦の終結、東西ドイツの統一、ソ連邦の解体、中国の改革開放の加速といった出来事が相次いで生じ、「資本主義か社会主義か」という体制選択を中心課題とする時代が幕を閉じた。その代わりに中心を占めるようになったのが、地球環境という全人類的な問題である。

とくに1992年6月、ブラジルのリオデジャネイロに世界の首脳が結集し、「地球環境サミット」が行われたことをきっかけに、地球環境問題が大きく焦点化されていった。地球温暖化防止条約(92年5月)、生物多様性条約(同前)など、基本となる国際条約が制定されたのも同時期である。

もちろん、これは一方で、地球環境問題の解決に向けた主導権をどこが取るか、さらに言えば、地球環境問題という土俵で、どこが政治・経済の主導権を取るのかという、国家(地域)間のパワーゲームの側面も持っている。この時期、東西冷戦に勝ち抜き、「唯一の超大国」を謳歌する米国は、国連や国際的な条約に拘束される必要はないとして、圧倒的な軍事力を担保とした世界秩序を展望していた。これに対し、地球環境問題でいち早く積極的な対応に出たのは、欧州連合(EU)である。

こうした流れを受け、日本政府も遅ればせながら対応を迫られ、省庁ごとの政策を打ち出すことになる。その中で、当時の農林省(現・農水省)が行ったのが、「有機農業対策室」を設置だ。しかし、これは有機農業陣営から猛反発を受けた。これまで農林省は農薬メーカーや化学肥料業界と二人三脚で近代農業を推進し、有機農業を無視するどころか、むしろ孤立化を図ってきた。そんなところの対策など必要ない、と。結局、翌年には「環境保全型農業対策室」へと名称変更されるが、具体的な政策としては「塩漬け」されたに近い。

それが復活するのが、国際的な貿易の自由化を推進するWTO(国際貿易機関)が発足し、関税削減ルールを決める交渉が煮詰まってきた90年代後半あたり。その延長線上に、2000年のJAS法改定、有機JAS規格の誕生がある。つまり、諸外国が有機農産物の貿易拡大に向け、WTOで世界的な基準を設定しようとしたことがきっかけだ。米国やEU、オーストラリアなどは、大規模に栽培された有機農産物を日本に売りたいが、なかなか売れない、それは日本政府が有機農業に対して消極的だから、つまり政策的に一種の貿易障壁をつくっているからだ、有機農産物の国際基準を受け入れるべきだ、と圧力を受けた。

こうして、外圧に弱い日本の官僚はJAS法を改定し、有機JAS規格を策定する。もちろん、有機農業陣営は反発した。有機農産物の基準は官僚が決めるものではない、表示を規制する前に、そもそも生産の段階で有機農業を促進する施策が必要だ、と主張した。しかし、この段階では、国際的な背景に対する認識も充分でなく、また、「ニセ有機農産物」の市場流通を阻止するとの理由で押し切られる形になってしまった。

その結果、何が起きたか。JAS法改定の段階で、日本の農産物生産の総量に対する有機農産物の割合は0.16%だった。それが5年後、同じく0.16%で増えていない。一方、海外から輸入される有機農産物の量は、5年後には7倍に拡大した。ところが、EUは92年に有機農業を推進する農業政策に転換し、環境直接支払制度を設けたことによって、それまで0.1%だった有機農産物の割合は飛躍的に拡大した。日本では、まだ踏み込めていない。しかし、地球環境問題への対策が焦点化する中、有機農業を促進しようとすれば、WTOのルール違反にもならない環境直接支払は、充分考慮すべき政策だと思う。

私は昨年、北海道洞爺湖G8サミット(主要8ヵ国首脳会議)に伴う環境相会合が神戸で行われるのに合わせ、仲間に呼びかけて対抗フォーラム「農業と環境を考える国際シンポジウム」を実施し、参加者全員で「〈有機農業が地球環境問題を解決する〉神戸宣言」を採択した。その柱は、環境問題の解決を考える上で重要なのは、温室効果ガスの削減だけではなく、「空気を汚さない、海を汚さない、土を汚さない」というシンプルな原則であり、それを守るためには人間の暮らし方の転換が避けられず、有機農業を軸とした生活様式への転換が求められている、というもの。これは92年の地球環境サミット以降の十数年に対する、我々なりの総括でもある。

●グローバリゼーションと地域循環社会

こうした主張は、現状では確かに多数派ではないが、世界中で同様の考えを持ち、行動し始めている人々がいる。日本の産消提携運動と同じく、米国ではCSA(Community Supported Agriculture:地域支援型農業)運動が拡大し、ヨーロッパ、南米、アジア、アフリカ地域でも生産者と消費者が連帯して農業を支える組織が生まれつつあるなど、提携運動は今や世界的な広がりを見せている。こうした各国での運動を国際的に結びつけ、交流や研鑽を世界中に広げていく取り組みも始まった。民衆の力で都市と農村を結び、独自の経済システムをつくろうと提起する「国際提携運動ネットワーク」(URGENCI: Urban Rural Generate New Commitment between Citizens)だ。

現代はグローバリゼーションの時代と言われる。実際、90年代からのグローバリゼーションによって、さまざまな国で地域の社会・生活・環境・文化が破壊された。自給経済にもとづいて多様に織りなされていた地域の諸関係が解体され、巨大資本への集中が急速に進んだ。自然の循環から逸脱したマネー(資本)の集中によって引き起こされたのが、昨今の「金融資本主義」の爆発だ。したがって、グローバリゼーションに反撃し、地域を守るためには、地域での循環、地域での自給が不可欠となる。そこで根幹となるのが、循環・自給を旨とする有機農業だ。

地域の中に有機農業をきちんと位置づける必要がある。今、その好機が生じている。政府は昨年はじめて、有機農業の推進に4億5000万の予算をつけた。来年は市町村レベルでの有機農業推進計画が出てくる予定だ。我々運動側としては当面、有機農業の普及啓発、消費者向けの宣伝やシンポジウムが中心になるだろう。これについては、「地域・循環・自給」を柱にして組み立てていきたい。なぜなら、有機農業とは農法の問題ではなく、自給・循環の問題だからである。農家の自給的暮らしの復権、それと消費者の食生活の変革、「豊かさ」の転換。有機農業の根幹は、ここにある。

農業に注目が集まっている今だからこそ、それを一過性のもの、景気が回復すれば打ち捨てられるようなものにしないために、価値観の部分で提起する内容が問われている。これまで以上に、「農的暮らし」を通じた自給経済の回復への展望を語らなければならないと感じている。

地域での自給経済の回復にとって、大きな問題は持続可能な仕事づくりである。この点で、モデルとなるのが、いわゆる農産物の直売所だ。直売所は現在、全国で2万ヵ所にまで拡大している。私が勤めてきたJA兵庫六甲の管内では16ヵ所を数え、およそ100世帯の農家が出荷している。一世帯あたりの年間売り上げで言えば50万円ほど。小規模に思えるが、合計すれば5000万円、米や加工品も合わせると、全体で1億円にはなる。手数料として15%をいただいているから、運営には1500万円の資金が使える。マネージャーやレジ係の雇用も生まれる。全体でこれくらいの規模ならば、年収400万〜500万円の専業農家も出荷でき、後継者の育成も可能だ。

重要なのは、地域の中で回していく、ということだ。同じ農業だからといって、イオンやワタミが大規模に資本を投入し、農産物を単品栽培し、自社の流通網を使って販売したところで、地域には何も落ちない、何も生まれない。まして、グローバリゼーションへの抵抗にはならない。だから私は、直売所はモノを売るところではない、交流拠点だ、と言っている。ところが、農水省や世間が直売所に寄せる期待は、売り上げの数値である。ほとんど新手の量販店扱いだ。実際、最近は「直売所チェーン」なるものまで現れ、地域を越えて展開している例もある。これでは意味がない。そうならないためには、「顔の見える関係」という有機農業の原点に立ち戻る必要がある。もっと言えば、価値観の総体的な転換、近代的自然観の転換にまで行き着かなければならないと思う。

●農的文明へのパラダイムの転換

近代の自然観は、未だに圧倒的な影響力がある。その顕著な特徴は、数字あるいは要素に分解できることだ。これは確かに、自然科学の発展に寄与した偉大な功績だが、自然を単なる対象・素材として、征服すべきものとして捉えてしまう原因にもなった。しかし、言うまでもなく人間も自然の一部であり、自然の循環を離れては生きられない。今後は間違いなく、「自然の一部としての人間」という原点に立脚し、単なる素材でも征服対象でもない自然のあり方をいかに捉えられるか、ますます重要な問題になってくるだろう。

とはいえ、一筋縄では行かない。例えば、少なくとも私の世代には、近代に対して直感的な反発を抱くような自然経験が可能だったが、現代の子供たちには、そんな機会は極めて少なくなっている。そうした中で、どのように次の世代に伝えていけるのか。その点を抜きに、いくら食育や有機農業と言っても伝わらないという危機感もある。

だからこそ、伝えるためのさまざまな言葉を発明していく必要があると思う。この点について、私は文明史的な観点で、商工業文明から農業文明への転換ということを強調したい。実感として分かるように、現在、商工業文明が行き詰まって破綻を来している。それに対して農業文明が脚光を浴びている。だが、内実から見れば、現在の農業文明もまた商工業文明の延長線上にあり、共倒れしようとしている。このまま行けば人類滅亡であり、それを避けるには新たな文明に転換しなければならない。では、新たな文明とは何か。

私は、それを農業文明ではない「農的文明」という形で捉えたい。農耕の発生から1万年の中で、農業文明が商工業文明を生み出し、その結果が現在である。そう考えると、例えば、ひたすら生産力を高めることに邁進してきた、これまでの農業のあり方に問題があるのではないだろうか。その問題点が商工業文明に引き継がれたのではないだろうか。そうだとすれば、従来の農業文明を別のものに変える必要がある。それが「農的文明」だ。

従来の農業文明の歴史を踏まえれば、「農的文明」の展望も同じく1万年くらいの時間幅になるだろう。もちろん、これまでに培った技術や科学の成果をすべて否定する必要はないが、それを従来のような資源収奪型で、利潤優先で、一方通行的な枠組みの中ではなく、環境調和型で、使用価値優先で、循環的な枠組みの中で発揮できるような、農的な工業や商業のあり方を模索していかなければならない。

これは、「駄ボラ」と言われれば、その通りだ。しかし、以前と比べれば、少しは笑える、何らかの触発を受ける、そんなふうに受け取ってもらえる時代になって来たと実感している。徐々にではあるが、事態は確実に変化している。その意味で、確信はますます深まっている。(終わり)

【編註】
(1)詳細は、本野一郎『いのちの秩序 農の力』(コモンズ、2006年)を参照。
(2)正式には「農林物資の規格化及び品質表示の適正化に関する法律」。これに基づく農・林・水・畜産物およびその加工品の品質保証の規格がJAS(日本農林規格)。2000年の改定で、有機農産物またはそれに類似した表示をするために、農水省の登録を受けた登録認証機関の審査に合格することが必要となった。

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想像以上に広大な有機農業運動の自然観

本野さんのお話を聞いて感じたこと

まず、初っぱなにシュタイナーや岡田茂吉が出てきて面食らいました。正直、アソシ研主催の講義にスピリチュアルな二人が出てくるとは予想もしていませんでした。

シュタイナーのバイオダイナミック農法は、以前に読んだ『土壌の神秘』という本の中で取り上げられていて、ちょうど「牛の角」のくだりが書かれているのを思い出しました。自然農法についても、福岡正信さんの本を読んでいて、いろいろ調べているうちにEM菌の比嘉教授の本からMOAの自然農法を知りました。ただ、この二人の思想が後の有機農業運動の思想へと発展していく元になっていたとは、思いもしませんでした。

物質文明への対抗的な活動が有機農業運動につながって行くのは、自然に対する機械論的な考え方に異を唱えることだということを聞き、なるほどと納得しました。以前から、「人間対自然」とか「人間は生命体として特別の存在」といった考え方に疑問を持っていました。岡田茂吉もシュタイナーもキリスト教などの二元論な考え方に疑問を持っていて、アミニズム的な万物に神が宿るという考え方のほうが自然に感じたのだ、というお話でした。

自分自身がそうだったように、世間の人たちの大半はこのことについて知らないだろうと思います。現在、淀川産直の会員さんの中にも、シュタイナー教育を取り入れた幼稚園に子供を通わせたり、サークルを立ち上げて読書会を定期的に行ったりする方たちがいらっしゃいますが、たぶん、海外の有機農業がシュタイナーの考え方に影響を受けていることを知っている方は、ほとんどいないと思います。

こうやって見ると、最近よく耳にする事柄の多くが、実は有機農業運動に影響を受けているように感じます。地産地消、地域通貨、自家採種…。他にももっとありそうですね。

今回の講座で、現在の都市集中型社会のあり方に問題点があるということがよくわかりました。今回の講座に出てきたキーワードを一つずつ拾っていくと、これからの社会は地域の可能性を考えていかなければならないように思います。例に出されたキューバのように、都市型の生活をしている人たちも少なからず農業に携わり、農を基本とした生活のあり方を考えないといけないように思います。

それぞれの地域で考え行動していく、グローバリズムと真っ向から対抗しているような活動が増えていくのでしょうし、これからは地方自治体も地域での活動をどう活性化していくのか、考えないといけなくなるのでしょう。実際、大阪市内に住む自分自身が回りを見回して、どうやって農業に携わっていくべきか、考えれば考えるほど難しいと感じます。もし本野さんが言っていたように農的文明が発達してきた暁には、都会に住む人ほど生活に活気がなくなり、地方の農村や自治体が元気に復活してくるように思います。そしてそうあってほしいと願います。(西田祐一:淀川産直センター)


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