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講演会報告:本山美彦さん講演学習会

はじめに

もはや旧聞に属するが、去る1月24日、北大阪商工協同組合の主催で「金融危機 講演・学習会」が開催された。講師は経済学者の本山美彦さんである。昨年来の世界金融危機から経済危機について、幅広い話題を通じて本質的な問題点を明らかにしていただいた。要点をかいつまんで紹介したい。

危機を好機へ転化するために

講師をお願いした本山さんは、長らく京都大学経済学部で教鞭をとられ、定年退職の後、現在は大阪産業大学に勤務されている。専門である世界経済論を中心とした学術書の他にも、『南と北』(筑摩書房、1991年)や『豊かな国、貧しい国』(岩波書店、1991年)など啓蒙的な教養書、さらに『民営化される戦争』(ナカニシヤ出版、2004年)や『売られ続ける日本、買い漁るアメリカ』(ビジネス社、2006年)といった対象の広い一般書も含め、幅広く執筆されている。

私自身、学生時代に南北問題の学習会をした際には、たしか『南と北』『豊かな国、貧しい国』をテキストにした記憶があり、また市民運動が主催する講演会などで本山さんの話を聞いたようにも思う。そうした記憶の上に、ちょうど最新刊の『金融権力』(岩波新書、2008年)が話題を呼んでいたことも合わさり、学習講演会の講師候補にさせていただいた次第である。 

それにしても、人間の記憶ほど当てにならないものはない。当初は、かつて読んだ著作の印象からか、いかにも学者然とした人物像を想定し、参加者の関心にうまく合致するか気を揉んだ。しかし、それはまったくの杞憂に終わった。雰囲気は異なるものの、豊富な裏話、エピソードを駆使して政治経済に関する出来事の「タネあかし」を行っていく、かつての山川暁夫氏を思わせる話芸は圧巻であった。

金融主導型への転換

本山さんのお話は、大きく二つに分けることができるだろう。一つは、今回の金融危機を発端とする不況は、モノが売れないとか営業努力が足らないといったことではなく、主要には企業が運用していた金融商品の暴落が原因だ、ということである。

これに関連して、本山さんはトヨタ自動車の例を挙げた。同社は、誰もが知るように世界一の自動車生産会社だが、同時に、賞賛をもって「トヨタ銀行」と呼ばれるほど、金融商品の取引が上手いことで知られていた。日本の名だたる大銀行よりも、実はトヨタの方が金融収益は大きかったという。しかし、そのトヨタが今回どれほど金融上の損失を招いたか、まったく報道されていない。赤字の原因は欧米市場の需要急落とされているが、むしろ、金融取引にかかわる経営上の責任を回避するために、需要急落−生産縮小という偽りの理由を持ち出した可能性を捨て切れない。――本山さんは、そう疑問を投げかけた。

もちろん、それはトヨタに限られるものではない。先進資本主義諸国の大企業を中心に、経済活動の重心が産業主導型から金融主導型へ移行してきたという現実がある。この点で本山さんは、高度経済成長期と現在という形で、日本の企業の基盤とした価値観の変遷を例示した。

よく言われるように、現在、経営者の才能は「会社の株価をどれだけ上げたか」によって決まりがちである。ホリエモンのライブドア事件で「株価資本主義」と揶揄されたように、こうした考え方は弊害が大きいのも確かである。ただし、株価上昇の根拠は時代的によって異なる。高度経済成長期ならば、品質や価格だけでなく、経営陣と社員の一体性こそが企業の評価を決めた。「労務屋」系統が社長になったのは、それ故である。ところが、現在は短期的な財務諸表の内容だけが問題とされる。株式市場で評価されるのは、労働者も含めたコストをどれだけ切れるか、である。その結果、社長になるのは現場労働を知らない「経理屋」。苦労を伴う生産よりも、金融収益による企業買収こそが経営の中心となり、モノづくりにまつわる企業の一体性は消失する。

本山さんは、「現在のようなコスト削減優先主義では、むしろ資本主義は全体として延命を果たすことが困難になる」と指摘されたが、その通りだろう。まさに「わが亡きあとに洪水はきたれ!これが、すべての資本家、すべての資本家国の標語なのである」というマルクスの指摘を思い起こさないわけには行かない。

金融権力の覇権

こうしてみると、サブプライムローンの焦げ付きを発端とする世界金融危機は、一つの結果に過ぎないことが分かる。この結果を生みだした経済活動の金融主導型への転換こそ、まさに真の危機なのだ。とすれば、その転換はなぜ生じたのか。もちろん、現在の状況とは異なるものの、かつて「産業資本から金融資本へ」という形で資本主義の展開が描かれたように、転換の「種」は資本主義そのものの中に含まれていたと見ることもできる。しかし同時に、それを後押しする強力な役者が存在することも、また確かである。

この点で、本山さんは著書の題名ともなった「金融権力」という概念を提示する。「金融権力」とは、金融を中心とした経済権力と政治権力とが融合・一体化して形成している巨大な権力であり、とりわけ1980年代以後の米国に顕著と言える。投資銀行や証券会社のトップが政府やIMF(国際通貨基金)・世界銀行といった国際機関の高官として、金融自由化政策をはじめとした恣意的な経済政策を行使し、それを成果に出身企業に戻って優雅な余生を過ごす――。簡単に言えば、こうした権力構造を指すものと見てよい。

その実例として、本山さんは米国政府の財務長官を挙げた。民主党内に「市場中心主義」を根付かせたとされるクリントン政権時代のロバート・ルービン。そしてブッシュJr.政権時代のヘンリー・ポールソン。いずれも、世界最大の投資銀行ゴールドマン・サックスの元会長であり、民主・共和の違いこそあれ、金融業界への利益誘導に尽力した。中でも、ルービンは財務長官を退任した後、世界最大の金融企業シティグループのトップとなり、金融危機の際に公的資金の注入をもぎ取るべく活躍したことで知られる。

それだけではない。現オバマ政権の財務長官ティモシー・ガイトナーも、まさにルービンの子分筋にあたり、かつて日本の金融市場の安定化のためとして、21行あった日本の銀行を3メガバンクにまで集約した際の先兵である。要するに、金融権力は、たかだか「行き過ぎ」による失敗を悔いているだけで、反省など一切していない。むしろ公的資金による焼け太りすら招いているのだ。

オルタナティブは足もとに

とすれば、われわれはいかにして金融権力の覇権から逃れられるのだろうか。これが、今回の講演学習会の第二点である。これについて、本山さんの主張は至ってシンプルだ。すなわち、いかにして人間の暮らしに即した経済活動へ戻るか、である。さらに、金融権力に自己反省の能力がないとすれば、われわれの側から、たとえ小規模でも生活に即した経済の仕組みを作っていくことだ。

もちろん、それは一足飛びに、また全面的にできることではない。その意味で、国家介入の強化による規制の再設定といった方法も行使されるべきである。しかし、現在の事態は「市場か国家か」という従来の思考枠組みそのものの限界を示しているとも言える。むしろ、「未曾有の危機」と言うのであれば、根底から考え直すことで、危機をオルタナティブに向かう好機へと転化していく構えが求められるだろう。

すでに本山さんは『金融権力』の第6章を通じて、バングラデシュで農村部の貧困層女性を対象に、「マイクロクレジット」と呼ばれる小口の無担保融資を行うグラミン銀行、社会的な事業目的を持つ企業に融資する市民主体で非営利のNPO銀行、さらに米国主導の国際金融秩序とは別の枠組みをつくろうとする南米諸国の「南の銀行」など、現に世界各地で営まれている模索を紹介しているが、こうした実践の源流として、プルードンの思想と実践を参照している点は注目される。

講演学習会の中でも、当研究所の名称にある「アソシエーション」をネタに、北大阪商工協同組合の来歴を踏まえ、足元の生活、足元の実践にこそオルタナティブがあることを強調していただいた。私も含め、参加者の誰もが、自らの行っている日常的実践の意味を歴史的に捉え直すとともに、漠然とではあれその中に将来展望を見出せる希有な機会となったはずである。(山口 協:研究所事務局)


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