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研究会報告:グローバリゼーション研究会

新自由主義時代にはベーシック・インカム?

2月に実施したグローバリゼーション研究会の例会では、新自由主義的グローバリゼーションに対抗する運動の特徴と問題点をテーマに、新自由主義と国家との関係、対抗運動の中で取り沙汰されている「ベーシック・インカム(BI)」をめぐって報告と議論が行われた。当日の報告者から、研究会での議論を踏まえてまとめた主張が寄せられたので、以下に掲載したい。

1 新自由主義は国家を強化する

「市場に任せろ」とか「規制緩和」が喧伝されだした頃、国家の介入はあらゆる局面で後退し、グローバリズムの下では国家権力はあたかも縮小・弱体化されるかのように触れ回る論調も見受けられた。果たして実際はどうだったか? …然り、国家の介入はある面では劇的に縮小・弱体化された。それが如実に表れたのは、労働行政も含めた社会保障の分野である。いまや「派遣切り」を見るまでもなく、労働者の権利や社会保障において国家・行政が果たす役割は劇的に減少した。

では、国家は縮小・弱体化する一方だったのか? 否である。異なる側面に光を当ててみると、国家は飛躍的に拡大・強化された。その代表格は、国家が国家たる所以、国家の暴力装置にかかわる機構、具体的には、警察・検察、監獄、そして軍隊である。だが、軍隊・軍事力の拡大はともあれ、警察・検察の拡大と厳罰化、そしてその必然的帰結として監獄の拡大が新自由主義の特質であることは、ほとんど取り上げられることがない(少なからぬ人は漠たる実感としては感じているのだが…)。しかしこれは紛れもない事実である。

例えば、世界一の格差社会である米国は、世界一の監獄国家でもある。全米の受刑者は1988年には60万人だったが、20年後の2008年には153万人になった。20年で2.5倍である。日本では1996年に4万人を超えた受刑者数が、2006年には7万人を突破した。こちらは10年で1.8倍。増加率では日本は米国を上回っているとも言える。

2 社会保障よりも安全保障

そして日本におけるもう一つの特徴は厳罰化だ。死刑判決で見てみよう。1996年になされた死刑判決は8件だったが、2006年には45件になった。実に5.5倍である。それだけ凶悪犯罪が増えたのだろうか? 1996年の殺人及び殺人未遂事件の総件数は1218件だった。2006年のそれは1309件、更に2007年は1119件で戦後最少だった。これは驚くべき事実ではないか。多くの人々(実はボクだけかもしれないが)は、死刑の増加と新自由主義とは何の関係もないと思ってきた。むしろ、“新自由主義の弊害として社会が荒廃した結果として凶悪犯罪が増え、その結果、死刑・重刑が増加している”と「善意に」解釈してきた。ところがこの「善意」の前提自体が全く間違っていたのだ。凶悪犯罪は全く増加しておらず、むしろ減少傾向にある。にもかかわらず、死刑判決は「量産」されるようになった。これは、“社会保障よりも安全保障”という、新自由主義のイデオロギーの具体化に他ならない。

そしてこうした監獄の拡大・厳罰化の中に、警察・検察の変容と裁判員制度があると考えるべきだろう。死刑判決が「量産」されるようになった転換点は、1997年から1998年に検察側が行った異例の連続上告が要因ではないかという見方がある。連続上告5件の事件は、いずれも控訴審において死刑が求刑されたにもかかわらず、無期懲役が判決されたというケースであった。本来、量刑不当を理由にした上告は基本的に認められないにもかかわらず(上告理由は判例違反と憲法違反に限られる)、あえて上告が連続してなされたのは、検察が「被害者感情」をテコに従来の判例や法解釈を変更させて死刑判決を「量産」させるための意図があったと考えて間違いない。

また、このころ頻発した警察・検察によるマスメディアを総動員しての「逮捕事件」は、政治的色彩が強いものが多かった。例をあげよう。オウム事件裁判の弁護団を務めていた安田好弘弁護士は1998年、大阪高検の三井環元公安部長は2002年、鈴木宗男衆議院議員と佐藤優外務省元主任分析官も2002年、辻元清美衆議院議員は2003年にそれぞれ逮捕されている。こうした流れがその後も続き、今回の小沢一郎民主党代表の第一公設秘書の逮捕に至っていることは明らかだ。

このように新自由主義の下では、警察・検察は権力の守護神としての立場を、これまで以上に露骨に示すようになった。そしてマスメディアを動員しながら、事件を劇場化しながら、人々の同意をねつ造していくシステムを作り上げてきた。そのシステムの一つとして裁判員制度はありそうである。

3 ベーシック・インカムって何だ?

そしてBI(ベーシック・インカム)である。この耳慣れない言葉が、急速にボクの回りで飛び交うようになったのは、ここ1〜2年のことだ。中身はそれほど難しいものではなく、住民1人に付き、老いも若きも関係なく平等に○○円を支給するというものだ。ある意味では画期的で、この社会において人間がとにかく生きていくための所得を保障しようという新たな社会保障政策と言える。

他方、ボクのような石頭の御人からは、“アホなことを言うな。「労働に応じて平等に分配」=社会主義段階も経ないで、住民1人につき平等に分配、などという共産主義段階に近いようなシステムが、この新自由主義の下で実現するはずないやろ”と突っこみが入りそうだ。ボク自身、そうした疑念に加えて、BIが実現される社会は更なる国家権力の肥大化をもたらすのではないかとの疑問もあった。

いやいや、BIはそれほど革命的なシステムではない。確かにこれまでの社会保障政策と税制が一変するという意味では画期的だが、実現は充分に可能だし、実は新自由主義にこそ合致する政策なのである。その実現可能性については、『週刊金曜日』741号(2009年3月6日)で小沢修司氏が試算を出している。それによれば、全ての個人1人につき月額8万円を無条件で支給するための財源を全額所得税から捻出した場合、その所得税は45%の単一税率とすることで実現できるとする。その場合の最終所得は、従来の年収が700万円の3人家族なら増収、同200万円の単身者なら増収、同900万円の単身者ならかなりの減収という試算結果になっている。但し、この試算=月額8万円のBIは現在の生活保護よりもかなり低水準で、無収入者に対しては結局生活保護が別途必要という根本的問題点がある。

4 新自由主義とベーシック・インカム

BIは新自由主義にこそ合致する政策と述べた。その理由はこうである。

ケインズ主義の下では、建前としてではあれ、完全雇用が前提とされた。そして雇用労働者が「食べていける」ことは自明であった。つまり、完全雇用が前提とされる社会では、大多数の雇用労働者は安定した生活が保障される。従って、社会保障・福祉政策は、雇用から外れた少数の人々に対する、失業保険や生活保護として保障すれば良かったのだ。

それが新自由主義の下では、状況は一変する。完全雇用は前提とされないだけでなく、雇用形態が細分化した結果、多くの労働者がワーキング・プア化した。「食べていけない人々」=プレカリアートは決して少数ではなく、失業保険は機能せず、生活保護は自治体の「水際作戦」によって受給できない制度になった。

俗に言う「働かざる者食うべからず」は、今や死語となった。だって、「働いても食えない」んだから。働いている/いないに関わらず「食べていけない」ことが一般化した社会にあっては、BIこそが相応しい。何故なら失業保険は働いていることが前提だし、生活保護は「食べていけない」ことについて特別な理由を必要とする制度だからである。

「生きているだけでお金が支給される」…このことに多くの人が違和感を感じることも事実だろう。しかし考えてみてほしい。「同一労働同一賃金」はおろか、労働の対価としての賃金という概念自体を、資本の側は捨て去っている。米国の保険会社AIGの役員に対する巨額ボーナスをみれば、彼らが得る巨額の報酬は、労働の対価どころか、成果に対する報酬ですらない。要するに「契約で上手く分捕ったかどうか」だけである。他方で、派遣や請負、パートはまさにそういう「身分」であるが故に、労働の対価や成果に対する報酬ではなく、「身分」の対価しか受け取れない。この現状からみれば、「生きているだけでお金が支給される」ことの方がよっぽど公平・平等で納得できる制度ではないか。

5 しかし、労働は権利ではないのか?

しかし、根本的な疑問が残る。

その一つは、BIは社会保障なのか、という疑問である。BIは、新自由主義の下で「食べていけない」人たちが「生きていくため」にお金が支給される。しかし、人は金だけで生きていけるのか、金さえ与えれば良いのか、という問題である。その点で、廣瀬純氏は、「運動なきBIはつまらない」と述べているが(出典…雑誌の題名忘れました)、確かにその通りで、制度論としてのBIは、社会保障というよりも、社会の安全保障の為の政策ではないかとも考えられる。この点でも、新自由主義とBIは親和性を持っていると感じる。

もう一つは、上記とも関連して、労働は権利ではないのか、という疑問である。人は自然や他者への働きかけ=労働を通じて生活し、人間社会を築いてきた。その意味で、人間にとって労働は、自らが生き、社会をつくり、またその生活と社会を変革していく原動力である。ところが、BI等の議論の中には、労働はいつの間にか「苦行」とのみ捉えられているかのような傾向が見受けられる。これは、新自由主義が賞賛した、“消費こそが人間にとって創造的な活動である”のような立場と、危うい通底があるのではないか。

いくら経済的に破綻しようが、新自由主義に取って代わる、新たな社会が構想され、運動されなければ、新自由主義は終わらない。日本が新自由主義国家として全面化する課程において、監視カメラと国家の暴力装置は飛躍的に拡大・強化された。新自由主義の矛盾と破綻が露わになった今、資本と権力は様々な弥縫策をばらまいているが、BIも彼らの選択肢の一つに入っているだろうことは頭に入れておいた方が良い。

しかしそれでもなお、私たちが「生存のための賃金として」BIを要求することは、意味がある。BIを要求する運動は、新自由主義に取って代わる新たな社会に向けた運動と連動して闘われることは充分可能である。そうした闘いは、国家権力を更に肥大・拡張させるのではなく、逆にそれを形骸化し、穴ぼこだらけにしていくことに寄与するだろう。(福井 浩:鰍ミこばえ)


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