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活動報告:釜ヶ崎フィールドワーク

「30数年前から派遣村状態なんです」

研究所では毎年、よつ葉グループ全体に呼びかけ、釜ヶ崎フィールドワークを実施してきた。今年は初の試みとして、フィールドワーク実行委員会を形成し、2月28日に実施した。折からの世界的な経済危機に伴う雇用・労働状況の悪化を受けてか、これまでで最多の30人以上が参加した。

なぜ釜ヶ崎でできないのか

日雇い労働をしながら生活をしている人たちが多く住む街、釜ヶ崎。そのフィールドワークはあいりん総合センターから始まった。ご存じの方も多いと思うが、釜ヶ崎の日雇い労働は、総合センター前に手配師(雇用主)がマイクロバスなどでやってきて、条件を掲示し、労働者は車に乗り込むことによって契約が成立する。しかし労働者に支払われるはずの賃金から手配師がピンハネ(中間搾取)するなど様々な問題に対処するためこのセンターが出来た筈であった。

釜ヶ崎炊き出しの会代表であり、釜ヶ崎地域合同労組委員長も務める稲垣浩さんに案内していただき、センターの二階に上る。すると、あいりん職業安定所の窓口が20近く並んでいるのが目に見えてくる。実は、このあいりん職安は全国で唯一、職業紹介をしない職安だ。失業給付の申請受付を行う平日朝8時からの30分と給付受給時の11時からだけ四つの窓口が開かれる。他の窓口は一日中閉まったままなのだろうか。

稲垣さんは、「あいりん職安が職安として機能していないことで、釜ヶ崎の日雇い労働者は手配師や人夫出しを通じてしか仕事にいけない」。その結果「日常的にピンハネ、賃金不払い、労災もみ消しなどが横行している」と参加者に熱く語ると同時に、次の点も強調された。「皆さんは東京の『年越し派遣村』をご存じでしょう。生活保護など、行政が迅速な対応をしており、やればできるんや、と思いました。ところが、釜ヶ崎では行政は何もしていない。30数年前から派遣村状態なんです。なのになぜか。これこそ差別行政ですよ」。

食・農と貧困問題

センターを出ると、道路際で衣服や本からDVDまで、様々なモノが並ぶ小さな朝市が開かれていた。その多くは、労働者たちが集めてきたものだという。朝市が一番賑わうのは日曜日で、掘り出し物が出ると聞いたこともある。参加者は縦列でセンター横から南海電車の高架沿いを歩いていく。途中、萩ノ茶屋小学校と今宮中学校の壁とさくに取り付けられた歩道に向けた散水装置の前で稲垣さんが止まった。全国では歩道に向けた散水装置を設置しているのは、この二校だけということだ。さて何のために使うのだろうか? 設置当初から毎朝、先生が学校から出てきて、掃除をするといって労働者を歩道から追い立てた。つまり労働者を野宿させないために教育委員会が付けたものなのである。追い立てられる光景やあの装置を見ながら子どもたちは、どう考えながら成長していくのだろうかという思いがよぎる。

続いて炊き出しの会の事務所が置かれた釜ヶ崎解放会館に向かう。炊き出しの会とよつ葉とは古いつきあいらしく、稲垣さんからは、解放会館の設立にあたっては、能勢農場の創設者の一人である上田等さんをはじめ、よつ葉グループに関わる多くの人々が支援を寄せたという。最近では、「食の運動と貧困問題をつなげよう!」との意見もよく聞かれる。今回、よつ葉と釜ヶ崎との持続的で具体的な活動を知り、最近このテーマで悩むこともあった私は妙な感慨にふけらされた。

500万食の連帯

次に1975年から34年間1日も休まず続けられている釜ヶ崎炊き出しの会の昼の炊き出しに参加した。炊き出しでは朝11時と夕方5時の2回雑炊を提供している(冬場は3回)。稲垣さんによると、例年なら年明けに並ぶ人の数は年末と同じ約200人ほどだが、今年は徐々に増え、今では朝11時の炊き出しに400人以上、時には500人ほど並ぶこともあるという。1日のコメの使用量は約30キロ。単純計算でも年間約1トンのコメが必要ということになる。このままのペースでいくと炊き出しの米が不足してくる可能性もあるという。

これまでの炊き出しで、延べ提供数は500万食を超えると聞く。しかも行政からの援助を一切受けず、費用は全てカンパで賄われている。雑炊には野菜、ホルモン、ソーメンなど、やはりカンパの食材を加え、労働者に好評な味噌も財政が許す限り使っているという。直径60センチ、高さ90センチほどのアルミ製の寸胴で煮炊きするわけだが、稲垣さんの『釜ヶ崎 炊き出しのうた』(海風社、1989年)を読むと、能勢農場から寸胴をカンパしてもらったエピソードも記されており、ここでもよつ葉とのつながりを感じることができた。

なお、これまでのフィールドワークでは、昼の配食の際に見学をするばかりだったが、今年は新たな試みとして、和歌山「蔵本さんグループ」の伊予柑を準備し、参加者全員の手渡しによる配布を行った。当日は、ほかにもキリスト教関係者やベンチャー企業が副食を配布しており、多少は賑やかな昼食となったようだ。

西成公園にて

午後からはバスで西成公園に移動し、テント村を訪問した。西成公園にはテント村の住人を排除するために園内をまるごと分離する有刺鉄線付きのフェンスが設置されている。大阪市が設置したものだ。公園の主要部分は正面ゲート以外から出入りすることはできなくなっており、参加者の一人は「まるでイスラエルがパレスチナ人を封鎖するためヨルダン川西岸地区に建設した壁のようだ」とこぼしていた。

西成公園では、まず、テント村の自治会とも言うべき「よろず相談所」の伊東一夫さんの先導で、西成公園を一周した。現在、西成公園では約70名の労働者がテント小屋をつくって生活を営んでいるが、大阪市当局は一貫して追い出しを画策している。時には暴力的な小屋破壊も辞さず、昨年の秋にも、総勢15名が取り囲み、ある労働者の住居1戸を破壊している。公園に住む労働者たちは、よろず相談所とその横に新たに設けた団結小屋を中心に、現場闘争体制をつくっているという。

公園を一周する途中、伊東さんから、大阪市が以前に設置していた大きなシェルター(緊急一時避難宿泊施設)の説明を受けた。大阪市は2002年1月から、テント小屋の撤去と引き換えにシェルターへの収容を進めたものの、労働者にとってプライバシーのないシェルター暮らしは厳しく、また、空き缶集めなど、それまで続けてきた自力での生活が困難になることもあって入居者は増えず、その結果、2004年12月に突然閉鎖された。

最後に、テント村の住人から話を聞く機会があった。突然のお願いにも関わらず、勤め先での人間関係をめぐる問題から職を失い、路上生活となり、その後、長居公園での強制排除を受け、仲間の協力もあり西成公園にきたことなど、これまで生きてきた道を話して下さった。2月の終わりとはいえ、まだまだ冷たい風が吹く中、参加者からは質問が相次ぎ、フィールドワークが終わったのは予定時間ギリギリだった。

今回のフィールドワークについて、よつ葉という食に関わるグループで働く人たちはどのような感想を持ったのだろう。私はと言えば、食や農に携わる者として、稲垣さんの持続的な活動や伊藤さんらテント村の日常的な実践と出会い、仲間とのつながりや連帯の意味を再確認する機会になったと感じている。(松平尚也:研究所事務局)


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