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研究会報告:たべもの歴史研究会)
有機農業と「近代の超克」

 
 (特)日本有機農業研究会幹事の本野一郎さんを講師に実施している新規研究会「たべもの歴史研究会―“文明のたべもの史観”にむけて」。以下、第5回の内容をかいつまんで紹介する。

 

今回は、これまでの中間総括として、本野さんの近代文明批判を展開していただいた。本野さんによれば、農耕の発生から1万年にわたって農業文明、商工業文明が展開されてきたが、現在ではヨーロッパの風土が生み出した考え方が近代文明の柱になって世界を支配し、圧倒的多数の人々がその影響下にある。それ故、近代文明を批判し、それを超えるとは、背景にあるヨーロッパ発の考え方をどう超えるかという問題であるという。

農薬被害に現れた「近代」

同時に、本野さんにとって近代を超えることと近代農業を超えることはイコールだという。そこには、本野さん自身の痛苦な経験がある。それは、兵庫県のキャベツ産地にある農協で営農指導員を務める中で体験した「農薬被害」の問題である。 一般に、キャベツに代表されるアブラナ科には連作に伴う土壌障害が生じがちである。何であれ植物は、土壌から自らが好む栄養素を選んで吸収する。ただし、その栄養素は作物によって異なり、満遍なく吸収するものもあれば、特定の栄養素のみを吸収するものもある。キャベツを含めたアブラナ科の野菜は特定の栄養素を好んで吸収するため、土壌の栄養素に偏りができる。そうした栄養素のバランスが崩れたところに好んで集まる微生物、すなわち土壌病害菌が土壌障害を生むのである。こうして作物は病気に罹り、収量・規格ともに期待以下の結果となる。当然、市場には出荷できず、農家の所得は危機に瀕する。 こうした事態を防ぐため、農協の営農指導員は農薬会社や試験研究機関と相談を重ね、病害菌に対応した農薬を施用することになる。あるとき、PCNBという土壌消毒剤が現れた。実際に施用してみると「根こぶ病菌」に非常によく効き、誰もが使うようになり、連作に連作を重ねたという。 ところが数年経ったある日、本野さんが勤める農協のキャベツ部会の部会長が、急に体調を崩して倒れ、入院することになった。検査の結果、部会長はガンで手の施しようがない状態であることが判明し、ほどなく亡くなってしまった。すでに各地でPCNB剤による健康被害が取り沙汰され、発ガン性のあることも明らかになっていたことから、PCNB剤の多用が部会長の死因の一つになったことは間違いないという。
ここで本野さんは、生命を支えるたべものをつくりながら自分の生命を縮めてしまうような農業がまかり通っていることのおかしさを改めて痛感し、自らの責任として、そうではない農業を目指すことが確信となったという。と同時に、かつて参加した学生運動の中で、資本主義の仕組みを解体して新しい仕組みをつくろうとした志と、眼前に展開される近代農業の現実を結び合わせて考えたとき、近代農業と資本主義をつくり出した根源として近代文明そのものを転覆させる必要性を感じたという。
こうして本野さんは、近代農業を解体し、新しい農業つまり有機農業を定着させることが近代を超えることだと決心した。それ故、本野さんにとって有機農業とは、単に農薬や化学肥料を使わない安全性とか、環境にやさしいという意味ではない。まさに、近代農業を生み出した近代文明を超えるということに他ならない。

「近代」とは何か?

以上のような経験を踏まえ、本野さんは哲学者・廣松渉が提出した「近代の超克論」を参考に、近代を超えるということについて自分なりに考えたいと思ったという。そして、まずは廣松渉の弟子である小林敏明の『廣松渉−近代の超克』(講談社、2007年)に沿って、「近代を超える」と言う際の「近代」を、下の図に示されるように、三つの問題系にまとめている。


 
第一は、近代の様相、つまり近代がまとう姿としての「市民社会と国家」。ここには資本主義の様相、都市文明の様相、民族国家の様相が含まれる。
  特殊な資本主義経済様式が動機となって、個々人は市場で等価交換を行う商品所有者であり、市民として対等な取引相手だとする市民社会が形成される。しかし、現実の市場は、大きな暴力性を孕んでいる。
  また、資本主義が発展するためには、人間を労働力商品として資本の下に服属させる必要があるが、それは農村共同体の人格的関係を離れた都市において可能となる。こうして、近代は都市文明の様相を呈するが、その背後には都市による農村の侵略がある。
  半面、資本主義も都市文明も自由放任になるので、社会を統治するために国家というものが要請される。近代国家は、国民/民族という言葉で市民社会を集約する「ネーション・ステイト」である。その役割は、「ネーション」の名のもとに市場の暴力性と都市の侵略性を覆い隠すことである。
  第二は、近代の思考としての「合理主義」。ここには宗教と対峙する思考、制度化という思考、科学技術の思考が含まれる。
  合理主義は宗教的思考に対抗して現れた。産業革命を前後する17〜18世紀になって、宗教による世俗統治が解体される。これは経済合理主義が原動力とするものだが、言い換えれば経済合理主義を神の位置に据えるものでもある。
  他方、経済合理性を基準にした社会構成体は必ず制度化してしまう。具体的には公共セクターが官僚化し、市場セクターが軍隊化する。
  産業革命を通じて科学技術の力が拡大していくが、それは同時に進歩史観を生み出し、国家官僚と企業戦士によって科学技術信仰が流布されることになる。こうした信仰の行き着く先が、原子力も自然災害もコントロールできるという安全神話である。
  第三は、近代の哲学としての「主観・客観」。ここには原子・単子という哲学、個体・個人という哲学、主体・客体という哲学が含まれる。
  近代の哲学は、物事の根本として、それ以上分割できない究極の要素「原子・単子」を措定する。これを基礎として、自然をさまざまな要素に分割し、その法則性を把握することで全体を理解する要素還元論が生み出され、自然科学の優位が確立されていく。たとえば近代農業では、トマトを育てるのに窒素5、燐酸3、カリ2という配分で要素別に肥料を入れる。しかし、それが土壌障害に関わってもいる。
  要素還元論は、個体・個人という考え方とも関連している。近代以前、人々は村のため、属する集団のために生きていた。しかし、近代になって一人一人に尊厳や人権があるという考え方が生まれ、精神の優位、肉体・物体の劣位という二元論につながっていく。ここに個人主義の優位が確立する。
  精神の優位、肉体・物体の劣位という二元論は、自然科学と絡んで主体・客体という哲学を生み、哲学における主体の優位、自然科学における客体の優位、主体優位と物体優位の入れ子構造が確立する。これは近代特有の分裂である。

「近代」をどう超えるか

近代文明に基づくさまざまな事象が矛盾や歪みを孕んでいることは間違いない。そこから、単に個別の事象を批判するだけでなく、それらの事象を規定している「近代」総体を批判し、その超克を図ろうとする考え方も首肯できるものである。
  しかし、その際に、廣松渉の議論が参照されるのか、その必然性が明らかにされていない。しかも、廣松渉の議論を直接検討するのではなく、弟子とはいえ第三者の紹介を検討しているのはどうだろうか。さらにいえば、「近代の三つの問題系」はともかく、それを敷衍した「様相・思考・哲学」、あるいは「近代の展開 その本質」は、廣松渉の議論ではなく、本野さん自身の主張である。
  その意味でも、廣松渉の議論を参照する必然性があったのかどうか、よく分からない。資本とネーション・ステート、合理主義、主客図式といったカテゴリーで近代を分析する発想は、それほど珍しいものではないからだ。
  また、近代の否定的な側面に対する批判の内容は肯けるが、だとすればそれだけ、そうした否定面を抱える近代がこれほど圧倒的な覇権を確保できたのは何故か、という問題が浮上する。少なくとも当時は、近代以前の諸関係に対して何らかの利点があったからこそ、近代的な価値観が覇権を握ることができたのであり、その肯定的側面を含めて捉えてこそ、まさに近代に対する全面的な批判となり得るだろうし、それを踏まえてこそ、批判だけではなく、近代をどう超えるかという積極的な問題提起も可能になるはずである。
  付け加えて言えば、今回は「風土」という観点からたべものの歴史を振り返る第1回から第4回のまとめという位置づけを持っている。にもかかわらず、近代批判と風土がどのように関わるのか、あるいは風土に基づく歴史観が近代を超克した末に到達するのはいかなる世界なのか、残念ながら言及されることはなかった。
  しかし、これは同時に、いま本野さん自身が自らの思想を形成していく途上にあるということを示しているとも言える。今後、さらに近代批判が深まり、その超克の展望と方向性を指し示していただけるよう期待したい。

 (研究所事務局)

  


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