研究会報告:グローバリゼーション研究会
はじめに
昨年11月のグローバリゼーション研究会では、話題が沸騰しつつあった「金融危機」をテーマに議論を行った。当日の報告者から、研究会での議論を踏まえてまとめた自らの主張が寄せられたので、以下に掲載したい。
地域・運動・生産の重層的な連携
ちょうどこの原稿の締め切りが迫った頃、持病が約12年周期の恐慌として発現したため、ずいぶん間延びした報告になってしまった。このテーマにすることを決めた頃には、書店はまだ金融危機関連の本であふれているという状況にはなく、とりあえず、みんながTVで知っている金子勝氏の『閉塞経済』(ちくま新書)を読んできて自由に議論しようということになった。
その後、金子氏の共著『世界金融危機』(岩波ブックレット)が出版されたので、当日はまず新著の内容に沿った報告を受け、続いて私が、近頃の経済学者にまともな現状分析は期待できないから、と自分の不勉強を棚に上げて、ヒルファーディングの「金融資本」概念と『資本論』直結型の信用や恐慌についての報告を少し付け加え、議論にうつった。議論は多岐にわたり、細部はすでに忘れてしまっているし、「サブプライムローン問題に端を発する……」という、この間の経済情勢のまとめも読者諸兄は聞き飽きていると思われるので、いずれも省略する。
手強いブルジョアジーの無原則性
「〈現実界〉の砂漠へようこそ!」。映画《マトリックス》で、巨大コンピュータによって作られた仮想現実の中を生きている主人公が「本当の現実」に目覚めたとき、抵抗派の指導者モーフィアスはこう呟く。「金融工学」という詐欺商法の破綻が明らかになったとき、私も同じセリフを呟いていればいいと思っていた。ところが現実の砂漠に投げ出されるのは貧困層だけで、各国政府は富裕層の救済のための「社会主義的」国家介入にあっさり路線転換するではないか。これまでの「小さな政府」や「民営化」や「自己責任」についての新自由主義的説教は何だったのか。それにしても、他国に「自由貿易」を押し付けてきた米国政府が、2月17日に成立した「景気対策法」にバイ・アメリカン(米国製品の優先的購入)という保護主義そのものの条項に入れたのには驚いた。まったく、現実の砂漠を生き抜くブルジョアジーの無原則さは手強い。
それだけではない。私は昨年の夏にG8サミット抗議集会に参加するために北海道に行った。世界のリーダーを僭称する者たちの会合が国内で開かれるからには行かないわけにはいかないと思ったのだ。ところがそれからわずか4ヵ月、G8だけでは解決能力がないとしてG20が召集された。私は飛行機代を払って北海道まで行ったのだ。これにはコケた。
誰のための「処方箋」なのか
ところで金子勝氏は危機への処方箋として、公的資金の強制注入と銀行経営者の法的責任の追及とを提唱してきた。この主張は日本のバブル崩壊のときから一貫しており、最近の対談では「環境投資バブル」を呼び込むしか脱出法はないとも発言している。また、アメリカではポール・クルーグマンが、いまは財政赤字を心配している場合ではなく、景気刺激策を「やり過ぎる方が遥かによい」と「『アニマル浜口』的な気合い」(長原豊)で主張している。私にはわからないのだが、どうしてボロ儲けしてきた富裕層を「やり過ぎる」ほどの国家介入で救済しなくてはならないのだろう?
バブルの最中にあってさえ、家を失ったり、食えなかったりしていた貧困層は「自己責任」をとらされてきたのだ。そもそも2000年のITバブル崩壊後、政策的介入によって投機資金が米住宅市場や証券化商品に向かい、再び生じたバブルがはじけたのが直面する状況なのである。今度は「環境投資」を掲げるとしても、バブルを他のバブルで置き換えるだけでは矛盾の先送りでしかない。
もちろん危機の長期化で、死ななくてもいい人が死ぬことを望むものではない。そういう意味で、二人の経済学者の善意を疑うものではないが、彼らの主張はブルジョア支配の延命ため、それに必要な再編のために利用されることになるだろう。もともと提案は国家的、経済的エリートに向けられているのだから。
問われるオルタナティブの実体化
バブル崩壊が世界同時不況の原因のように言われたりするが、これは結果であり現象であるにすぎない。クルーグマン流に言えば、われわれは「やり過ぎ」てきたのだ。問題の根底には過剰生産がある。「先進」国における消費はすでに飽和状態にあり、生産に投資しても利潤を期待できず、行き場を失った資金が国境を越えて各種市場に流れ込んでバブルを発生させてきた。資本の過剰こそが根本的原因なのだ(「資本主義的生産の真の制限は、資本そのものである」マルクス)。29年恐慌の後に資本の過剰を解決したのはケインズ経済学でも、ニュー・ディールでもなく、世界大戦による膨大な価値破壊だった。しかし今日、世界大戦を再現すべきではないのだから、矛盾は深まるばかりだ。
そしてこんな時だからこそ、根本に立ち返ってじっくり考えてみなければならない。まちがっても危機の張本人、グリーンスパン前FRB議長の「百年に一度」の経済危機という発言を真に受けて、あわててはいけない。まず押さえておくべきなのは、人間の生活にどうしても必要な生産活動であれば需要が急落することはあり得ない、ということだ。だから、日本の自動車産業や電気産業はかなりの程度「虚業」だったと言わざるをえない。物にかかわる生産=実体経済ではないということが、今回の不況であきらかになった(「実体経済」という言葉には疑問をもっているが、通例にならう)。また、人々の心理が実体経済を世界的規模で振り回す時代になっていることも、あきらかになった。総じて、市場の論理は「人が生きる」ことを保証しないということがますますあきらかになってきた。よつ葉が以前から言ってきた「市場経済のシステムとは異なる生産・流通・消費の新たな仕組み」作りの実体化が問われている。長々と書いてきた割には陳腐な結論になるが、「百年に一度」だろうが「二百年に一度」だろうが、自分なりの原則を堅持していくしかない。
最後に蛇足ながら、「食べものは商品じゃない」という消費者運動の世界でよく使われてきた言葉に、以前から座り心地の悪さを感じている。資本制生産様式のもとでは労働力(人間)も土地(自然)も商品として扱われるのだから、「食べもの」だけをとりだして本来そうあるべきではないと告発しても、解決の方向は見えてこないのではないか。このあたりを展開している本があったら教えてください。(下村俊彦:関西よつ葉連絡会事務局)