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活動報告:韓国の農業生産と加工現場D

地域・運動・生産の重層的な連携

関西よつ葉連絡会の呼びかけで昨年実施した、韓国ドゥレ生協の生産・加工現場への視察研修。かなり長引いてしまったが、今回の報告で最後のまとめとしたい。

一人一人が主人公として

韓国訪問の最終日、全行程にわたり案内役兼通訳としてお世話いただいたドゥレ生協の鄭燦珪(チョン・チャンギュ)氏との間で、「蝋燭集会・デモ」の話題を中心に、短時間ながら論議の機会を持つことができた。

「これまでの韓国の民衆運動は、何らかの中心があって、そこに人々が結集する形が基本だったと思います。しかし、今回は中心がない、と言うより参加者一人一人が中心。言い換えると、誰もが主人公なんです。こうした事態がなぜ生じたのか。現状をどのように見るのか。現在、韓国の政治学者や社会学者の間で議論が始まっています。」

鄭氏によれば、今回の事態の背景には、盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権時代に生じた韓国社会の変化が作用しているという。すなわち、軍事独裁政権期はもとより、大統領直接選挙制の導入による政治的民主化を果たして以降も続いていた、大統領を中心とする政治的リーダーシップによって経済や社会を牽引する一方で、社会の側はそれに期待し、大統領に権威を求めるような政治主導体制の転換である。

盧武鉉政権は「地域主義」や「既成の権威」に代表される従来の政治構造に飽き足らない社会の声を背景に誕生し、「参与政府」の名の下、大胆な改革案を提起した。結果的に、政争や指導力不足もあって改革の多くは頓挫し、迷走の末に「サンドバッグ」と自嘲する状況で最期を迎えることになったが、そもそも経済成長と制度的民主化を経た韓国にとって、政治主導で社会を再編できる余地は極めて少なくなっていたのかもしれない(1)。

いずれにせよ、こうした経験を通じて、大統領を中心とする制度的な政治に期待と権威を求めるあり方は大きく転換し、社会の自律的な動きが拡大してきた。今回の「蝋燭集会・デモ」は、そうした流れの中で捉えることができる、とのことである。その上で、鄭氏は次のように付け加えた。

「皆さんのよつ葉連絡会も、同じじゃないですか。中心がなく、一人一人が主人公。とらえどころがないけれども、まとまっている。昨年の訪問で、私はそう感じました。こうした団体が、なぜ日本で生き残っていられるのか、不思議に思いましたよ。」

指摘されている点は、よつ葉の関係者もおおむね同意するものと思われる。「一人一人が主人公」と言うべき状況が十全に現れているかどうかは別として、個々人の間も各事業所の間も、できる限り中央集権的な関係にならないよう、意識的な対応をしてきたことは間違いない。もちろん、自前の生産・加工工程を持つにせよ、配送センターの小規模独立運営化を維持するにせよ、そうした組織運営は短期的な経済効率の面だけから見ればマイナスと捉えられる。しかし、判断の時間幅をどう設定するか、事業の目的をどこに設定するかによって、マイナスはプラスに転換し得る。その意味で、鄭氏の指摘はよつ葉が自らの実践を自覚的に捉える上で、貴重な要点を孕んでいる。

ドゥレ生協のアイデンティティ

これまでドゥレ生協連合会では、よつ葉連絡会に比べてはるかに大規模な日本の生協との間で、交流事業を行い、現在も継続している。その一方で、昨年から今年にかけて、よつ葉連絡会との関係が生まれた。そのきっかけが偶然の産物だったとはいえ、訪韓メンバーの一人が記すように、背景には一種の必然性があるように思う。

「交流、訪問は終わった。日本は勿論のこと欧米の生協とも活発に交流を続ける韓国の生協。……60年の歴史を有する日本の生協のそのほとんどが市民運動としての役割を捨て、袋小路でもがいている姿は、彼らにとってどんな風に見えるのだろうか。むしろ日本の生協の方にこそ学ぶべき事が多いはずで、そんな事情を知ってか知らぬかアナーキーでフリースタイルの我ら関西よつ葉連絡会を生協の次に来るべき交流先として選び、昨年の訪日で何かしら得体の知れない興味、親近感を彼らが持ってくれたのが実感できた交流会でした。そして学ぶべきは、生協のみならず『よつ葉』とて同じ事で、進むべき道に疑問が生じた時、いち早く対応し、一般組合員を中心に議論を重ねる等、共有できる部分は沢山ある。」(2)

韓国と日本は世界的に見れば社会状況が似通っている一方、日本における市民型生協の誕生は韓国よりも20年ほど前に位置する。それ故、日本の生協との交流は「参照例」となる面があっただろう。ただし、日本以上に「圧縮された近代化」の進行した韓国では、日本の生協運動が直面したのと同様の難問が急速に訪れたことも、また事実である。この点について、ドゥレ生協連合会の金起燮常務理事は次のように記している。

「システムの段階に入っている協同組合には、思想の危機が現れる、と言われる。事業的には成功しても、生協が何のために存在し、誰によって動かされるのか、一般企業とあまり変わらない様子をみせるためである。韓国の生協運動は事業的に充分成功したとは言い難い。むしろ、運動とシステムの両段階に跨っていて、常に経営と思想の危機にぶつかっているといえよう。」(3)

こうした「危機」に対して、ドゥレ生協連合会では2004年、組合員自身による「アイデンティティを探るための特別委員会」を設置し、一年間にわたって論議を行った。その結果、現在の組織名称に変更するとともに、生協運動の新たな方向として、以下の内容を軸とする「地域生命運動」を掲げるに至った。「第一に、消費の協同を超える労働・生活・生きる行為の連帯を求め、第二に、『私』を持ちながら『共』を広げ、そして、その『共』の場での『私』の行為(労働)を等価評価し、第三に、その実験を生きる場、生きる空間である『地域』の中で、そこに住む人々と共に公演しようとしている」(4)。いわば、多様な人々が集う「地域」の中で、組合員を媒介としながら組合員以外の住民も「共」に、消費の領域にとどまらず生活全体を自らの手で創り上げていくこと、つまり生活=生命を再生産していくことに、生協運動の新たな役割を見出すものと言えるだろう。

今回の訪問で見学したのは、その具体的な実例である。ちなみに、ドゥレ生協連合会では2008年2月、それまで「ドゥレ生協生産者会」という形で組織してきた生産者との関係を再編し、「社団法人ドゥレ生産者会」を設立した(認可は同年4月)。生産者会は、前者の時代から「地域委員会」と「品目委員会」という重層的な構造を形成することによって生産者同士の相互交流、協同関係を目指してきたが、その蓄積をもとに、法人格を取得することによって、生産者団体としての主体性をさらに明確化し、自律的な活動を促進しようとしたものと捉えられる。いわば、生産と流通との間で形式的にもこれまで以上に対等な関係を形成した上で、高次の協同を追求する試みだろう。

誌面の都合で紹介することができなかったが、店舗とワーカーズ・コレクティブ(生協組合員による市民事業)を通じた地域での展開を含め、日本の生協における実践を参照しながら、新たな要素を付け加え、自らのアイデンティティにふさわしい形で取り組みを進めている姿を印象深く感じた。

今回の訪問は総じて、韓国の生産現場を視察するだけでなく、われわれ自身を対象化し、課題を再確認し、それを克服する方向性を模索するものでもあったように思う。貴重な機会をつくっていただいたドゥレ生協連合会、ドゥレ生産者会の皆さんに感謝すると同時に、今後とも交流を重ね、お互いの課題やその克服に向けた取り組みを論議し合える関係を展望したい。(山口協:研究所事務局)


(1)木村幹『韓国現代史』中公新書、2008年。
(2)ハム工場・佐藤雄一氏の感想文から。
(3)金起燮「地域生命運動としての生協を目指して」『季刊あっと』第2号、2005年12月。
(4)同前

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