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アソシ研リレーエッセイ:朽ち果てた魚食文化の「冠」

弱い魚でイワシとか、サワラは春の魚とか、堅い魚はカツオとか、魚(へん)の字はいかにもわかり易い。それもそのはずで、ほとんどが日本で作られた字だからです。そんな中で、鮪は何でマグロなのか理由がわかりません。これはもともと中国で生まれた字で、しかもチョウザメを意味していたそうですから、昔の日本の人々の理解を超えていたのでしょう。そこで一生懸命考えて、同じくらいの大きさの魚を探して、マグロとしたのではないでしょうか。

中国では、四本足で食べない物は机だけ、空を飛ぶ物では飛行機だけと言われるぐらい、そこら辺で採れたものなら何でも食べてきました。それでも、つい最近まで魚は淡水魚しか食べなかったため、文字そのものがありません。魚食に関しては日本は世界に冠たるものだと言えます。ウニやナマコやタコなど、最初に食べた者は偉いと思いますが、これも、そこら辺で採れた物を何でも食べてやろうという精神の極致でしょう。

栄養学の面から見ても、いくつもの点で魚食は肉食に比べてすぐれています。まず第一に多様性です。いろんな魚を食べることで、いろんなたんぱく質を摂ることができ、それを消化していろんなアミノ酸を得ることができます。人間にとって必須アミノ酸はたった20種類ですが、アミノ酸を100個ぐらいつなげてできるたんぱく質の方は、ほぼ無限にあります。肉食ではごく限られたたんぱく質しか食べられません。

次にあげるべき点は、例えばちりめんじゃこのように全体を食べるということです。全体を食べることで、肉ばかりでなく血も骨も内臓も食べることになり、結果的に、ビタミンやミネラルも含めたあらゆる栄養素が得られます。もう一つは、魚の脂は植物油と同じ不飽和脂肪酸という点です。ブタや牛のように固い脂肪で体をおおっていたのでは、海で泳ぎまわるわけにはいきません。

いずれにしても、栄養学的な利点はどれも後知恵であって、要するにいろんなものがあってうまいということです。加えて体にもいいことを経験的に知っていたからこそ、日本人は昔から魚を食べてきたわけです。

そこら辺で採れたものを、魚ですから漁れたものを、何でも食べることが、肝心な点です。スシやお造りなどは、日本の魚食文化のごく一部にしかすぎません。ちりめんじゃこ、だしじゃこ、ちくわ、かまぼこ、練り製品、塩干物や佃煮など、あげればキリがないほど多様に豊富に食べてきました。この無駄のなさが漁業を支えてきました。農業の場合は採れるものを意識的に選択できますが(このことが逆に農業を歪めてしまいました)、漁業には何が漁れるかわからないという面がつきまといます。だから、漁れたものはありがたく無駄なくいただかなければなりません。

石油代の値上がりに対し、全国の漁業者がストライキをやりました。イカ漁、サンマ漁、カツオ漁など、特定の魚種だけを追いかける漁業は石油を大量に消費します。ところが特定の魚種しか売れないものだから、そんな漁業しか成り立ちません。そこら辺で漁れたものを何でも無駄なく食べる魚食文化そのものが崩れています。石油代の問題以前に、漁業を衰退に追い込んでいます。

世界に冠たる魚食文化も、それを支えてきた漁業も昔日の話になりつつあります。冠はとうに朽ち果てています。(河合左千夫:鰍竄ウい村)


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