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活動報告―韓国の農業生産と加工現場C

「蝋燭」が照らし出す韓国社会の変化

6月6日から9日にかけて関西よつ葉連絡会の呼びかけで実施した、韓国ドゥレ生協の生産・加工現場への視察研修。今回は、訪問と同時期に盛り上がりを見せていた「蝋燭集会・デモ」について報告する。

「李明博、出ていけ!」

われわれが訪れた頃、韓国では首都ソウルを中心に連日、蝋燭を手にした市民によって米国産牛肉の輸入再開に反対する集会やデモが取り組まれていた。6月5日には、午後7時を期して、米国との再交渉を求める「72時間リレー国民行動」が宣言され、ソウル市庁前広場で3日間にわたり、一種の「祝祭的空間」が現出していた。

ドゥレ生協連合会の崔賢浩(チェ・ヒョンホ)氏らに案内されてソウル市庁前に赴いたのは、到着日6日の夜。「72時間行動」のまっただ中である。宿泊先のホテルから15分ほど歩いてみると、市庁前広場はテントで座り込みを行う人や署名活動の出店、カンパ集めの物品販売、食べ物の露店、集まって歌ったり談笑したりする若者のグループで溢れている。牛の着ぐるみでポーズをとる人がいるかと思えば、隣には左派系のパンフレットを並べた活動家が座り、その間をカップルや家族連れが行き来するという、何となく緩い雰囲気だ。主張などをメッセージを書き込んで並べるコーナーがあり、「日本語で何か書いて下さい」と促されたため、「地産地消を守ろう」と書いたところ、横にいた見ず知らずのおじさんから、「オー、(地産地消)、(身土不二)、○×△□……」と話しかけられた。同意を示しているのだろうが、韓国語が分からず、曖昧な笑顔を返すしかない。

到着時刻が遅かったため、ほとんどはすでにデモに出てしまったとのこと。そこで、市庁の西側を走る世宗(セジョン)路を景福宮(キョンポックン)に向かって北上する。御堂筋の倍ほどもある広さの道は、車の通行がストップし、歩行者天国と化している。そのあちこちで、太鼓を叩いたり、ギターを弾いて歌ったり、牛肉問題に絡んだ絵を展示したりと、各々が思い思いにパフォーマンスを展開している。通りを行き交うのは、若者の友人同士やカップル、幼い子供を連れた家族など。やがて、李舜臣(イ・スンシン)将軍の銅像が建つ光化門(クァンファムン)交差点に至ると、交差点の中心にステージが組まれ、その周囲は蝋燭を手にした無数の人々で埋め尽くされている。

やはり若者がほとんどで、10代とおぼしき男女の姿も目立つ。何らかの集団を表す旗もいくつか翻っているが、労働組合や活動家集団などの動員めいた雰囲気はなく、ほとんどは友達などと三々五々集まった模様だ。デモを終えた後の総括集会らしいが、午後10時すぎにもかかわらず、千人単位の人出である。ステージでは、ひとしきりアピールが行われるたびに、締め括りとして「李明博(イ・ミョンパク)、出ていけ!()」とのスローガンが繰り返し叫ばれ、人々がそれに唱和する。こんな状態が果てしなく続いた。

米国産牛肉の輸入再開をめぐって

日本では、さほど詳しく報道されなかった「蝋燭集会」だが、5月〜7月の約3ヵ月間、ほぼ連日にわたって展開された、未曾有の事態だったと言える。その発端は言うまでもなく、李明博政権が米国産牛肉の輸入再開を表明したことにある。

韓国は03年12月、米国でのBSE(牛海綿状脳症)発生を機に、米国産牛肉の輸入を全面禁止した。その後、盧武鉉政権下の06年9月、「30ヵ月未満の牛の骨付きでない肉」に限り輸入再開を認めたものの、直後の11月には輸入牛肉に骨片の混入が発覚し、該当業者の牛肉について輸入を中断。翌07年にも、8月と10月に輸入禁止部位の混入が発覚し、再び輸入の全面禁止に至った。

ところが、08年2月に李明博政権が誕生するやいなや、米国は自由貿易協定(FTA)交渉の妥結を盾に牛肉市場の全面開放を要求する。財界出身で自由貿易の促進を掲げる大統領は4月、わずか一週間足らずの交渉の後、韓米首脳会談のために訪れた米国で、輸入再開を電撃的に表明した。その内容は、牛の月例制限を撤廃し、「骨付き」「内臓」も容認、さらに「30ヵ月未満」の牛については特定危険部位とされる脳や脊髄までも許容する、ほとんど「全面解禁」と言うべきものだった。

まるで訪米の「貢ぎ物」のような内容に、韓国内では当然にも強い反発が生じた。これに油を注いだのが、4月29日に放映されたMBC文化放送の番組『PD手帳』の特集だ。基本的には、李明博政権による輸入再開方針の解説とともに、米国産牛肉の安全性、他国の輸入規制などを紹介する内容だったが、「歩行困難牛」の映像やBSEの対人伝染の危険性が取り上げられ、さらに、「韓国人はBSEに脆弱な遺伝子を持つ者が多い」などと主張する見解が紹介されるにおよび、一種の「パニック」のような形で衝撃が広がったとされる。

中でも敏感に反応したのが、中高生を軸とする10代の若者だ。「輸入牛肉が給食に使われるに違いない」と考えた中高生たちは、インターネットの掲示板などに不満や反発の意見を書き込みはじめ、それが高じて5月2日には、第1回目の「蝋燭集会」が開かれる。知られるとおり、韓国は日本を凌ぐ「ネット社会」であり、意見交換はもちろん、集会の模様も即座にネット配信され、それを見た人々の間で議論が盛り上がったり、新たな参加者が増えたり、地方に飛び火するなどして、蝋燭の波は瞬く間に広がった。

ところが、李明博政権側は当初、こうした動きを一過性のものと軽視し、「食べたくない人は食べなければすむことだ」などと(うそぶ)く始末。人々の不満をさらに焚きつけてしまった。こうして、5月24日には初めて、集会が街頭デモに発展し、道路を占拠するに至る。慌てふためいた政権側は、これらの「背後」に反体制運動や北朝鮮の策動が存在するとの硬直した思考から、一転して強硬策に及び、31日には「丸腰」のデモに放水車を投入、200人以上を拘束する過剰な対応を見せた。

「蝋燭」の背景

かくして、当初は牛肉輸入の再開を争点とした運動は、程なく、そうした重要案件を拙速かつ強圧的に推し進め、人々の懸念や批判に耳を貸そうとしない政権の姿勢そのものをも対象とするようになっていった。われわれが訪れた6月初頭は、まさにその最中である。

もっとも、ドゥレ生協連合会の鄭燦珪(チョン・チャンギュ)氏によれば、政権のあり方そのものに対する批判は当初からあったという。貧しい家庭に育ちながら若くして大企業の経営者に昇り詰めた「サラリーマン神話」の体現者として、経済停滞の解決を期待されて就任した李明博大統領だったが、蓋を開けてみれば、出てきたのは、具体性も収益性も疑問視される「韓(朝鮮)半島大運河計画」、新自由主義的な「国民健康保険民営化」「水道局民営化」、さらには学校教育へ競争原理を導入する「英語没入教育」「0時限」「優劣クラス」(1)などの政策方針。

その一方で、閣僚や大統領を支える首席秘書官には、俗に「SKYライン」と呼ばれる取り巻きが据えられた。「S」は大統領が所属する所望(ソマン)教会の信者、「K」は大統領が卒業した高麗(コリョ)大学の出身者、「Y」は大統領の地元である嶺南(ヨンナム)地方(慶尚南・北道)の出身者を意味している。中でも所望教会は、韓国の富裕層の大半が住むソウル市江南(カンナム)区に位置し、政・官・財の上流階級が集う教会として名高い。ここで培われた人脈が李明博政権の中枢とされ、「江富者(カンプジャ)内閣」とも揶揄される所以だ。

こうしてみると、「蝋燭集会・デモ」にとって米国産牛肉の輸入問題は、むしろ「起爆剤」であり、97年の「IMF危機」を契機に深まった韓国社会の両極化への批判を底流に、そうした状況を改善するよりも促進するかのような李明博政権の政策に対して、不満が爆発するきっかけを与えたものと言えよう。さらに言えば、今回の動きが中高生から始まったのも単なる「パニック」の産物ではなく、その背景には、日本を上回る学歴社会、かつ15歳から29歳の若年層失業率が7.2%という苦境の中で、さらなる競争を強いられることへの抵抗感が存在したと見ることができる。

「蝋燭」が照らし出したもの

こうして燃え上がった「蝋燭集会・デモ」は、期間や規模のみならず、何よりも内容の面で、韓国民衆運動の中でも比類なき特徴を示したとされる。すでにこの点については、日本に帰る際に鄭燦珪氏からいただいた新聞記事(2)を訳出したが、ここで改めて要点を記しておきたい。

@「権威の否定」 これは直接民主主義の志向と言い換えられる。韓国も含め、代議制民主主義の政体をとる国家では、社会運動が主張する要求は諸政党によって代表され、議会を軸とする制度的な政治の枠内で公的な総括がなされる。それ故、社会運動としては、最終局面における制度的な政治の介入を期待・要請したり、期待できない場合には、既存の制度的な政治に代わる権力の樹立を目指すことになる。

しかし、今回の「蝋燭集会・デモ」では、与党はもちろん野党も含め、制度的な政治による代表行為自体を拒否する一方で、別の権力を指向するわけもなく、李明博政権に対して社会との意志疎通の欠如を批判し、直接対話を求める姿勢が際立っていた。印象論でしかないが、単なる個別政策や特定政権への拒絶である以上に、社会から自立した制度的な政治そのものを拒絶し、それを再び社会に埋め戻そうとする指向が窺える。

こうした指向は既存の民衆運動に対しても発揮され、デモの指揮を買って出た運動団体に対しては、たちまち激しい批判が投げかけられた。5月6日には、団体や個人からなる「狂牛病国民対策会議」が結成されたものの、いわゆる運動の指導部ではなく、実務上の連絡調整機関と言うべきだろう。むしろ運動の全体的な流れは、ポータルサイト「ダウム」の討論コーナー「アゴラ」をはじめ、ネット上における議論を通じて形成された。それ故、行動の統一のあり方も単一の中心軸に沿ったものではなく多極的であり、いわば「多様性における統一」として実現された。

A「目立つ個性」 今回の「蝋燭集会・デモ」について、参加者自身は「蝋燭文化祭」と呼び、韓国全体でもこの呼称が定着している。これは、今回の動きが中高生から始まったためでもあるが、参加者層が拡大する中で、各々の自発性と創意が直接的に表現されたことに起因すると思われる。音楽や演劇、路上アートなどのパフォーマンスはもとより、デモの進路を塞ぐ警察車両を花や落書きで埋め尽くしたり、集会のたびに新たなプラカードやデコレーションを持ち寄るなど、集会やデモが「闘争の場」という以上に「表現の場」として機能していたことは間違いない。

韓国の民衆運動と言えば、70年代〜80年代の軍事独裁政権に対する民主化運動や、90年代の労働運動のイメージが思い浮かぶ。いずれも、強大な国家権力や資本に対抗するため、確固とした組織を基盤に、運動内部における思想と行動の強固な統一が必要とされ、集会やデモは何よりも抵抗・闘争の「手段」として機能していた。もちろん、今回の場合もそうした側面はあるものの、むしろ多様な人々が集まってつながりながら、その中で自らの意思や主張を表現すること自体が一つの「目的」となっているように見える。いわば「祝祭的空間」の形成そのものが、諸々の制度に拘束された日常空間を打破するための、広い意味での政治行為となっていたのではなかろうか。

B「自律連帯」 確固とした組織を基盤とする従来型の運動に対して、「蝋燭集会・デモ」は個人の緩やかなネットワークが基盤となった。参加者は常に街頭に出るわけではなく、自宅でネットの議論に参加する場合もある。昼間は各々学校や職場に通い、夕方になると集まって「蝋燭」を灯す。

この点は、集会でのアピールにも反映されていた。一般に、集会アピールは、主催者側が事前に著名人や各団体に割り振る場合が多い。しかし「蝋燭集会・デモ」では、それ以上に、中高生や主婦、老人、サラリーマンなど、組織的背景のない多様な参加者が自由にアピールを行い、触発された参加者がそれを受けて自分の考えを表明するといった形で進んだ。

もちろん、参加者が多様である以上、意見の相違が存在するのは当然である。今回の運動は非暴力主義を基調とするものだったが、当局側の強硬姿勢に対して「反撃すべきだ」、デモの進路を塞ぐ警察車両に対して「乗り越えて進むべきだ」といった意見も出された。ところが、そうした意見が単純に排除されたり、意見の相違に伴って運動の分岐が生じたりすることもなく、むしろ現場やネット上で論議が積み重ねられ、最終的な合意へと導かれたのである。

言い換えれば、個人を基盤にした運動といっても個々が分散しているわけではなく、運動の中に共同性を育み、それを維持しようとする点では、非常に意識的だったと言える。例えば、集会・デモの各局面で実務を担う人々は不可欠だが、それも固定された役割ではない。警察の過剰鎮圧で負傷者が出た際には、ネットの中継を見ていた看護士の呼びかけで即座に「蝋燭医療奉仕隊」が結成され、集会が終わるたびに自発的にゴミを片づける人々が現れた。シンボルである「蝋燭」自体、参加者のカンパで準備されたものだ。

C「活発なコミュニケーション」 組織的な基盤なしに多様な人々が主張を交流させ、集団的な意思形成を行うにあたり、ネットや携帯といったデジタル・コミュニケーションの果たした役割は非常に大きい。集会やデモの情報は、パソコンとハンディ・カムを手にした参加者によって同時進行で伝えられる。実際、学生が警察に過剰鎮圧された事件では、その模様が即座に動画配信され、たちまち警官の所属部隊と指揮官が捜し出され、警察側が謝罪会見に追い込まれた。政権を風刺するパロディ作品も次々と現れた。

もっとも、韓国では、こうした「デジタル・デモクラシー」の出現は、今回が初めてではない。2000年の総選挙では、市民団体がホームページで「政治不適格者」を列挙し、政党に対して公認を取り下げ、有権者に投票しないよう呼びかける「落選運動」が行われ、実際に効力を発揮した。また、2002年の大統領選において、旧来の組織動員を基礎に、「朝中東(朝鮮日報、中央日報、東亜日報)」と呼ばれる既成大手メディアを味方につけた保守系候補を破って盧武鉉大統領が当選した背景には、組織動員の枠外にある20代〜30代の若者たちがネット・メディアを駆使して争点を形成し、水平的なネットワークを通じた政治参加を促進したという要因があったとされる(3)。

今回の「蝋燭集会・デモ」が、こうした流れの延長線上にあったことは間違いない。実際、李明博政権に肩入れして「蝋燭集会・デモ」に罵倒を投げかけた大手メディアに対しては、すぐさま不買運動や広告掲載企業に対する掲載中止要請が行われた。ただ、それ以前と異なるのは、特定団体のホームページが受け皿となったり、『オーマイニュース』や『プレシアン』など社会的に認知されたネット・メディアを舞台とする以上に、討論コーナーやブログといった、より「個人的」な領域における活用が進んだことと言えるだろう。

「蝋燭」の残り火はどこへ

「蝋燭集会・デモ」は6月10日夜の「100万人集会」を頂点として、その後も続いたものの、最終的には8月末で自然終息に至った。争点だった牛肉の輸入条件に関する米国との再交渉はならず、輸入再開を覆すことはできなかった。また、閣僚の入れ替えこそあったとはいえ、李明博政権そのものは現在もなお存続している。その意味では、敗北と言えるかもしれない。

ただ、それはあくまで制度的な政治の枠内における敗北である。参加者の立場は多様とはいえ、全体として制度的な政治を否定する指向の色濃かった「蝋燭集会・デモ」にとっては、そもそも勝敗の「土俵」が異なっている。むしろ、一瞬ではあれ、参加者各々の意見や行動が直に社会に反映され、諸制度が対応する(すべ)を失ったことを踏まえれば、制度的な政治そのものの限界を明瞭に暴き出す、大きな成果を得たと言うべきだろう。

奇しくも21年前、1987年の6月10日は、およそ20日間にわたって取り組まれ、当時の軍事政権から「民主化宣言」を引き出した「6月民主抗争」の出発点だった。いわば、制度的な民主化を獲得した闘いから21年後、今度は民主化のさらなる深化を目指す闘いが生まれた。こう考えれば、「蝋燭」は決して消え去ったのではなく、必ずや再び形を変え、燃えあがる日を準備する残り火になるものと思われる。=つづく= (山口協:研究所事務局)

【注】
(1)「英語没入教育」とは、英語以外の授業も英語で行うもの。「零時限」とは、正規の授業が始まる以前に行う授業のこと。「優劣クラス」とは、成績順に生徒を選別してクラス分けすること。
(2)2008年6月4日付『京郷新聞』(電子版)、邦訳は当研究所編『NEWS LETTER』2008年6月15日号。
(3)玄武岩『韓国のデジタル・デモクラシー』集英社新書、2005年。
(4)木村幹『韓国現代史』中公新書、2008年。


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