タイトル
HOME過去号50号

投稿:タンザニアの食・農・暮らし

はじめに

広い世界には、その土地なりの暮らしがあり、農や食の営みがある。各地の食・農・暮らしについて知ることで、自らのあり方を捉え返し、より深く自覚することができるだろう。そんな問題意識から、研究所では昨年、福井県立大学の杉村和彦さんを通じて、タンザニアで農業指導員として30年ほど生活されている椿延子さんをお招きし、お話を伺ったことがある。その過程で面識を得た大学院生の岩島史さんが、タンザニアの椿さんを訪問したとのことなので、今回、現地の状況を報告していただいた。

タンザニアとの出会い

私は昨年10月に10日間ほどタンザニアの椿さんを訪れた。それまで海外に行ったことのなかった私がアフリカに行くということは、周りの人をかなり驚かせたようだった。しかし、私のアフリカへの関心はおそらく小学校に入る頃から生まれていたのではないかと思う。エチオピアやスーダンの飢饉、ウガンダ内戦などの報道から、私のアフリカに対する第一印象は非常に暗いものだったが、そのような厳しい状況の中での人々の目の美しさが印象に残った。

現在の私の関心は、近代化することや発展することが本当に良いことなのか、ということである。日本は最も近代化された国の一つであるが、近代化の過程で様々な問題もひきおこしてきた。現在の日本の社会、特に農業、農村の現状は理想的なものだとは言い難い。一方で、日本を含む先進国は発展途上国といわれるアジアやアフリカの国々に開発援助を行っており、開発援助のほとんどは近代化を目指すものである。しかし、途上国は本当に近代化するべきなのだろうか。近代化することによって、その国独自の伝統文化を失わせたり、環境破壊を進めたりすることにはならないのだろうか。

以上のような関心をもとに、先日「タンザニアに暮らす日本人女性のライフ・ヒストリー―近代化と援助を考える」と題する卒業論文を書いた。これは、椿さんが語ってくれたこれまでの人生の経験から、近代化について、近代化を支援する開発援助について考察したものである。私がタンザニアを訪れたのは、この論文を書くためだった。

本稿では、初めて見たタンザニアの人々の暮らしや文化から感じたことを、率直に述べてみようと思う。

タンザニアの暮らし

農村ではまだ昔ながらの暮らしが続いている。首都などの大きな都市から車で数十分しか離れていなくても、暮らしぶりは何百年もさかのぼったかのようだ。家のつくりは、部族によって異なるが、土や石で壁を作り、屋根は木の枝などでふいていて、もちろん電気や水道、ガスなどはない。椿さんがタンザニアに移住した当初から約10年間住んでいたという家もそうだった。今は夫のンズルンゲさんの兄家族や親せきの20人ほどが暮らしているが、町の家と比べてとても狭く、暗いことに驚いた。椿さんが現在住んでいる家も含め、町の家はとても明るく快適である。毎日のように停電や断水があるが、水道や電気も通っている。町の暮らしは、日本の都会に生まれ育った私にとっても快適なものだったのに比べ、初めて訪れたこの村の暮らしぶりは衝撃的だった。


しかし人々はみんなお洒落好きで、よく食べ、よくしゃべる。若いお母さんたちが料理を作ってくれている間、手の空いている大人たちは男女に別れて家の外に座っておしゃべりをする。こどもたちは手作りのボールで遊んでいる。タンザニアで最も印象に残っていることの一つが、大人たちのおしゃべりだった。平日の昼間でも、大人たちが木の下や家の周りにすわっておしゃべりを楽しんでいるのをよくみかけた。私は村で寝泊まりするという経験はできなかったので、断片的にしか村の暮らしぶりを見ていないが、一日中家族が一緒にいて、ご飯を食べ、おしゃべりをするという暮らしは、大多数の日本人の暮らしとは大きく異なるものだろう。

毎日朝から晩まで働いたり勉強したりして、常に新しいもの、より良いものを志向する日本の暮らしと、時間が止まっているかのようなタンザニアの村の人たちの暮らしとが、同じ瞬間に存在していることが不思議でたまらなかった。

タンザニアの食

私がタンザニアにまた行きたいと思う理由のひとつは、食事がバラエティに富んでいておいしかったことである。外食するときには、主食をフライドポテト、米、ウガリというトウモロコシやコメの粉を練ってお饅頭の皮みたいにしたものから選び、おかずを鶏、豚などの肉、魚、卵から選ぶようになっていることが多かった。家庭では野菜の煮込みや、カレーのようなものなど、「お惣菜」という雰囲気のおかずをごちそうになった。どれも唐辛子は各自が好みで追加するようになっているので、私にも辛すぎず、とてもおいしかった。町でも村でも、だれかの家を訪問すると、かならずチャイというスパイスのきいた紅茶と、食事をだしてもらった。規則正しく毎日同じ時間に三食をとるわけではないようだが、食事の種類も量も豊富で、「飢餓」や「食糧不足」といった印象からは想像もつかないものだった。

椿さんの話によると、かつてはトウモロコシや穀類のほとんどが全粒で利用されていたが、最近ではウガリを作るにも、精製されたものが利用されることが多いという。全粒なら栄養素のバランスがとれており、おかずは少ししかなくてもおいしいし満足感が得られるが、全粒粉でつくったウガリは「遅れたもの」と感じられているようだ。

タンザニアの農業

現在、日本では「食の安全」が大きな問題になっているが、タンザニアでも農業省のスローガンとして掲げられているそうだ。しかし、椿さんが初めてタンザニアに行ったころ(1980年代はじめ)には、化学肥料や農薬を使うのは良くないといっても、信用されなかったという。日本はタンザニアからの農業研修生を多く受け入れており、日本に研修に行った人はとくに、「進んだ国であり、農業でも高収量を上げている日本の人が自信を持ってやっていることだから間違っているわけがない」と、化学肥料や農薬を使った近代農法に積極的だったようだ。短期間の研修では、高収量を上げ、一見うまくいっているかに見える日本農業の後ろにある健康問題や、後継者不足などの問題は見えないからだろう。

当時、タンザニア政府や農業省立の試験場、農業専門学校では近代農法を広めようとしていたが、一般の農家にはあまり広がらなかったそうだ。その理由として椿さんは、タンザニアの人々は自分が先祖から脈々と続いてきた長いつながりのなかの一コマであるという認識をしていて、変化することよりも、そのつながりを途切れさせずにつないでいくことを重視しているからではないか、と言っていた。新しい肥料や商品作物、ブロイラーなどを拒否していた、と話してくれた。

現在では、近代農法のマイナス面も認知されるようになったことや、化学肥料・農薬なしでも十分に収穫できているという成果を椿さんたちが発表してきたことが、認められるようになったことによって、状況は変わってきているという。近代農法を受け入れなかった一般農家の人々が、農薬などの代わりに何を使っているのか、農業専門学校が調査し、農薬に代替するさまざまな薬草の栽培実験などを行うようになった。椿さんが2006年まで務めていた、モロゴロ州キロサにある農業省立イロンガ農業専門学校(以下、農学校)を見学させてもらったが、ここにも薬草園があり、在来植物で防虫効果のあるものなどを育てていた。

椿さんの話によると、現在ではタンザニア全域に広まっているロゼーラも、すべてこの農学校の学生を通して広まったものだという。この農学校の食品保存科でロゼーラをワインやジャムに加工するようになったことで、それまではある部族でお酒を造るためだけに使われており、一般には見向きもされていなかったロゼーラが「遅れたもの」ではないという認識ができ、受け入れられるようになっていったという。

ロゼーラ畑に案内してもらった。すると、驚いたことに、広い畑のロゼーラすべてが花をつけたまま枯れていた。ロゼーラを商品にするためには花を収穫し、がくと花弁を分けて乾燥させる作業が必要である。収穫時期を逸し、一度雨に濡れてしまうと商品にはならない。椿さんも「これはひどい…」とショックを隠しきれないようだった。

椿さんによると、乾燥などにかかる経費を賄えないために収穫できなかったのではないか、ということだ。農家が自前でやればできる作業も、農学校で大規模にやろうとすると経費の調達が問題になる。収穫しても売り先がなければ経費がまかなえない。椿さんは、自分で農学校のロゼーラを買い取ったり、ダルエスサラームに行く用事があるたびにサンプルを持って行ったりして、積極的に売り先を探している。しかし、農学校側では、せっかく注文が来ても、加工品を入れる瓶がなかったり、ラベルがなかったりで、お客さんを逃がしてしまっているという。

椿さんは、タンザニアの人々には、あまり営農資金を蓄えるという感覚がないからだ、と言っていた。日本人にとってはわずかな額のお金が出せないということが、すぐに経済的に貧しいということを意味するのではなく、お金に対する考え方の違いでもあるということは、私たち日本人が途上国と呼ばれる国を見る際に気をつけなくてはいけないことだと思う。

10日間の滞在で、貴重な体験をたくさんさせていただき、とてもここに書ききれないほど多くのものを得ることができた。それと同時に、新しく疑問をもったことやもっと知りたいこともたくさんある。今後も椿さん、そしてタンザニアとのつながりを大切にしていきたい。 (岩島 史:京都大学大学院農学研究科修士課程)


200×40バナー
©2002 地域・アソシエーション研究所 All rights reserved.