タイトル
HOME過去号50号

視察報告:食育と地産地消―愛媛県今治市

市民の力で「おだわらを拓く」(上)

1月31日から2月1日にかけて、神奈川県小田原市を訪れた。小田原市は面積114.06km2、人口198,985人を擁する県西部の中心都市である。市の中央を流れる酒匂川が形成する足柄平野を軸に、西は箱根・芦ノ湖につながる山地によって、東部は曽我丘陵と呼ばれる丘陵地帯によって囲まれ、南は相模湾に面している。こうした地形から農林水産業に恵まれるとともに、小田原提灯や蒲鉾などの地場産業、戦国武将・後北条氏の小田原城で全国的にも知名度が高い。伊豆・箱根観光の玄関口としても知られている。

はじめに

今回の訪問のきっけかけは昨年3月、アジア農民交流センター(AFEC)が主催した東北タイへの学習ツアーで、小田原から参加された加藤憲一さん、小野田明子さんのお二人と面識を得たことに遡る。とくに加藤さんとは車中で同席する機会が多く、小田原での取り組みについて、折に触れて伺う機会があった。そこで驚いたのは、加藤さんが2004年の小田原市長選挙に立候補した経緯である。当時は30歳代後半で、俗に言う「地盤・看板」もなく、とくに政治家志望でもなかった加藤さんは、にもかかわらず3万1244票を獲得、三選の現職に約6000票差と肉迫したのである。

同ツアーは、貨幣経済の浸透に翻弄される東北タイの農村部で試みられている、地場市場や循環型農業を通じた地域再生の取り組みに関する視察が中心であり、参加者はいずれも、農業や地域から社会を捉える点で問題意識を共有していたと言える。ただ、私も含め参加者のほとんどはスーツやネクタイと縁遠い人々が多く、選挙の裏方や自治体議員ならまだしも、自身が首長を狙うという発想は生じにくいように思われた。それ故、私にとって加藤さんの存在は異彩を放ち、彼を支える動き、それが生じた小田原の事情について、興味をかき立てられた次第である。

企業戦略から半農半漁へ

さて、来る5月に次の市長選を控え、加藤さん本人はもちろん、ボランティアとして選挙を支える小野田さんも御多忙な中、わざわざ案内の労を執っていただいた。時間の関係もあり、まちの外観や漁業、農業、商店街など特徴的な部分を一瞥したに過ぎないが、一定の「感触」は掴めたように思う。もっとも、これらはいずれも小田原を構成する要素という以上に、加藤さんの履歴と密接に関わっている。まずはその点を紹介したい。

1964年、小田原に生まれた加藤さんは、京都大学を卒業した後、東京にある経営コンサルタント会社に入社し、経済動向や企業戦略に関する調査に従事する。いわば絵に描いたようなエリート街道を歩んでいたわけだが、仕事を通じて自らの問題意識が明確になりはじめ、転職へと至る。加藤さんによれば、「いかに企業の収益を拡大するか」を考えるうちに、それとは別の、公共的な領域に対する関心が高まってきた、とのことである。

新たな仕事は、民間教育団体「子供と生活文化協会(CLCA)」の事務局長。同団体は、戦前から小田原にあった、在野の思想家・和田重正が主宰する寄宿生活塾「はじめ塾」を前身として、1992年に設立された(現在はNPO法人)。さまざまな文化芸術活動や自然体験活動を通じて「生きる力」「知恵」を養う、一種の人格教育が目的だ。実は、早くに両親を亡くした加藤さん自身、近所にあった「はじめ塾」で学び遊んだ1人である。そうした縁もあり、設立に関わることになったという。

CLCA事務局長として4年間を務めた96年、加藤さんは、よんどころない事情で農業・漁業に転身する。長女が2歳で白血病を発病し、生活の見直しを迫られたのだ。幸い、入院による化学治療で最悪の事態は免れたものの、完治には至らなかった。そこで、自然治癒力を高めるべく、有機無農薬農産物の自給自足生活を思い立った。自然豊かな小田原で生まれ育ち、高校時代は山岳部に所属、親戚が農業をしていたこともあって、決断に迷いはなかったという。むしろ、小田原以上に完全自給が可能な土地を探し、東北地方などへ下見に行ったほどだ。

最盛時の営農面積は、田が12反に畑が6反。それを1人でこなすのだから、かなりの重労働だ。近くで農業を営む親戚から農機具を借りられたことなどが、大きな要因だろう。当然ながら自給用には余る。そこで、知り合いなどに配達し、現金収入も確保できるようになった。最終的に、契約先は40件を数えたという。加えて、早朝は小田原漁港の魚市場で運搬のアルバイトをしたり、1年ほどは定置網漁にも従事するなど「半農半漁」の生活を3年間続けた。こうした中で、長女は病気再発による後遺症こそ残ったものの、元気に学校生活を送れるまでになった。

ちなみに、当時の小田原には、加藤さんに限らず自給志向の新規就農者が何軒かあり、相互に情報交換などをする機会があったという。そんな中から97年、「地場・旬・自給」を柱とした「あしがら農の会」(現在はNPO法人)が設立される。

まちづくりへの展開

エリート・サラリーマンから民間団体の専従、さらには半農半漁へ。これが加藤さんにとって第一の変化だとすれば、第二の変化は99年に訪れる。小田原の中心市街地にあるテナントビル「オ ービックビル」の事務局長に就任したことがきっかけだ。それ以前の歩みは、客観的には小田原という土地に根ざしたものではあっても、加藤さん自身は必ずしもそう認識していたわけではなかった。それは、別の土地で自給自足生活を考えたことからも分かる。ところが、商業ビルの事務局長という立場で小田原の経済を中心とする諸関係の中に否応なく入り込むことにより、まち総体を対象化して捉える観点が自覚されたようである。

もっとも、事務局長就任の直接の契機は、小田原城の敷地内にあった小学校の移転反対運動の際に知り合った人の紹介とのことなので、加藤さんの中にも、すでに何らかの萌芽があったのかもしれない。「長いこと、どこが暮らしやすいか、別の場所があるんじゃないか、と考えてきたんですが、暮らしやすさとは安心であり、僕にとっては小田原のまちや自然環境、人間関係が一番安心できることに気づいたんです」。その意味では、民間団体の専従から半農半漁生活に至る年月こそが第二の変化を然らしめた、と見ることもできる。

オービックビルの事務局長となってからは、経営コンサルタント会社時代の経験が生かされる。一例を挙げれば、2000年には同ビルの空き店舗活用策として、小田原商工会議所と組んで全国初の女性チャレンジショップ「小田原TMOミュージアムショップ」(1)を開設。02年には小田原市産業政策課と組んで地元での起業を支援する「小田原インキュベーションフォーラム(IFO)」(2)を設立し、同ビル内にSOHO(3)対応のミニオフィス「座・OFFICE」を開設。小田原周辺に潜在する起業希望者の掘り起こしを通じて、中心市街地の活性化を模索する活動に取り組んだ。

同時に、ボランティアの小田原市政策総合研究所市民研究員として、小田原周辺の伝統的な地場産業=生業の再生をまちの再生につなげるべく、駅前に「なりわい市場」などを開設。さらには、中心市街地にある5商店街で結成された「ほっとファイブタウン」の理事として、「商店街リニューアルコンペ」を企画・実施した。これは、各商店街から1店舗ずつ、計5店舗を対象に、市民から店舗の改装案を募集し、選定された企画案に基づいて実際に改装を行い、1週間営業した上で、その成果を評価する試みである。

第三の変化へ

冒頭でも触れたように、小田原は古くから農林水産の第一次産業だけでなく、その加工を含めた地場産業が盛んだった。それは、漆器や提灯、木象嵌や寄木細工、竹細工、鋳物、蒲鉾や干物、柑橘や梅干、足柄刺繍、藍染といった特産品からも分かる。また、戦前期には政財界人や文化人たちの別荘、保養地としても名高く、その旧跡が市内に点在している。観光の面も含め、こうした好条件のまちはそれほど多いとは言えないだろう。

人口規模を踏まえて一見すると、駅前から小田原城にかけての通りはそれなりに整備され、閑散とした感じは見受けられない。もっとも、近年に建て替えた小田原駅を除けば、向かいにある商業ビルからは「マルイ」が撤退、後がまは「百均シ ョップ」や「○○ドラッグ」という、ありがちな展開。鳴り物入りで作られた駅前地下街は数年前に閉鎖され、今や単なる通路としてしか使われていない。その一方、酒匂川を挟んだ市の東部では、バイパスなど幹線道路沿いに大規模ショッピングモールや家電量販店などが進出し、商圏の移動が生じている。つまり、小田原もまた、全国どこにでもある地方都市の一つになりつつあるのだ。

加藤さんによれば、こうした変動の背景には、流通の発達や交通手段の変化といった普遍的構造的な要因だけでなく、小田原に固有の要因もあるという。なまじ知名度が高く好条件が揃っていたが故に、構造変動への対処が遅れ、漫然と資本や人材を外から持ち込む彌縫策が続けられたのである。中でも深刻なのが、人材の流出だ。JRの在来線で横浜へ1時間、新幹線なら東京へ40分という距離は、観光などの面では利点でも、人的資源が地元に定着する上ではマイナスとなる。

確かに、時代の推移に伴う地域の変化は不可逆的とも言えよう。しかし、それに受動的に対処するだけでは、これまで市民が形成してきた地域独自の生活循環は切断され、そこから生じていた経済的社会的な蓄積は、地域の外へ吸い上げられてしまう。商店街を軸としたまちづくりに関わる中で、加藤さんはこうした状況を肌身に感じ、「安心できる小田原」が失われていくことに深い危機感を覚える。と同時に、危機の克服にあたって極めて重要な鍵を握る行政・政治についても、看過することはできなくなった。こうして、第三の変化を迎えることになる。市議会議員を飛び越えて首長を狙ったのは、従来の政治構造を変えなければ問題は解決しない、と考えたからである。危機感のなせる業と言えよう。=つづく=(山口 協:研究所事務局)

【注】

(1)チャレンジショップとは、起業希望者に低家賃で店舗を斡旋し、開業のノウハウなどを提供することを通じて商店街活性化や商業振興を図るもの。TMOとは、タウン・マネージメント・オーガナイゼーション(まちづくり機構)の意味。

(2)インキュベーションとは「孵化」を原意とし、そこから転じた経済用語として「起業支援」を意味する。

(3)スモールオフィス・ホームオフィスの英文頭文字からとった略称。パソコンなどの機器を使い、小規模事務所や自宅事務所で仕事をする事業形態を指す。


200×40バナー
©2002 地域・アソシエーション研究所 All rights reserved.