● マーラーが交響曲第8番で使用したファウストのテキスト
ゲーテ「ファウスト」 (高橋義孝/新潮文庫)
第二部
山峡 森と岩と荒野と
聖なる隠者たち、
山の上へ向かって岩の間に分かれ分かれに座を占めている。
合唱と木魂
木立は揺らぎ寄り、
岩は重く椅りかかり、
木の根は絡みつき、
幹は幹に接せり。
谷川はしぶきを揚げ、
深き岩やは奥暗し。
獅子は黙して、われらが周囲を
やさしくめぐり歩き
聖らかなるこの場所を、
清浄なる愛の棲み家を護りぬ。
恍惚境にある神父 (昇りつ降りつ)
永遠なる歓楽の火、
燃ゆる愛の絆、
胸裡に沸き立つ苦悩、
泡立つ神の快楽。
矢はわれを射よ、
槍はわれを貫け、
杖はわれを砕け、
雷火はわれを焼け、
仇なるものはみな
吹き散らせ。
永遠の愛の核心たる
永劫の星を輝かしめよ。
沈思する神父 (深き所にて)
深き谷底に重々しく、
わが足許の岩の壁の坐れるが如く、
百千の小川の煌き流れつ、
しぶきを上ぐる滝となるが如く、
自らの勁き力にて、
幹は直ぐに伸び立てる如く、
万能なる愛は、すべてのものを創り成し
なべてのものを抱きはぐくむ。
森も岩根も揺れんばかりに、
わが身をめぐりて水音すさまじけれど、
立ち騒ぎつつも優しく、
谷間に水を送らんとして、
水は豊かにたぎり落ちたり。
瘴気を孕める下界の靄を
浄らかならしめんため、
雷火は閃き落ちかかる。
われらを囲み、永遠に創造する力を、
愛の御使いは告げ知らしむるなり。
鈍き官能の縛めに苦しみ、
苦痛の厳しき鎖につながれ
惑乱し冷ややかなる心の宿れる、
わが胸のうちに愛の火を点ぜよ。
神よ、雑念を去らしめ、
わが貧しき心を照らし給え。
天使めく神父 (中ほどの高みにて)
樅の揺らめく葉陰越しに、
暁の雲が一片漂っているが、あれはなんだろう。
あの雲の中にいるのは何者だろうか。
穉い霊の群れらしい。
昇天した童子の合唱
お父さん、ぼくたちはどこを漂っているのでしょうか。
ぼくたちは一体どうなってしまったのでしょう。
ぼくたちは仕合せですね。だって、
誰もほんとに楽に生きていられますもの。
天使めく神父
童たちよ、真夜中に生まれ、
心も官能も半ば醒めただけで、
早く両親に死に別れ、
今、天使に迎え取られる童たちよ。
お前たちをいつくしむ者がひとり、
ここにいるのがわかるだろう、さあ、こっちへおいで。
しかしお前たちは仕合せ者だ、
世間の艱難を少しも知らずにきたのだから。
この世で大層役に立つ、わたしのこの、
眼の中へ降りておいで、
この眼を藉りて、
まあ、この辺りの様子を見てごらん。
(童子らを自分の中へ容れる)
これが木で、あれが岩だ。
あれは、たぎり落ちて、
すさまじい瀬になって、
嶮しい道を縮めてしまう清水の流れだ。
昇天した童子たち (内部から)
大変な眺めですね。
それでも、この辺はあんまり陰気で、
なんだか恐ろしくてびくびくしてしまいます。
気高いお方、どこかへ行かせてくださいな。
天使めく神父
次第に高い所へ登って行くがよい。
永遠に浄らかなやり方で、
神が見守っていて下さるのだから、
知らないうちに大きくなって行くがよい。
この広大な大気の中にあるものが、
霊たちの食べものなのだ。
また至福の境地へ展け行くべき
永遠なる愛の啓示なのだ。
昇天した童子らの合唱 (山頂をめぐり飛びながら)
手に手をつないで、
たのしく輪を作って、
ぐるぐる回って、
尊い気持ちを歌にうたおう。
神の教えを受けて、
神にすべてをおまかせしよう。
やがて敬いまつる。
神の御姿を拝するだろう。
天使 (ファウストの霊を捧げて、一段と高い空中を漂いつつ)
霊の世界の気高い一員が
悪の手から救いとられました。
「絶えず努力して励む者を、
われらは救うことができる」
その上、この方には、
天上の愛が手を差しのべています。
神々しい群れが、この人を
心から歓迎しています。
若い天使たち
愛に溢れた神聖な贖罪の女たちの
手から授けられたあの薔薇の花が、
わたしたちを助けて勝たせてくれました。
この尊い魂をわがものにするという、
大きな仕事を成就させてくれました。
その薔薇の花を撒くと悪者は避け、
それをあててやると悪魔は逃げました。
いつもの地獄の刑罰の代わりに、
悪霊たちは愛の苦しみに悩まされました。
あの悪魔の頭株の年寄りさえ、
からだ中に火ぶくれをこしらえて苦しみました。
全戦全勝です、大成功です。
やや成熟した天使たち
地上の残滓を運ぶのは、
とても苦しくて堪りません。
それが石綿だったとしても、
清浄ではありません。
逞しい精神力が
諸々の元素を
しっかりと集めて握っていると、
霊と肉体とが緊密に結びついた
二重の体を分けることは、
天使にもできないのです。
永遠の愛だけに、
その二つが分けられるのです。
若い天使たち
岩山のまわりに霧のように棚引いて、
近くを動いてやってくる
霊の気配を、
今わたしたちは感じ取っています。
雲が透き通ってきて、
仕合せな子供たちの
賑やかな群が見えます。
あの子たちは、下界の圧迫を免れて、
寄り合って輪を描き、
天上の世界の
新たな春と装いを見て、
すっかり元気を取り戻しました。
この人も、まず最初は
この子供たちの仲間入りをして、
追いおいに最後の目標に到達すればいいのです。
昇天した童子たち
ぼくたちは悦んで、
蛹のようになっているこの方をお迎えします。
これでぼくたちは、
天使の託したものを受取ったのです。
この方をくるんでいる
繭の綿毛を取除きましょう。
神聖ないのちを享けて、
この方はもう大きく美しくなられました。
マリアを崇拝する学士 (最も高く清らかな岩窟で)
ここは見晴らしがよくて、
精神が高められる。
向こうを女人の群が漂いながら
上の方へと進んで行く。
その真ん中に、星の冠をかぶった
立派なお方の姿がある。
あれは天界の女王だ、
輝きでそれと知られる。
(恍惚として)
世界を支配する至高の女王よ。
青い蒼穹の天幕のうちに、
汝の秘密を
窺わしめよ。
男の心を、
厳かにも優しく動かし、
聖なる愛の悦びを以って
汝に向わしむるものを受け入れ給え。
あなたが気高くお命じになられると、
私たちの勇気は不動のものになります。
私たちを満足させて下さると、
情熱も突如として柔らぎなごみます。
こよなく美しき意味で純潔なる処女よ、
ありがたきおん母を、
われらの女王よ、
神々と肩を並べ給う女人よ。
軽やかな雲が、
あの方のまわりに漂っている。
あれは贖罪の女たちだ。
あの方の膝を中に、
昊気を吸いながら、
御恵みを仰ごうとする
優しい人たちだ。
触るべからざるあなたにも、
誘惑にかかりやすい人たちが、
親しくお縋り申すことは、
禁じられてはおりません。
弱さの故に罪を犯した
あの人たちを救うのは容易ではない。
自力で歓楽の鎖を
引き千切れる者がいようか。
斜めの滑らかな床の上では、
つい足をすべらせてしまうものだ。
秋波や世辞や媚びある息に
心を惑わされない者がいようか。
輝く聖母、漂い来る。
贖罪の女たちの合唱
永遠の境界の
高みを漂いきませる、
類なきおん方よ、
われらが願いを聴かせ給え、
御恵み深きおん方よ。
大なる罪の女
パリサイ人の嘲りを物ともせず、
神となられましたおん子のおみ足に、
香油ならぬ涙をお注ぎ申した
その愛にかけてお縋り申しまする。
あれほど豊かな香気をしたたらせた
壷にかけて、また神聖なおからだを、
あんなに柔らかにお拭き申した
捲毛にかけてお縋り申しまする・・・・・・
サマリアの女
その上、アブラハムが家畜を水飼いした、
泉にかけてお願い申し上げまする。
救世主の唇に涼しく触るることを許された
水がめにかけてお縋り申しまする。
今そこから滾々と流れ出て、
永遠に澄んで世界中を流れる
清き豊かな
泉にかけて・・・・・・
エジプトのマリア
主をおすわらせ申した
ありがたい場所にかけて、
わたくしを突き戻した腕にかけて、
慎んで荒野で修した
四十年の懺悔の行にかけて、
わたしが砂に書き残した
殊勝な遺言にかけて御縋り申しまする・・・・・・
三人ともどもに
罪深き女らを
しりぞけ給わす、
贖罪の功徳を
永遠のものとし給うおん身よ、
ふと吾を忘れしのみにて、
自らの罪過に気づかざりし
この善き魂にも
御赦しを賜わり給え。
贖罪の女のひとり (かつてグレートヒェンと呼ばれし女、聖母に縋りつつ)
較べようのない聖母さま、
光明に溢れる聖母さま、
どうぞお恵み深くそのお顔をお向け遊ばして、
わたくしの仕合せをごらん下さいまし。
昔の恋人が、
今はもう濁りのない方が、
戻って参ったのでございます。
昇天せる童子ら (輪を描いて近寄りつつ)
もう手足もお伸びになって、
ぼくたちより大きくおなりです。
お世話した恩返しも、
たっぷりして下さるでしょう。
ぼくたちは幼い時分に、
地上の団居から別れてしまいました。
けれどもこのお方は修行を積まれるたのです、
きっとぼくたちにお教え下さるでしょう。
贖罪の女のひとり (かつてグレートヒェンと呼ばれし女、聖母に縋りつつ)
気高い霊の合唱に取囲まれて、
この方は自分で自分がおわかりにならないのです。
まだ新しい生命にお気づきにならないのです。
それでも尊い方々に似ていらっしゃいました。
ごらんなさいまし、地上の絆を一切断って、
そこから抜け出してしまわれて、
まとった霊気の衣の下からは、
若々しい新たな力を湧き出させていらっしゃいます。
あの方にお教えすることをお許し下さいまし。
新しい日の光をまばゆがっておいでです。
輝ける聖母
おいで、もっと高くお昇り。
お前だということがわかれば、付いて行きます。
マリアを崇拝する学士 (伏して拝しつつ)
悔いを知れるなべての優しき者よ。
感謝しつつ己が性を変え、
清らけき福を得べく、
われらを救わせ給うおん方を仰ぎ見よ。
心すぐなる者はみな、
おん身に仕えまつるべし。
処女よ、神母よ、天の女王よ、
女神よ、永く御恵深くおわしませ。
神秘の合唱
すべての移ろい行くものは、
永遠なるものの比喩にすぎず。
かつて満たされざりしもの、
今ここに満たさる。
名状すべからざるもの、
ここに遂げられたり。
永遠にして女性的なるもの、
われらを引きて昇らしむ。