ラヴェルの“ミラー”から「蛾」


僕はラヴェルの音楽が大好きですし、よく聴きます。特に好んで聴くのは、バレエ音楽「ダフニスとクロエ」です。ただし、彼の音楽は技術先行型で「あまり中身がないなぁ〜」と内心思いつつ聴いています。世間では、よく比較されるドビュッシーという作曲家がいますが、彼の音楽の方が、数段精神的に充実していると思っていますし、それはその実、全然違う音楽だと考えています。
しかし、あるきっかけによってラヴェルの音楽に強烈な印象を受けたことがあったので、ここにご紹介させていただきます。
僕が学生の時、夢中になってユングの本を読んでいた時期がありました。本当にたくさん読みました。
「変容の象徴」という本を読んでいた時のこと、『蛾の歌』という項目に入った時、ハッと思い出しました。ラヴェルのピアノ曲ミラーに『蛾』という変なタイトルの大変美しい音楽があったことを。
その本は、フランク・ミラー(偽名)という女性患者(この偽名も実に興味深いのですが・・・・、)の報告書なのです。その本の『蛾の歌』という項目は、彼女の詩から概ね始まります。それでは、彼女の詩をご紹介しましょう。

 

太陽に向かって蛾が歌う

はじめて意識にたどりついたときあなたに憧れた、
繭のなかで夢はすべてあなたのことだった。
わたしの種族のものたちは命をうち当て果ててゆく、
あなたから生まれたかすかな火花にとらえられて。
あと一時間――そしてわたしのあわれな命も終る。
だがさいごに力を尽くす、はじめての希いのままに、
あなたのかがやく栄光に近づこうと。そして恍惚と
ただ一目見て満ちたりて死のう、
美とぬくもりと命のみなもとの
光まったき姿にいちど視入ったのだから。

 

非常に理解しづらい詩です。こういうことだと思います。

ある晩、一匹の蛾が、仲間の所を離れ冒険の旅に出ました。あちらこちらを不良して遊び飛んでまわっているうちに、突然その蛾の目の前に、この世のものとは思えない光り輝く“何か”をみつけました。その蛾は、その輝きがあまりにも素晴らしいので、しばらくその光のまわりをグルグルと飛び回っていました。実はその光は、人間が焚く炎だったのです。その蛾はグルグルと飛び回っているうちに、この素晴らしいものを自分だけのものにしておくのはもったいないと考え、友だちのところに戻って行きました。その蛾は、友人である蛾たちに先ほど自分が目にした素晴らしい“何か”を一生懸命に説明しました。けれども、誰もその蛾の話すことに、一向に耳をかたむけようとはしませんでした。がっかりと肩(羽?)を落としたその蛾は、あくる日の夜、一人で再びまたあの光のところへいそいそと出かけて行きました。そして、その輝く光のまわりを「あぁ!何て素晴らしいのでしょう!」「あぁ!何て素晴らしいのでしょう!」と、何度も何度も言いながらグルグルと飛んでいるうちに、どうしてもその光と同化しなければならないという使命的衝動にかられました。そして、ついに、その蛾は炎の中に飛び込んで行ってしまったのです。

その蛾にとっての炎を人間に置き換えて考えてみると、それは、ある人にとっては恋人や妻や夫であったり、ある人にとっては我が子であったり、あるいは肉親であったり、友人であったり、自分が没頭し探求しているものであったりするのではないでしょうか? この場合、対象が自分では決していけません。自分という狭い領域から一歩外に出なければならないのですから。我が子のために身を呈してまで守った親の話しは、時々記事として目にしたり、ニュースで聞いたりしませんか? 悲しむべきことに、最近では、まったく逆の現象が、確かに起こってはいます・・・、多分そういった人たちは、ラヴェルの蛾になんかまったく興味を抱かない、自分という狭いカテゴリーから一歩も出ようとしない人たちです。
果たして、ラヴェルがこのようなことを念頭に置いて作曲したかは、定かではありません。それでも、この音楽が非常に愛すべき作品のように思えるのは、僕だけでしょうか? 大変美しい曲なので、是非お聴きください。


ラヴェル作曲 「鏡」

T.蛾
U.悲しい鳥
V.海原の小船
W.道化師の朝の歌
X.鐘の谷


「ラヴェル ピアノ曲全集」
(ピアノ:サンソン・フランソワ/東芝EMI株式会社)

C.G.ユング「変容の象徴」(野村美紀子訳/ちくま学芸文庫)


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