過去とはつらいものだろうか?

思い出とは悲しいものだろうか?

つらいものもある。

悲しいこともある。

でも、やがて楽しさと嬉しさが、それらを駆逐していくものだ。

しかし、決して忘れてはならない、目を逸らしてはならない昔話もある。

二度と思い出したくないと切望した過去。

だが、それらを受けとめて、なお微笑んだその時こそ、本当に幸せといえるのではないだろうか?

しかして、彼らは今その中にいる。










・・・・・・




















いや、だからといって、マジメな話とはいいかねるかもね、こりゃ。



























夫婦絶唱・思ひでぼろぼろ・其の弐

修学旅行☆りたーんず


前編



























時に、西暦2034年。











第3新東京市の住宅街の一角。

そこに、一際豪奢な一戸建てが存在する。

まるで、アメリカの高級住宅外から抜け出してきたようなその家屋は、ご近所から『碇御殿』と呼ばれていた。

もちろん名を冠しているように、そこに住む家族の姓は全員『碇』である。

碇シンジとその妻であるアスカ。

町内どころか市内一有名なおしどり夫婦である。(妻はどっちかというと黄金の猛禽だという一説もアリ)

良夫賢父とご近所の奥様方に評判の旦那に、

モデル顔負けのルックスとプロポーションを誇るその妻は、町内の旦那衆に絶大な人気を誇っていた。

しかも、二人ともまだ30半ばという若さであった。

にしても、その若さでこれだけご近所ウケするというだけでも、いかに尋常でない夫婦か察せるだろう。

そして。

二人には、三人の子供がいた。

今年で、上から、16、14、13歳。男、男、女の取り合せである。

今回は、その二番目の、中学2年生碇リュウジくんのお話。






今、リュウジは、くだんの豪奢な自宅のリビングで、荷造りに忙しかった。

リビングの一角に設けられた六畳ほどのお座敷には、盛大に荷物がぶちまけられていた。

全て、明日の修学旅行へもっていくものである。

「えーと、着替えのパジャマは・・・よし。靴下靴下と・・・・・」

などと荷物のチェックに余念がない。

たまたま飲み物を求めてリビングを通りかかった妹である碇ミコトが、お座敷の惨状に眉をしかめる。

「なによ、こんなに散らかして。自分の部屋でやればいいのに」

兄はというと、そんな妹を一瞥しただけで作業をする手をやめない。

言っても無駄だと悟ったのか、ミコトは肩をすくめて牛乳の入ったコップ片手にリビングを出て行く。

妹の意見は最もなことだが、反論はしない。

まあ、この年頃の男子の部屋とは、大抵散らかっているものである。

リュウジくんも例外に漏れなかった。

そんな息子を見やって、母アスカはしみじみとぼやいたものだ。

「ふう・・・、シンジはあんなに奇麗好きなのに、どうして息子二人そろって、掃除には無頓着なのかしらねぇ?」

溜め息をついて呆れる母親に、『あなたの遺伝子のほうが優勢だったから』などとは口がさけてもいえない。

ともかく、今は、いそいそと荷造りに励む次男坊であった。

一心不乱で作業に没頭していると、玄関からチャイムが響く。

かまわず少年が作業を続けていると、トテトテトテ・・・と軽い足音に続き、ひょっこりと青い髪の少女がリビングの入り口へ現れた。

「お邪魔いたします。あ、リュウジさん、どれくらいはかどられましたか?」

古風な言葉遣いに、立ち振る舞いまでおしとやかな少女だった。

中学の制服姿だが、スカートは標準ピッタリの長さに、リボンも正確なまでに折り目ただしく結ばれている。

模範的な生徒といえるかもしれない。

ただ、大抵の人は、その折り目正しい身なりとは裏腹に、彼女個人の容姿に驚く。

水色の淡い髪。赤い瞳。透けるように白い肌。

アルピノの少女。

彼女の名は、渚ミレイと言う。

彼女の容姿は、両親である渚カヲル、旧姓綾波レイからそっくりそのまま受け継がれたものだ。

よって、彼女の容姿は、驚くほど綾波レイの幼少時代と酷似していたりする。

ただ、中味は大分違った。

恐ろしく違う、と形容しても大げさではあるまい。

「ああ、そろそろ片付くかな?」

手を休めず、リュウジは青い髪の少女へと答えた。

「そうですか。何か、わたしにお手伝いできることはありませんか?」

膝を折って訊ねてくる少女にリュウジは首を振る。

「もうじき終るから」

「そうですか・・・・」

ミレイは一瞬寂しげな表情を見せたが、少年の傍らへと腰を降ろす。

そして、何が楽しいのか、微笑みを浮かべたまま、じっと少年の荷造りの様子を眺めるのである。

まあ、いくら美少女とはいえ、女の子にじっと眺められたら、落ちつかなくもなるものだが、リュウジはというと平然としている。

なにせ、ものごころつく以前からの付き合いである。すっかり慣れてしまった。

「ただいま〜」

玄関からまた声が。

しばらくしてリビングへと現れたのは、今度は金色の頭だった。

いわずもがな、母であるアスカである。

「あら、ミレイ、いらっしゃい」

背筋を真っ直ぐに伸ばし、豊かすぎる胸を轟然と逸らしながらアスカは破顔した。

この娘の両親はともかく、この娘個人に関してはなかなか好感を持っているのだ。

「あ、お邪魔いたしております、お義母様・・・」

三つ指をつき、深々とミレイは頭を下げる。このへんの礼儀正しさも、アスカの気に入るところだった。

ただ、そのやりとりを眺める碇家次男坊のみが、今度はなかなか尋常な心境ではいられない。

この青い髪の幼馴染みは、自分に好意を持っていることは理解している。自分だって彼女に好意を持っている。

しかし、さも当然のようにミレイは母を『お義母さま』と呼んでいる。

アスカもそれを素直に受け入れて肯定している。

いかに慣れが来ているとはいえ、まだ14歳という身空ながらこうも将来的なことが確立されつつあるのを見るのは、ときおりどうしても戸惑いを覚えるのである。

だが、リュウジはその違和感を即座に忘れた。

これが、彼の後天的に形成された、特技であり欠点だったりする。

それはさておき。

お座敷を見たアスカは、娘よろしく顔をしかめた。

「なによ、この荷物の山は?」

「明日から修学旅行なんだけど・・・」

「あ、そーいえば、そっか」

アスカは納得の表情でポンと手を打つ。当然、息子の呆れ顔には気付かない。

「前々からプリント渡してるのに・・・」

この母親は、根本的に抜けているところは抜けているのだ。

「で、どこに行くんだっけ?」

更に訊ねてくる母に、リュウジは呆れ果て天を仰ぐ。

それでもリュウジが答えようとすると、

「ただいま〜」

今度は父であるシンジが帰ってきた。

「あ、ミレイちゃんいらっしゃい」

リビングへとやって来たシンジも、微笑を浮かべる。

彼もミレイという娘を可愛がっていた。その意味は、単純に息子の幼馴染みだから、という範疇にはおさまらないものである。

親友たちの子供だから、というわけでもない。

そこいら辺の事情は、当の子供たちには理解しかねることだが、いずれ双方の親たちから語られることだろう。

だが、それもまだ先の話だ。

「ああ、明日から修学旅行だったね」

万事、気配り思いやりのシンジは、妻とは違って十分に息子たちの情報は把握していたらしい。

「ええ、沖縄に」

穏やかに微笑みつつ答えたのはミレイである。

「・・・・・・沖縄?」

その答えを聞いて眉を顰めたのはアスカだった。

「沖縄、沖縄か・・・・」

ブツブツ言い始める母を完全に無視して、息子は最後の荷物をボストンバックに積め込む。

あとはチャックを閉めて終りというところで、母の一声が響いた。

「ねえっ、シンジ! あたしも明日から沖縄に行きたい! 」

不幸にも、せっかく積め込んだボストンバックの中味は、盛大に飛び散った。
































「・・・・リュウジさん、寝不足ですか? まぶたが腫れてらっしゃいますよ?」

隣席の少女の声に、リュウジは目の付け根を軽く揉む。

そして深く座席へともたれ、溜め息をつく。

目下沖縄へ移動中の飛行機内である。

「私もワクワクして、なかなか寝つかれませんでした」

別クラスのくせにちゃっかり隣席を確保しているミレイは、微かに頬を上気させている。彼女なりに嬉しくて興奮しているのだろう。

対してリュウジは疼痛のする頭を巡らして答える。

「いや、寝不足といえば寝不足なんだけど、ワクワクしたわけじゃなくてね・・・・」

そんな彼の脳裏に、先日の、いや本日の明け方まで続いた騒ぎが、悪夢のように蘇る。




















「だーかーらっ! なんで母さんまで沖縄に行きたいなんていうんだよっ!」

「それはね、リュウジ。お母さんたちは、あなたたちと同じ歳の頃、色々あって修学旅行にいけなかったからよ」

「だったら、日にちずらして行けばいいだろっ!?」

「旅行はみんなでいったほうが楽しーじゃない♪」

「・・・・本当に、マジで行くつもり?」

「あ、シンジ、あの水着、もってこーかしら? 」

「お願いだから、人の話を聞いてよ、もう・・・・・・・・・・!!」
















・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

母であるアスカは有言実行の人だ。

しかも、即席カレーでもつくるかのような気軽さで、突拍子もないことを提案するという特技を持っている。

それは、『無理』『無茶』『無謀』『非常識』のたっぷりのスパイスで煮たてられいるわけだが、付き合わされるほうはたまったものではない。

結局、朝方までの抗議は無駄になってしまった。

以上のような理由でリュウジは睡眠不足もいいとこなのである。

・・・・まあ、沖縄と一口に言っても広い。顔を合わせる確率は、それほど高くないはずだ。

彼は目を瞑る。

沖縄までの道程は、2時間もかからないものだが、わずかでも睡眠をとることにした。

どうか、悪夢は見ませんように。

また、悪夢が現実となりませんように。

それが彼のささやかな祈りだった。







・・・・・・・・・しかしながら、現実はあまりにも残酷だったのである。















沖縄。

ここにもセカンド・インパクトの生々しい傷痕が残っている。

しかしながら、それも過去のものになりつつある。

人間は逞しい。

加速的な復興に、もともと沖縄は気候的にはそれほどダメージを受けていない。

今や、立派な街並みが、那覇空港の上空からは見て取れた。

陸地の減少が、建築物の高層化をうながすのは本土の常であり、事実この沖縄も米軍基地との兼ね合いやサミットなどにより立派かつ高層のリゾートホテルなどが乱立した時期はあった。

だが、この南の大地は、復興してから現代建築にその景観の全てを委ねはしなかった。

昔ながらの瓦屋根の家屋、守護神であるシーザーの石像、石塀・・・・・・・・・。

あるいは、日本という国において、もっともセカンドインパクト以前の、いや更に昔の景観を残している地であるかもしれない。

むろん第三新東京市第一中学校修学旅行生の面々も、事前にこの地について勉強はしてきていたが、国際通りを抜けて西海岸へ来ると、蒼い海を見た途端、全てが脳裏から吹き飛んでしまった。

潮の香りが郷愁をそそり、胸が高鳴る。

原初の本能。

海を目にする生徒たちの瞳が輝く。

教師サイドも心得たもので、初日の予定は海水浴と自由行動にしてある。

一度泳がせてもおかないと、次のスケジュールに全く身が入らないであろうことを承知しているからだ。

そういうわけで生徒たちは、ナカナカに立派ホテルへ到着後、部屋の割り当て、先生方の諸注意を一応神妙に伺うと、まってましたとばかりに三々五々ホテル前のビーチへと駆けて行く。

「ちゃんと水着の上にはTシャツを着用しろよっ!」

教師の声も聞こえたかどうか。

その証拠に既に男子生徒の幾人が上半身を堂々と晒して砂浜へと飛び出している。

彼らのうち何人かが、今晩日焼けで苦しむことになるだろう。

沖縄の日差しは強い。

リュウジとミレイも、極自然にホテルのロビーで待ち合わせると、連れだって浜辺へと向かった。

一歩建物の外へでると、太陽の光が強烈に目を射る。

快晴だった。

「?」

ミレイが目前のビーチを眺め、可愛らしく小首を傾げる。

リュウジもそれにならった。

浜辺には、さきほど駆けていった生徒たちが、何ゆえか海にも飛び込まず、たむろっているのである。

まるで、なにかを遠巻きにしているような・・・・・・・・?

「どうしたんでしょう?」

遠巻きにしているのは、なにも一中の生徒ばかりではない。一般の観光客の姿もその輪の中に認めることができる。

ミレイの問いにリュウジは沈黙していた。

いやな予感がした。

違う。

いやな確信があった。

それでも、それを確認すべく、リュウジも衆人の輪へと足を踏み入れる。

人垣の隙間から、おそるおそる覗くと。

純白のビーチパラソル。

その下には、トロピカルドリンクを片手にしたサングラスをかけた美女が横たわっていた。

大胆な赤いビキニから、たわわな双丘がこぼれ落ちそう。

きわどいカットのハイレグからは、なめらかで完璧な脚線美が倣岸なまでに伸び、それを眺めるギャラリーに生唾を飲み込ませずにはいられない。

そして。

豪奢な金髪が浜風になびいた。

リュウジの表情がげんなりとなる。

母がいた。

彼は、見つかる前に輪から戻ると、幼馴染みの少女を連れ立ってそこから離れた。

「?? いったいなにがあったんです?」

ミレイは赤い瞳を大きく見張ったが、リュウジが答える気がないのを悟ると、黙って彼の誘導に身を任した。

二人は、人の輪から外れた場所にくると、手早くビニールシートを敷いて荷物を降ろす。

「さあ、泳ごうか!」

リュウジは、やけくそ含有率78%の声を出した。どうやら、さきほど目にした光景は忘れることにしたらしい。賢明である。

「はいっ」

青い髪の少女も、さして疑問を挟むこともなくそれに習った。

彼女にとって、この少年が、この少年そのものが最優先事項に設定されている。

人気の少ない海へ飛び込む。

ちょっと入り組んだところにあって波が来にくいところだったが、穏やかな水面は二人を喜んで向かい入れる。

頭から飛び込んで海面へと浮上。

「ふーっ、気持ちいいっ!」

髪を振って水滴を払いながらリュウジ。

ミレイはそんな彼を眩しそうに見て微笑む。

その時。



フンフンフンフンフンフンフンフン フンフンフンフンフ〜ン フフン♪



緩やかな風に乗った鼻歌が、二人の耳道へと飛び込んできた。

「これは・・・・・?」

思わず周囲を見まわす二人。

そして鼻歌の主は、浜辺に突き立つ一段高い岩山に腰を降ろしていた。

「海はいいねぇ〜♪」

華奢な人影に、ミレイが驚きの声をあげる。

「父さま!?」

渚カヲルがそこにいた。

年齢不詳の美少年ヅラと、彫刻像のような華奢な身体を陽光にいっぱいに晒して。

「ふふふ、リュウジくん、ミレイも奇遇だね♪ 」

微笑む白い歯とともに、純白のビキニパンツが輝く。

奇遇もなにもあったもんじゃない。だが、リュウジは呆気に取られて声も出ない。

カヲルは腰を奇妙にクネラセつつ、あくまで爽やかに微笑む。

「はははは、感動のあまり、声もでないのかな? 」

リュウジが口をあんぐり空けているのは、もちろんそんなワケではない。

しかしカヲルはそんなことは全く意に介さず、あくまでにこやかに腰をグラインドさせている。

そして、異様に引き締まった痩身をしならせると、岩場から海面へと身を躍らせた。

目標は、碇次男坊。彼の最も好意を抱いている人物の容姿を色濃く受け継いだ少年。

矢のような影がリュウジへと迫る。

実の娘であるミレイですら、反応できないでいた。

その時。

風を切って飛んで来た浮き輪が、カヲルの首をすっぽり捉えた。

「わわわわわっ!?」

次の瞬間、カヲルの裸身が海上を滑るように二人から遠ざかって行く。

その浮き輪には、頑丈なワイヤーロープが結びつけてあったらしい。

ロープの端っこを握っていた人間はというと、手元にカヲルを引き寄せ、鳩尾に素足で当身を食らわせる、という器用なことをやってのけた。

呆気に取られっぱなしのままの二人に、カヲルを悶絶させた人影はゆるゆると近づいて来た。

ヨットパーカーを羽織りその下には白い水着を着ている。

「・・・・・母さま!?」

またもやミレイが驚きの声をあげる。

対してリュウジは、やっぱりという表情を隠せない。

世界広しといえども、あのカヲルおじさんを悶絶させられる人物などこの世に二人しかいない。

一人は自分の母である。そしてもう一人はというと、カヲルの妻その人だけだ。

碇家次男坊の洞察は正確で、人影は渚夫人レイであった。

「母さまもいつ沖縄に? わたしはさっぱり聞いてませんでしたが・・・・」

ミレイは疑問の声を投げかけるが、むしろ喜びの色のほうが大きい。

子供たちのすぐ傍まできたレイはというと、波間に半分顔を沈めているリュウジに一瞥くれてから娘の方へと向き直る。

そして、やおら真剣な表情で(もっとも、彼女の表情の変化は極めて乏しいが)娘へと語りかけた。

「・・・・あたしが、碇くんに押し倒されたのは、14歳の頃だったわ」

「え?」

それだけ告げると、レイはさっさと踵を返し、浜辺へと戻って行く。

遠ざかる後ろ姿を眺めて、リュウジは泡ぶくとともに溜め息を吐き出した。

どうにも、渚夫妻というのは、どちらも何を考えているかわからなくて苦手なのだ。

まあ、いい人たちには違いないのだろうけど・・・・?

つと視線を巡らしたリュウジは、幼馴染の少女がいつのまにか海面へと浮かんでいることに気づく。

うつ伏せで。

あわててミレイを引き上げ、顔を覗きこむリュウジ。

幸いなことに、彼女の呼吸は停止していなかった。

しかしながら、その顔は真っ赤である。呼吸困難だったことだけが原因ではなさそうだ。

その証拠に、彼女の薄ピンクの唇から、ブツブツと念仏にも似た響きの言葉が紡がれている。

「押し倒す・・・夜這い・・・・褥・・・・同衾・・・・初夜・・・・・きゃっ♪」

以上のようなことがエンドレスで続いているのである。

仕方がないからリュウジは少女の身体を浜辺へと引き上げることにした。

華奢な、恐ろしく軽い身体を抱き上げつつ、ますます顔を真っ赤にさせる少女の顔を視線で一撫でしてから、彼は憮然と浜辺を見廻した。

まさか、まだ他に沖縄に来てるんじゃないだろうな?


















青い海をのぞむ砂浜に彼女はいた。

Tシャツにクリーム色のウインドウブレーカーに白いチノパン。

黝い髪を浜風になぶらせ、その双眸はサングラス越しに沖縄の空を眺めている。

「暑いわね・・・。確かに本土よりは湿度は低いけど」

そんな彼女の右手には缶ビール、左手にはあたりめ。

「・・・おい。なにも着いた早々飲むことはないだろう?」

傍らに一緒に立っている50がらみの男が、呆れたような声を上げた。

歳のわりには頭髪はたっぷりしていて、なかなかのダンディっぷりである。

その気になれば、まだまだ女性の一人や二人泣かせそうだ。

彼の名は加持リョウジという。

「ふん、飲む以外、何をしろってーのよ?」

そうぶっきらぼうに応じたのは彼の妻、ミサト。

荒荒しくあたりめを食いちぎり、勢いよくビールを食道へと流し込む。

彼女も五十に片足をっこんでたが、酒豪ぶりは相変わらずだった。

「せっかく沖縄に来たんだから、おまえも泳いだらどうだ?」

加持は浜辺へと視線を送りながら言う。

「ふん・・・・・」

ミサトも夫にならい、視線を浜辺へと転じた。海水浴場の一角に出来た人だかりに向けて。

「あたしゃアスカほど度胸はよくないわよ」

なんとも羨望と自嘲に満ちたセリフである。

「まあ・・・・・あのプロポーションは反則だよな」

加持も苦笑で応じ、顔を撫でた。

「鼻の下伸びてるわよ」

サングラスを落とし、ミサトを上目遣いに夫の顔を覗き込む。

「はははは、勘弁してくれよ、オレもとっくに知命を迎えたんだぜ?」

爽やかに答えた加持だったが、妻のほうはさり気なく切り込んだ。

「『BARパンデモニウム』のサツキちゃんってどなたかしら?」

夫のほうはというと、まるで透明な拳でフックでも叩き込まれたように仰け反る。

「『スナックダンテ』のイズミちゃんは? 『エンプレス』のちぃママさんとやらは? 

ついでに新任オペレーターの神谷ニ尉とはどういう関係なのかしら?」

「おおおおおおお、落ちつけ、ミサト!!」

「あたしはいたって平静よ」

冷ややかに目を光らせるミサトに対して、加持の狼狽振りはいっそのこと悲しい。

「あ、あれはだな。職場の接待でしかたなく・・・・」

「ふ〜ん」

抑揚のない口調が、なによりも雄弁に懐疑的であることを語っている。

加持の背筋を冷たい汗が滑り落ちる。

オレは生きて本土へ帰れるだろうか・・・・?

しかし、意外な天佑が彼を救った。

「加持さ〜ん、ミサトさ〜ん、できましたよ〜!!」

浜辺から二人を呼ぶ声が。

同時に浜辺を見た彼らの視界には、嬉々として手を振っている碇シンジの姿があった。


 
















現在の碇シンジ氏の肩書き。

『特務機関ネルフ施設内食堂統括主任』

ネルフ施設内の『食』を一手に引きうける総責任者である。

彼の料理の評判はすこぶるいい。

レパートリーは和洋中華なんでもござれと来て、全て美味い。

あまりの美味さにネルフ施設内見学ツアーの目玉スポットにされているくらいである。

そんなわけであるから、職員の彼に対する心証の良さもズバ抜けていた。

その権限は絶大である。

まあ、彼が権力を行使したことは一度もないが。

余談になるが、彼が職を辞した場合、全ネルフ職員中13%以上の依願退職者が出るという試算は、旧姓赤木・現碇リツコ博士のデスクの中に眠っていたりする。

どちらにしろ、彼がネルフ内で司令に継ぐ権限を持っているということは、衆目が一致するところだった。

現在、そして将来的にも。

つまり、碇シンジ氏は、その父親である碇ゲンドウ司令の跡をつぐもの――すなわち次期司令候補の最右翼と見なされていたのである。

彼自身、学歴も申し分無く、なぜコックに甘んじているのかと疑問に思われるほどであったから。

もっとも、シンジ自身は全く何も語らず、毎日鍋を振るう日々。

そしてその日のシェフ特製スペシャルランチの食券を求めて、今日も職員たちは血みどろの抗争を繰り広げるのである・・・・・。












そんな彼は今、沖縄の空の下で鍋を振るっていた。











「やっぱり沖縄は新鮮な食材があっていいなあ・・・・」

碇シンジ氏は、至福の表情で鍋を振るう。

その無邪気な表情を見ると、とても三十代半ばとは思えないほど若々しい。

今日のメニューは、ゴーヤチャンプルはもちろん、あおさの吸い物、天ぷら、沖縄のへちまを使った料理ナーベーラーンブシー、

琉球人参を使ったチデークニイリチーなどと、沖縄尽くしである。

手際良くテーブルクロスを広げてセッティングを済ませ、料理の数々を並べる。

それから彼は大声でみんなに呼びかけた。

「アスカ〜、ご飯が出来たよ〜っ!!」

その声に、さっそくやってきたのは、彼の妻であり次期ネルフ司令候補のド本命アスカである。

「わあ〜、美味しそうね!」

掛け値なしの賞賛と最高の微笑をくれる妻に笑顔で応じると、シンジは別の人たちにも声をかける。

「おおっ、シンジくん、こりゃ美味そうだな!!」

続いてやって来たのは加持夫妻。

夫のほうはやたらと饒舌で、その背中を冷ややかな視線で眺めながらやってくる妻ミサト。

「はっはっは、レイ、あんなのは冗談に決まっているんだから・・・グフっ!!」

夫カヲルの端整な横っ面に裏拳をかましておいて、それでも何事もなかったようにしてやって来たのは渚夫人レイである。

とりあえず、大人が全員着席したのを見計らって、シンジば子供たちにも声をかけることにした。

「ほらっ、リュウジも一緒食べようっ!」

渚家の娘を抱えたままホテルへ介抱に戻ろうとしていたリュウジは硬直する。

「なにコソコソしてんのよ、あんたは?」

アスカも食卓に頬杖をついたまま言う。

碇一家を遠巻きにしていた視線がリュウジへと集中した。

集まる級友たちの視線が痛い。

もともと渚ミレイという娘自体、容姿端麗成績優秀ということもあって人気があるのだ。

いかに彼女の眼中に幼馴染みの姿しかないといっても、白昼堂々お姫さま抱っこなどという姿を見せつけられて、平静を保てる男子生徒はいまい。

リュウジとしてはコソコソもしたくなるという次第であった。

しかしながら彼の躊躇も一瞬のものに過ぎなかった。

「あっ、お義父様の料理は絶品ですものね。喜んでいただきます」

いつの間にか彼の両腕から飛び出したミレイが、スキップで砂浜を駆けると食卓に着席した。

彼としては『お義父様』というフレーズに大いにひっかかるところがあったが、こうなってしまってはもはや観念するしかない。渋々と食卓へと着いた。

そこで、リュウジはまたしても見知った二人の人物に遭遇することになる。

「あ、兄貴っ!? それに、サトミねーちゃんも!?」

兄であるアスマと、その幼馴染みである加持家の一粒種サトミ嬢が、既に着席していたのである。いわずもがな二人とも水着姿だ。

「どーして兄貴たちまで沖縄にいるんだよっ!」

二人とも高校生なのである。こんな時期に休みであるはずがない。

弟の問いに対する兄の返答は簡潔を極めた。

「有給」

「・・・・・・・・・・」

呆気にとられたのも一瞬、盛大に突っ込もうとしたリュウジであったが、その直前にミサトの陽気な笑みが割り込んだ。

「あたしらだけが沖縄へ旅行するってのもなんだから、ねえ?」

「そうそう。せっかくだから、一家総出にしたわけ。文句ある?」

アスカが助け舟、というかトドメを刺す。

こうなってしまっては碇家次男坊はなにもいえない。いえるわけがない。

かわりに。

「・・・・・あれ? ミコトの姿が見えないんだけど?」

彼は妹である末っ子の名を口にした。

「あら、そういえば・・・・・」

食卓に着いた全員が周囲を見廻そうとした時。

「えへへ、ごめん、おまたせ」

碇ミコト嬢がやって来た。白いフリルつきのワンピースを着た彼女は、それはそれは愛らしい。

「よし、みんな揃ったね。食べようか」

さっそくシンジは料理を取り分け始める。

嬉々として料理に取り組み始める一同。

そんな中、諦めと呆れの表情を浮かべるのは碇リュウジ一人だけ。

オレって苦労性なのかな・・・・・?

茫洋と天を仰ぎ、何気なくミコトがやって来たほうのビーチへと視線を向けた彼は、とある光景を見て慄然とする。

砂浜一面へ延々と横たわる男たち。

そしてその中心に、直立する影があった。

砂浜に、頭から突き刺さり、逆立ちした一人の男。

一体なにがあったんだ?

彼の困惑をよそに、昼食はつつがなく進行し、終わった。









ここで、時間は少し溯る。





沖縄の青い空の下、碇ミコト嬢は砂遊びに興じていた。

鼻歌混じりに砂のお城を作っている姿は年齢より更に幼く見えたかもしれない。

だが、その容姿自体は既に女性としての確かな美しさを誇示していた。

時にはひたすら愛らしく映ることもある彼女の容姿は、絶妙のアンパランスさを保ち、まるで万華鏡のごとくクルクルと姿を変え、見るものを飽きさせない。

そんな彼女にビーチ中の男たちの視線が集まったのもむべなるかな。

遠巻きにしていた輪はジリジリとその半径を狭め、ついには一人の少年が勇気を奮って彼女に声をかけた。

「あ、あの・・・・・・!!」

「・・・・・・?」

可愛らしく小首を傾げるミコト嬢に、少年の心拍数は無制限にはね上がる。

「あの、その、僕と一緒トウモロコシでも食べませんか?」

少年が口火を切った途端、周囲にいた男たちも次々と口火を切った。

「オレと一緒にボートに乗らない?」

「いや、オレと一緒にジェットスキーで!!」

「まって、僕と一緒に・・・・・!!」

エトセトラエトセトラ。

「ちょ、ちょっとまってよ、もう・・・!!」

ミコトの悲鳴に、一端場は収まる。

「誰と付き合うか決めてくれ!」

体育会系の男の一人が絶叫する。

それは、はからずものこの場の男全ての心情を代弁していた。

「えっえっえっ!?」

驚愕するミコト。

しかし、容赦なく『付き合ってくれオーラ』が彼女へと肉薄する。

苦笑いのまま立ち尽くすミコトだったが、それでもようやく口を開いた。

「・・・・・えーとね、あたしは、強い人が好きなの」

そういった途端、周囲の男たちの視線が狂気を帯びる。

「つまり、この中で一番強いやつと付き合ってくれるんだね!?」

「え、えー・・・・・うん」

彼女がしどろもどろに頷いた途端、壮絶なバトルロイヤルが展開された。

砂と血と汗が飛び散り、苦痛の悲鳴と雄叫びが響く。

その凄まじいまでの周囲の喧騒の中、ミコトは砂遊びを再開していた。

このあたりの神経は尋常ではない。

一応、他人の声にいちいち反応するあたりは、父親の血の発露であろう。

しかし、阿鼻叫喚に近い周囲の景観をよそに自分の世界に没頭できるあたりは、間違い無く母親の血がなせる業である。

太陽がジリジリと中天に差し掛かり、ミコトの砂城が完成したころ。

累々と横たわる男たちの群れの中から一人のマッチョマンが立ち上がった。

彼こそがこのバトルロイヤルの勝利者である。英語でいえばジ・ウィナーだ。

厚い筋肉から滴る血と汗もそのままに、彼は付き合ってくれると宣言した少女のもとへと歩みよる。

「さあ、オレと付き合ってくれ!!」

そういわれて、完成した城を満足気に眺めていたミコトは驚きに目を丸くする。

「え、えーと、なんだっけ?」

まるで、自分がさきほど何を言ったのか、きれいサッパリ忘れたという口ぶりである。

さすがにマッチョマンの鬼気迫る様子に圧倒されたのか、彼女は半ば強制的に記憶を取り戻すことができた。

そして改めてマッチョマンの背後をすかしてみる。

「あーやややー・・・・・」

累々と横たわる汗みどろの男たち。

自分の発言が、どれほどの男たちの熱いプライドを散らせたのか理解しているのだろうか?

「うーんと、しょうがないわね」

ミコトは立ち上がると、お尻の砂をパンパンと払う。そして、自分より頭二つ分は高いと思われるマッチョマンへと微笑みかけた。

はっきりいって、超絶に可愛い。

それだけで、マッチョマンの顔には至福の波が音速で広がった。

そんな彼の顔が翳る。

何かが太陽光を遮った?

そう理解するより早く、彼は脳天に強力無比な一撃をくらい、その意識は暗転していた。

しかし、彼の肉体の方は、慣性の法則に導かれるまま地面にめり込んだ。頭から。そりゃもう真っ逆さまに。

逆さまに突き立った筋肉塔の目前に着地する影。

ワンピースのフリルがふわりと膨らんだ。

マッチョマンの脳天に、垂直飛び踵落としを打ち込んだ碇ミコト嬢は、微笑を崩さないまま爽やかに言った。

「あたしより弱いんじゃ、お話にならないわよねー♪」

そこに彼女を呼ぶ声が。

「・・・・ご飯できたよ〜!!」

ミコトは足取りも軽く声の方へと駆け出した。

二度と振り返ることなく。




これが、一中に長く伝えられる「犬神家の人々・IN・沖縄」の顛末である。












「リュウジさん、奇麗な夕陽ですね・・・・・・」

感激したように瞳を輝かせる幼馴染みの横顔を眺め、リュウジはしみじみと沖縄に来て良かったと思った。

頬を撫でる浜風が気持ち良い。最高だった。・・・・・・・・自分の家族さえ来てなければ。

「よしっ、次いくぜっ、かあさんっ!!」

兄であるアスマが、ビーチの白砂を踏みしめて振りかぶる。ただし、その手に握られているのは巨大なスイカだ。

「よおしっ、いつでも来なさい!!」

母であるアスカが答え、構える。ただし、彼女の手に握られているのは木刀で、おまけに白いタオルで目隠しまでしていた。

「どぉりゃあああああっ!!」 

気合一発。かなりのスピードでスイカが投擲される。

「そおりゃあっっっっ!!」

気合一閃。大上段に振りかぶられた木刀が神速の動きを見せる。

スパスパスパッ!!

芸術的なまで澄んだ切断音を響かせスイカは三つに分断された。

「やった〜!!」

目隠しを取って、自分の鮮やかな手腕に感激するアスカ。

そして彼女はこうのたもうた。

「やっぱ、スイカ叩きはこうでなくちゃねぇ〜〜♪」

切り分けたスイカに齧りつく母を筆頭とした家族を見て、リュウジはしみじみとこんな修学旅行はいやだと思った。

「あら? あんたらは食べないの?」

頬っぺたに種をつけながらアスカが息子とその幼馴染みに問う。

「なんでこんなに元気なんだよ、ウチの家族は・・・・!!」

夜の気配が水平線の彼方に覗く砂浜で、リュウジは泣いた。

修学旅行の初日はまだ終っていなかった・・・・・・・・・・・・。












後編に続く





















ども。お久しぶりです。

怪作さんの掲示板でさんざん新作いってたのに、遅れ遅れてこのザマです。

しかも、前編・・・・・・・。

もう、指差して笑ってやってください。

ついでに、上の作品と称するのも憚れるような稚作も笑っていただけたら幸いです。

それでは、続きは近いうちに。・・・・・たぶん、ええ(笑)

三只さんから夫婦絶唱シリーズの最新作をいただいてしまいました‥‥。

後編があるようなので、感想はそちらにまとめましょう。今はとにかく、続きが楽しみです。

みなさんもぜひ、三只さんに感想メールをお願いします。