夕食は、沖縄の長寿料理のお膳だった。
一部の生徒が日焼けに苦しみ つつも、第一中修学旅行一行の面々は料理に舌鼓を打った。
そんな中、料理に身が入らないものもいる。
碇リュウジは始終神経を尖らせ、ほとんど食事は上の空だった。
「おい、碇、食べないのか?」
「あ、食べるよ・・・・」
彼が懸念しているのは、よりによってこのホテルに同宿となった家族のことである。
決して、気遣っているわけではない。いつ乱入してくるのかを恐れている。
「あーリュウジ、このオカズもらっていい?」
「あ、うん・・・・・・・」
「これも」
「ああ・・・・・そうだね」
万事これである。
おかげでクラスメートは彼の分の料理を取り放題だ。
そんなものだから、
「はい、リュウジさん、あーん♪」
「うん・・・・・・・」
モグモグ、ごっくん。
いつのまにか隣に来た幼馴染みにご飯を食べさせられているのも気付かない。
幸いなことに、彼がクラスメートの羨望の視線に気付くこともなかった。
さらに幸いなことに、彼の家族(特に母親と兄)の襲撃もなかったのである。
夫婦絶唱思ひ出ボロボロ
修学旅行☆リターンズ
後編
「おい、碇、花札やろーぜ、花札」
夕食、入浴も終え、割り当てられた6人部屋へ戻ってきたリュウジ。
早速、同室の級友たちから声をかけられた。
「うん、やろうか」
彼の警戒に反して、家族の干渉は今のところ一切なかった。
入浴中になにか仕掛けてくるものとばかり思ってたから拍子抜けた。
肩の力も抜けて気も緩む。
「じゃ、100の100な♪」
「え〜、高いよ」
「オレから親ね」
既に敷き終えられた布団の上、消灯までの一時を楽しもうと試みるリュウジら6人。
ズドゴォッ!!
鈍い音とともに級友の身がひっくり返る。
白目をむいた級友の傍らにはなぜか枕が。
反射的に、枕の投げられた居室の入り口へと視線を転じたリュウジは凍りついた。
「ほーっほっほっほ、運がいいわね、リュウジ!! これでトドメよ!」
枕をオーバースローで振りかぶる母が立っていた。
浴衣の裾が割れて白い脹脛が覗く。
その母親ゆずりの反射神経でリュウジは咄嗟に横っ飛びしていた。
かわりに、彼の後ろにいた同級生の顔面に枕がクリーンヒットする。
「さすがね、リュウジ!! ほーっほっほっほ!!」
実弾の無くなったアスカは浴衣を翻す。
絶句したリュウジであったが、慌てて母の後を追う。
一体なんなんだ!? いや、どっちにしろこの暴挙を止めさせないと!!
結果的に、廊下へと飛び出したリュウジは、両脇に枕を抱えた母と対面することになった。
そして母の傍らには、ホテルの手押しワゴン山盛りに枕を盛った兄アスマの姿があった。どうにも彼が弾倉替わりらしい。
「うははは、リュウジ、楽しんでいるか?」
楽しんでいるわけがない。
理解しかねる兄の狂態に疑問を投げつける間もなく、リュウジの脳天は言葉のハンマーで直撃された。
母が歓喜というか狂喜の笑みを浮かべたままこう言ったのである。
「修学旅行の風物詩といったら、枕投げね!! ああ・・・初めてだけどなんか感動するわっ!!」
パクパクと口を動かす次男坊に目もくれず、その母と兄は廊下を疾走する。
そして、律儀にも各部屋の入り口で止まると、扉を開けて、中に大量の枕を投擲していくのである。
・・・・・兄貴め、母さんにデタラメを教えやがったな!?
二人を追いかけようとした彼の背後に、ワラワラと人の気配が。
振り向くと、無差別枕攻撃に幸か不幸か耐えぬいた級友たちがいた。
「碇〜! これはどういうことだ!?」
全員の目が怒りに燃えている。
「へ?」
わけもわからないリュウジの目前に差し出される一つの枕。
白い枕カバーには、こんなメッセージがあった。
『
わたしは誰の挑戦でも受ける!! BY碇』
「ぶうっ!」
思わず昏倒しそうになったリュウジであったが、どうにか踏みとどまる。
「いや、碇っていってもオレじゃなくてね・・・・・!!」
言い訳への応酬は、数十個の空飛ぶ枕だった。
後方へトンボを切って理不尽な攻撃を回避したリュウジに、背後から戻ってきたアスカらのカートワゴンが追突する。
更に応戦を始める兄アスマ。
悶絶するリュウジを尻目に、壮絶極まる枕投げ合戦が開始された。
「うううう・・・・・・誰か・・・せんせえ・・・・・」
リュウジの悲痛なうめきも盛大な喧騒に飲まれて消える。
しかし彼の思いに反して、教師陣が来る気配は微塵も無かった。
その理由は次のようになる。
加持ミサトが保護者代表を標榜して、ミーティング中の教師たちの部屋へと上がり込んだのが三十分前。
当然、一個大隊に匹敵するビール、その他の酒瓶を伴っていたのは言うまでもない。
半ばそれに引きずられるように同伴したシンジが振舞ったのは、彼手製の酒の肴の数々。
これで酒が進まないわけがない。
普段は酒を口にすらしない女教師でさえ撃沈していた。
さらに、修学旅行一行の宿泊したのはホテルの本館からちょっと離れた別館であった。
そして、この別館は、一中の生徒と教師たちの部屋以外、全て碇一家に借り上げられていたのである。
いわば、別館まるごと治外法権といっても良い。
飛び交う枕に怒号と悲鳴。
押す、突き飛ばす、潰される。
踏んで踏まれて投げ返す。
窓ガラスは割れ、ドアも壊れるが、みな熱に浮かされたように悪夢の枕大戦は展開して行く。
誰も止めるものはいない。
いや、止められるわけがない。
なんで沖縄まで来て枕投げ・・・!?
一人絶叫し、この無意味極まる争いを止めるため奔走するリュウジだったが、虚しさと憤りが溢れるだけ。
そんな彼の後頭部に、みるも鮮やかなアスカの枕三連撃が命中する。
碇リュウジの意識は一気に暗転し、深い闇の谷へと直滑降で落ちて行った。
翌日。沖縄はまたしても快晴だった。
「え〜、右手をご覧下さい。あそこに見えますのが仲泊遺跡と申しまして、県内最大規模の遺跡群であり、その展望台から見える景色は絶景・・・」
バスガイドの説明に対する返答は、いびきの大合唱であった。
昨夜の枕大戦の副作用であることはいうまでもない。
それを注意するはずの教師たちも、あるものは眠りこけ、あるものは二日酔いでそれどころではないらしい。
ベテランバスガイト米原那美(27歳・独身)のこめかみに青筋が走る。
しかし、あくまで笑顔を忘れない。プロのプロたる所以である。
「え〜、続きましては・・・・・・」
返答はまたしてもいびき。
長年、修学旅行生のガイドを務めてはいたが、ここまで全員熟睡している連中は初めてだった。
虚しさを偽りの笑顔の奥底に押し込め、聴衆のいないガイドを続ける。
その副作用というわけでもないが、彼女は本土の人間が徹底的に嫌いになった。
さて、第3新東京市第一中学校の一行が次に訪れたのは、沖縄本島北部にあるニュー名護自然動植物公園である。
ここには、以前から絶滅寸前の動植物が集められていたわけだが、セカンドインパクトの混乱でその数は更に激減していた。
それでも、どうにか1999年以前の賑わいを取り戻すことに成功しており、修学旅行生たちは眠気を一時的に退散させ、
フラミンゴを始めとしたリャマ、サイチョウ等の姿を堪能する事が出来た。
そんな中でも碇家次男坊は油断せず周囲に気を張っている。
しかしながら、無事に見学は終了した。
どうやら母たちも一行も観光に忙しかったのだろう。
これ以降も二日目の見学、行事は滞り無く経過した。
移動時間に修学旅行生たちが熟睡、バスガイドの本土人嫌いを助長させる以外、とりわけなにごともなく過ぎていったのである。
そもそもの原因は、碇一家の観光ルートと修学旅行生のそれがブッキングしなかったかららしい。
しかしながら、一度だけブッキングし、且つ一つのエピソードが存在したりする。
それは、修学旅行生一行が昼食を取ってからのことであった。
この後は首里城見学となっていたが、移動までの時間は一応の自由行動に当てられている。
買い物、散歩をするものが、緑の濃い街の周辺に溢れた。
そんな中、山の袂のにいった修学旅行生たちが悲鳴を上げた。
たまたま近くにいたリュウジとミレイも悲鳴のした方向へと駆けつける。
悲鳴を上げた女生徒は近くの男子生徒に縋りついている。
彼女の震える指先が指し示す方向には一匹のハブが。
ハブ。沖縄に生息するマムシ亜科の有毒ヘビ。
基本的に夜行性であるのだが、どうにも生徒がいたずらで藪を突ついて文字通りヘビを出してしまったらしい。
しかも、さっさと逃げればいいものの、女生徒が腰を抜かして、それに縋りつかれた男子生徒も仲良く一緒に腰を抜かしてしまっている。
・・・どうしよう!?
アクションを起こそうと遠巻きの野次馬から飛び出したのはリュウジである。
傍観する他生徒を尻目に、彼は救出活動を実行するつもりだった。
たいした度胸である。両親のどちらから受け継いだかは定かではないが。
とりあえず何かをぶつけて追い払うか。
そう考え周囲を見まわしたリュウジの背中に、柔らかい感触が覆い被さってくる。
「・・・リュウジさん、ヘビ、怖いです・・・」
肩越しに振り返ると、頬を染めた幼馴染みの顔が直ぐ傍にあった。
華奢な制服姿は、思いっきり自分の背中にもたれてきている。
「ちょ、ちょっとまってよ、ミレイ・・・!」
と、更に背後を透かし見たリュウジは呆然とした顔つきになる。
野次馬していた生徒の殆どがカップルを成立させ、怖がっている(?)のである。
「おまえらなぁ・・・・・・」
それでも幼馴染みを引き剥がして、何か逆に怒られそうな救出作戦を実行に移そうとした時。
土ぼこりを上げ、碇家一行を目前を通過する。さすがにフルメンバーというわけではなかったが。
先頭は碇シンジである。
「えーと、この道でいいんだよな?」
地図片手に直進する。そして、リュウジたちに気付くと微笑みかけはしたが、ハブには気付かず、そのまままたいで行ってしまった。
次は、その娘であるミコト。
彼女にいたっては父の背中しか見えてないらしく、盛大にハブの頭を踏んづけて悠々と歩いて行ってしまった。
激昂し鎌首をもたげたハブの目前に現れたのは、今度はアスカだ。
さすがに彼女はハブに気付き、足を止める。
そして、威嚇して来るハブを真っ向から睨みつけると、タンクトップ越しの豊かな胸を奮わせて、恫喝した。
「ヘビの分際であたしにガンを飛ばそうなんて、一億年早いわよっ!」
・・・・・・その時、確かにハブは視線を逸らした(かのように見えた)。
すっかり毒気を抜かれた、というか大人しくなったハブの隣をさっさと通りぬけて行くアスカ。
最後にやって来たのはミサトである。
サングラス姿で汗だくの彼女もハブに気付く。
そして、サングラス越しの目と口元を歪めると、小さくこう呟いたのであった。
「・・・・・・・・・ハブ酒♪」
次の瞬間、ハブはとてつもない速度で茂みの中へと逃走していった・・・・・・・・。
それらを見送るしかなかった生徒たちの顔には、見えないペンで「コメント不可」の文字が書き込んであった。
場面は変わって今夜一行が投宿したホテル。
当然というかなんというか、碇家御一行様も一緒である。
夕食、入浴も済み、便宜上消灯時間までのお楽しみタイムが始ったころ。
座敷に敷き詰められた布団の上。
真っ暗な部屋で。
碇リュウジは腕組みしながら眉を引き攣らせている。
「・・・・・なんで母さんがここにいるんだよ?」
向けられた懐中電灯の明るさに目を細めながら、リュウジは苦り切った声を出す。
「まあ、別にいいじゃないの♪」
そういってアスカは、シーツを被った顔を顎元から懐中電灯で照らし上げる。
「・・・・・・これは、深くてくらーい海の底の話でね・・・・・」
彼女の話に、集められた多数の生徒が頭を寄せ合って聞き入っている。
その光景を眺め、リュウジの全身から無愛想オーラが全開放出されていたが、悲しいことに誰も気付かなかった。
なんでも、母が言うところの修学旅行風物詩第2弾、『怪談』だそうである。
もはや説得を諦めて不貞寝でもしようと考えるリュウジだったが、集まった生徒の数が多すぎてそれもままならぬ。
その集まった生徒の中には、当然幼馴染みの姿もあったわけだが、彼はその部屋を辞することにした。
部屋のドアを閉じる寸前、『その時、怪魚の口ががばあっと開いて、その奥には爛々と光る血塗られた真っ赤な球が・・・・・!!』
などという母の『怪談』の断片が耳に飛び込んできたが、あえて無視する。
まあ、少しは、何の話をしているのか気にはなったけれども。
「さて、どうしようっかなー・・・・」
ブラブラと廊下にでる。廊下には人の気配はなかった。
みな母の元に集まっているか、または異常に健全で寝ているかのどっちかだろう。
どうにも普通の修学旅行から逸脱していると理解しながらも、
どうせならもっと逸脱してみるかとばかりにリュウジが足を向けたのは、家族が宿泊している部屋だった。
「あ、リュウジじゃないか。抜けてきて大丈夫なの?」
家族の宿泊部屋では父が迎えてくれた。
一応ホテル最上階の高級室である。
和式の、それほど高価ではなさそうな調度を眺めながら、リュウジは室内へと踏み込んだ。
「お客は全員母さんに取られちゃったよ」
応えながら奥に視線を飛ばす。見知った顔が酒瓶の乗った卓を囲んでいた。
「あら、リュウジくんいらっしゃい♪」
ビールをもった片手を上げみせ、ミサトは歓迎の意を表す。
「ははは、リュウジくんも飲みに来たのかい?」
タンブラー片手にこれはカヲル。
グラス片手に薄く笑って見せたのはレイで、加持は窓辺に腰掛け、少年に向かって片目を閉じて見せる。
リュウジは軽い既視感を覚えた。
良く実家で催されている光景が、そのままこの沖縄のホテルへと持ち越されたようである。
ただ、兄妹の姿が見えなかった。
「ミコトは?」
妹の名を口にする。
父が笑いながらあごをしゃくるほうを見ると、既に部屋の一角に設えられた布団に包まった妹の姿がある。
愛用の巨大ペンギン抱き枕を持参してきており、それに抱きつきながらもう夢の中だ。
「・・・・アニキは?」
「ナンパよ、ナンパ」
ミサトが即答する。
その答えを十分予想していたリュウジであったが、苦笑が漏れる。
ミサトも同属性の苦笑を浮かべると、続けて言った。
「まあ、サトミが着いて行ったから、成功率は芳しくないかもね」
渚ミレイ嬢とは違って、心情を伝えるのが酷く不器用な加持家の娘の顔が浮かぶ。
ついでに、その娘の前で表情の選択に困っている碇家長男の姿も。
つかず離れずの関係を本人たちは続けているつもりらしいが、
見ているほうは二人の本心が透けて見えるため、じれったかったり微笑ましかったり。
たぶん、ナンパではなく突発変形性のデートになるだろう、というのが母としてのミサトの予想である。
その通りだろうとリュウジも首肯する。
よしんば沖縄の盛り場の夜の治安が悪いにせよ、あの二人なら心配はない。
特務機関ネルフの各種トレーニング施設をただ使いし、各種格闘技を暇つぶしに網羅するような二人である。
米軍兵士の1ダースくらい、軽く片付けるだろう。
「はい、出来たよ」
シンジが、宿泊部屋まで持ち込んだ簡易調理台からフライパンを下ろす。
香ばしい匂いがリュウジの鼻腔を刺激する。
食卓の上にあがってきた酒のアテの数々は、見るからに美味そうだ。
「ささ、リュウジくんも」
カヲルが卓上を滑らしてきたグラスの中身はカルアミルク。
「え・・・・・」
躊躇するリュウジ。いちお、未成年である。
「いいじゃないの、一杯くらい♪」
ミサトが言う。
シンジは苦笑を浮かべている。
レイは頬を薄く染めてこちらを眺めている。
カヲルは次の杯を作っている。
加持は肩を竦めて自分の分のウイスキーを煽る。
「じゃ、いたただきます」
いうが早いが、殆ど一息でリュウジは杯を干してしまう。
「美味しいですね〜、これ」
無邪気に笑うリュウジに、
「それはそういう風に飲むものじゃないのに・・・」
と苦笑を浮かべてミサト。
最近、折りを見ては碇家次男坊に酒の呑み方を教えている、まあ、いってしまえば呑み方の師匠だ。
一度飲んでしまえば、あとはどれくらい飲もうが飲んだことには変らない、とばかりに、争うように卓の全員がリュウジへと杯を差し出してくる。
「ほら、リュウジくん、御替りだよ」
「ビールも美味しいわよ♪」
「・・・・これ、泡盛のサンピン茶割り」
これって修学旅行なんだよなぁ、という疑問を遠くに放り投げて、リュウジは心行くまで沖縄の夜と酒を楽しんだ。
おかげというか自業自得というかで、次の日の見学は散々だった。
近い未来、強化ジェラルミンの肝臓との異名を誇る碇リュウジ氏もまだまだ若かった。
つまるところ、深酒がたたり、見事なまでの二日酔いとなったのである。
「うっぷ・・・・・・」
「だ、大丈夫ですか?」
幼馴染みに介抱されながらどうにか歩く。
酒の匂いをぷんぷんさせて、具合が悪いと教師に申告するほど馬鹿ではない。
ミレイは少年の肩を担ぎながら、せっせとコロンなんぞをかけたりしている。
そんな彼らの傍らを、露骨に冷やかしながら通りすぎる級友たち。
普段のリュウジだったら追っかけて行って蹴飛ばすところだったが、今の彼はそれどころではない。
沖縄の強い日差しも追い討ちをかける。
目が廻るため、見学のはずが、見た端から記憶が劣化、もしくは消散していく。
どこに見学に来ているかさえわからない。
琉球空手の猛者を母が瞬殺した光景を見たような気がするが、たぶん気のせいだろう・・・・・・・・・。
どうにかリュウジが回復したのは、三日目に投宿したホテルの大浴場だった。
「ふいー、行き返ったー」
両手いっぱいにすくったお湯で顔を洗う。
「やっと元気になったみたいだけど、昼間はいったいどうしてたん?」
友人の問いに苦笑で応じただけで、リュウジは大風呂に潜る。
そのまま泳ぐように進み、壁際の口からダラダラお湯を流したライオンの置物の側で浮上する。
すると、腰にタオルを巻いた格好の友人が、なにやら壁にペタペタと耳を当てたり離したり。
「おい、何やってんの?」
「いや、この向こうがな、女風呂なんだよ、おい!」
興奮しきりの男子生徒A。
よくよく観察すれば、他にも幾人の男子生徒が壁に貼り付いたり、スクラムを組んでよじ登ろうとしたりしている。
若さゆえ、である。
男子たるもの、一度はこのような時期がある。いわば自然現象だ。
一体、誰が彼らを責められよう?
興味のない素振りで背を向けたリュウジだったが、不意にその進行方向を180°変えたのは、
高い壁の天井の隙間から、微かに幼馴染みの声を聞いたからである。
いやいや、そんな不埒なことを・・・!
断腸の思いで欲望を封じ込め、壁に背を向ける。
「あら、やっぱりこっちが男子風呂?」
聞きなれた声に、何かがお湯に落ちた音が連鎖する。
「母さんっ!?」
思わず振り向いたリュウジの頭上には、壁によじ登りでもしたのか、金髪をタオルで包み、タオルに包まれた上体を覗かせた母親の姿があった。
全く不意の出現である。
さきほどの水音は、この若くて美人の母親の登場で、壁を攀じ登りかけていた勇者たちが落下した音らしい。
男性浴場の全員が慌ててタオルを腰に巻く。
「ん〜、やっぱ修学旅行っていったら、覗きは定番よね!」
そう満足気に男子浴場を見まわす。
その息子はというと絶句したままで、誰が誰を覗くのが定説であるなどといちいち説明する気にはなれなかった。
「・・・・なんで、みんな黙ってるのよ? キャーとかなんとかいわないわけ?」
とてつもなく理不尽なことを言って首を捻るアスカ。
「ん〜・・・・サービスしちゃおう!」
言うが早いが、全員の硬直が解けるのもまたず、アスカは壁をさらに攀じ登ると、胸元に巻いたタオルを開き、その中身を晒した。
数瞬の間があり、ほとんどの男子生徒が大風呂の水面にうつ伏せに浮かぶ。
さらに妄想過剰なヤツに到っては、その湯面を朱色に染めていた。
「へっへー、下にはちゃん水着を着ているのだあー! ・・・って、アレ、みんなどしたの?」
アスカはきょとんした表情で赤いビキニに包まれた胸を反らす。
本気で不思議がっているのだからタチが悪い。
実のところ、以前の彼女、というか若いころ(?)の彼女は過剰なまでに自分の色気を自覚、誇示していたものである。
しかしながら、結婚後は大分貞淑さを身につけていた。
いや違う。
正確には、自己PRの対象が旦那個人に限定されたため、
第三者へどのように映るかという配慮、客観性が、彼女の内部で大幅に削除されたのである。
それなのに、人妻としてというか、脂が乗るというか、アスカ個人の色気は募るばかり。
したがって、先ほどの彼女のタオルをはだけるという行為は、たとえ水着を着てたにしろ抜群の破壊力を示した。
「あー、あんたなんで鼻血吹いてるのよ、やーらしい!!」
アスカの隣によじ登ってきた女生徒の一人が、眼下を見下ろして叫ぶ。
「う、うるせーよ! こっちは男湯だぞ!?」
「きゃーっ! こっちみないでよ、スケベっ、変態!」
女生徒は手桶を思いっきりぶん投げた。
それが、怒鳴り返した男子生徒の顔面にクリーンヒット。
「・・・やりやがったなあ!!」
打撃によって生じた鼻血をたらしながら、その男子生徒は手近にあった桶を投げつける。
「きゃーっ!」
激昂した彼は、女生徒の悲鳴も意に介さず、投げる。とにかく投げる。
女湯からの報復は、その数倍の手桶の一斉斉射だった。
この攻撃には、口火を切った男子生徒以外も無傷とはいかず、結果としては報復は報復を呼ぶことになった。
先々日の大戦が再現されようとしていた。ただ、今回は枕ではない。手桶である。その破壊力は侮れない。
「やめろよ、みんな危ないだろっ!」
巧みに手桶を回避しながらリュウジは叫ぶ。
しかし、一度始まってしまったそれは、そうそう治まるものではない。
とりあえず自分の身を守るのを優先したリュウジであったが、飛び交う桶の嵐の中、壁によじ登った新たな身内を発見するに到る。
「アニキ!!」
弟の怒鳴り声に気付いたアスマは、壁から飛び降りて近づいてきた。
「おお、我が親愛なる弟よ!」
「どうすんだよ、これっ! アニキが母さんにデタラメ教えるからこの騒ぎじゃないかっ!」
弟の剣幕に、さすがのアスマもたじろぐ。しかしそれも一瞬のことで、彼は弟の肩を掴むと、優しく言った。
「なあ、リュウジよ。もしお前がオレと同じ立場だったら、どうする? 母さんの頼みを断りきれるかね?」
もっとも単純かつ極端な反論を、疑問の形にして碇家長男は舌端にのせた。
「それは・・・・」
リュウジとしても口篭もらざるえない。というか、議題とすべきものがすり替えられていることにも気付かない。
黙り込んだ弟にアスマは破願する。
「しかしまあ、最近の中学生の発育はいいな!! 特に、おまえ、ミレイちゃんなんか着痩せするタイプ・・・」
「・・・・もしかして、この騒ぎの中、覗いてたの?」
「そりゃあまあ、せっかくの風呂で修学旅行だしな!」
大笑するアスマ。しかし、その弟の中で何かが音をたてて切れた。
ぷち、ぷちちちちっ。
大口を開けたままのアスマの長身が宙を舞う。
咄嗟のことながら抜群の運動神経で壁に着地した彼の視界には、目を燃えたたせたまま宙を滑空してくる弟の姿が。
「うげっ!」
鳩尾に飛び膝蹴りを食らってアスマはうめく。
しかし、リュウジの攻撃はとまらない。
手近にあった手桶をもつと、底の部分で兄の頭部を乱打する。
パコパコパコパコパコパコパコパココンッ!!
音こそ軽いが連打である。
白目を剥いてひっくり返った兄を放り出すと、ブチ切れたリュウジは鼻息も荒く周囲を見まわす。
手桶投げはまだ終息してなかった。むしろ、一層激しさを増している。
リュウジは吠えた。
雄叫びだった。
男女の風呂を隔てる壁が、轟音とともに激震する。
叩き付けられたリュウジの拳を中心に、放射線状に亀裂が入った。
「・・・・・・・・・・・」
そのあまりの破壊力というか行動に、一瞬で皆が手を止めた。
時が止まったかに見えた。
ようやくそこでリュウジは正気に戻る。
そして、自分の行動の結果を目の当たりにすると、顔を伏せ、逃げるように浴室を飛び出していった。
「リュウジは、どうしたの?」
長子であるアスマの看病をその幼馴染みに一任してきたあと、シンジは訊ねる。
「・・・へへー、ちょっとはしゃぎすぎちゃったみたい・・・」
その問いに、妻は珍しくバツの悪そうな顔をする。
「確かにちょっと悪ノリが過ぎたかもねー」
ビール片手にミサト。どうにもその表情からは、自身もその原因の一端を担っているという自覚が感じられない。
「まあ、災い転じて福となる場合もあるよ・・・・」
カヲルが碇家次男坊がいじけている砂浜へと視線を向けて言う。
彼の視界には、膝を抱えたまま背を向けているリュウジに近づいて行く愛娘の姿があった。
その瞳に浮かぶ色は、紛れもなく父親の色である。
「うんっ、珍しく良いこというわね、あんたっ!」
アスカこそ非常に稀有なことに、カヲルを誉めた。
そんな碇夫人に奇異の視線を送るレイ。彼女は相変わらず口数が少ない。
「まあ、ミレイちゃんだけで片がつくとはおもうがね。リュウジくんは、とても優しい子だから」
加持が顎を撫でながら、何気なくシンジを眺めた。
「ダイジョーブ!!」
アスカが胸を反らす。
「準備は万端。とっておきのプレゼントが用意してあるからね!!」
リュウジは暗い海を眺める。
全く、さんざんな修学旅行だよ・・・。
眺めながら、頭には珍しく怒りの粒子が堆積していた。
滅多にないことなのだが、一度キレると自制が効かなくなるのだ。
その後自己嫌悪に陥る。
今の彼の怒りは、母と兄ばかりに向けられたものではなく、半ば自分にも向けられていた。
だから、浜辺へ来た。
夜の海は心を静めてくれる。見つづけていると、怖くなることもあるが・・・。
しゃり。
背後で砂を踏む音が聞えた。
誰かは分かった。
でも、振り返らなかった。
足音は影を伴い、彼の隣に腰を降ろす。
「リュウジさん・・・・・・」
ミレイの心配そうな声。瞳は涙で潤んでいるかもしれない。
そのまま黙ってしまう。
だから、リュウジは口を開いた。
「なんか、申し訳ないよ」
「え?」
「オレの・・・・家族のせいで、旅行がメチャクチャになってしまって・・・・・」
リュウジは砂を掴むと海に向かって放った。
波音にかき消され、砂の落ちた音は聞えない。
「そんなことはありません」
ミレイの声は、普段の彼女に似つかわしくない力強さがあった。
「みなさん、楽しまれたようですよ。とくに義母さまのお話は大変喜んでいたようですし・・・・」
「・・・・・・」
「そ、それに、どちらにしても、忘れられない思い出になったと思いますし」
幼さ馴染みの少女の必死かつ健気な言葉に、リュウジは苦笑を浮かべた。
「まあ、色んな意味で忘れられないだろうな・・・・」
その声は、あまりにも自嘲の色が濃すぎた。
とうとうミレイも黙り込んでしまう。
「・・・・・・・・・」
沈黙が落ちる。
返す波の音。
風。
大きな月。
沖縄の夜なのに。
楽しみにしていた修学旅行なのに・・・・。
何かが、少女の口を開かせた。
「わたしは、楽しかったです」
「・・・・・・え?」
膝を抱えたままリュウジは思わず問い返してしまう。
「少なくとも、わたしはとても楽しかったです・・・・・」
「・・・・・・・」
ミレイの白い手が伸び、リュウジの頭を優しく掴む。
そして青い髪の少女は想い人の顔を引き寄せると、一呼吸置いて、言った。
「楽しくなかったのなら、最後に楽しい思い出を・・・・」
直ぐ傍に見える幼馴染みの顔が、夜目にも紅潮してるいのがリュウジには見えた。
「どんなに辛くても、最後に楽しい結末があれば、全て赦せませんか・・・?」
「結果よければ全て良し・・・か?」
幼さなじみからの返答はなかった。
見ると、ミレイが瞳を閉じている。そして、その唇が微かに前へと突き出された。
リュウジの心拍数がはね上がる。
・・・・・・えーと、この場合・・・?
狼狽する心を静めたのは、幼馴染みの華奢な身体から伝わってくる微かな振え。
彼女の方が何倍も恥ずかしいし、勇気を振り絞ったのだろう。
半瞬後、彼の心は定まっていた。
よって彼は、その心情を行動によって代弁した。
幼馴染みの唇に、自分のそれを重ねた。
触れ合った瞬間は一瞬のものに過ぎなかったが・・・・・・。
ぱーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーん!!
リュウジとミレイが驚いて音のした方向を見る。
驚いた二人の顔を閃光が薙いだ。
沖縄の海へ咲く大輪の花。
巨大な花火が空へと浮かんでいた。
茫然とする二人の目前に次々と展開される中空の花束。
「わー、キレイ!!」
背後からの歓声に、リュウジたち二人はようやく我に帰る。思わず互いを突き飛ばしてしまったのはご愛嬌。
そこでようやくリュウジは平素の自分を回復することが出来た。
背後の群集は、殆どが修学旅行生たちだ。ホテルの窓から身体を乗り出している生徒もいる。
観客を視線で撫でると、見知った顔を見つけた。家族の顔だった。
「母さんめ・・・・・」
口元に浮かぶのは、苦笑にしては随分と好意的なものになっていた。
母なりの謝罪なのかプレゼントなのかは分からない。
でも、背後から聞こえてくる歓声が心地よかった。
新しい花火が上がる度に、喜びの声も舞い上がる。
気がつけば、再びミレイが傍らに来ていた。
黙って手を繋いでやると、幼馴染みははにかむように微笑んだ。
どちらにしろ、忘れられない修学旅行になっただろう。
多分、良い意味で・・・・・・。
「さすがだね、アスカ」
「さすがでしょー!!」
花火を眺めながら賞賛してくる夫に、アスカはVサインする。
「風流だわねー」
そういって、またぞろ缶ビールを煽った人についてはあえて触れない。
「しかし・・・・結構費用かかったんじゃないのか?」
加持が堤防台にもたれながら訊ねた。
「そんなの全然大したことないわよ。あの子たちの思い出に比べたら、ね」
応えつつ目を細めるアスカの表情が、例え様も無く柔らかくなる。
しかし一転表情を変えると、今度はいたずらっぽい笑みを浮かべて言った。
「でもね、最後の最後に上げるスペシャルは、ちょっと値がはったかな?」
「スペシャル?」
首を傾げるシンジの横顔を、最後の大輪の閃光が掠める。
そして、最後の最後と評されたスペシャル玉が、一際天空高く上っていった。
「そ。リュウジとミレイちゃんの、カップル成立スペシャルよっ!」
出資者の言葉を肯定するように、広大な星空へと広がったのは、大きな大きなハートマーク。
続いて、その中心には二人の名が・・・・・・・・・・。
一方、浜辺で花火を堪能しているリュウジとミレイ。
夜空を彩る大輪の花を満喫し、ようやく終ったかと思ったその時、一際天高く昇って行く最後の花火。
そして沖縄の空に大きく展開されたのは、巨大なハートマークだった。
おいっ、まさか!!
ミレイも同時に身体を固くする。
ああっ、まさか、リュウジさんとの婚約発表になってしまうの!?
などと彼女の思考は過剰暴走。
それはともかく、次の瞬間、ピンク色の二人の名前が・・・・・・・・。
シンジ・アスカ
「あ、間違えた」
アスカが言った。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
なんとも気まずい雰囲気が、ピンク色の文字の残滓が残る夜空の眼下に蔓延した。
曖昧な表情のまま視線を落とした碇シンジの視線と、渚夫人レイの視線がぶつかる。
そして、旧姓綾波レイは、実に20年ぶりにくだんの台詞を口にした。
「ごめんなさい、こんな時どんな顔をすればいいのか、わからないの・・・・・・・・」
「わ、笑えばいいとおもうよ」
「それはムリ」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
翌年から、第3新東京市第一中学校の修学旅行先は、北海道に変更になったそうな。
おしまい。
どーも、三只です。
大分遅くなってしまいました。
・・・・・まあ、遅くなった上、ここで蛇足を連ねるのも見苦しいので、今回はこれにて失礼します。
できたら、また、近いうちにお会いできることを祈りまして。
三只さんからお待たせ修学旅行の後編をいただきました。
なんというか‥‥痴情最凶の家族ですね碇家は(爆)
素晴らしく笑えるお話でありました。みなさんも是非三只さんに感想メールをばお願いします。