Lady And Sky
Act7:The name is 『TIGER』!! 前編
ある雨の日の放課後。
惣流アスカ・ラングレーはぶらぶらと家路を歩いていた。
彼女の右手にはお気に入りの赤い傘。
左手には買ってきたばかりのクレープ。今日は大奮発して、あんず生クリームフルーツトッピングスペシャルだ。
雨に濡らさないようクレープを囓りながら、アスカは暗い空とくすんだ町並みを眺めた。
まったくもってユウウツな空だ。
こんな日は、帰ってとっととお風呂にでも入るに限る。
カバンを持たせて先行させたシンジは、今頃家についただろうか?
ちゃんとお風呂準備しておいてくれりゃいいけれど。
不満そうな顔をしていた同居人の顔を思い浮かべて、クレープを一口かぷり。
器用に水溜りを避けながら、鼻歌まじりにアスカは歩を進める。
そして、近道の公園にさしかかった時だった。
アスカは背後に何者かの気配を感じ取った。
・・・・またかしら?
形の良い眉をかすかにしかめて、アスカは足を止める。
アスカの美貌は万人の認めるところであり、彼女とすれ違い振り向かない男性は、敬虔な同性愛者か年端もいかない子供くらいだろう。
ゆえに、彼女に対し憧憬の念を抱く異性の数はそれこそとんでもない数に昇る。
その中で、彼女に直接想いを打ち明けようとする勇者の数も結構多い。
よってこのように一人で帰る道すがら、背後から声をかけられるケースも希有ではない。
・・・ったく、シンジの馬鹿が傍らにいれば、面倒も少ないってのに!!
勝手極まる悪態をつくアスカ。
シンジをつれて歩いてるのに告白してきた勇者はさすがにいないのだ。
当然、自身がお風呂に入りたいから先にシンジを送り帰したことなど、瞬間的に忘却してしまっている。
まあ、そもそも彼女が見知らぬ男性に告白されてOKする確率は0なのだけれど。
告白されればムゲに断るわけにもいかない。
つっけんどんでは自分の評判が落ちるし、逆恨みされるのも割にあわない話だ。
それだけならまだ1万歩ぐらい譲って我慢できるが、問題は、中にはもっとフラチな輩もいることだ。
言葉で駄目なら力ずく、と考える、女性全体の敵である。
もっともそのような相手には、アスカ必殺の後ろ回し蹴りが光って唸る。
今のところ、この蹴りに耐え切れたのはシンジくらいである。
他はことごとくノックアウトだ。中にはそーゆー意図がなかった連中がいたかもしれないけど、そこはご愛敬。
だって、あたしはか弱い乙女だものっ!!
心の中で自己弁護をすませ、アスカは背後の気配に集中する。
声もかけずに攻撃範囲に入ってきたものは、速やかに敵と見なす。
アスカ曰く『淑女のたしなみ』だ。
気配はすぐ彼女の背後まで来る。
あれ? でも、この気配は・・・?
可愛い仕草で小首をかしげると、ゆっくりと背後を振り返った。
雨の降りしきる視界に人影はない。
代わりに、アスカは視線を下げる。
彼女の足下に気配の主がいた。
子犬だった。
長い毛が雨でべったりと張り付き、泥にまみれてかなり汚い。
それでも、桃色の小さな舌を出して、一生懸命しっぽを振っている。
「なんだ、まぎわらしい・・・・」
肩の力を抜いて正面を向き直ると、アスカは再度家路に着いた。
ところが気配はまだついてくる。
「むう」
後ろを振り返り、アスカは膝を折ってしゃがみこんだ。
「ついてくんじゃないわよ! なんなのよ、あんたは?」
怒鳴りつけるようにいう。
もちろん犬が答えるわけはない。ますますしっぽをふるだけだ。
アスカは改めてしげしげとその犬を観察する。
汚いけど元気そうだ。成犬なのだろうか? ずいぶん小さい。あ、首輪もしてないみたい。ひょっとして捨て犬かな?
犬のつぶらな瞳と見つめ合うことしばし、ようやくアスカはある推論を確立した。
「もしかして、お腹すいてんの?」
食べかけのクレープを犬の前にかざしてみせる。すると、一際おおきな鳴き声。
利己主義者で吝嗇家で傲岸不遜と思われがちのアスカであるが、10日に一度くらいは気まぐれに博愛精神というものを発揮することがある。
そして、今日はちょうどその10日目だったらしい。
アスカはクレープのクリームとかついてない部分を、注意深く、そして小さく切り取った。
右肩と首で傘の柄を挟み込み固定させると、犬に向かってクレープのカケラの乗った右の手のひらを差し出す。
「ほら、お食べ」
犬は、嬉しそうに鳴くと、遠慮なくかぶりついた。
アスカが左手に持っていたほうのクレープに。
なにやってんだろう? アスカ、おそいな・・・・。
コンフォートマンション・葛城ミサト名義の一室のキッチンにて、碇シンジは首をひねる。
帰ったらお風呂に入りたいから、と無理矢理荷物まで持たされてマンションへ走らされたのに、当の本人は30分すぎても帰ってくる気配はない。
カーキ色のポロシャツからエプロンを外しつつ少年は考え続ける。
時間があったため、夕食の下ごしらえも済んでしまったわけで。
なんとなくキッチンの椅子へ腰を降ろし、両手で頬杖をつく。
静かだ。
薄暗い蛍光灯の下で聞こえてくるのは、ベランダの雨垂れの音だけ。
こんなウツウツした天気だと、もともとネガティブなシンジの思考はさらに沈降してしまう。
もしかして、アスカになにかあったのかな・・・?
まさか、事故に巻き込まれたとか。
どこかで怪我でもして動けないとか。
暴漢に襲われたとか・・・・・。
考えれば考えるほど、ロクデモナイ想像が次々と沸いて出てくる。
よし、探しにいこう!!
そう思い立つまでさして時間はかからなかった。
さっそく実行に移すべく、椅子を蹴って立ち上がったシンジの耳に、玄関のドアの開く音が届く。
「・・・・アスカ!?」
急いで玄関に駆けつけるシンジであったが、そこに目的の姿を認めると、安堵するよりまず驚いた。
彼女自慢の金髪は、雨を吸ってべったりと頬に張り付いている。
制服は泥だらけで、ところどころに破れ目が。
そしてなによりアスカの右手につかみあげられふるふると震えている犬と、それを差し出す彼女の危険極まりない目つき。
どうしたの? とシンジが訪ねるより早く、アスカが絶叫にも似た声を上げた。
「シンジっっ!! このバカ犬を今夜のディナーにしなさいっ!!」
「!?」
驚きのあまり声もでないシンジに犬をつきつけ、アスカはヒステリックに解説を始めた。
この犬にクレープを恵んでやろうと思ったこと。
ところが、この子犬、こともあろうにクレープに丸ごとかぶりついたこと。
そのクレープは、お小遣いをはたいて買った、至高のクレープであったこと・・・・。
話を聞き終え、ポロシャツが汚れるのも構わず犬を受け取ったシンジはおずおずと提案した。
「とりあえず、お風呂でも入ってきたら? そのままじゃ風邪ひくよ?」
なるたけ目を反らしながらいう。雨に濡れてぴったりとアスカの肢体に張り付いた制服は、さすがに目の毒だ。
「・・・・そうね」
なおも興奮冷めやらぬ態で、ドスドスと足音を響かせながらアスカは浴室へと消えた。
人間台風が去ったあと、シンジはしげしげと腕の中の子犬を見る。
「だめだよ、きみ。エサもらう人は選ばなきゃさ・・・」
そのままリビングまで抱えていき、取り込みっぱなしになっていたタオルで丁寧に犬をぬぐう。
もともと大人しいのか、疲れきっているのか、犬はされるがままだ。先ほどのアスカの艶姿を見る限り、たぶん後者だろうけど。
せっせとタオルで拭いてやると、おもったより光沢のある毛が見えてきた。
本当は、シャワーでごしごし洗ってやりたいんだけどなあ・・・。
ところが現在浴室は使用中。アスカに洗ってと頼むのは、絶望的に不可能。
しばらく逡巡していたシンジだが、その視線がベランダへと向けられる。
ベランダへ通じる窓を開けた。
雨足はまだ強い。湿った空気が顔を撫でる。
ベランダの隅を探す。あった。用途のよくわからない大きなタライが一つ。
ホコリをよく落としてそれをリビングへ持ってくると、今度はキッチンでやかんに温めのお湯を注ぐ。
タライの真ん中に犬を据えて、やかんのお湯をかけてやる。即席のシャワーみたいなものだ。
もちろん一度で済むわけはない。何往復かしてやかんのお湯をかけて洗ってやると、犬は見違えるようにキレイになった。
たっぷりの毛に覆われた全身。顔の毛はヒゲみたいに見えた。
「あら? ずいぶんと毛並みいいのね、そいつ」
背後からの声にシンジは振り返る。ついでため息。
「またそんな格好で・・・・」
アスカは胸元までタオルで覆っただけという、まあいつもの格好である。
肌はほんのり桜色、とてつもなく色っぽい格好であるが、いい加減シンジも慣れてしまっていた。
実は、それがアスカはあまり面白くない。
シンジには意味不明の舌打ちをしながら、アスカは犬の目前にしゃがみ込む。
「ん。キレイになると、ずいぶん見れるわね。血統つきかしら」
犬の頭に手を伸ばす。おびえるような従順さで、子犬は彼女の手を受け入れた。
お風呂に入って機嫌を回復したらしいアスカに安堵しつつ、一応シンジは訊ねる。
「で、どうするの、この犬? ・・・まさか、本当に食卓にだせって?」
一方、濡れ髪を跳ね上げた金髪の少女は、ジト目で少年を見返す。
「あんた、バカぁ? 犬を食べるわきゃないでしょ? そんな残酷こと考えてんじゃないわよ」
「・・・・・・・・・・・・・・」
「なに泣きそうな顔してんのよ、あんた?」
どうにか気を取り直すと、シンジは再度質問をする。
「じゃあ、どういうつもりでこの犬つれてきたんだよ?」
タオルで自分の髪をぬぐいつつ、アスカは子犬を眺める。
「そりゃあ、あたしのおやつを横取りした犬だもの。じっくりオシオキしてやろうかと思ったんだけどねぇ・・」
すると、子犬は身を縮こまらせ、きゅーんきゅーんと甘えるような脅えるような声を出す。
その犬の首筋をつまみ上げ、アスカは犬を睨み付ける。
「ふむ・・・。せっかくだから、飼ってやってもいいわね。だけど、あたしのいうことには絶対服従よ?」
不思議なことに、シンジには犬がコクコクうなずいているように見えた。
目をこする。錯覚だろうか?
「・・・・でも、このマンション、ペット禁止じゃ・・・」
「あんたねえ、もとはいたでしょ?」
「あ」
そういえばそうだ。今はいないがつい去年までペンぺンがいたはずだ。
現在の彼は、どういう理由か定かではないが、NASAに世界初の宇宙ペンギンという名目で出向(?)している。
「それに、こいつをペットにする気はないわよ?」
「え? じゃあ・・・なに?」
不審な表情になるシンジにアスカはニヤリと笑う。
「もちろん、下僕よ」
「・・・・で、飼うことになったと?」
エビチュの缶をくわえながらミサトがシンジに視線を送った。
「ええ、そうなんですよ」
どういうわけか複雑な表情をして、シンジは食卓にツマミを乗せる。
ミサトは被保護者の少年の表情に気づかないふりをして、ことさら明るい声を出した。
「しっかし、子犬のメスよね? それでそんな名前ってのは・・・」
「ですよね。アスカって、ネーミングセンスない・・・」
笑顔で賛同の意を示したシンジの横顔が、ミサトの視界から不意に消失した。
「うっさいわね、タコ!!」
シンジの側頭部に跳び蹴りを喰らわせておいて、アスカは憤慨する。
「あたしの犬なんだから、どんな名前をつけようが、あたしの勝手でしょ!?」
拳をふるわせて力説する被保護者の少女に、ミサトは軽く肩をすくめて、ビールとともに笑いを飲み込んだ。
アスカが子犬につけた名前――――――『ティーゲル』
ふん!! と侮蔑の鼻息を置きみやげにキッチンを出て行くアスカ。
その足下で昏倒していたシンジは、きっかり2分後蘇生する。
ミサトは、ふらつく足で立ち上がった少年へ同情的な笑みを投げながらいった。
「まあ、どっちかつーと、アスカのほうがよっぽどティーゲルよね・・・」
反射的にうなずきそうになって、シンジは思わず隣のリビングの様子を伺う。
幸いなことにティーゲルの影はなかった。人間のほうも、犬のほうも。
ため息をつくようなふりをしながら、シンジはうなずいて見せた。
いまリビングでは、アスカのいうシツケが行われているはずだ。
はっきりいって非常に気になる。
・・・・おそるおそるリビングをのぞいて見た。
「お手!!」
「伏せ!!」
「おかわり!!」
思いのほかまともそうだ。
しかもティーゲルのほうも従順で、素直にアスカの命令をこなしている。
それも、事前に仕込まれていたかのような反応。
前の飼い主によほど仕込まれたのかも知れない。
こりゃ、やっぱり捨て犬じゃなくて逃げ出して来たのかな?
などとシンジが考えていると、だんだんアスカの命令が妖しくなってきた。
「前転!!」
「後転!!」
「ジャンプ!!」
「えびぞり!!」
さすがにティーゲルも抗議の鳴き声をあげると、すかさずアスカの叱責が飛ぶ。
「ほら!! そんなことじゃ赤カブトに勝てないわよッ!!」
「・・・・・・・・・・・・・・・・」
急に痛み出したコメカミを押さえ、シンジはキッチンへ戻る。
「もう、お風呂入って寝ます・・・・」
「? お休み〜」
誰もいなくなったキッチンで、ミサトはひっそりと笑みを洩らす。
こりゃあちょっと面白いことになるかも?
翌日の学校の昼休み。
シンジは図書室で図鑑を漁っていた。
「およ? シンジ、珍しいな?」
相田ケンスケがめざとく見つけて声をかけてきた。
実際シンジが図書室へいることは珍しい。普段は試験前くらいしかお世話にならないのだ。
そしてその時は、例外なく、隣の席に腰を降ろした成績優秀余裕シャクシャクのアスカに勉強を邪魔されている。
「あ、ケンスケも?」
図鑑をめくる手を止めず、シンジは返事をした。
ケンスケは写真雑誌の最新号をもった片手を上げ、自らが図書室にいる理由と挨拶をいっぺんに済ませる。
「なんだ、なんの捜し物だ?」
好奇心剥き出しで傍らまでくるケンスケに、シンジは手元の図鑑を傾けてみせた。
「なになに? 世界の犬図鑑〜〜? ずいぶんと直截的なタイトルの図鑑だな・・・」
シンジは苦笑をしながらページをめくり続ける。
実際笑うしかない。なんで僕はこんなことしてるんだろ?
と、ページをめくる指が止まる。
「・・・これかな?」
一枚の写真。その犬は、例のティーゲルの姿と酷似していた。
黒と銀の毛並み。髭みたいな毛が張り付いた顔。
写真の上には犬種が記されていた。
『ミニチュア・シュナウザー』
奇しくも、アスカと同じドイツ産。
「・・・? その犬がどうかしたのか?」
不審そうに眉を寄せるケンスケを無視して、シンジは図書室を飛び出す。
ついでに、図書委員の「辞典は貸し出し禁止ですよ!!」の声も無視する。
シンジが駆けつけたのは、校舎の裏。
そこにはアスカが待っているはずだ。
校舎裏には幾人かの女生徒が輪を作っていた。
「わん!!」
「きゃ〜!! かわいい〜!!」
女生徒の声が、空間を原色に染めている。
男のシンジには近づきがたい結界ができあがってしまっていた。
それでもシンジは意を決して輪の中へ踏み込んだ。
「ね、可愛いでしょ、あたしのティーゲルは?」
案の定というか、予想通りというか、輪の中心ではアスカが誇らしげに胸を張っている。
「あの、アスカ、これ・・・」
図鑑を差し出すやいなや引ったくられる。
挙げ句、謝辞の言葉すらなく、輪の外へ弾き出された。
「へ〜、ミニチュア・シュナウザーっていうんだ〜!!」
「このあたしが飼うんだもの。もちろん血統書つきよ!?」
「このくらいの大きさで成犬なんだって。いいな、ちいちゃくて、可愛いし」
「あたしも飼いたい!!」
「ね、次、次、頭撫でさせて?」
輪の外で尻餅をつき、茫然とするシンジである。
ここまでキレイサッパリ無視されると、かえって清々しいくらいだ。
急にアスカを遠く感じた。
慌ててその感覚をシンジは否定する。
なに考えてんだ、一緒に住んでいるのに・・・。
むろん、二人が一緒に住んでいることは『秘密』だ。ただし、『秘密』の前に『公然の』がつく。
ゆえに、この学校でわざわざアスカに告白をしようとする物好きは少ない。
だからといって、シンジとアスカがカップルだ、と確信している物好きもまた少ない。
一見、二人が並んで歩いてる姿は、いささか男性のほうが釣り合ってないにせよ、確かにカップルである。
しかし、普段の二人を熟知している周囲の人間には、どうにもそうは見えないのだ。
相田ケンスケ氏評していわく、『姫君と従者』。
鈴原トウジ氏評していわく、『悪役レスラーとその付き人』。
洞木ヒカリ嬢評していわく、『未来のベストカップル希望』。
むろん、以上の評価は、シンジとアスカ二人の真意と一致しているわけではないのだが・・・。
しかし、シンジは自身がそのような評価を受けていることは知っている。
だとすると、ティーゲルは、僕たちにとってどういう風に評価されるのかな?
そこまで考えて、シンジは首を振る。
馬鹿馬鹿しい、犬を自分と同列に扱ってどうする? アスカがどういおうとなんと、単なるペットじゃないか・・・・。
なのに。
アスカの胸に抱かれているティーゲルを見ると、気分が落ち着かなくなるのはなぜだ?
遠くで昼休みの終わりを告げるチャイムがなった。
「あ、戻らなくちゃ・・・」
「じゃあ、ティーゲルちゃん、放課後にね♪」
「バイバーイ」
女子生徒が引き返して行く中、アスカはティーゲルに、「いい? 放課後までここにいるのよ!!」と言い含めている。
そしてアスカ自身も校舎の中に戻りがてら、初めてシンジへ視線を投げかけた。
「なにやってんの? 早く戻らないと授業始まるわよ?」
なお尻餅を突き続けたままアスカを見送った少年は、昼ご飯を食べそびれたことに気づいた。
なんとも醒めた目で子犬がこちらを見ていた。
シュショウなことに、ティーゲルは放課後まで校舎裏で待っていた。
しかもアスカの姿を見つけると、嬉しそうに吠え、シッポまで振って見せる。
駆け寄ってくる子犬を抱き上げるアスカ。
見物にきていた他の女生徒から、意味不明の歓声が上がる。
それを横目にシンジは一人トボトボと家路につく。
とてもじゃないがアスカに声をかけられる雰囲気じゃなかった。
自分でも判然としない理由でがっくりと肩を落とし、シンジは校門を出る。
その時、
「シンジっ!!」
背後からアスカの声が飛んできた。
思わず振り向くと、アスカが小走りで近づいてくる。
我知らず、シンジの表情が緩む。道行く生徒の視線が集まってくるのがこれほど嬉しいことはなかった。
子犬をしっかり抱えたままシンジの傍らまできたアスカは、頬を赤らめる彼へそっと耳打ちする。
「先帰ったら、ティーゲルの分のご飯も用意しといて」
「・・・・え?」
シンジが間抜けな問い返しをしている隙に、アスカは校庭へ戻っていくところだった。
そこに待ち受ける女生徒の群れの中に入られてしまえば、もはや彼女を追う術はない。
しかたなく、帰り道のほうを向くシンジ。未練がましくもう一度振り返ってから彼は歩き始めた。
「シンジっ!!」
再度名前を呼ばれたが、今度は振り向く気になれなかった。なぜなら男の声だったからだ。
「ようよう、背中が煤けてるでぇ!?」
陽気な声をかけてきたのは、ジャージ星から来た万年ジャージ星人鈴原トウジである。
「おーい、碇くふぅぅん?」
気持ち悪い声も出してみるが、シンジはピクリとも反応しない。
まるで、全人類が死滅してしまったかのような重い足取りで、チマチマと歩いている。
首をひねったトウジは、今度はより物理的なアプローチをこころみた。
「おいおいおい、重傷やねえ、きみぃ!?」
バンバンとシンジのなで肩を叩く。
「あ、トウジ・・・・・?」
ようやくシンジは顔を上げた。
しかし表情にはまるで活気がない。
その頭を片腕で抱きかかえるようにして、トウジは自分の顔を近づけた。
「あんま気ぃ落とすなや。あのアマの新しもの好きは、今にはじまったこっちゃないやろ?」
鈍感でどん底な今のシンジでも、トウジが励ましてくれていることがわかった。
「うん、ありがとう、トウジ・・・・」
どうにか薄く笑みを浮かべてみせる。
「あんな犬、すぐに飽きるわな。やっぱあいつの使用に耐えうるオモチャはセンセイくらいやて」
「・・・・それって、どういう・・・?」
どうにもプライドを傷つけられる慰め方だ。しかも本人は悪気がないようなのだから余計タチが悪い。
「とりあえず、ぱーっとカラオケにでもいかへんか? ケンスケも誘って。それともジャージ喫茶がええか?」
「・・・ありがたい申し出だけど、今日は帰らせてもらうよ。仕事頼まれちゃったからさ」
露骨に呆れ顔をして見せるトウジだったが、それ以上なにもいわなかった。
結局二人は黙って別れる。
一人になった家路を歩みながらシンジは考える。
ティーゲルにご飯か・・。ドッグフード買わなきゃダメかな?
そして、そのお金は自分の財布から支払われる。
シンジは我知らず深いため息をついた。
その日の夕食である。
ミサトは不在で、いつもは二人きりの夕食タイムなのだが。
「ほら、美味しい?」
「わん!!」
先日から加わった一匹が、二人の食卓に遠慮なく自己主張していた。
アスカのつま先にじゃれつきながら、子犬はせっせとドッグフードを食べている。
そしてアスカ自身は食卓に頬杖を突きながら、そんなティーゲルを眺めていた。
黙々と自分のぶんのご飯をかき込みながら、シンジは微妙に不機嫌である。
彼自身にとって、不遜な、あるいは大それた表現で言えば、アスカの子犬に向ける表情が気にくわないのだ。
自分が見たこともない、生き生きとした優しげな貌がそこにある。
これだけ一緒に暮らしていたのに・・・。
また一つ、シンジの心の奥底に澱が溜まっていく。そして彼自身それに気づいていない。
そんなシンジの表情、発散する雰囲気に気づかないのか、はたまた無視を決め込んでいるのか、アスカは子犬とのじゃれあいを楽しんでいる。
「ほら、気持ちいい〜?」
つま先で犬の腹をくすぐりながらアスカが訊ねる。
「ごちそうさま!!」
やや乱雑にシンジは食器をテーブルに置いた。
思ったより大きな音が出てしまい、アスカの瞳がこちらを向く。
さすがに彼女も見とがめて、訊ねてきた。
「なによ、あんた。さっきから不機嫌は顔してさ?」
「別に」
さりげない声を出したつもりだが、そっけない声が出た。
「いいたいことがあったら、はっきりいったらいいでしょ?」
「別にないよ!!・・・君がティーゲルと遊んでばっかで家事を手伝ってくれないなんて、全然思ってないからさ」
今度は完全に荒い声が出てしまう。
「なによ、それ? あたしが家事手伝わないの、いつものことでしょ・・・?」
とんでもない台詞を平然と口にしながら首を捻るアスカである。
実はこの時点で、シンジは致命的な失敗を犯していた。
少なくとも、アスカに対して言質を取られるような発言は控えるべきだった。
薄々シンジも気づきながら、それでも言葉を重ねずにいられない。
「今度からティーゲルにでも色々してもらうんだね。だって君自身、下僕だとかなんとかいってたし」
常ならぬ饒舌なシンジに、きょとんとするアスカである。
しかし、彼女の表情はまもなく変わった。頬が緩み、ついで吊り上がり、とてつもない邪悪な笑みが浮かぶ。
こいつ、嫉妬している。
アスカは悟り、シンジは悟らせてしまった。当然の結果だ。
「それは無理よ、ティーゲルにはさせられないわ。だいたい、そーゆー仕事はシンジがするって決まってるもの」
渦中の子犬を抱き上げながら、アスカは続ける。
「だいたい、ティーゲルとあんたが同格とでも?」
「・・・・へ?」
思いがけない言葉に戸惑うシンジへ、アスカはニンマリと笑い恐ろしい事を口にした。
それは、後世に長く語り伝えられることになるアスカ版カースト制度。
すなわち、『士農工商犬シンジ』である。
後編へ続く。