高校3年生の11月くらいになると、教室の雰囲気はだいたい三分にされる。

志望校の試験に向けて最後の詰めに殺気立ってすらいるのが最大派閥。

反して怠惰な空気を撒き散らしているのはもはや諦めの境地に達した連中で、記念受験や来年から通う予備校選びといったやたら後ろ向きな活動に邁進している。

そのどちらにも属さない最後のグループは、既に就職や進学を決めて余裕綽々の天上組ということになる。

自由登校開始まではまだ時間はあり、学校へ来たものの彼らは総じて時間を持て余している。

さりとて余裕があるところをアピールするのはこれからの受験を控えたクラスメートたちを悪戯に刺激するだけなので、教室の片隅でせいぜい小さくなっているしかない。

惣流アスカ・ラングレーは、この最後のグループに属すると衆目の見解は一致しているが、厳密に言えばどの派閥にも属していなかった。

なぜならアスカの進学先はまだ未定。

これは別に彼女の怠慢のせいでない。ドイツで飛び級で大学を卒業していたことは、吹聴もしないが秘密にもしていないので、ほぼクラスの全員が知っている。

学校サイドにも周知のことだから、教師たちにしてみれば、アスカの進学問題は色々な意味であまり関わり合いたくないことらしい。

そして肝腎のアスカ自身はというと、ここ最近、非常に機嫌が良かった。

その理由は彼女の斜め後方の席にいる青い髪の少女に由来する。

青い髪の少女―――綾波レイは、うっとりと写真集を捲くると、微かに頬を染めて甘い声を出す。

「マチュピチュ遺跡、アンコールワット。…萌えるわ」

「そ、そう。良かったわね、ファースト」

その様子をなんだか薄気味悪そうに見やるアスカがいる。

なんでも、古代遺跡愛好の趣味に目覚めたとか。高校を卒業後は、世界中の遺跡を巡って歩く旅に出るそう。

卒業するなりシンジのところに突撃するんじゃ? とひたすら気を揉んでいたアスカにとって、レイの進路はまっこと歓迎するものだった。

「セカンドに問題。

 明神礁、エジプト、北極、インド洋、アンコール遺跡、イースター島。

 これらの遺跡に共通するものはなに?」

「え? えーと」

「ヒント。横山光輝…」

「????」

とまあ、このような会話を交わすのもやぶさかではない友好状態。

適当にレイをいなしながら、アスカの視線は教室の隅の結界へと注がれている。

そこには、鈴原トウジ、相田ケンスケ、碇シンジたちがいた。

彼らを三馬鹿と笑うなかれ。

トウジは体育大学へ、ケンスケは芸術大学へ、それぞれ早々に推薦を取り付けていた。

全く焦る様子も見せないためトリオにカウントされているシンジの進路先を、実はアスカは知らない。

が、彼の成績は悪くなく、かといって難関大学へ挑戦するといったステータス主義とは無縁であることを、長い同居生活でアスカは知り尽くしていた。

こんだけ余裕でいるってことは、どうせ近場の身の丈にあったとこに進学するんでしょ?

そうタカを括ったアスカは、こっそりと近隣の大学の願書をダース単位で取り寄せている。

アスカ自身はどの大学もよりどりみどりなわけだから、シンジがどの大学を選択しても準備は万端。いわゆる国士無双十三面待ち状態というやつである。

あ、でもシンジの進学先がヒカリの進む女子大に近ければ、そっちに進むのもありかしらん?

ネルフあたりにコネ就職するならそれはそれで構わない。

ミサトにだって勤まったのだから、あたしだって作戦本部長くらいこなせるでしょ。

…このように、自身の進路の決め方と心理状態に、アスカは全く疑問を抱いていなかった。

疑問にすら思っていなかったといっても過言ではない。

折りしもそんなこと考えていたときだった。教室の最奥でトウジがシンジに語りかけたのは。

「ところでセンセの進学先の件、どうなったんや?」

その声は決して大きくはなかった。

されど、耳をピンとそばだてるアスカがいる。しかし、そっちへは絶対に顔を向けない。表情も動かさない。

シンジがこっちを探っている気配がしたけれど、全力で気付かないフリ。

果たして、はばかるように周囲を見回してからシンジはおずおずと口を開く。

可聴領域を明らかにはみ出していたその声をアスカが拾えたのは、一体どのような補正能力が発揮された成果だろう?

「えーとね…」






























ady nd ky 〜second air




FINAL EPISODE : Take the A=@train 前篇  

by三只





























「…ミサトは知っていたの?」

夕食も終わった葛城邸。

シンジが入浴しているのを確かめてから、アスカはキッチンでビール片手の保護者に詰め寄った。

「何の話?」

「とぼけないでよ!」

卓上の食器が軽くジャンプする。

テーブルに諸手をついて肩を怒らせるアスカを前に、ミサトはビールを一口。

「知っていたのね?」

「だから何を?」

「シンジの、アイツの進学先のことよ!」

高まりかけた声のボリュームを必死で抑制しながらアスカは訊ねた。

その剣幕に対し、ミサトの返答は呆気ないほどあっさりとしたもの。

「ああ、そのことね。知っていたわよ、もちろん?」

相変わらず豊かな胸を逸らす保護者を睨む少女の青い瞳は、刺し殺そうかとするように鋭く光る。

「だったらなんで…!」

アスカが金髪を振り乱してさらに迫ろうとしたとき。

アコーディオン型の仕切りが動いて、脱衣所からシンジが出てきた。

「お風呂空いたよー。……どうしたのアスカ?」

キッチンの微妙な雰囲気に気付いたのかタオルで髪を拭く手を止めてシンジ。

「…なんでもないわよ、バカッ!」

言い捨ててアスカは駆け出した。

キッチンを出てリビングを縦断し、どたどた足を踏み鳴らしながら自室へと。

乱暴にドアを閉めて、ベッドの上までダイビング。枕に顔を埋め、シーツごと抱きしめる。

ギリギリと歯噛みをして、自分の感情をアスカは持て余している。

恥ずかしい。むかつく。腹立たしい。イラつく。

雑多なマイナスの感情がドロドロに交じり合い、頭の中をかき回す。

足元の定まらない不安定感もある。

何より不愉快なのは、これらが全てシンジ個人に由来するということ。

「…あんのバカっ!」

枕を壁に投げつける。

衝撃で、カラーボックスの上に載せていた化粧品の瓶が床に落ちて、更に不快度を加速させた。

乱暴に立ち上がり、再度枕を掴み上げて叩きつけようとして、不意にアスカの全身から力が抜けた。

シンジが将来の進路をミサトにだけ相談していたこと。

自分には秘密にしていたらしいこと。

そしてその意味。

このときばかりは、アスカも自分の明晰な頭脳がわずらわしくて仕方なかった。

必然的な派生といおうか、現在の状況についても考えが及んでしまうのは是非もない。

ひいては、それは彼女自身の未来にも関わってくる重大事項だ。

なぜかって? それは…。

…まあいいわ。まあいい。

どうせそろそろシンジのやつが釈明に来るはず。

ミサトから何があったのか聞いてさ。

いつも通りに、情けない顔をぶら下げて、ごめんアスカって訪ねて来てくれるに決まっている。

そう信じ、どうにか憤りをなだめながらアスカは待った。

一時間が経過した。

…ふん、どうせ食事の後片付けや、明日のお弁当の仕込みでもしてからくるんでしょ。

二時間が立った。

…ミサトが寝静まったのを確認してるのね、きっと。

そして三時間が経過した。

…………なにやってんのよ、あいつ。

ギンギンと部屋の入り口に青い瞳を注ぎ続けるアスカと対照的に、ついにその夜ドアがノックされることはなかった。










明けて翌日。

「どうしたのアスカ。ひどい顔しているんだけど…?」

昼食を口に運びかけたヒカリの箸が空中で停止。

「ん…」

対してアスカは生返事。目の下の濃いクマが、普段の太陽のような顔つきに深い陰影を落としている。

精彩を欠きまくる親友に、最近は食事時でも手放さない単語帳を静かに傍らに置いて、ヒカリは正面から向かい合った。

そのまま待っていると、アスカの虚ろな視線がマジマジと見返してきて、

「…ヒカリは知ってたの?」

「何を?」

「シンジの進学先」

一瞬だけ身体を強張らせ、それでも穏やかにヒカリは答えてくれた。

「ええ、知っていたわ」

アスカの表情が動くのを制して、ヒカリは続ける。

「碇くんからは口止めされていたわ。アスカには教えないでくれって」

なんでっ!? との悲鳴を飲みこんで、アスカは混乱する。

シンジが秘密にする理由もわからねど、どうしてあたしにだけ教えないでくれなんて頼むの?

あたしにだけ。

あたしに…だけ?

ヒカリから180度視線を反転させ、アスカは視界の先に青い髪の少女を見つける。

音速の勢いで席を立ち、あっというまにアスカはレイへと詰め寄った。

「ファースト、あんたは知っていたの?」

「…何を? 質問の主旨は明確に」

「シンジの進学先のことよ!」

苛立ち紛れの質問に、一縷の望みをかけて。

あたしだけじゃなくてファーストも知らされてなければ…!!

元エヴァパイロットであり同僚といった事情で、シンジは進学先を明かさなかったという推測が成立する。

もしくは………この際、シンジに明確な好意を抱いている女の子というカテゴリーだっていい。

ほとんど願うような様子のアスカだったが、その期待は裏切られた。

「知っているわ。碇くんは卒業したら北海道へ行くんでしょう?」




北海道の調理師専門学校。

それがシンジの決めた進学先。

セカンドインパクトという大災害も潜り抜け、北の大地はなお豊穣な実りを誇っている。

様々な新鮮な食材を調達できるという面からも、調理師を目指す地としては適当かも知れない。

でも、なんで北海道なわけ…?

その疑問を、アスカは直接シンジに問いただすわけにはいかなかった。

なぜなら、あたしは『知らない』ことになっているのだから。

ファーストから聞いたんだけど? と前置きして問いただすことも考えたことは考えた。

だけどヒカリが言っていたのだ。『アスカには教えるな』と口止めされたと。

この意味が分からない。

自分だけがハブられる意味が。

なにより、あの綾波レイさえ知らされていたという事実がアスカの混乱に拍車をかける。

昨夜のことが悔やまれて仕方ない。

あのとき逃げ出したりせず、勢いそのままにシンジを問い詰めていれば………ううん、それは性急というものよ。

シンジも、きっと事情があってあたしにだけ知らせないようにしていたはず。

―――じゃあその事情ってなによ!?

結局、一周して元に戻ってきてしまう。

なんでシンジはあたしにだけ教えてくれなかったのだろう?

他のクラスの連中は知っていたのに。

ミサトだって知っていたのに。

ぐるぐると疑問は回る。

北海道じゃなくて第三新東京市の調理師学校じゃダメなわけ?

シンジが別天地へ赴くということは、住み慣れたあのマンションから出ることと同義。

二つの疑問が混じり合い、アスカの中で仮説が組み上がる。

もっとも不愉快かつ不安な仮説が。

慌ててアスカは頭を振った。

そんなの考えるだけでいやだ。

考えるだけでもおぞましい。

だけど考えずにはいられない。

二律背反の思考が編み上げた忌むべきアスカの仮説。

それは。

「…あたしって、アイツにとってウザい女になっちゃったのかな…?」

ポツリと漏らした声は、彼女自身が自覚できないほど、重く暗い。

屋上の給水塔の影。アスカの抱えた膝にぎゅっと力が籠る。

どちらにしろ県外の学校へ進学するのなら、今のマンションを出なければならないだろう。それは仕方のないこと。

だけど、なおさら、その事をあたしに伏せる理由はなに?


一緒にいたくないから?

追いかけて来て欲しくないから?


…ふん、そんなのこっちから願い下げよ! あたしはね、別にアンタにコシツしてるわけじゃないんだからねっ!

「………はあ」

勇ましい脳内反論に一瞬だけ気持ちが軽くなり、直後に一段と暗くなる。それは渇き果てて海水を飲むのにも似ていた。

塩辛い味を噛みしめて、思い返すは今までの日々。

確かに目を反らしつづけていたかも知れない。はっきりと言葉にしなかったかも知れない。

それでもアイツには、あたしの気持ちは届いていると信じていた。

でもそれはあたしの勝手な思い込みだった?

アイツにとっては単にウザかっただけ…?

「シンジィ…」

呟いた声は半分以上泣き声に近い。

あ、やばい、本当に涙がこぼれてきたかも―――。

だから、背後の気配にまるで気づかなかった。

「…アスカ?」

「ひゃうっ!?」

シンジが立っていた。なんとも気遣わしげな表情でこちらを見てくる姿は、アスカにとっては馴染み極まりないもの。

「な、何よアンタはいきなり話しかけないでよびっくりしちゃうでしょ!」

「洞木さんが、アスカが何か元気なくて屋上で黄昏てるって…」

 おずおずと言ってくるシンジ。

「その…何かあったの?」




…アンタがそういうこと言うかっ!?

あたしがっ! 悩んでるのは! 他ならぬアンタのせいなんだからねっ!?

シンジの胸倉をつかみ上げて払い腰。

そのまま地面に叩き付けたシンジの身体に馬乗りになってアスカは絶叫した。





ただし、彼女の脳内で。

現実には、苦すぎるコーヒーを飲んだような表情でシンジを見返すことしかできない。

「…なんでもないわよッ!」

怒鳴る勢いそのままに顔を反らす。

「でも…」

「何よ、あたしがセンチメンタルな気分になってると何か悪いわけ!? アンタに何か迷惑かけてるわけっ!?」

突き放す声はまるで説明になってない。本心と裏腹にアスカはシンジの問いかけを封殺。

「…そっか。邪魔してごめん」

素直にシンジは引き下がる。

そのまま目前で踵を返した背中を見つめ、アスカの内心は決壊寸前だった。

―――待って! 行かないで! あたしは、アンタに…!

喉までせり上がった言葉が唇を割るその瞬間に、シンジの声が被さってくる。

「今日の晩御飯はアスカの好きなもの作るからさ。だから…元気だしてね?」

はにかむような笑みを残し、シンジは屋上から行ってしまった。

誰もいなくなった屋上で、アスカは一人ギリリと奥歯を食いしばる。

…あんのバカ…っ!

怒り上がった肩は、流れ星のような勢いで墜落した。

違う。

バカは、あたしだ。













■■■■■■■■





碇シンジが自分の進路を保護者へと申請したのは、綾波レイが自分の進路を表明したのとほぼ同時期である。

父亡き今、葛城ミサトが唯一の保護者だ。(彼女が保護者の役割を全うしているかについての賛否は分かれるが)

放課後、わざわざ詰襟の学生服姿で彼女のオフィスを訪れたのは、血縁関係のなさゆえの遠慮と他人には見えたかも知れない。事実としては保護者への礼儀を具体化しただけであるが。

彼なりの正装で、オフィスで改まって調理師学校への進学の希望を口にしたシンジに対し、ミサトは穏やかに笑う。

「そっか。シンジくんももう高校卒業するんだよね」

何気ない台詞だったが、感慨と温かみに溢れている。

無言で頷き返すシンジの内心も、全く同じだった。

「そんで行先は北海道だっけ? まさに、少年よ、大志を抱けってやつ? レイも国外に行くっていうし、寂しくなるわねー」

綾波レイの進路の表明はシンジにとっても微笑ましいことだった。

なにせ彼女の出自が出自である。そんな彼女が自発的に将来のことを進言してきたことは、関係者全員が驚きとともに喜びとして受け止めている。

第三新東京市を出て、彼女なりに世界を見て回りたいのだろう。しっかりと己の足で他の国の大地を踏みしめて来て貰いたいと思う。

青い髪の少女への羨望を横に置いて、シンジは別の最大の関心事を口に出す。

「それで……えっと…、アスカはどこに進学するとかって聞いてます?」

「うん? 全然」

「…そうですか」

「ま、あの子は一回大学を卒業しているしね。その気になれば色々とつぶしが効くでしょうし」

ミサトは椅子にもたれて頭の後ろで手を組む。

「でもシンジくんもレイもそろって第三新東京市から出てくんだから、アスカが残るのは丁度いいことなのかも」

「? どういう意味でしょうか?」

「あれ? シンジくんには言ってなかったっけ?」

ミサトの説明を要約すると以下のようになる。

綾波レイ、惣流アスカ・ラングレー、碇シンジらの三名は、現在エヴァを操縦できるチルドレンとして登録されている。

18歳を迎えてその登録は一旦解除されるが、それでも三名のうちの少なくとも一名は、第三新東京市に残って、今後も継続的な実験への参加をして欲しい。

何気ないミサトの口調に反し、シンジの受けた衝撃は深刻だった。

「ちょっと待ってくださいよ、ミサトさん! そんな、アスカの意向も確認しないで…」

さっさと第三新東京市から出ていけばOK。ただし三人のうちで残った一人は第三新東京市に拘束される。

そんなの、早いもの勝ちのババ抜きと同じじゃないですか。

ところがミサトの反応は淡白だった。

「そこらへんは大丈夫でしょ。だって、三人のうちで進んでエヴァに乗りたいなんていうの、あの子だけよ?」

「それは…」

アスカが並々ならぬエヴァに対する想い入れを持っていることは、シンジも十分に理解していた。

まだ中学生の頃、ほとんど吐き捨てるようだった彼女の独白が耳に蘇る。



―――あたしにはエヴァしかないのよ。



「………」

「シンジくんがそこまで気に病む必要はないでしょ? もしアスカがこの街から出て行きたいって言い出したら、それはそれでまた考えればいい話じゃない? 」

能天気な声と裏腹になんとも言えない色彩がミサトの瞳に揺らめいたのを、うつむいていたシンジは見逃した。

そのまま保護者を前に逡巡することしばし。

「…ミサトさん」

顔を上げ、少なからぬ覚悟を決めてシンジは言った。

「僕の進学先の話、アスカには内緒にしていてくれませんか?」







■■■■■■■■












自分自身をバカと罵倒したその日の午後。アスカの姿はネルフ本部にあった。

まっすぐ足を向けたのは作戦部のオフィスで、アポなしにも関わらず偶々在籍していたその部屋の主は、突然の闖入者に目を丸くする。

「…今日は何の実験の予定もなかったと思うけど?」

「別にいいでしょ? あたしだってここの関係者なんだからさ」

「そりゃま、そうだけど…」

ところで何の用? と訊ねてくるミサトを、アスカは謹んで無視。

そのまま壁に背中を預け、軽く腕を組んであごをしゃくる。

「いいから仕事、続けなさいよ」

…何なのかしらん?

ミサトは首を捻りつつ、今更言われるまでもない。

未決済の書類は盛大な山を作り、目を通さなければならない各種映像データもてんこ盛りだ。

微妙な居心地の悪さを感じつつ、それらを決済、処理していくミサト。

そして壁掛けのアナログ時計の短針が3の数字まで達した時だった。

待ってましたとばかりにアスカは壁際を離れ、ツカツカとミサトのデスクの前へ向かう。

「え? なに?」

「ミサト、お茶にしましょ。奢るわ」

「お茶?」

「15時よ、ティータイムでしょ? 休憩でしょ? 付き合いなさいよ!」

半ばアスカに引きずられるようにミサトは自分のオフィスから連れ出される。

そして五分後。

椅子に座るミサトの前に、一本の缶コーヒーが。

「…奢るって、これ?」

しれっと自分のぶんの缶コーヒーのプルタブを開けるアスカをミサトは軽くにらむ。

それから周囲を見回して呟いた。

―――いったい誰が使用許可証だしたのよ?

彼女が被保護者に無理やりつれてこられたのは、いわば尋問室だった。

諜報部の奥深いブロックに存在し、四方は壁で窓のないこの部屋は完全な防音使用。備え付けは灰色の無味乾燥なテーブルとパイプ椅子のみで、時計すらない殺風景な光景だ。

本来の目的とは外れるが、誰かに聞かれたくない話をするならこれ以上の場所はないだろう。

さすがにここまで至ってアスカの目論見が読めないほどミサトも鈍くはない。

であるからこそ、アスカがどのような手段を使ってここの使用許可を得たのか? という方に関心が向いてしまうのは仕方のないことかも知れない。

そしてそのアスカはというと、飲みほした缶を無造作に床に置き、ミサトに詰め寄ってくる。

「さて、じっくりと話を聞かせてもらいましょうか」

やけに芝居がかった凄み方と現在のシチュエーションに、ミサトは2時間サスペンスドラマの取調べシーンを想起。

「えっと、こっちとしてはまずコーヒーでも飲んでゆっくりしたいんだけど…?」

「却下!」

すかさずアスカはミサトのぶんのコーヒーを奪い去り一気飲み。

呆気にとられるミサトに対し、空き缶をテーブルに叩き付けたアスカは卓上の電気スタンドを向ける。

スイッチを入れ、照明に顔をしかめるミサトに対し、

「さあネタは上がってんのよ? キリキリ白状しなさい!」

「ちょ、やめ、まぶしっ!」

「黙秘するならすればいいわっ! でも48時間はしっかり拘留できるんだらかね!?」

それにしてもこのアスカ、ノリノリである。

「だーかーらっ! いい加減にしなさいって!」

果たして、電気スタンドの首を持って振りかぶるアスカと空き缶を振りかざして対峙するミサト、という珍妙な図式が完成するに至る。

睨みあうことしばし。

どちらともなく肩が落ち、お互いの持っていた得物を放り出す。

「…あー、バカらしいことで時間を無駄にしちゃった」

「アンタがいう台詞じゃないでしょ…?」

どっかりと対面の椅子に腰を下ろすアスカに、呆れながらのミサト。

「で、結局はシンジくんの進路のことなんでしょ?」

何か面倒臭くなったミサトは、こちらからグラスを割ることにする。

「…そうよ」

頬杖をついて、ブスッとしながらもアスカは認めた。

「そんなの、シンジくんに直接聞けばいいじゃない」

そう返したミサトの表情は、やや意地が悪い。

それが出来れば苦労はしない、との声なき声を思い切り顔面に書いて、アスカはミサトを睨み返す。

「だいたい私に訊くのが筋違いじゃないの? 私は確かにあなたたちの保護者ではあるけれど、それぞれのプライバシーは尊重するわ。

 アスカだって、自分の知らないとこでシンジくんが根ほり葉ほり私に訊いてきたら嫌でしょ?」

ちょっと冷たいかな、とも思いつつ、ミサトは正論を口にした。

痛いところを突かれたアスカはブスッとした表情のままそっぽを向く。

しばしの沈黙のあと、形の良い唇がかすかに動き、空気を震わせた。

「………じゃない。あたしたち…………………なんだからさ」

「え? なに? 聞こえないわよ?」

「…いいじゃない! あたしたちは家族みたいなもんなんだからさ!」

ほとんど叫ぶように言ってのけたアスカの頬は赤い。

「………」

「………なによ?」

茫然とするミサトを上目使いで睨むアスカは半分涙目だったりする。

「あー、もう可愛いわね、アスカは!」

満面の笑みを浮かべてミサトは立ち上がり、そのままアスカの頭を抱え込んで、旋毛をかいぐりまわし、ぷにぷにと頬っぺたを弄ぶ。

「え、いや、何すんの止めてよっ!」

「あれぇ? 家族ならこれくらいのスキンシップはあたり前じゃあない?」

「くっ…!」

自分で宣言した手前、抵抗もままならぬ。

そのまま思う存分手触りを堪能して、ミサトはアスカを解放。

「………うう、イカズゴケに珠の肌を弄ばれちゃった…」

さめざめと涙を流して見せるアスカ。

「ところでアスカ、イカズゴケの意味って知ってる?」

「ううん、全然」

しれっと答えるアスカの頬の涙は一瞬で乾燥している。こめかみの小さな青筋を引っ込めて、ミサトも鷹揚に笑って見せた。

なんだかんだいっても精神の根深いところで、この二人は似ているのかも知れない。

「ま、恥じらいながら家族って呼んでくれたアスカに免じて、ここはお姉さんも情報を開示しなきゃねー」

お姉さんの部分のアクセントに力を込めてミサトは言う。

今更お姉さんって歳でもないでしょー、と反射的に言い返しそうになってアスカはぐっと我慢。

「とりあえず、シンジくんが進学先を北海道に決めたって私に相談に来たのは、そうね、レイとほぼ同じ時期かな。

 そんで、アスカには進学先を教えないでくれって頼まれたわ。以上!」

「なによそれっ!」

アスカは目を剥く。

さんざん漫才じみたやりとりをした報いがそれ? そんなの殆どこちらが把握している情報じゃない!

しかしミサトは、まあまあ落ち着きなさいと余裕の表情。

「大まかな流れはってことよ。詳細は今から順を追って話すから♪」

…絶対に楽しんでいるわね、これは。

アスカの推察は100%正しい。

だが、大人しく傾聴した結果として、少なからず情報が追加されることになる。

「…シンジが、あたしの進学先を気にしてた…?」

「そう。そんで私が何も聞いてないって言ったら―――実際に何も聞いてなかったしね―――そしたら少し考え込んでたみたい」

その情報は、ほんのりとアスカの心臓を温かくしてくれた。

少なくともシンジが自分の進学先を気にかけてくれていたという事実。

だけど、どうしてあたしに自分の進学先を伏せることに繋がる?

…だめだ、やっぱり分からない。

ううん、予想は出来るけど確証はない。

もっと情報が欲しい。あいつの本心を知るための情報が―――。

「なに? ダメよダメダメ。そんな上目使いで見られても、あとは何にも聞いてないから」

「じゃあ、ミサトの見解を教えてよ」

藁をも縋るアスカの訴えに、ミサトは盛大にため息をつく。

「なにいってんのよ、アスカ。それはあんたとシンジくんの問題じゃないの? 私がどうこう言ってもしようがないじゃない」

「でも…」

「じゃあ私が『シンジくんがあんたから逃げたがっている』って言ったら信じるの?」

「―――! それは…!」

「とりあえずさっきの質問は聞かなかったことにするわ」

さらっとアスカが本心を暴露してしまっていることをミサトは指摘しなかった。武士の情け、というより女同士のよしみというべきか。

アスカは塞ぎ込む。その姿は自分の迂闊さを後悔するのではなく、あからさまにシンジに対しての思考に集中していた。

―――ったく、二人とも分かりやすいったらありゃしないのに。

沈黙する少女を眺め、ミサトは内心で毒づいた。

年頃の少年少女が同居生活。お互いがお互いを嫌いあっていては、そんなもの半年ともたず破綻する。

互いにどうでもいいと思っている間柄ならもって一年。仲が良くても喧嘩もしなけりゃせいぜい二年。

ならそれ以上続いた二人の関係は―――言わぬが花だろう。

同居のきっかけはミサト自身に由来するものであるから、敢えてどうこう言おうとは思わない。

ただ、身近に彼女らの成長を見守ってきた立場としては、こうやって多少弄るくらいは許されるのでないか。

いみじくもアスカが先ほど表した通り、自分たちは家族だったのだから。

だけど、その疑似家族の環境崩壊もそう遠くはない。ミサトもそろそろ覚悟を決めている。





ゆっくりとアスカは顔を上げる。

己の中でどのような結論に行き着いたのか。それとも何か別の覚悟が定まったのか。

蒼い瞳には、炯々たる光が宿っていた。

「―――決めたわ、ミサト」

そう告げてくる口調はいっそ清々しいほどの切れ味を誇る。





―――そう、ようやく自分の本当の気持ちと向かいあう気になったのね。

少しばかり感傷的な気分がミサトの中で沸き起こった。

若い二人に、かつての自分を重ねてしまうのは致し方ない。

それでも、あなたたちは私たちとは違う。

後悔のないように。

大丈夫。きっとシンジ君も受け入れてくれるわ。

かつての青春の感慨を押し流すように、胸のうちから込み上げてくる温かいもの。

嫉妬も憧憬もない。ただひたすらに二人のことを寿(ことほ)ぎ、見守る感情。

…そっか、ひょっとしてこれが母親の気持ちってやつなのかも。





このように母性本能を自覚するミサトであったが、一方で、彼女はこの期におよんでアスカの思考回路を理解していなかった。

惣流アスカ・ラングレー、芳紀17歳。

優秀な頭脳と溢れんばかりの行動力。

それらを統括する人格は、時として明後日の方向へと驀進する。

こと碇シンジに関した事象において、その傾向は顕著である。

ゆえに、一連のアスカの思考の変遷をミサトの不明と責めるのは、いささか酷というものだろう。







「決めたのよ、ミサト」

「うん」

「まだ、卒業まで三か月はあるわ。だから…」

「うん、うん」

「ぜーったい、あいつの進学先、反故にさせちゃる!」

「……へ!?」












































ファイナルエピソード後編に続く?

三只さんからのお久しぶりのLady And Sky 2……ファイナルエピソード?! ですね……。
最後にまた一騒動(アスカが)起こしそうなんですが、どうなるんでしょう。
続きも楽しみにして待ちましょう。