廊下を闊歩しながらアスカの明晰な頭脳は猛烈に回転を始めていた。

その勢いたるやロケットエンジンと比較してもなんら遜色はないもの。

早くも大気圏脱出速度へ達した彼女の思考に、ミサトの「なんで!? どーしてそーなるの!?」といった悲壮な叫びが追い付くわけもなく。

かくしてアスカの想いは大宇宙へと飛び出した。

目標へは全く違う惑星へ邁進しているのも知らずに。






























ady nd ky 〜second air




FINAL EPISODE : Take the A=@train 後篇  

by三只





























とある日の夕方。

買い物袋を抱えて葛城邸に帰宅したシンジは、リビングの光景に目を見張ることになる。

室内ところ狭しと広げられたパンフレット。

キッチンのテーブルの上に買い物を置き、シンジは手近なパンフレットを取る。

近在の調理師専門学校のパンフレットだった。

良く見れば栄養学科とかの大学のものまである。

「あ、おかえりシンジ」

後ろからの声は同居人の少女のもの。

しかしてこの光景の原因はおそらく彼女に違いない。論理的帰結というやつである。

「どうしたの、これ?」

「んー? あたしもそろそろ進路決めようかと思ってねー」

何気ない仕草でアスカは足もとのパンフレットを拾い上げた。その実、心臓はバクバクだったりするが必死で気取られることないように装う。

「進路決めたの!?」

果たしてシンジの反応はアスカにとって劇的に見えた。

眼をキラキラさせる少年のあまりに真摯な様子に、別の意味で心臓が高鳴る。

「あ、あたしもいっそ料理人でも目指してみようかなーって思って」

「アスカが? 料理人?」

今度のシンジの反応は、あからさまにトーンダウンして見えた。疑わしげな表情と声。

「う、うん。でも、目標を持つことがいいんじゃないかな…?」

ハッと気づいたようにその表情を吹き消し、フォローしてくるシンジだったが、居たたまれないアスカは即座に暴発した。

「…バッカじゃない、ちょっと言ってみただけよ! バッカじゃないの!?」

ほとんど意味不明な台詞を吐きつつ、アスカはパンフレットを大急ぎで回収。

シンジの手にあるものももぎ取り、

「ア、アスカ、ごめん」

と言いかけたシンジの口を睨みつけて封殺。

あとはドスドスと足音を立てつつ自室へと戻ると、ドアを閉ざした途端両手に抱えたパンフレットの山は滑り落ち、散乱。

ほとんど入口のドアからベッドまで飛んだアスカは、弾むマットレスの上で頭を抱えた。

…なんでもっとスマートにできないのよあたしわっ!!

予定としては、近隣の料理関係の学校のパンフレットを準備。

それとなく、シンジを北海道でなく近場の学校へ入学するよう誘導するつもりだったのに。

意外と単純な作戦というなかれ。

むしろシンプルイズベストよ! と胸を張っていたアスカであったが、ここまで見事に空振ったとなると反省せざるを得ない。

普段は謝らない、気にしない、反省しないがモットーである彼女が、如何にこの問題を重要視しているか知れよう。

…やっぱ、いきなり料理人ってーのは不味かったわねー。

普段が普段でろくすっぽ包丁を持たない主義のアスカである。

それが急転直下、料理人になりたい! なんて言い出したとしたら、シンジでなくても疑念の声を上げるだろう。

その意味においても、あの発言は失敗だった。あくまで目的はシンジの進学先の変更を促すこと。

さりげなく、近場の学校でいいんじゃない? と切り出すのがこの作戦の最大のキモだったのに。

でもまあ、あたし自身、料理を勉強しても悪くないかな?

うん、その、将来のために。やっぱ料理出来るのは一人より二人の方がいいわけだし。どっちか病気になったりしたら困るし…。

「と、違う違う、そうじゃないー!」

脱線しかけた思考を、アスカは頭を振って軌道修正。

とにかく作戦の第一弾は挫けた。

本来はこの第一作戦から幾つも派生シミュレートをしていたのだが、こうもケチがついてしまっては今更仕切り直しも難しい。

「ならば次はプランBか…」

アスカは勉強机の上の携帯端末を操作。かける先は赤木リツコ。

『…もしもし?』

「あ、リツコ? あったしー。さっそくで悪いけど、この間のレポート読んでくれた?」

『あの資産運用プランのこと? ―――そうね、良くできていると思うわ』

「なにその大学教授みたいな言い方」

『…あのねえ』

そこでわずかな間が開く。受話器越しにチッとライターを擦る音。

『海外投資先や利回りの先見性、それらの分析は正直大したものだと思うわ。でも、資産を流動性のあるものに変換し、組織としての許可を出すまでどれくらい時間がかかると思って?』

「そこは、ほら、赤木博士御大にMAGIも使ってもらえば…」

『そんなこと、2ヶ月ちょっとでできるわけないでしょ! しかも発案者があなたであっさり承認が出ると? 各部署を説得する書類に落とすだけでも半年はかかるわよ!』

「は、ははは…」

『しかも、第一で獲得した利益で北海道のとある資本を買い取るって何よ? この箇所があまりにも意味不明で…』

「ごめん、リツコ! 忙しいから切るね!」

携帯端末をブツ切りし、アスカは考え込む。

ぶっちゃけて言ってしまえば、プランBとは、シンジの通う専門学校を買い上げて第三新東京市へ移転させてしまえ、という資本原理の力技。

もちろんアスカ個人にそんな資産がない以上、頼るべきは属する組織。

ネルフにとっても美味しい計画に仕上げたつもりだったが、さすがに時間がかかるのは予測できた。

それでも一縷の望みは託していたのだが。

しかし、改めて儲けた資産の優先的な使い道について、突っ込まれると辛い。

もとは完全にアスカの私欲であるから、あまり多くの関係者に自身の心情を知られてしまうのはなるべく避けたい。

だが、そうなると次なる一手は…。

しばらく考え込むことしばし。

またぞろアスカは携帯を手に取り、またしてもリツコあてに発信。

『もしもし?』

「あ、リツコ? ちょっと聞きたいんだけど、この間夏休みにやったみたいなエヴァの公開起動実験。北海道とかでやる予定はない?」

『………アスカ、あなた、今度は何を企んでいるの?』










さすがに自分の通う予定の専門学校を物理的につぶされちゃ、シンジも怒るわよねー。

即物的かつ突発的なプランCは取りあえず廃案。

あくまで理想的なのはシンジの自発的な進路先の変更である。

出来ればアスカ自身の利己的な希望や干渉があったということは、極力伏せて置きたいのだ。

ゆえに、もろに自分が介在しての強制進路変更など、シンジの不興を買うだけで益はないだろう。

さすがにアスカもそこまでは考えは至る。

とにかく、プラン3つは全滅したに等しい。

なれば残る手段は―――。

アスカの顔が煮上がったように赤くなり、次いで苦虫を噛み潰し方のように青くなる。

「…? どうしたのアスカ?」

その極端な顔色の変化に、気遣わしげに声をかけてきたのは隣席の洞木ヒカリだ。

「な、なんでもないわよ、あはは」

慌てて手を振り、アスカは自身の発案を心の底へと押込めた。

出来れば、この最終手段は使わずにケリをつけたいけど…。

しかし、貴重な時の砂は、刻一刻と流れ去りつつある。

焦りの気持ちもあることは否定できない。

こうやって学校の教室でもうっかり考え込んでしまうくらいだし。少し周囲の眼とかには気をつけないと。

そんな自戒の念も一瞬で蒸発させ、頬杖をついてシンジの後ろ姿を眺めるアスカがいる。

…にしても、ちょっとばっかし鈍感すぎるでしょ、アイツ?

保護者であるミサトの前で、シンジの進路を撤回させると宣言してから早くも半月が経過していた。

前もっての綿密な計画が全て不発だったことを踏まえ、アスカは散発的なゲリラ戦に切り替えている。

折に触れ、地元の学校の情報を仄めかせてみせた。あそこの調理師専門学校には凄い講師がいる、最新のカリキュラムと設備がある、エトセトラ。

ついでに北海道の進学の近隣で物騒な事件や事故がなかったかとのチェックも行い、その詳細が載った新聞記事をリビングのテーブルの上に置いておいたりもする。

どれもあくまでさり気なく。

塵も積もればなんとやら、なはずだが、この期に及んでシンジからは何もリアクションがない。

進学先のしの字も北海道のほの字も出てこない以上、アスカから口火を切るのは憚られた。

だって、あたしはアイツの進学先を知らないことになっているんだし。

もちろん今は周囲の人間からその辺の事情は聞いている。

ならばこそ、知らせるなといっていた当事者自身から話を切り出してもらわないことには、口を挟むにも挟めないではないか。

半ば意地になっていることをアスカは自覚していた。

自分だけハブられていたことに対する僻みやイジケがあったかも知れない。

そんな陰鬱な気分になっているときだった。綾波レイがシンジへと話しかけたのは。

どのような会話をしているか分からねど、二人の表情から楽しそうな様子が伝わってくる。



…ふん、良かったわねファースト。アンタはシンジから進学先を教えてもらっていてさ。

どうせアンタもシンジが北海道へ行くって知ってたから、海外の遺跡巡り旅行なんて決め込んだんでしょ?

引き換え、あたしは行先すら教えてもらえず、あげく箝口令まで敷かれたってのに。



そう心の中で決めつけておいて、アスカは違和感を覚えた。

…あれ? ちょっと待って?

シンジが進学先を伏せておくように指示したのはあたしだけ。それが大前提。

でも、それって本当に正解なの…?

我知らず、アスカの動悸が早くなる。

一度に負に傾いた思考は、目線の先の青い髪の少女の屈託のない表情と反比例するように鬱屈していく。

濁った感情がさらに重層に積み重なり、ふつふつと煮詰まっていく。

…煮詰まった感情が清廉で透き通っていることなど、古今東西皆無である。

ゆらりと顔を上げたアスカの表情は険しい。アイスブルーの瞳の奥には、黒い炎が燃えていた。

シンジとの会話を終え、廊下に出たレイを追いかけ、背後から掴む。

「ファースト、少し付き合いなさいよ」










「要件は、なに?」

「ふん! まったく卑怯よね、あんたは!」

「…卑怯?」

誰もいないことを確認した屋上にて。

アスカは猛禽にも似た鋭い表情でレイへと詰め寄った。

「あなたが何に対して卑怯と言っているのか、全く身に覚えはないわ。完全に意味不明」

「この期に及んで白々しいわよっ!」

アスカの怒声に、まったく表情を崩すことなく見返してくるレイ。

その苛立たしいまでの平素さに、とうとうアスカは癇癪を爆発させる。

「アンタ、いったいどんな手を使ってシンジの進学先を聞き出したわけっ!?」

もともとアスカは、シンジが自分にだけ進学先を伏せておくように周囲に口止めしていたと仮定していた。

だけどその前提が違っていたら?

シンジが進学先をを伏せておきたかったのは、本当は二人。すなわち、自分こと惣流アスカ・ラングレーと綾波レイの二名。

碇シンジにとっての同僚、あるいは明確に好意を持っている女子というカテゴリー。

最初は、レイもきっとシンジの進学先を知らなかった。だが、彼女はなんらかの手段をもってシンジより進学先を聞き出した。

想い人は第三新東京市を出る。そこに金髪の恋敵は付随しない。

それを知ったからこそ、卒業後、あっさりと海外へ遺跡めぐりの旅行などという進路を選択したのではないか?

であればこそ、いま現在の彼女の屈託のない表情も説明がつくというもの。

別に協定を結んでいたわけではない。でも、暗黙の了解くらい、お互いでわきまえていたはず。

だけど綾波レイは抜け駆けた。

そしてたぶんその手法は―――。

「泣き落とし!? それとも色仕掛け!?」

それはアスカが考えていた最終手段と一致する。

シンジは情に脆い。

感情で訴えるとたやすく動揺する。

そのことを知っているのは綾波レイも同様だ。

なのに彼女は、アスカが躊躇っている手段を、いとも容易く行使した。

これを卑怯といわずなんといおう!? 

以上がアスカの積み上げた推論に基づく主張。

なおヒートアップするアスカを前に、綾波レイは沈黙。

それから、ぽつりと返答。

「…あなた、バカ?」

自分の口癖を模倣され、一瞬、アスカは言葉に詰まる。

それでも、なにをっ!? と言い返しそうになったアスカは、青い髪の少女のあまりにも冷たい眼差しに直面することになる。

背筋を凍らせるような眼光に動揺するアスカを前に、一転してレイの瞳は熱を帯びた。

思わずアスカは息をのむ。

ここまで激しい感情が赤い瞳に躍るのを初めて見た。ましてやそれが怒りであることなど。

「あなたの言っていることは、下衆の勘繰り」

吐き捨てるように断言。

侮蔑という単語を結晶化させれば、こんな口調になるのかもしれない。

アスカを絶句させたレイは、ほとんど身体ごと顔を背けた。

全身を使った拒否に、アスカは幻視する。

一時の激した感情が嵐のように過ぎ去ったあとに出現した、剥き出しの永久凍土にそびえたつ氷壁を。

凍てつくような冷たい表情と態度を完全に一致させたまま、綾波レイは踵を返す。

その刹那、

「…なのに、そんなあなたに、碇くんは…」

青い髪の少女の口の中だけで反響した呟き。眼の端から数滴の雫が舞う。

あまりのレイの反応の温度差に圧倒されたアスカは、それらをすべて見逃している。

彼女が我に返ったのは、ツカツカと屋上の出口へ歩み去るそのうしろ姿が扉の向こうへ消えかけてから。

「ちょっ、ちょっと待ちなさいよ、ファースト…!」

小走りで追いかけ、その肩を掴もうと伸ばした手は、物理的に阻害された。

突然アスカの手首をつかんだ無骨な男の手。もちろんシンジのものではありえない。

「ったく、綾波のやつを呼び出して何かするんか思ったけど、予想以上に滑稽なコトになっとるのう」

鈴原トウジがそこにいた。

…さっきの会話を聞かれた!?

羞恥と冷めやらぬ怒りは速やかに直截的な暴力へと変換。

アスカのスナップの聞いた平手打ちがトウジを襲う。

パンッ! と乾いた打撃音。

頬に強烈な一撃を受けても、トウジは全く微動だにしなかった。

「相も変わらず問答無用かい」

叩かれてない反対側の頬に苦笑を刻み、アスカを見下ろす。

一方、見下ろされたアスカの顔は、たちまち雑多な感情で極彩色に染まる。

「何しゃしゃり出て来てんのよ、アンタには関係な…!」

「関係ないわけないやろ! シンジに関する話やろがっ!」

「っ!」

ぴしゃりと断言され、さすがのアスカも口をつぐむ。

「ワシにいわせりゃシンジはマブダチや。恥ずかしついでに言うがな、おまえも綾波も、ワシはダチやと思っている」

普段のおちゃらけた態度を微塵も感じさせず、真顔でトウジは宣言。

「仮にもお互い中学からの長い付き合いやろ? その誼(よしみ)やと思って黙って耳をかさんかい」

「………」

沈黙するアスカの態度を肯定と受け取り、トウジは静かに続けた。

「まずな、おまえさんの主張は完全に八つ当たりやで? 綾波も気の毒に」

「あ、アンタに何がわかるってのよ…!?」

「おまえさんが独りよがりの間抜けっちゅーことはよっぽど分かってるわ」

ま、今に始まったこっちゃないわな、とカラカラとトウジは笑う。

そしてやおら表情を改めると、

「惣流、おまえの言っていることは、全部が全部、おまえさんの立場に立ったもの言いでしかないやんけ」

「な、なによ…」

「ちっとはシンジの目線に立って考えてみいや。てまえの都合もあるなら、相手にも都合があるっちゅーのが道理やないか」

「………」

「それとな、ワシらがシンジから進路先を聞かされたのは、みな己らの進路が決まってからや。それは、綾波も一緒やで?」

「…………っ!! わけわかんないわよ! 離しなさいよッ!」

乱暴に手を振りほどき、アスカはトウジの横をすり抜けて駆け下りていく。










屋上にはトウジだけが残された。が、間もなくもう一人の人影が寄り添うように現れる。

踊り場の陰に身をひそめていた洞木ヒカリだ。

彼女の姿を一瞥し、トウジは肩をすくめてみせる。

「綾波と刃傷沙汰にでもなるんかと心配したんやけど、ま、始末としてはこんなもんやろ?」

「ありがとうね。あたしじゃアスカを止められる自信なくて…」

「気にせんでええ。ワシもセンセェにはエライ借りがあるからのう。ここらで少しでも返しておかんと、肩が重くてしゃーないわ」

カラカラと笑うトウジにヒカリも微笑み、そっとハンカチを差し出す。

「鼻血、出てる」

「おうマジか? ありがとさん。…ったく、あのアマ、本気で叩いてからに」

「本当だわ。しっかりと紅葉みたいな跡がついちゃっている」

頬に伸ばされる指を照れくさそうにかわし、トウジはおどけるような口調で言った。

「しっかし、敵に塩を送るにしても、最後の最後で鼻血垂らして間抜け面さらして、まったくしまらんなあ、ワシは」

ヒカリは静かに首を振る。

「そんなことない。鈴原、ほんとうにカッコ良かったよ?」

「へん、惚れ直したか?」

「うん!」

「……真顔でいうなや、アホ」
























『今日は ごはんいらない』

アスカからのそっけないメールを受け取ったのは、今まさにシンジがスーパーで会計に向かおうとしたときである。

即座にシンジは売り場へとUターン。買い物かごの中の赤札商品を律儀に戻して歩く。

身軽になってスーパーを出たシンジは、さてどうするかと頭を一振り。

唐突なアスカからのメールは、ヒカリらと外食するから、という理由で送られてくることが多い。

洞木家に招かれて夕食もごちそうになることも稀にあるとか。

今日のメールもそういうわけに違いない。

折しも、保護者である葛城ミサトも、遠距離へ泊りがけで出張中。

同居人たちのためならともかく、自分一人の食事まで手間暇かけるつもりはシンジにはない。どこか適当に外食して帰るつもり。

むしろ炊事全般から解放され、ちょっとした自由な時間を手に入れたことになる。

本日のようなケースの場合、アスカの帰りも遅くなるのが常だった。

シンジの頭の中で、行ってみたかった店の数々がピックアップ。

比較的遠めの専門書店を思い浮かべ、シンジは夕暮れの街を歩きだす。










ささやかな自由時間を満喫してシンジが帰宅すると、葛城邸に灯りは点いていなかった。

…アスカ、まだ帰ってきてないのかな?

疑問と荷物を抱えキッチンまで来たシンジは、電気スイッチに伸ばしかけた手を止める。

テーブルの上に突っ伏すアスカの姿があった。

どうしたのっ!? と駆け寄る寸前、アスカの肩が緩やかに動いていることに安心する。

どうやら制服姿のまま突っ伏して眠ってしまったらしい。

晒された横顔とテーブルの一部が、かすかな室内の灯りにテカテカと光っている。

…もしかして、アスカ、泣いていた…?

「…んっ」

アスカが身じろぎした。

顔を上げようとテーブルから頬を引きはがすとき、ぺりりと音を立てる。

「…シンジ?」

「え、えーと、ただいま、っていうか、おはよう?」

「………」

アスカは沈黙。それからきっかり三秒後、爆発。

「きゃーきゃーきゃーっ! なんでアンタ帰ってきてんのよ!? なんであたしはこんなとこで寝て…ってきゃーきゃー!」

「あの、アスカ…?」

「み、みるな! 今、ひどい顔しちゃってっから見ちゃだめ!」

わたわたと手を振り、それでもシンジに背中を向けるポジションでアスカは落ち着いた模様。

なにいきなり帰って来てんのよ…とブツブツいうアスカの様子に、シンジは安堵の表情を浮かべた。

良かった、いつものアスカだ。

泣いていた理由は定かではないけれど、単にテーブルの上で寝こけていただけだろう…。

そう思い、再び電気のスイッチへ伸ばされた手は、アスカの声で釘づけされた。

「―――シンジ。アンタ、どうしてあたしにだけ、自分の進路のことを秘密にしてたの?」

「え―――」

「それに、あたし以外の他のみんなにも口止めしていたわよね?」

「そ、それは…」

言いよどむシンジに、アスカは背中を向けたまま明るい声を出す。

「いいわよ、答えなくて。そうよね、当り前よね―――」

今日、アスカは、綾波レイにつっかかり、鈴原トウジに諭された。

シンジの目線で考えてみろ、と。

自分のやっていることを省みて、アスカは茫然とする。

シンジに進学先を秘密にされたことに端を発する今回の一連の出来事。

間接的に聞きつけたアスカは色々と策謀をめぐらしてきたわけだが、彼女自身にとって正当性があったとしても、シンジにとってはどうか。

彼の真意を問いただすわけでもなく、ただ闇雲に進学先を変えさせようと奔走していた。

はっきりいって迷惑極まりない。暴走と形容しても差支えないかも知れない。

これを面向かって進路先を告げられたりしたら、いったいどんな行動をとっていたことだろう?

アスカ自身、どんな破天荒なリアクションをとったのか、想像するもの恐ろしい。

従ってシンジが秘密にしたのは当然のこと。目的を果たすには妨害が少ないほうがいいから。

なぜかって?

シンジは、あたしに対し、もう何も特別な感情なんて持ってないんだ。あたしは、あいつにとって、ただ重いだけの女だったんだ―――。

そう勝手に決めつけたアスカが、さめざめと涙を流しキッチンのテーブルの上で泣き疲れて眠ってしまったのもむべなるかな。

「だから、もういいの。うん、卒業したら、あたしも」

ここを出て行く、と言いかけたアスカは、シンジの半ば絶叫するような声に面食らう。

「ち、違うよ。それは違うんだ、そういうことじゃないんだ…!!」

結論から言ってしまえば、鈴原トウジのアドバイスを、アスカは完全に曲解していた。

そのことに気づかないまま、アスカは身体を半分だけ振り返ったが、薄闇越しに見えるシンジの表情は真剣そのものだった。

何より、右手が小さく開いたり閉じたりを繰り返している。

これはシンジの緊張している証―――。








「アスカ。僕は、君のことが好きだ。好きです」








だしぬけに告げられ、一瞬、きょとんとしてしまうアスカ。

自分でも不自然なほど横目で凝視してしまったと思う。

ようやく我に返ると、辛抱強く反応を待っていたシンジに対し、

「…そんなの、知ってたわよ、うん」

必死に平静を装ってうそぶいた声は、身体の奥から吹き出した歓喜の間欠泉で今に蒸発しそう。

なのに、シンジに見せている横顔は平静そのもので、晒してないもう半分の横顔は赤面させるという離れ業をやってのけるアスカがいる。

ここに来てのシンジの告白は、まさにアスカにとっての逆転サヨナラ満塁ホームラン。

嬉しい。

はっきりいって嬉しすぎる。

嬉しすぎて逆に素直に喜びを表現できない彼女の不器用さは、半ば憎まれ口となって零れ落ちる。

「なによ、そんなの。もっとちょっとちゃんとしたシチュエーションで言ってよね。あたしだってこんなひどい顔じゃ…」

その小声を聞きつけたシンジはというと、普段であれば「ああ、ごめん!」と謝ってくるのが常なのだが、この日の彼は違った。

「どんな顔していても、僕はアスカのことが好きだよ」

「…………」

「………アスカ?」

ぎゅっと両手を握りしめ、プルプルと全身を震わせるアスカがいる。

「…な、なんでもないわよっ」

「そ、そう?」

自分の言葉がアスカの心臓を見事に貫いたことを自覚もせず、シンジは続けた。

「君は、僕より優秀で、自信家で、何より僕が持ってないものをたくさんもっていて―――」

シンジの瞳と表情は優しさと羨望に満ちていて、貫かれたアスカの胸を満たす。

「初めてあったとき、はっきりいってびっくりしたよ。同い年で、これだけ色々と凄い子がいるんだってさ」

おまけに綺麗で可愛かったし…。さすがにこれはシンジも照れながら小声で呟き、アスカを完全に赤面させることに成功。

しかし、そこで、シンジは表情を一変させた。

「でもね、アスカ―――」

その表情は、悲しんでいるようにも見えた。苦悶しているようにも見えた。

「僕自身は、君に比べ何も持っていない。何もないんだ」

「そんなことないわよっ!?」

ほとんど反射的にアスカは絶叫している。

「あ、あんたこそ料理が上手で、優しくて、あたしにはないものをたくさんもっていて―――」

「アスカ、それは違う。違うんだよ」

かすむように優しい表情をシンジは浮かべてみせた。だけど口調は悲しげなままに。

「いくら料理が上手でも、社会に出たら何の役にも立たないんだよ」

ああ、そうか。そこに繋がるのか。

ようやくアスカは理解した。シンジの進路とその理由。

「で、でも! なんでこの街を出て、北海道まで行かなきゃダメなわけ!?」

シンジが将来に料理人を目指すにしても、どうして第三新東京市の調理師専門学校ではいけないのだろう?

アスカの必死な問いかけに、今度は、幾分悲しげにシンジは微笑む。

「…僕が持っているものは、この街に来て手に入れたものばかりなんだ。今のこの場所も。環境も。全部」

最初は、望んできたわけでない、この街、第三新東京市。

辛いこともたくさんあったけど、その果てに手に入れた今の生活に、シンジは十分満足していた。

たくさんの友人は出来たし、理解のある優しい大人たちにも出会えた。何より彼女と巡り合えた。彼女を好きになれた。

こんな生活がいつまでも続けばいいと思う。

でも、楽しい日々はあっという間に過ぎて、高校も卒業し、今度は社会人として、一人の大人として生きていかねばならない。

そこで振り返ってみたとき。

自分は、自分の力で何ほどのことを成し遂げてきたのだろう?

何を手に入れてきたのだろう?

シンジは思う。

全ては状況に流されて、与えられ、それに甘んじての結果なのではないだろうか―――。

「この街は、今の僕にとって優しすぎるんだよ」

そう独白したシンジの表情はまるで懺悔する聖人のよう。

この先も生きていくとするなら、おそらくこの街ほど安穏とした場所はあるまい。

頼りになる大人、知人に加え、色々な便宜を図ってもらえるほどの特権もある。

「でも、それは僕が努力して手に入れたものじゃあない」

これがシンジが第三新東京市を離れようとする理由。

対するアスカは、理屈は分かるが納得できるはずもなく。

「そんなこと言ったら、あたしだってこの街に来て! ほんとはドイツにも帰っても良かったけど、あんまり居心地がよくてこうやって何にもせずズルズルと…!!」

「アスカは、エヴァのパイロットになるという目標があったじゃないか」

「それは……!」

「大学まで通って、努力して、エヴァのパイロットになったんでしょ? 引き換え僕は―――」

努力の果てにパイロットの栄誉を手に入れたアスカに対し、シンジは何の努力もしていない。一方的に呼びつけられ乗せられただけ。

親の七光りと痛烈に面罵した過去の記憶が、アスカの中で今となって突き刺さる。

「だいたい、ドイツの有名大学を飛び級で卒業しているってことだけで十分ステータスだよ」

慰めの言葉ではない。その台詞はそのままシンジ自身への反証となってる。

「対して、僕は社会に通用するものはまるで何も持ってないんだ」

君とは違って。

声なき声に、アスカは反論することが出来ない。

「だから、手にいれなきゃいれなければならないと思ったんだ。僕だけの力で。―――君と並んでも見劣りのしない男になるために」

その言葉に、アスカは胸がいっぱいになってしまう。

もちろん胸の中は切なさでかき回されてはいたが、その痛みを忘れさせるほどの多幸感が彼女を支配していた。

幸せすぎて、このまま溺れ死にしてもいいと思えるほどに。

「……だったらなんで、なおさら、あたしに進路先を秘密にしていたの………?」

喘ぐようにアスカは最初の疑問を口にする。事実、この台詞を吐くことで呼吸をしなければ気絶していただろう。

雄々しい表情も一転、困ったような表情を浮かべるシンジ。

「それは……えっと、アスカは卒業したら、何をしたいの? 将来の夢とかは?」

質問に質問で返され、アスカの頭はフリーズしてしまう。

そして解凍すると同時に、様々な情報が脳裏で錯綜していく。

綾波レイは、卒業後、海外の遺跡めぐりの旅。

相田ケンスケは、報道カメラマンの道へと。

鈴原トウジは、体育大学でスポーツ指導者資格取得を目指し。

洞木ヒカリは、大学を経て教育関係の仕事に就くのが夢のよう。

そしてあたしは?

特になりたいものなんて考えてない。

望みはただ一つ。シンジの傍にいられれば、それだけで―――。

「アスカには、凄い能力があると思う。可能性があると思う」

「も、もちろんよ! あたしにだって夢があるし! それにその気になれば、大学の教授のポストや大企業の重役の席の一つや二つ…!!」

一瞬、舞い上がりかけたアスカの気持ちは、次のシンジの台詞に打ちのめされた。

「僕の進路のことで、君の夢を変節させたくなかったんだ」

告げられてみれば、バカみたいにシンプルな話。

ようやく、ここに至って、アスカはトウジの忠告を本当に理解できた。

ひたすら想ってくれていたのはシンジのほう。

ひたすら自分のことを思いやってのシンジの行動だったのだ。

胸が焦げ付きそうなほど熱い。

同時に、涙がこぼれてくるのを止められない。

それは安堵と後悔の涙に他ならない。

どうしてあたしは素直にシンジのことが信じられなかったんだろう?

それをさんざん自分のいいように勘ぐって騒ぎ立てて。

「…はあ……。明日にでもファーストに謝らなきゃ」

「綾波がどうかしたの?」

シンジの問いかけを無視し、アスカは立ち上がる。

それからシンジを隣のリビングへと誘った。

こちらも灯りは点いてないが、月明かりが差し込んできていて幾分明るい。

「…どうしても、北海道に、行くの?」

電気もつけず、立ったまま正面から向かいあい、アスカは尋ねた。

「…うん」

はっきりとシンジは答えた。

止められない。止めてはいけない。

アスカは思う。

何より、この人は、自分に相応しい存在になるために、この街を出ていうこうとしてるのだ。

ならば、喜びはすれど、止めてはならない―――。

「…あれ?」

ぽろぽろと三たび頬が涙を伝う。意志と裏腹に止められない。

嬉しいはずなのに。

行ってきなさい! と笑って言ってやるつもりだったのに。

「ちょっと待って―――」

涙が止まるまで、と思って顔を背けた瞬間、背中から抱きしめられる。

「アスカ…!」

涙腺は決壊した。

シンジの腕の中で身体の向きを変えると、そのまま彼の胸にむしゃぶりつくように泣きわめく。

溢れてくる感情は、自分自身でも混沌としていたと思う。嬉しくて泣いていたかも知れないし、ひょっとしたら、行かないで! と叫んでいたかも知れない。

どれくらい泣いていただろう。どれくらいそうしていただろう。

ぐしょぐしょになったシンジの胸元から顔を離し、アスカはバツの悪そうな顔つきになる。

「…は〜、また酷い顔になっちゃった」

「大丈夫。僕はどんな顔になってもアスカのこと好きだから」

「あんたねえ…!」

本日二度目の殺し文句にカッと頬を熱くし、悪態の一つでも返してやろうかしら、と顔を上げたアスカであったが、間もなく涙でぬれた頬が疑問に歪む。

「…なにみょうちくりんな顔してんのよ、あんたは?」

そう至近距離で面を向かっていわれては是非もない。

さっきの男らしさもどこへやら、普段のおどおどしたシンジが顔を出す。

「その…、返事がまだなんだけど」

「…返事?」

ささやくような声に、逡巡することしばし。

アスカは顔を伏せ、ぷ、くくく…と肩を震わせたあと、ぐしぐしとシンジの胸元の濡れてない部分で顔を拭う。

それから上げられた顔は、まったく普段の彼女の顔つきだった。

傲岸不遜で、自信にあふれ、まるで太陽のような笑顔。








「シンジ。あたしもあんたのことが好きよ。大好き」








続けて軽く目を伏せ沈黙したアスカに、シンジは行動を間違えなかった。

そう、ありがとう、などといった月並みな言葉を口にせず、かわりにアスカの細い顎を軽く持ち上げると、唇を重ねる。

まるで壊れ物に触れるような優しいキスを、アスカは受け入れた。

おそるおそるといった所作が、シンジの振り絞った勇気を示して余りある。

ゆっくりと唇が離れた後。互いに照れくさく視線も合わせられないまま。

すっと深呼吸したのは、どちらなのか。

それでも、アスカはその日、生涯最大の勇気を振り絞ったのは間違いない。

震える小声で、小首を傾げながら、はっきりと彼女は口にした。

「………それで、おしまい…?」



















―――金髪を照り返した月光が螺旋を描き、二人の間に滑り落ちた。

































別れの朝がやってきた。

「それじゃ、元気でね」

「はい。ミサトさん、わざわざ送っていただいて、ありがとうございます」

駅のプラットホームにて。

荷物を抱え、見送りのミサトを前に、シンジはどうしても周囲を探してしまう。

「…えーと、アスカは…?」

「出がけに声はかけたんだけどねぇ」

「そう、ですか」

本日、シンジが朝一番の電車で北海道に向かうと告げていたにも関わらず、アスカは見送りには来ていなかった。

互いに告白したあの日から、二人の関係性が変わったということはない。

少なくともアスカの態度は今まで通りだし、普通に彼女の誕生日を祝い、クリスマスパーティもし、お正月の初詣といった行事もこなしている。

先だってもグループで卒業旅行を済ませていたが、それだって普段通りの振る舞いのアスカだった。

ゆえに今日だって気持ちよく見送りに来てくれると思っていたシンジだっただけに、宛が外れたことになる。

「ま、あの子も色々と思うことがあるんでしょ、きっと」

「ええ、きっとそうですよね…」

「何かあったらすぐに戻ってらっしゃい。ここはシンジくんの故郷なんだから」

ミサトの台詞は胸に温かくしみ込んできた。

確かに、この街こそが自分にとっての故郷なんだと切実に思う。

ホームへと列車が入ってくる。

「じゃあ、これ、中で食べてね」

手回し良く駅弁を渡してくれるミサトに礼を言って頭を下げ、乗り込もうとする寸前、もう一度声をかけられた。

「あの〜シンジくん?」

「はい?」

「実は一つ謝っておかなきゃいけないかもって」

「なんのことでしょう?」

「ん〜、ちょーっち誤解させちゃったというか、余計なお節介しちゃったというか…」

歯切れの悪いミサトにシンジはピンと来る。

アスカが伏せておいた自分の進路先を知った理由。なるほど、ソースはこの人だったのだろう。

「大丈夫ですよ。今となっては気にしてませんから」

「そう? そういってもらえると助かるわー」

微笑むシンジに、盛大に安堵して見せるミサト。

「それじゃ、ミサトさん。行ってきます」

「はい。シンジくん。いってらっしゃい」

列車のドアが閉まり、動き出す。

律儀に列車が見えなくなるまで手を振ってから、無人のプラットホームに頭を抱えるミサトが残された。

さーて、今日からご飯、どうしよう。

いっそ加持のとこにでも転がりこもうかしらん?

その姿は、滑稽さよりいささか真剣さが勝っている。










平日の早朝の列車内は空いていた。

「これなら自由席でも良かったな…」

独りごちたシンジの手には、餞別とばかりにミサトに手配してもらった指定席の乗車券。

案の定、無人の指定席車両で、シンジは窓際に自分の席を見つけた。

大きな荷物を棚に上げ、シートに腰を下ろす。

早くも飛ぶように流れていく窓の外の景色をぼんやりと眺め、胸に交錯するのは、今までの生活を惜しむ気持ちとこれからの新しい生活に対する不安―――ではなかった。

シンジの胸の内の大半は、かつての同居人で、今は想い人となった金髪の少女へとささげられている。

記憶はあの日の夜へとさかのぼる。

お互いの気持ちを確かめ合い、二人は約束を交わしていた。

『僕は、必ず一人前になって、この街へ戻ってくるよ。だからアスカ…待っていてくれる?」

『…うん』

結果として、アスカは第三新東京市に残ることになった。

もちろんそれは彼女が望んだことでもあるだろうけど、シンジは忸怩たるものが拭えないでいた。

仮にアスカが市外に、もしかしたら国外へと夢を求めたとき。

シンジは潔く、第三新東京市へと残るつもりでいたから。

彼女の夢を全力で応援しようという健気さの陰に、シンジ自身、欺瞞を自覚している。

もしアスカが、第三新東京市を去る理由が、自分でない誰かに惹かれてだとしたら?

自分がアスカに釣り合わないのではないか、というコンプレックスは、彼女を力ずくで止める、もしくは力ずくで自分のものにする、といった選択をしえない。

それでもどうにか告白までは漕ぎ着けたと思う。

でも、自分の想いを打ち明けた上で、断られたら?

そこから先の想像は、さすがにシンジも考えたくなかった。

それでも強いて答えを出したとすれば、きっと耐え難い苦痛を味わったあげく、おそらく何も出来なかっただろう。

本音を言ってしまえば、自分のアスカに対する気持ちはともかく、アスカの自分に対する気持ちまで確信は持っていなかった。

ゆえにお互いの想いを確認しあえたのは、この上ない僥倖である。

その上でも、自分の夢のために彼女を犠牲にしてしまったのではないか? という意識がシンジを苛む。

自分がアスカの隣に立つために、アスカ自身の将来性や可能性を縛ってしまうという二律背反。

そして、明敏なアスカのことだ。そのことに気づかないわけがない。

今朝の見送りのボイコットも、そのことに端を発しているのではないか。

さらに不安もある。

北海道と第三新東京市とを物理的に隔てる距離は、今までの当り前の生活に比べると、あまりにも遠い。

いざとなったらすぐ駆けつける、ということは出来ない。

日々の何気ない会話や仕草から、内心を察することなんてとても無理。

遠距離恋愛の破綻は、距離そのものが二人の間を冷やしていくことが原因だという。

交わした約束に、何も強制性なんて存在しない。

自分が不在の間、アスカの心が移ろい、他の異性に惹かれたとしても、シンジには止められない。

むしろ今の自分では不釣り合いすぎて当然かも知れない、というやや自分を過小評価したジレンマもある。

ましてや、アスカが本当に自分のやりたいという夢を見つけたとき。

それを止める権利は、自分にはないと思う。

例えその選択が、二人の関係を終わらせるものだとしても。










…本当はついて来て欲しかった。

でも、それは単なる自身のわがままに過ぎない。

頬杖を突き、車窓を眺めるシンジの頬を、我知らず涙が伝う。

アスカの将来の夢を応援する気持ちに、誓って嘘偽りはない。

あれだけ長いこと一緒に暮らしてきていたのだ。彼女の器量は肌身に染みて知っている。

それでも。

矛盾していることは百も承知で、シンジは思う。

本当は、アスカ自身の意思で、一緒についてきて欲しかったのだ……。










『 Next to the seat, Are you sure? (隣の席、よろしいですか?)』










突然の英語の声に、シンジは顔を上げる。慌てて頬の涙を拭い、

「YES、OK、プリーズ」

綺麗なクイーンズイングリッシュに対し、日本訛り丸出しの返事をしておいて、シンジは硬直した。

声の主は、白いワンピースを着て、つばひろの帽子を被った金髪の女性だった。

蒼い瞳が驚くほどアスカに似ていた。

でも、アスカとは違う。だって、アスカの髪はこんなに短くない……。

「………って、アスカぁ!?」

「あによ。さっさと荷物どかしなさいよ」

憤然やるせなしといった表情で、アスカはシンジの隣のシートに腰をドカっと下ろすと、腕組み。

「ど、どうしたのアスカその髪」

「あん? イメチェンよ、イメチェン。これから新天地に行くんだからね、恰好から切り替えていかないと。というわけで、今日からあたしは敷波アスカ・ラングレーね」

「ごめん全然意味わからない」

「そこらへんは雰囲気で察しなさい!」

あくまで傲岸。あくまで横柄。

ショートカットになって印象は若干違うけど、ああ、これこそが本当で実物のアスカだ。

驚きが駆逐され、シンジは胸の幸福感に酔いしれそうになったが、寸前、現実を直視する。

「…どうしてアスカがこの電車に乗ってるのさ?」

「あんたバカァ!? あたしも北海道に行くからに決まっているじゃない!」

懐かしのフレーズと同時に、パンフレットが飛んでくる。

受け止めてみれば、シンジも知っている有名な農業大学のものだった。偶然か、自分の進路先である専門学校も近くにある。

「じゃなくて!」

シンジの混乱は収まらない。

エヴァの三人のチルドレン。そのうち一人はエヴァの定例実験に卒業後も第三新東京市に残って協力して欲しいとミサトが言っていたではないか。

なのにアスカはここにいる。

じゃあ、ひょっとして綾波が代わりに…?

そう疑問を呈すると、いつの間にかシンジの駅弁を箸で掻き込んでいるアスカに睨まれる。

「ああ、そのこと。もちろんあたしが協力するわよ?」

バイト代も出るしねー、とズズっとアスカはお茶を一口。

「で、でも、第三新東京市に残んなくていいの?」

「なんで残らなきゃなんないのよ?」

「え?」

「あのねえ…。あたしたちがどれだけVIPなのか、あんた自覚してる?」

アスカはチッチッチと割り箸を振って見せて、

「こうやって学校へ行くならともかくさ、いざ実験となったら専用の輸送機でも出させるわよ! 北海道から第三新東京市まで直通で1時間くらい? 日帰りで余裕じゃん」

ここに至り、ようやくシンジはミサトが謝罪していた理由に思い当たる。

ミサトさんの嘘とお節介って、このことだったのか…!

取りあえず、一つの疑問は合点がいった。

残るはもう一つの疑問。実はこちらの方がシンジにとっては重要。

「…それじゃあ、アスカはどんなやりたいことを見つけたの?」

「はん! それはね」



―――大学で、バイオ技術を専攻して、あんたの料理にあった野菜を作り続けるのがあたしの夢。

嫌っていわれても、シンジ、あんたのそばに居続けるのが、あたしの夢よ?



そう率直に言ってやるつもりだった。そう心に決めた上での極秘の強制随伴行である。

なのに、実行するには今のアスカの中で何かがブレーキをかけている。

それは生来の意地の悪さか、それとも不器用な照れくささゆえか、彼女自身判然としない。

むしろ一生分の素直さは、すべてあの日の夜に使い果たした可能性に思いを馳せている。

なのに、適当な嘘であっさり誤魔化すには、シンジの眼差しは真剣過ぎて。

結局、苦し紛れに口から飛び出したのは、ある意味、彼女の嘘偽りのない本音でもあった。

「…ビワとライチよ」

「は?」

「バイオ技術で品種改良して、種無しビワと種無しライチを作って丸齧りしたいのよあたしは!」

ぽかーんとシンジは口を開けてくれた。

これほどあからさまに呆気にとられる姿なんて、そうそうお目にかかれないと思えるほどに。

間もなく、くっくとその肩が震え始める。

アスカの見守る中、それはやがて朗らかな哄笑へと変わっていく。

「…なにがおかしいのよ?」

対して、ブスッとしながらのアスカ。

「いやあ、ほんと、アスカらしいなって思って」

目じりの涙を拭いながら、シンジ。

「なによ、それ!? いったいどこらへんがあたしらしいってのよ!?」




















時ならぬ喧騒が、無人の車内を震わせる。

ぎゃあぎゃあ騒がしいながらもどこか楽しげな二人を乗せて、列車は一路北を目指す。

北の大地で二人を何が待つのか。

それはいずれどこかで語られる別のお話。





















おしまい。

はい、みなさまお待ちしていたことかと思います。久しぶりのLady And Sky 2、最終話です。
トンでもない方向に展開するかと思いましたが、冒頭ではやりそうでしたが
大事にならない範囲におさめてくれてよかったですアスカ様

ご愛読ありがとうございました!三只先生の次回作にご期待ください!