時に西暦2019年、9月21日、土曜日。
第三新東京市は、凄まじい残暑に襲われていた。
もっともほんの数年前までは日本は常夏であり、四季が戻って来たのはごく最近のことである。
よって今日のような外気温も、季節外れの猛暑とあえて強調するには及ばない。
未だ世界的に気候が不安定なこともあり、第三新東京市の住人は、まあこんなこともあるだろうと静観の構え。
そうはいっても熱帯的な気候へ慣れていた人間にもこの暑さはこたえるらしく、各家庭のクーラーはフル稼動。
幸いにも電源に恵まれているこの土地は、あらゆる建造物で冷房を使用したところでビクともしない。
日が沈むまで降り注ぐ熱線と、室外機から遠慮呵責なく吐き出される熱波を避けるように、人々は引きこもって文明の利益を享受するのだった。

そして、葛城との表札が書かれたコンフォートマンションの一室では―――。































ady nd ky 〜second air


Act5:残暑 

by三只




























「…あっついぃぃ…」

生ぬるいフローリングの床の上に横になり、惣流・アスカ・ラングレーは額にかいた汗を拭う。
頬を床に貼り付けたまま、青い瞳だけが非常にゆっくりと動く。
視線の先。
大きく開け放たれた窓から望める空は、雲ひとつなく真っ青だった。
差し込む強烈な日差しは大気を歪めるも、軒下に吊るされた赤い小さな風鈴はチリンとも鳴らない。
快晴無風状態である。

「あっつい…!!」

さきほどよりやや強い口調でつぶやき、アスカは寝返りを打つ。
彼女の身体のあった場所に、汗が床に水溜りを作っている。
そうやって身体の位置を変えることによって、床が熱を奪ってくれる。
しかし、涼しいのも一瞬のことで、またぞろうだるような暑さに全身に汗が浮かんでくるのだった。

そんな半流動体生物と化した金髪碧眼の少女を眺める同居人が一人。
リビングの片隅でパタパタと団扇で自分を扇ぐのは、いわずもがな碇シンジである。

「アスカも団扇を使えばいいのに…」
「…うっさいわね。扇いでも腕が疲れるし、余計疲れて暑いのよ…!」
「そうなんだ」

あっさりと肯定し、睨みつけてくる青い瞳から視線を外し額の汗を拭うシンジ。
この暑さのせいで議論をする気も出てこないこともあったが、なにより今のアスカはさすがに目の毒だった。
毎度装備のホットパンツから瑞々しい太股がむき出しになり、表面に汗の珠がじっとりと浮かんで艶かしく見えるのは、まだいい。
問題は上半身で、盛大に汗を吸ったTシャツからは、身体のラインはもとより下着の形までくっきりと浮かんでいるのだ。
結果、そっぽを向くしかない純情少年の心情を知ってか知らずか、アスカは不快感に任せて叫ぶ。

「あーーーーっ! 暑いったら暑いぃいい!!」
「あんまり暑い暑いって言わないでよ。余計に暑くなる……?」

目を丸くするシンジの目の前を、白い物体が飛んでいく。
それがブラジャーであることを理解すると同時に、彼の顔は真っ赤っか。

「あ、アスカ、はしたないって…!!」
「いちいちうっさいわね、アンタは……」

のっそりと立ち上がるアスカは、さながら生まれたての巨神兵のよう。
必死で顔を逸らすシンジの目前をゆっくりと縦断し、彼女が向かったのはダイニングキッチン。
いくらかリビングより涼しいこのエリアで、アスカの目指したのは冷蔵庫の前だった。

「氷は出来てないかなあーーっと…」
「無理だよ、さっき作ったばっかだし」
「…あー、涼しい…」
「…って、アスカ、駄目だよ、そーやって冷凍庫開け離しちゃ、固まるものも固まらないから!」

現在、葛城邸の氷及び氷菓子の類は絶滅していた。
置き抜けの猛暑に辟易したアスカが、朝食そっちのけで食べまくったからである。
加えて、冷蔵庫部分の冷たい飲み物なども残されていない。
シンジが先ほど作ったばかりの水出し麦茶が生ぬるいまま鎮座しているだけだ。

「うーー…」
「こ、これは駄目だよ、アスカ!? ミサトさんのなんだからっ!」

青い瞳は、もう一つの泡の出る大人の麦茶を見つめている。

「だ、だめ! 絶対、だめ! お酒は二十歳になってから!」
「…ふん」

必死のシンジに興を殺がれたのか、アスカはリビングへと戻る。
べちゃっと音を立てて再度横になる少女に、シンジは提案した。

「あ、あのさ、暑いから海にでもいこっか?」
「…この時期じゃあクラゲが出てるでしょ? それに海まで行くの暑くて面倒くさい…」

振り向きもせずに答えるアスカにシンジはもう一つ提案。

「じゃあ、ネルフにでもいかない? あそこは空調しっかりしているし、プールもあるし!」
「…アンタ、わかってないわねえ。暑くて一歩も外へ出たくないのよ、あたしは」
「はあ…」
「この天候よ!? ネルフまで行く前にひからびて死んじゃうわよ」

あながち冗談とも思えない台詞だった。
事実、アスファルトは溶け出していて、陽炎の立つ道路に人影は殆どない。
誰もが屋内で暑さをやり過ごしているのだろう。

「ああっ! 暑いったら暑いっ! シンジ、なんとかしなさいよ!」
「っていわれても…」

現在、葛城邸のクーラーは絶賛故障中である。
備え付けクーラーの名誉のためにいっておくが、決して機械の老朽化に伴う故障ではない。
スイッチを入れたのに涼しくならないと業を煮やしたアスカがサマーソルトキックを放ったゆえの、純物理的損壊だ。
冷えなかったのは、単にスイッチが冷房でなく送風になっていたのが原因というのだからお粗末極まりない。
そのくせにシンジに難癖をつけてくるアスカの所業は、理不尽といわずなんと言おう?

「もう少し我慢してよ。氷も出来るし冷蔵庫のお茶も冷えるし…」

噛んで含めるようなシンジの声に、アスカは答えない。
所詮そんなのは一時しのぎでしかないし、未だ時刻は午前中という長い一日の先行きにうんざりしているのである。
つけっぱなしのTVでは、滝のように汗を掻いたレポーターがマイク片手にへたっている。
―――先週から続く残暑はますます強くなってます。本日も記録的な猛暑になるでしょう…。

まったく唐突に、部屋の隅で膝を抱えるシンジにアスカは青い眼を剥いた。

「シンジっ! アンタ、さっきなんていった!?」
「え? もう少しすればお茶も冷えて氷もできるって…」
「ちがう、その前っ!」
「え、えー? えーと、いっそネルフか海にでも…」
「それよっ!」

いうが早いがアスカは跳ね起きる。
そのまま突っ走っていった先は、おそらく彼女の私室だろう。
リビングに残されたシンジは首を捻りながら団扇で自らを扇ぐ。
熱風をかき回しているみたいでちっとも涼しくなかった。胸と背中の汗染みは留まるところなく拡大中。
暑さに喘ぎながらクーラーを見上げる。
この猛暑続きのおかげで電気屋も大繁盛。
どこの家でも引っ張りだこで、ここに修理に来れるのはいくら早くても今日の夜になるそうな。
シンジ的にもこの暑さには辟易していた。
趣味的なことはもとより外出する気すら起きないのは彼も同じで、かといって放置しておけない事案もある。
洗濯物が早く乾くのはいいけれど、なにより彼は葛城家の料理番なのだ。
食事を作るときは嫌でも火に向かい会わねばならない。

…お昼、どうしよ。アスカ、あまり凝ったものリクエストしないでくれるといいんだけど…。

汗が眼に入って滲む視界が唐突に翳った。
視界に捕らえたものを認識した瞬間、シンジの口と眼が驚きに見開かれる。

「あ、アスカぁ!?」
「へへーん、逆転の発想よ!」

Vサインして反らした彼女の豊かな胸元は、ビキニの水着で覆われていた。
赤地に白の水玉という可愛らしい柄に反して、布地の部分はかなり際どくカットされている。
それでもいやらしさより健康美が強調されるのは、アスカの生来の元気さゆえか。

「…ちょっと! あんまりじろじろ見てんじゃないわよ!」
「ご、ごめん」

別にシンジはアスカの肢体に見とれていたわけではない。
だいたい普段の彼女の部屋着が部屋着だ。先ほどの下着なしTシャツよりよほど健全である。
じっと見つめた形になってしまったのは、単にアスカの格好に驚いたからに過ぎない。
―――なんで部屋で水着を!?

「ようは、浜辺にバカンスに来たと思えばいいわけじゃない?」

朗らかに笑うアスカの頭上にはサングラス。右手にはサンオイル、左手には日よけのパラソル。
一式を抱えた彼女はリビングの窓からベランダへ。
出しっぱなしのリクライニングチェアの上に、シンジに命じてバスタオルを引かせ横になる。
ビーチパラソルで日陰を調節し、サングラスをかけ、サンオイルを塗り始めた。

「はい、ハワイアンミュージックスタート!!」
「そんなのないってば…」
「つっかえないわねー。じゃあせめてトロピカルドリンクでも持ってきなさいよ!」

横暴極まりないリクエストをたまわり、渋々シンジはキッチンへ向かう。
幸い氷は幾つか出来ていた。
しかし、ジュース類は全滅状態だし、ドリンクとなると…。
そこでシンジが漁り始めたのは何故か流しの下。

「…あった!」

各種フルーツの缶詰を発見。
よし、これでなんとかなりそうだ、とばかりシンジは一番大きなブランデーグラスを引っ張り出す。
グラスの中にありったけの氷をぶちこみ、続いて缶詰を空けて中身の汁だけを注いだ。
続いて缶詰のフルーツを細かく切ったものを入れて、とどめとばかりにカキ氷用のブルーハワイのシロップを投入。
仕上げにサクランボを乗せて出来上がり。
我ながら見事な仕上がりだった。少しばかり甘すぎるような気もするが、どうせすぐ氷で薄まって丁度よくなるだろう。
さすがにハイビスカスの花を飾るまではいかないが、ストローを差し込んだそれを恭しくベランダまで搬送する。
サングラス越しにトロピカルドリンクを受け取ったアスカは、快哉の口笛を吹いた。

「ひゅう♪ やれば出来るじゃない」
「それはどうも」
「どう? 良かったらアンタも一緒に横になる?」
「謹んで遠慮させてもらうよ」

慇懃に応じながら、シンジにはある確信があった。
しかし、いま口にしても詮無きこと。
キッチンまで引き返し、気合を入れてコンロに火を入れ水を張った鍋を置いた。
ちょっと早いけど、お昼はソーメンにしよう。せっかくさっきあけた缶詰にみかんがあったし。
お湯が沸騰するまで七分弱。
二人分のソーメンが茹で上がるまで二分弱。
盛り付けも含めて、十分そこそこしかかからなかったと思う。
ガラスの器を食卓に載せたのと、アスカがキッチンへ雪崩れこんできたのはほぼ同時だった。

「…暑いーーーーー! 暑くて焼けるーーー!!」

…やっぱりな。
思ってもシンジは口に出さない。
どだい南国気分に浸ろうとしても、無風状態では無理だったのだろう。
第一目前に海がない以上、気持ちのよい浜風もなければ、海に入って涼を得られるわけでもないのだ。
くわえてこの尋常でない暑さ。
つまるところアスカの行為は、自ら干物となることと同義なのである。
だまって薬味を載せた皿と小鉢を配置するシンジを、アスカは睨みつけた。

「ドリンクはすぐ温くなるし、飲んだ端から汗になるし、なによりとことん暑いしっ!」
「まー…、そりゃそうだろうねー」
「ひょっとしてアンタ、こうなるの知ってた?」
「滅相もない」

しれっとシンジは答える。
冷や汗が普通の汗に紛れてくれたおかげで、どうにか誤魔化せたようだ。

「まあ、いいわ。…なに、お昼、またソーメンなの?」
「うん…」
「アンタさあ、最近手抜きしてない?」

理不尽な物言いに、だったら食べるなと言い返してもいいだろうに、シンジは曖昧に微笑んだ。
少なくとも手の込んだものを作る気力がないことは事実だったから。

「うわー、タレも麺も温いわよ、これ!」
「しょうがないよ、氷、全部トロピカルドリンクに使っちゃったし」
「ソーメンはキリリと冷えてなきゃ美味しくないのに」

ブツブツいいながらも、それでも旺盛な食欲を発揮するアスカは大したものだ。
あっという間に1.5人分を平らげ、ついでに飾りつけのミカンとピンクの麺も食べてから、アスカはリビングへ横になる。
TVをつけて相変わらず暑い暑いを連発する姿を横目に、シンジは後片付けを開始。
終えてしまえば、後はすることがなくなった。
ものを食べたといえ暑さは相変わらずで、茹だるような気温はあらゆる気力を奪ってくれる。

この暑さ、日が落ちればいくらかマシになるかな?
買い物にいくのはそれからにしよう。いや、いっそ冷蔵庫の中のもののあり合わせでなんとかなるか。
それにしても、僕ら今年受験なんだよなあ…。

ぼんやりと考えながら、ひたすら団扇を動かす。
リビングを見回し、続いてTVを眺めようとするプロセスで、無造作にこちらに背を向けるアスカが目に入った。
その格好に、今更ながらシンジの動悸が早くなる。
同居人たる彼女の艶姿やはしたない姿は、ここ数年で見飽きるほど見てきた。
部屋着はほとんどショートパンツにTシャツだし、お風呂あがりはバスタオル一枚でウロウロするのも珍しくない。
しかし今回のような部屋の中で大胆な水着姿というのは、別の角度で訴えてくるものがあった。
蜃気楼さえ生じそうなリビングの床に、汗まみれで苦しげに横たわる水着の少女。
しかもそれがとびっきりの美少女と来た日には、インモラルというかなんというか。
もし仮にこの場に相田ケンスケ氏がいたら、ご自慢の機材でフェチ写真集でも作成してしまっていたことだろう。
要は、普段からのアスカの色気に耐性が出来ているシンジにとっても、非常に艶かしく感じる光景だったということ。
グビリと喉仏が動く。握った手のうちに、更に滝の汗が生じる。

「…ん」

甘く呻くような声を洩らしてアスカが頭を動かし、金色の髪が扇情的に蠢いた。
本当なら理性を失っても然るべき光景に、なぜかジリジリとキッチン側に後退し始めるシンジ。
彼らしいといえば彼らしい行動であるが、不審な行動はアスカが感づくには十分だった。
金髪ごと鎌首をもたげ、細められた青い瞳がこちらを射るように見てくる。

「アンタ、何やってんのよ?」
「いいいい、いや、別に…」

どもりながらなお後ずさるシンジは、これで妖しく思われないはずがない。
ますます目を細めたアスカは上半身を起こす。
そのまま床をはってこちらに向かってくる姿は、和製ホラー映画真っ青の大迫力。
そのくせに剣呑な表情の頬に汗で金髪が張り付いている姿は、恐ろしいほど色っぽい。

「なによ、何企んでるワケ?」
「だから何も企んじゃいないよっ!」
「そんな顔を真っ赤にして? どーだか…」

鋭いのか鈍感なのか判りかねる台詞を口にしながら、なおアスカは迫り来る。
青い瞳がすぐ目前までくる。それこそ吐息のかかるくらいの距離。
白く形の良い腕が、シンジの頬に向けて差し伸べられる寸前、リビングのテーブルの上から流れてくる音楽がアスカの動きを止めた。

「ほ、ほら、電話だよ! でなきゃ」
「……しゃーないわね」

家電ならいざ知らず、着信音とともに振動しているのはアスカの携帯電話だった。
非常に面倒くさそうにテーブルまで取って返すアスカ。
左右に揺れながら遠ざかっていくお尻から目を逸らし、それでもほっと安堵の息をつくシンジ。

「あ、ヒカリー? …うん、暑くてね。なーんもやる気起きないわよ?
 え? ああ、いま家のクーラー、ちょっと壊れててね…」

クーラーに対する自動詞と他動詞が激しく違うような気がしたが、電話の相手はどうやら洞木ヒカリの様子。
なんにせよ、アスカの気を逸らすなら、今が絶好の機会だ。
冷蔵庫に向かって、あらかじめ冷やしておいたグラスに良く冷えた麦茶を注いで持ってくると、丁度アスカも電話を終えたところ。
暑さのせいで長電話をする気がなかったのかは分からないけれど、目ざとくシンジのもってきたお盆を見つけてくる。
手渡すなりひったくるようにして一気飲み。
そして、

「…ぷはああ〜〜生き返る〜〜!!」

…ほんとミサトさんに似てきたなあ…。
内心で呟き、自分のグラスに口をつけたシンジであったが、それすらもたちまち掻っ攫われた。
止める間もなく二杯目を飲み干し、アスカはご満悦の表情。

「美味しかった〜。ちょうど喉渇いてたのよね〜」
「喉渇いてたのは僕も一緒だよ…」
「なんかいった?」
「イイエ、ベツニ」

満足げな表情でまたぞろ横になるビキニ姿に、どうせこの機嫌の良さも一過性のものだとシンジは十分に理解している。
せいぜい飲んだ水分が汗となって出てくるまでの短いご機嫌タイムだ。
ならば提案するのはこの短いチャンスをおいて他にない。

「あのさ、アスカ。なんなら洞木さんのとこにでも遊びにいったらどうかな?」

海もイヤ、ネルフもイヤ。
どちらも遠いからとの理由ならば、比較的近場のヒカリの家であれば出向く気も起きるのではないか。
わずかな期待を込めてシンジは提案する。
このままじゃあ、暑さも加えて自分の方がどうにかなってしまいそうだ。
対して、アスカの返答は簡潔を極めた。

「い・や」
「なんで…!」
「だからさっきも行ったでしょ? 外の日差しは殺人光線級よ? ヒカリの家にたどり着くまで干からびちゃうって」

さっきまでその殺人光線で日光浴をしていた人間のクセに、実にさらっと言う。

「だったら…」

いいかけてシンジは口を噤む。
さすがに遊びに行くのにタクシーを呼んだりするのはおかしいと思う。
だいたいお金がない。アスカが壊したというのに、なぜかクーラーの修理代はシンジの財布から捻出されることになっていた。
それでもシンジは必死でアスカをどこに避難させるか考える。
面白いことに、この時点でシンジの方がどこかに出かけるという選択肢が頭にない。
意識しているわけではないのに、シンジの思考は常にアスカが第一だった。
そしてそのことに彼自身気づいていない。いっそアスカが誤解するほどに。

「…アンタ、どうしてそんなにあたしを出かけさせたいわけ?」
「そ、そりゃキミが暑がってるからだよ、もちろん!」

本心を即答するシンジであるが、ビキニ姿のアスカに視線が引き付けられてしまうのも否めない。
不意にアスカが表情を歪める。

「それってほんとお?」

悪戯っぽい表情と声に、シンジの心臓は跳ね上がる。
まずい、見透かされた―――?
小悪魔の笑みをたたえたまま迫り来るアスカに、またしても後退するシンジ。

「さあ、正直に言いなさよ…!」
「だから正直もなにも、クーラーが直るまでちゃんと空調の利いた部屋にいたほうがいいでしょ!? 
 こんな蒸し風呂みたいなとこで苦しんでるより…」

半ば叫ぶような台詞が尻すぼみになる。

「…シンジ?」

訝しげに覗きこんでくるアスカに、シンジは珍しく興奮した声を張り上げた。

「そうだよ、蒸し風呂だよ!」
「???」












「…あー、どーして最初から気づかなかったのかしらね、あたしたち…?」

浴槽に肩までとっぷりつかり、アスカはそうのたもうた。
もちろん浴槽の中に張ってあるのはお湯ではなく水である。

「きっと暑くてどうかしてたんだよ。僕もさっきまで気づかなかったわけだし」

そう苦笑しながら浴室のタイルにシャワーで冷水を撒いているのはシンジだ。
おかげで熱気が完全に相殺され、浴室内は別天地かと思われるほど快適な空間になっている。
しかしまったく水風呂とは盲点だった。
アスカが水着になったのはもとより、プール云々の話をした時点で気づいて当然だったろうに。
お互いに視線を絡め苦笑しあう。
暑さから逃れてようやく思考にも余裕が出てきた証拠だ。

「どっちにしろ、水着に着替えたのは正解だったかしら?」
「まあ…怪我の功名ってやつじゃないかなあ」

答えつつ、シンジはやはりアスカを直視するのが躊躇われた。
水風呂と思いついて即座に浴槽に入れたのはいいが、ビキニが目の毒であることには変わりない。
それに水着こそつけているが、単純に女の子の入浴現場に居合わせているという気恥ずかしさがある。

「じゃあ僕はそろそろ…」

水を撒き終えキッチンに引き返そうとするシンジの腕を、アスカがむんずと掴む。

「なによ、アンタも一緒に入ればいいじゃない」
「…え?」

聞き返す間もなかった。
気づいた瞬間浴槽の中に引きずり込まれ、水面に顔を押し付けられる。

「ぷはっ!」
「うりうりうり!」
「やめてアスカ溺れる溺れるって…!」

どうにか呼吸できる態勢を整えたシンジだったがもはや全身濡れ鼠。
もっとも既に散々汗を掻いていた上に、ハーフパンツとタンクトップという格好なのでそれほどダメージはない。
問題は、決して大きくない浴槽内のすぐ目前で艶然と微笑むアスカだ。

「どーせキッチンに行ったって暑いだけじゃん?」

至極もっともな台詞なのにシンジは狼狽した。

「で、でもね、ほら狭いし…!」
「なによ、あたしと一緒に水風呂に入るのが嫌だっての!?」
「いや、だからね! そういう問題じゃなくて…!!」
「狭いっていうけど、ほら。互いの膝を抱えれば…ね?」

大人一人がゆったりと疲れる葛城邸の浴槽でも、さすがに二人が一緒に寝そべるだけのスペースはない。
ところが二人とも膝を抱えて並んで入れば、どうにかすっぽりと納まることは出来る。
しかし二人そろって膝を抱え、浴室の壁を眺めている格好はある意味シュールだ。

「ねー、涼しくていいでしょー?」
「う、うん…」

呑気に伸びをするアスカに反して、水面に口元を埋めシンジは泡をブクブク。
ドギマギしてアスカを直視できないのはもちろんだが、彼女が何を考えているのか気になって仕方ない。
だいたい素直に一緒に涼もうなどと考えるだろうか?
この状況にかこつけて何らかの悪戯、苛め、意趣返しを行うのがアスカの常なのである。
ゆえに身構えてしまうシンジは、彼にとっては当然ともいえる防衛反応。しかしながらやや過剰反応のきらいもある。
はてさてこの場合、どちらの方により多くの責任の比重が傾くのやら。

「ねぇ、シンジ?」
「!」

咄嗟に背筋を伸ばすシンジに、続いて浴室に響いたアスカの声は穏やかなものだった。

「こうやって膝抱えて一緒の方向を見ているとさ、思い出さない?」

なにを、などとシンジは馬鹿なことを口走ったりしなかった。
代わりに彼の耳元に、はっきりと海嘯が響く。
寄せては返す赤い海。
青く高い空とのグラディエーション。
そして―――砂浜に佇む二人。

眩暈がする。
水のなかなのに冷たい汗が背中をつたう。

遠い記憶は許されざる罪の匂い。
自らが犯した永遠の過ちの在処―――。

「もう何年前になるのかしら。懐かしいわねえ……」

ところが、アスカの実にのんびりした声がシンジを現実に引き戻す。

「……あ、アスカ………怒ってないの?」

恐る恐るシンジは訊ねた。

僕がした酷いことを。
それらを含めて色々と全部。
そのことを、キミは怒ってないの………?

敢えて省略したシンジの心情を臆病とは責めまい。

「怒る? なんで?」

あっけらかんとした返事は、いっそシンジが狼狽してしまう程だった。

「だ、だって、僕は………!」
「……はあ。つくづくアンタも器の小さい男ねえ」

アスカは思い切りため息をついて、

「せっかく人が懐かしさに浸ってるのよ!? それをいつまでも昔のことをグズグズと………!」

結果、あろうことか逆に叱責されてきょとんとなるシンジがいる。

「で、でも…」
「あー、うるさい! 昔は昔! 今は今でいいじゃないのさ!」

断言して、フン! と鼻を鳴らすアスカの横顔を見つめ、シンジの胸の内から熱いものがこみ上げてきた。
それは、とりもなおさず現在と過去を重ねる行為に繋がる。

あの時の砂浜では、同じ方向を眺めながらも二人の距離は大きく開いていた。
しかし今は。
互いの肩が触れんばかりに、二人の距離は縮まっているじゃあないか。
それが例え狭い浴槽のおかげといえど。
むしろ、その場所へアスカが引っ張り込んでくれたことに、シンジは大きな意味を感じざるを得ない。
これがアスカの答えなら、僕は…。

「怒鳴ったら、なんか喉が渇いたなー…」
「も、持ってくるよ! 何がいい、アスカ!?」
「麦茶でいいわよ。でもオヤツはアイスクリームがいいなあ」

ざばばっと喜色満面の笑顔で立ち上がるシンジを、アスカはにこやかに見送った。
おまけに、

「ちゃんとアンタは着替えなさいよ? でないと風邪引くから!」

といたわりの言葉も忘れない。

「うん、ありがとう!」

果たして、彼手製のオヤツは贅を極めた。
手作りアイスクリームの缶詰フルーツの盛り合わせをご機嫌で口に運びながらアスカは質問。

「アンタ、どうやってアイスなんか作ったの?」
「うん、氷さえあればなんとかなるんだよ。氷3に対して塩1の割合で入れるとね、零下20℃まで下げることが出来るんだ。
 器に材料入れてその中に入れて冷やすとね…」

その後も、アスカはずっと浴槽の中で過ごす。
水の中がすこぶる快適なのはもちろんだが、実にシンジも甲斐甲斐しい。
喉が渇いたといえば飲み物を、本が欲しいといえば適当な雑誌を、挙句TVが見たいといえば脱衣所まで持ってきてセッティングしてくれる。
一歩も外に出ないでくつろぐことが出来る。午前中の熱地獄に比べたら雲泥の差だ。
おまけに浴槽につかりながら夕飯も済ませて、その頃になってようやく電気屋が修理にやってきた。
修理自体は三十分もかからずに済み、ようやく葛城邸も文化的な生活を取り戻す。
もうリビングのクーラーは効いてるよー、とのシンジの声に、ビキニ姿のアスカは浴槽内に半分顔を埋める。

―――やー、ここまでシンジがサービス全開にしてくれると思わなかったわ。

ブクブクと胸元で泡を吹く口元には、実ににんまりとした笑みが浮かんでいる。
計画していたわけじゃないけれど、予想以上の成果。
最も、シンジに告げたのは紛れもない本心。
口にしながら清々しさと気恥ずかしさが混在していた自身の心情とその変化は、あえて分析しないでおくとして。

ま、なんにせよ、これで熱帯夜も怖くないねー。にしてもちょっと浸かりすぎたかしら? 全身がふやけちゃったみたい…。

浴槽から出て温かいシャワーでも浴びようかと思ったアスカは、一歩目で大きくふら付いた。



















深夜遅くに帰宅した葛城ミサトは、自宅のリビングの光景に目を丸くする。
適温というより28℃とやや高めに設定された冷房はまだいい。
しかしリビングの真ん中で、分厚い布団に包まれて震えている金髪の被保護者は一体どうしたことだろう?
看護している少年から、実に後ろめたそうな口調で説明を受けてなお、ミサトは遠慮なく疑問を口にした。






「クーラーが故障して冷めたいもの食べ過ぎてお腹壊すってならわかるけどさー。どうやったら風邪引けるわけ?」

「…うっさい!!」



















Act6に続く?


三只さんからほぼ2年ぶり?の連載第五話をいただきました。

残暑が厳しかったですねえ。

とはいえ暑い暑いと思っていると、アスカのようにあっというまに寒いことになってたりするので気をつけないといけませんね(笑

おもしろいお話でした。みなさんも三只さんに感想メールをお願いします。