「なにやってんの、アスカ?」

「ん―?」

葛城邸のリビングのテーブルの前。

ねじり鉢巻をして鼻と唇の間に鉛筆を挟んだまま、アスカはシンジを振り仰ぐ。

「これはねーヒカリたちがねー」

シンジの淹れてくれたハーブティを受け取りながら、テーブルに広げられた原稿用紙を差し示すアスカ。

「文化祭で発表するやつなのよ」

「???」

「…相変わらず察し悪いわね、アンタ」

「いや、問題を出さずに解答を求められても…」

如何にも小馬鹿にするような視線で同居人の顔を一撫でし、アスカは音も高くお茶を一口。

それから居丈高に説明してくれた。





来月に控えた文化祭で、文芸部で作品集を出版することになった。

文芸部所属のヒカリは当然参加。

そしてヒカリは親友にも声をかける。

どう? アスカも何か書いてみない? ジャンルはなんでもいいわ。

ページは原稿用紙10枚以上あれば…。




「ここで断ったら、あたしのコケンに関わるわよね!? ね、そうでしょ!?」

「はあ…」

学校におけるアスカの評価は、驚くべきことに才色兼備の上に品行方正の優等生。

それは猫の皮を50枚ほど被り込んだ成果なわけであるが、彼女の底なしのプライドはこの程度で満足することを知らない。

折角の機会だ、ここで一つ文才もあるところも見せ付けて、校内中に周知させたいではないか。

そんなアスカの主張は、シンジの脳裏で速やかに本音へと変換、5.1チャンネルドルビーデジタルサウンド仕様で響き渡る。


『きゃあ、惣流さんって、美人で成績良くて運動神経抜群で、その上文才もあるのね、ステキ!』…ってちやほやされたいのよ、あたしは!!


動機はともかく、一度やると決めたらとことんやりきるのがアスカの信条だ。

こうなれば、上辺なれども理解を示し、シンジも応援するくらいしかできない。

でもその前に。

「ねえ、アスカ。コケンって漢字で書ける?」

「え? コケン? コケンは………虎拳でしょ?」

どうだ! という感じで振り仰いでくるアスカにシンジは、

「…まあ、頑張ってね」

―――かくして、葛城邸に、俄か小説家が誕生するに至る。





















ady nd ky 〜second air


Act6:小説家になろう!

by三只



























しばらくしてリビングを覗くと、胡坐をかいたアスカの周囲に、丸められた原稿用紙が散乱していた。

「どう? すすんだ?」

「これが進んでいる風に見える!?」

いきなり怒鳴られた。毎度の理不尽な所業だったが、シンジは半宗教絵画的な微笑を浮かべながら散らばった原稿用紙をクズカゴへ。

いちいち反応して凹んだりしていたらこっちの身が持たないのである。

「どうしよ〜、シンジ〜。さっぱり全然進まないよ〜」

シンジが萎縮しないと判断するや、一転するアスカの態度の変化も凄まじい。

半べそをかいて上目遣いで見上げてくる仕草はかなり堂に入っていた。男の庇護欲をそそる角度を完璧なまでに計算している。

「仕方ないなあ…」

長年の同居生活で体得した免疫で庇護欲こそそそられなかったが、あっさり折れるシンジもつくづく甘いというかなんというか。

「で? どんな話を書いているの?」

「うん、まだ決めてないの♪」

「…は?」

思わず問い返すシンジに、アスカはぐっと拳を握って、

「あたし的にね、書き出しって大事だと思うわけよ! そこさえバッチリいけば、あとはスラスラ書けると思うの!」

ところが、その書き出しが上手くいかないらしい。ゆえに創作は頓挫しているとアスカの主張。

構想も何もなく着手したアスカも大概だが、

「ああ、そういうもんかも知れないね」

深く納得してしまうシンジもどうかしている。

「でしょ!? そう思うでしょ!? やっぱり最初のインパクトって大事よね!?」

そういって青い瞳をキラキラさせるアスカに、シンジは唐突に昔を回想してしまった。

場所は遠く太平洋。巨大空母の看板の上という、冗談みたいなロケーション。

『見物料よ! 安いもんでしょ!?』

…ええ、たっぷりインパクトはありましたとも。

懐かしい記憶に口元を綻ばせながらも、現実のシンジは立ち上がって本棚へと向かっている。

現在の葛城邸のリビングには、かなり大きな書棚が設えられていた。そこを埋めるのは古今東西の名作と呼ばれてしかるべきものばかり。

チルドレンの情操教育のためにと保護者である葛城ミサトが本部へとねじ込んだ成果なのであるが、実のところ納められた本のほとんどは、全国チェーンの古本屋で買い集めたものだ。背表紙に貼り付けたままのバーコードも眩しく、もれなく100円均一コーナーから拾われてきたことを声高に主張してあまりある。

ちなみに差額は保護者の嗜好品に化けて冷蔵庫に補完済みだ。

ドイツ語の妙にマニアックな専門書を読む以外、もっぱらアスカはマンガ派である。

対してシンジは、割と古典作品は好きだ。

どうせ百円なんだからという気軽さもあって、鍋が煮えるまでの間に読んだり、トイレや風呂に持ち込んで楽しむことも多い。

「じゃあさ、有名な作品を参考してみたらどうかな?」

「それってパクリじゃん」

「そんなこといったら、世の中で模倣じゃないものは存在しないよ」

笑いながらシンジは無造作に本棚から何冊か抜き出してテーブルの上に置く。どれも彼なりにインパクトのあると思う書き出しの小説ばかり。

「…あんた、何気に色々読んでんのね」

軽く目を見張るアスカの表情は、微妙な複雑さを伴う。

感心はしても、素直に相手を認めたり褒めたりするのはとことん苦手。

そんな彼女の性分を理解しているシンジは、まあね、と軽く肩をすくめて見せるだけに留めた。

「で、どう? これなんかいいと思うけど」

シンジの薦める本には目もくれず、捻くれものの少女は別の一冊の本を手に取る。

タイトルを一瞥するなり躊躇いもなくページを開いたのは、きっと未見だったからだろう。

ああしかし、ああ、しかし。

どうしてよりによってアスカはその本を選んでしまったのだろう?

『異邦人 カミュ』

冒頭の書き出しはあまりにも有名。

その冒頭を一読するなり、膝を抱えてリビングの床に横倒しになるアスカがいた。

そのままゴロゴロと転がりつつ、親指をくわえこんだ半開きの唇からこぼれてくる「ママ…ママ……」と呪詛めいた響きの悲しさよ。

どうやらトラウマスイッチを直撃されたらしい。ようやくシンジも事情を飲み込んだがもう手遅れ。

「アスカ、大丈夫、アスカ…!?」

床に横たわるタンクトップから剥き出しの細い肩を何度も揺するが、虚ろな目のアスカは壊れたオルゴールのように同じ呟きを繰り返すのみ。

これは深刻だと悟ったのか、シンジの表情も見る見る悲しげなものになる。良いか悪いかは別として、あらゆることに責任を感じてしまうのが彼の性分。

ゆえに思わず口をついて出た台詞は、シンジなりの励ましというか心配の純粋な塊であって、打算的な要素は一切含んでいない。

「しっかりしてよ、アスカ! おやつ、なんでも好きなもの作ってあげるからさ…」

途端にアスカの呟きはピタリと止まった。

床の上に横になった顔の蒼い瞳がゆっくりと縦にスライドし、シンジを見据える。

「………杏仁豆腐とチーズババロアも作ってくれる?」

「うん、うん! なんなら苺ムースもつけるからさ…!」

果たして反応は劇的だった。

一瞬で床上から跳ね起きたアスカは、喜色満面の笑顔でリビングの中心で仁王立ち。

「惣流アスカ・ラングレー、復ッ活ッ! 惣流アスカ・ラングレー、復ッ活ッッ!!」

…誰がどう見てもアスカの行状は擬態そのものである。

なのにシンジは、

「ああ、アスカ元気になったんだね! 本当に良かった…!」

などと喜びも露わに涙ぐんだりしているのだから、まったくもって世話がない。

「さあ、そうと決まったら書くわよ!」

「うん頑張って!」

アスカがペンを取って執筆に取り掛かったのを見届けてから、シンジはエプロンを掴んでキッチンへ。律儀にデザート製作に取り掛かる彼を、決して暇人と呼んではいけない。

お湯を沸かす間にチーズを裏ごしし、苺のヘタを取る。

熟練の手さばきを発揮し、ほぼ同時進行で三つのお菓子を作る彼の腕前は、神業と称しても差し支えないだろう。

そして十分後。

「駄目〜、やっぱり書けない〜」

沸いたお湯に杏仁粉を溶かし、ゆるやかに混ぜ合わせていたシンジは、思わず容器の中に顔面を突っ込むところだった。

「早い、早いよ、アスカ…」

「だって書けないもんは書けないんだもん!」

イヤイヤする風に両手をぶんぶん左右に振られても困る。

「…で? やっぱり書き出しで止まってるの?」

シンジの問いかけに、アスカは露骨な蔑みの視線で応えた。

「何言ってんのアンタ? そんな方法論は古いのよ!」

「……じゃあ、今度はどんなアプローチで」

「ふっふっふ、そりゃあもちろんキャラクターよ、キャラクター! しっかりかっきりしたキャラクターを作ると、勝手に動いて物語を作ってくれる。これってキャラ立ちっていうんでしょ!?」

どうしてこう方法論にだけ詳しいんだろ、アスカは? とシンジは首を捻りつつ、

「つまりそのキャラが思いつかないと?」

「そうなのよ。書いた途端、書籍化して即出版のアニメ化決定! それも深夜枠でなく夕方かゴールデンタイム枠で全四クール、TVシリーズ終了後も劇場版公開で10年以上は評判が続く話題作の主人公! ってなると、これがなかなか難しくてさー」

「………」

そりゃそうだという言葉をシンジは飲み込んで、代わりに別のことを提案した。

「うーんと、それならね。いっそ、アスカの好きなマンガのキャラクターを文字に起こしてみたら?」

「だーかーらー、それってパクリじゃないの?」

「まずはそうやって練習してみればいいんじゃないかってことだよ」
 
「練習〜? たかだか原稿用紙十枚に練習〜?」
 
「…だったら、なんでもいいから既存のキャラクターを活躍させたやつでとりあえず小説書いてさ。
 書き上げたあとから設定や外見に微妙に手を加えるってのはどうかな?
 そうすれば、さすがに丸々盗用した! みたいなこと言われないと思うし」

「ふーん。姑息だけど、シンジにしちゃあ傾聴に値する意見ね」

「…そりゃあどうも」

「ん、OK。とりあえず、試してみる」

返事をしてリビングへ向かったアスカだったが、0.5秒後にはキッチンへUターンを敢行。

その勢いたるや、誇張抜きでシンジの目には彼女の残像が見えたほど。

「シンジシンジシンジ! あたし、さいっこーにいいこと思いついちゃった!」

「ど、どうしたの?」

激しく嫌な予感がする。

しかし、まるで大輪の華が咲き誇るにも似た笑顔でご機嫌な彼女の提案は、ある意味シンジの予想を超えていた。

「マンガのキャラクターもなにも、あたし自身をモデルにすりゃいいのよ!!」

確かにアスカのキャラクターは壮絶というか突飛というか、いっそマンガの方の現実味が薄くなるほどのハイスペックを誇る。

そんな彼女をモデルにして小説の主人公にすえれば、なるほど、超大作の一つや二つ産まれるかも知れない。

「ま、まあ、いいんじゃないかな…?」

「よっしゃ! そうと決まれば書くわよ! 今度こそ傑作をものにしてやるんだから!」

吼えるように宣言すると、リビングのテーブルの前に一気に跳躍、着地。

猛スピードで原稿用紙にペンを滑らせるアスカの口から、勢いそのままに書いている文字が声に出る。

「あたしこと惣流アスカ・ラングレーは、どん些細な悪も黙って見過ごせない熱血美少女で、強きを挫き弱きを助け何より正義と平和を愛し、人一倍負けず嫌いで気が強くてワガママにも見えるけど根は優しくて慈悲深く義理人情に厚く、その心根は純真でとってもプリティでピュアピュアな…」

「誰それ」

思わずシンジは素で突っ込んでしまった。

対してゆらりとアスカの上げられた顔に浮かぶのは、完全無欠のアルカイックスマイル。

「…参考までに聞くけど、シンジ、アンタにはあたしのことどう見えてるわけ?」

「え? そりゃあ」

まず美少女なのは異存はない。

だけど、悪を黙って見過ごせないどころか相手の弱みを見つけて精神的優位に立ちたがるし、正義を愛するにしてもそれはアスカが信じる正義なわけだし、熱血というより熱しやすく冷めやすい、つまりあきっぽい性格だと思う。

相手が強かろうが弱かろうが気にくわなければ挫きまくるし、ワガママに見えるのはそのままだけど、よりによって根は優しいって誰のこと?

人一倍負けず嫌いで強気なのも頷けるけど、その実はメンタル的に結構打たれ弱くて。

ああ、それと、慈悲と義理人情って言葉、辞書を引いてきちんと意味を調べた方がいいと思うなあ…。

「へー…アンタはそんな風に思ってたんだ?」

「……はっ!?」

迂闊にも思ったことがそのまま口に出ていてしまったらしい。

シンジは慌てて口を押さえるが時は既に遅し。直後、強烈無比なアスカの払い越しに襲われた。

どうにか受身は取ったけど、強かにリビングへ背中を打ち付けられてシンジの行動は一瞬止まる。その隙をアスカが見逃すわけがない。

シンジの背後に回りこみ、無理矢理上半身を引き起して炸裂させたのは、故三沢光晴式ステップオーバーフェイスロック。

「痛! 痛い痛い痛い! アスカ、ギブギブギブ…!」

本職のレスラーでさえ『苦しいというより痛い』と賞賛する技の冴えを、アスカは完全に自分のものにしていた。

さらに現在タンクトップにショートパンツという部屋着姿の彼女がこの技を使用した場合、シンジに対してどのような副次効果を与えているのか?

まず、シンジの左腕をガッチリ押さえつけるアスカの足は、当然剥きだしのすべすべだ。

顔面を締め付ける見た目は可憐、その実凶悪な細腕も、滑らかさは素足に準ずる。

もちろんかける技の格好として、背中を向けるシンジにアスカが覆いかぶさる形であるわけだがら、必然的に彼女の豊かな双丘はシンジの後頭部に押し付けられることになる。

トドメとばかりにアスカはシンジの耳朶を噛みしだくが、当のシンジは痛みでそれどころではない。

部分的に分けて味わえばそれぞれが至福の感触。されど顔面を締め付ける激痛がそれら快感の全てを凌駕、地獄へと一直線に誘う。

まさしく悪魔の技、魔技と呼ぶに相応しいシロモノだろう。

シンジの意識がブラックアウトする寸前、アスカは技を解放。痛みに頭をクラクラさせるシンジを、キッチンへ向かって蹴り飛ばす。

「ほら! ちゃっちゃとオヤツを作ってもってくる!」

テーブルの前に座り込んでの激しい一喝は、シンジが思わず背筋をただしてそそくさとシンクへ行ってしまうほど。

ところが、キッチンへ背を向けたままのアスカの方はというと、怒鳴り声に反してその顔つきは決して不機嫌ではなかった。むしろニヤニヤとニヨニヨの中間という緩みきった表情は幸せそうですらある。

…なによ、シンジのやつ。なんだかんだいってあたしのことよっく見てくれてるんじゃないの。

ウフウフといった笑みを浮かべながらペンをもった手をグルグルと動かし続けているので、貴重な原稿用紙の一枚がのの字だらけで使い物にならなくなったが、いまのアスカにとって瑕瑾にすらならない。

シンジの評価の正否は関係ない。ただ、自分のことを色々と考察してくれているらしいことが単純に嬉しいのだ。

まあ何に幸せを感じるかは人それぞれとして、アスカの機嫌と同居人に対する評価株は現在進行形でストップ高を更新中。

そして、えてしてこのような精神状態のときこそ良作が生まれるものである。

新たに気合を注入された心持ちで、アスカは真っ白な原稿用紙へと向かい合う。

ふむ、シンジが言ってくれたあたしのキャラのイメージで構想を練ってみようかしらん?

――――そして一時間後。

「シンジぃいい! このバカタレぇえええ!!」

「ちょおっ!? なんだよ、どうしたんだよアスカ!?」

「どうしたんじゃないわよ! こんなキャラが主人公じゃ、どうやっても純愛ストーリーじゃなくて陰謀劇かコメディになるじゃないの!!」

「…はあ??」






シンジが手製の三種のおやつを食べてさせてどうにか気分を宥めると、アスカは優雅にお昼寝を開始。

一時間半ほど眠って目を覚まし、日曜夕方の気だるい空気が漂う中、続いてTV観賞を始めた。

益体もない旅番組やバラエティの再放送から海産物一家の出てくるご長寿アニメまでしっかり眺め、次に彼女は風呂と夕食を要求。

入浴も済ませ、夕食ではシンジのぶんのおかずも平らげ、それからリビングへ向かったアスカは、真っ白い原稿用紙の束を見て驚きの声を上げた。

「な、なんで一枚も書けてないのよ!?」

顔面どころか全身を引き攣らせるシンジを睨みつけながら、理不尽なアスカの嘆きは止まらない。

「日曜を丸々一日使って書けてないなんて絶対おかしい! これはきっと政府の陰謀…ううん、シンジ! もしかしてあたしたち宇宙人に拉致されちゃった!?」

「………」

念のため、シンジは本日の昼間のアスカの行動をリフレインしてみる。

朝起きて、ご飯を食べて、おやつを食べて、昼寝して、TVを見て、その合間に僕は苛められたり怒鳴りつけられたり。

…どう思い返しても原稿を書いていた姿が思い出せない。というか、この状況で完成していたらそれは奇蹟だ。

「とにかく、もう遊んでないで書かなきゃいけないんじゃないかな? 約束した手前」

「むう…」

難しい顔つきで原稿用紙の前で腕組みしていたアスカだが、その緊張はものの10分も続かない。またぞろTVのスイッチを入れている。

「休憩よ休憩なんだからね!」

シンジが何かいうより早く声高に予防線を構築、あとはバラエティ、大河、洋画劇場というゴールデンコースで堪能してしまえば、時刻は午後の11時。

「……どうしよう、シンジ?」

テーブルの前でしゅんとなるアスカがいる。

「はあ…」

この期に及んでシンジの忍耐力は尽きていなかった。否、忍耐力とかそうはっきりと形容できるものではない。

どだい何があろうと、碇シンジは惣流アスカ・ラングレーを見捨てることはない。そこに理由なんてない。それに―――そんなのはただの一度きりで十分だ。

ため息から一転、シンジは穏やかな笑顔を作り、噛んで含めるように言う。

「洞木さんは何でもいいっていったんだよね? だったらもう小説に拘らないでさ、いっそアスカにしか書けないものを書いてみたらどうかな?」

「あたしにしか、書けないもの…?」

お茶を淹れてくるね、とシンジは行ってしまった。

一人残されて、アスカは考え込む。

自分にしか書けないもの。

流体力学の論文? 生体アキーテクチャのレポート?

違う違う、高校生の文化祭の文芸誌に載せるにはジャンルが違いすぎる。

じゃあ、随筆? エッセイ? 『あたしはこうしてエヴァに乗りました』。

方向性は間違っていないかも知れないけど、間違いなく守秘義務に抵触してると思う……。

ブツブツと呟きながら、アスカは白くて眩しい原稿用紙につらつらと落書き。

日本語、英語、ドイツ語と、三ヶ国語が入り乱れる多彩さに気づいたとき、ふとアスカの手が止まった。

英語で詩でも書いてみるとか?

ううん、それならドイツ語だ。英語と違ってドイツ語の方がマイナーといってしまえば語弊があるかも知れないが一般的ではない。

ゆえに希少性が高いというのも強弁だろうけど、たぶん高尚に見えるはずだ。それに、ドイツ語を読めるやつなんて高校生にそうそういないから、ある程度適当にかいても大丈夫だろうし。

「…ふーむ」

さらさらと原稿用紙にペンを走らせる。書いた数行のドイツ語の内容には、そんなに深い意味はない。

ただ書いてみただけ。それだけ。…それだけだってば。

「どう、すすんだアスカ?」

「んー…」

シンジが戻ってきた。

抱えていたお茶セットをテーブルの脇に下ろすと、なぜかぼんやりとしているアスカの手元を覗き込む。

「あ、少し書けたんだね…って、ドイツ語!?」

「アンタがあたしにしか書けないものを書けっていったんでしょー」

「そりゃ確かにそういったかも知れないけどさ…。で、何書いたの? えーと、Ich verspreche Dir? 私は誓う? Bis zum Tod beruhreって、死ぬまで、って意味でいいんだっけ?」

アスカは口と青い瞳を大きく見開いた。整った輪郭の中に、綺麗な円形が三つ出来あがる。

「シシシシンジ、あんたもしかしてドイツ語読めるのぉっ!?」

慌ててグシャグシャと原稿用紙を丸めるアスカの顔は真っ赤。

シンジはポリポリと頬を人差し指で掻きながら、照れたようにはにかむ。

「ほら、アスカって結構ドイツ語の雑誌読んでるでしょ? 僕も読めたら話題を共有できるかなって痛っ! やめてよ、アスカ、なんでいきなり殴るのさ!?」

「うるさい黙れ! 今見たものは全て忘れなさい。最重要命令。逆らったら私刑、もとい死刑。OK? 返事は!? YESかはいで答えなさい!」

「っていわれても見えたのは精々一、二行で…」

「忘れる! 忘れろ!」

「は、はい!」

縮こまったシンジにお茶を淹れさせながら、アスカは念入りに原稿用紙を細かく千切る。

…ったく、このバカがドイツ語を読めるなんて、まったく計算外だわ。

無駄に跳ね上がった心拍数をどうにか宥める。

とにかくこれでアイディアも練り直しだ。せっかく書き上げられるかと思ったのに。

「アンタのせいなんだからね? きちんと責任もって最後まで協力しなさいよ!?」

「わかったよ、わかったからもう蹴らないで…!」

それから二人してお茶を飲みつつ、あーでもないこーでもないと言い合いながら時間だけが過ぎていく。

気づけば時刻も夜中の十二時を回っていて、さすがのシンジも諦めモードに突入。

明日は学校があるし、今日はこれくらいにしよう? という意味もこめて尋ねたのは、いわば当然の流れ。

「ところで原稿の締め切りっていつ?」

果たして、眠そうに瞼をしぱつかせる金髪碧眼の少女の返答は恐ろしいものだった。

「明日」

「…はい?」

「というか、もう、今日」

「ど、どーすんのさ!? 時間が…!」

「眠い。寝る」

「いや、いやいやいや! 原稿がまだでしょ?!」

「全部シンジに任せる。お願い。報酬は応相談で…………くー」

語尾に、実に安らかな寝息が重なった。崩れ落ちるようにリビングの床に横になると、一転、ダイナミックな鼾が響いてくる。

あとには唖然とした顔つきのシンジだけが残された。

締め切りは今日。挙句、アスカが書くはずの原稿用紙は丸投げ。

まるで冷蔵庫の奥に仕舞い忘れて消費期限をオーバーしてしまった食材を発見したようなやるせなさがシンジを襲う。

勝手にしろ! 知ったこっちゃない! と割り切って捨てるのは簡単だ。

なのにどうしようもなく責任を感じてしまうのがシンジの性分。

黙って原稿用紙に視線を落とす。たかだか十枚分だ。おいしいカレーの作り方とか、創作お菓子の注意点とかの内容でいいのなら、たちまち埋める自信がある。

されどこれはアスカの書くはずの原稿。それなのにそんな内容でいいのか?

いや、それ以前に、これはやはりアスカが書くべきもので…。

煩悶すること一時間。そこでようやくシンジは思い至る。

そうだ! 洞木さんに連絡して、締め切りを延ばすかどうかしてもらうかすればいいんだ!

喜び勇んで携帯を開きかければ、時刻はもう一時半を回っている。シンジは静かに携帯を閉じた。

さすがにこんな時間に電話するのは非礼だ。第一洞木さんも寝ちゃってるだろうし…。

どこまでも常識人な彼は、気を取り直して非常識な同居人を起こすことにする。

「起きてよ、起きてよ、アスカ…」

「…んあ? なによぉ、シンジぃ……ふぁふぅ…」

「やっぱり駄目だよ。アスカが書きたいって志願したんでしょ? だったら…」

「んん……? …じゃ、アンタに一任するから…好きにしていーよ……」

「だからそういうことじゃなくてさ!」

「アンタのものはあたしのもの……アンタの手柄はあたしの手柄………くー」

絶句するシンジにアスカは某ガキ大将のような台詞を投げつけて、安らかに夢の世界へ再滑空。

…好きにしていいっていわれても。

タンクトップからちょこんとおへそを覗かせて、そのわきを豪快にボリボリと掻くアスカがいる。

こんな艶姿にいまさら幻滅する気なんて覚えないけど、さすがにシンジもムカッ腹が立ってきた。

いくらなんでも無責任が過ぎる。これは間違いなく怒っていいレベルだ。

でも、なあ…。

頼まれた手前、書かなくてはいけない。というか、アスカは寝ぼけていても絶対に書いてくれといったことは覚えている。

報酬うんぬんを言ったことを忘れているのは請け合いだが、自分に都合のいいことだけは確実に覚えているのだ、彼女は。

投げ出して眠るのは簡単だ。しかしアスカの怒りは閻魔も避ける。

本来の責任感にアスカからの重圧が、しっかり互いに手を取り合ってスクラム組んで、シンジの繊細な神経をさいなむ。

それから更に二時間。シンジはどうにか創作をひり出そうとするが上手く進まなかった。

小説とかはよく読むけれど、書くのは得意なわけではない。むしろ全く別のジャンルだと思う。

なのに敢えてそのジャンルに挑まなければならない理由はなんだ?

恨めしげにシンジはすぐ側の床で眠る少女を見てしまう。

「…えへ…えへえへ…もうたべられましぇん……」

口元からこぼれる涎を拭う仕草は、いったいどんな幸せな夢を見ているのやら。

そこに猛烈な眠気も相まって、煮詰まったシンジの精神はとうとう、ようやく、本当に臨界を迎えようとしていた。

明日というか今日ももうすぐ夜が明ける。ほとんど眠る時間なんてない。眠い頭で授業を受けることを考えただけで憂鬱だ。

おまけに朝ごはんやお弁当の支度も僕がしなきゃいけないんだぜ?

やっぱり、どう考えてもアスカが悪い。

いくらアスカが天才肌でも、締め切り前日まで放っておくなんて酷すぎる…!

ぷつん、と実に控えめな音がした。

だがそれは紛れもなくシンジの中で最後の何かが切れた証拠。

なんでもいい?

アンタの好きにしていい?

…いいよ、書いてやるよ。後で文句いったって僕の責任じゃないからね…!!

一応弁護しておけば、このときのシンジの精神状態は正常から著しく逸脱していた。そしてそのことを誰が責められよう? 仮に裁判に訴えられたとして、情状酌量の余地は十二分にありすぎる。

さて、開き直ったからといって凝ったものを書くのも業腹。

十枚以内であればいいってことは、別に一枚程度でも問題ないはず。

というか、書けばいいのだ書けば。 

手っ取り早く済ませるのに、手段も何も関係ない。パクリだろうがパロディだろうが、そんなのもう関係あるか。

それから三十分後。

そろそろ白み始める東の空の下、とうとうシンジは原稿を書き上げた。

書き上げた途端、机につっぷすシンジを賞賛するものはいない。しかしその片頬には、紛れもなくやり遂げたものの笑みが浮かんでいる。






更に二時間後。

ようやく目を覚ましたアスカは、寝ぼけ眼でも原稿用紙に何かしら書き綴られていることを確認。

シンジのくせに感心感心、と読み始めて間もなく彼女は血相を変えた。

ビリビリと原稿用紙を破り捨て、怒りの形相で眠っていたシンジを蹴り飛ばす彼女の姿は、葛城邸の朝の風物詩といえなくもない。

半覚醒状態で蹴り回されるシンジを自業自得と断じるのは、いささか可哀想かも知れないが。





そして以下は、後始末というか後日談となる。

消沈しながら登校したアスカは、おそるおそる洞木ヒカリに侘びた。

原稿が間に合わなくてごめんなさい。昨日も、というか今日の朝方まで頑張ったんだけどね…。

そういって珍しく彼女は素直に頭を下げたのだが。

「…アスカ、あなた本気で参加するつもりだったの?」

「…え?」

「う、ううん、なんでもないなんでもないわ! そう、残念だけど、仕方ないわねー。間に合わなかったんじゃあしょうがないわねー。…ほんとよ?」

「…………」

親友の心無い一言に微妙に凹んだりしたアスカであった。

このような理由で、アスカの文才を誇示する機会は失われたわけだが、元々高い評価はいまさら上乗せしなくても不動のもの。

別段、文芸誌で発表する! と宣伝していたわけではないのだから、評判の落ちようもないのである。

対して、無駄な苦労を強いられた挙句、代理で原稿を上げざるを得なかったシンジの方はどうだろう?

代原をビリビリに破られて日の目を見ることすらなかったのは、実は彼にとってこの上ない幸運だった。

ありていにいってしまえば、シンジの書いたのは有名な詩のパロディ。

夜に書いた手紙は朝に読み返せというのは、文章を書く上で決して俗的な警句ではない。

テンパっている時ならいざ知らず、怒りと勢いだけに任せて書き上げた文章は、落ち着いて読み返せば赤面を通り越して悶絶必至の内容。

仮に掲載、発表などされようものなら、シンジは恥ずかしさのあまりに首を括りたくなるどころか、体育館のよな広い空間の真ん中で折りたたみ椅子に座り内省モードに突入すること請け合いである。

そしてアスカはその冒頭の四行を読んだだけで怒り頂点に達し、最後まで読みきらずに破り捨てていた。

これが二人にとっての幸か不幸か判断するのは、非常に難しい命題となる。








さて最後に、碇シンジの書いた原稿の内容を記そう。



















雨ニモマケズ
風ニモマケズ
罵倒ニモ アスカノ苛メニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラツテイル

一日ニ白米四合ト
味噌汁ト沢山ノオカズヲツクリ
デザートノブンハ
ジブンノヲカンジョウニ入レズニ
アスカノイウコトヲヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ

第三新東京市ノ
三LDKノマンションニイテ

部屋デ病気ノアスカアレバ
行ツテ看病シテヤリ

街ニ疲レタアスカアレバ
行ツテソノ荷物ヲ負ヒ

ホラー映画ヲ見テ眠レナイトイエバ
行ツテコハガラナクテモイヽトイヒ

綾波トケンクワヲシヨウトスレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ

優シイトキハナミダヲナガシ
機嫌ガ悪イトキハオロオロアルキ

ソンナアスカニ馬鹿トヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ

ソレデモ傍ニイルコトヲユルサレル

サウイウモノニ
ワタシハナリタイ

















Act7に続く?

三只さんからのいただきもの、Lady And Sky 2のAct 6の掲載です。

今回はアスカが小説に挑戦…好きな漫画のキャラを使えとか…アスカ自身でやってみろとか…うーむ。

結局結末はアレでしたが、楽しめたんでしょうか。シンジ君の詩作が見事にオチてますね(笑

素敵なお話を書いてくださった三只さんに是非感想メールをお願いします。