惣流・アスカ・ラングレーが、同居人の碇シンジを散歩に付き合わせるのはそれほど珍しいことではない。

天気の良い休日に、半ば強制的に少年を連れ出し、河川敷や高台の公園などをゆっくり廻るのだ。

ついでに、真新しい屋台やファーストフードのお店などを見つけることができれば僥倖。

そこでシンジに色々奢らせるのが、アスカの目下の楽しみである。

世間一般的にはデートと呼ばれるものだと思うのだが、金髪の少女は頑として認めない。

ただの散歩よと公言する彼女の脳内では、一緒に映画を見たり買い物をすること=デートの公式が明確であり、断固区別しているらしい。

要は、人目につかないのが散歩であり、断じてデートではないとかなんとか。

連れ回されるシンジの意見といえば、諦観を通り越して苦笑するだけ。

まあ本気で嫌がっているわけではないようなので、双方にとっていいスタイルなのかも知れない。

今日も今日とて気まぐれなアスカが向かったのは、結構急な石段の上にある寂れた神社。

軽く呼吸をあげながら石段を登り、同じくついてきたシンジと一緒に参拝する。

賽銭箱に五円を放り、盛大に鈴を鳴らしたのはアスカだ。

元気良く柏手を打つ彼女に続いて、シンジも柏手を打つ。

「ねえ、アスカは何をお願いしたの?」

金髪碧眼の彼女が神社にお参りするというミスマッチな光景を視界の端にとどめ、シンジは横目のまま訊ねる。

「ん? 世界平和と無病息災よ」

「………そうなんだ」

冗談とも本気ともつかぬ口調に、シンジは曖昧な笑みを浮かべるだけに留めた。

まったくもって普段のアスカらしからぬ謙虚な願いを、色眼鏡をかけて見てしまうのは致し方ない。

なんせ、普段の彼女の性格が性格である。

世界征服、怨敵覆滅などを願うほうがよっぽど相応しい。

いやいや、それでも、アスカは純粋にそう願っているのかもしれない。今までの破天荒さや傲慢を悔いているのかも知れない。

だったら反省するのは僕の方だ。

万が一の可能性に期待を馳せ、軽く自己反省を開始したシンジの横顔を、青い瞳が鋭く射抜く。

「…シンジ、アンタ、あたしがこんな風なお願いするのは意外だ……なんて思っているでしょ?」

反射的にビクッと全身を揺らしてしまったシンジは、まだまだ未熟である。

アスカの方は、シンジが未熟だろうが完熟だろうが知ったことではない。

即座に少年の頭を小脇に抱え込み、拳の先で脳天ぐりぐり攻勢を発動。

「アンタね、人のこと破壊魔みたいに思ってるでしょ!? 

 ジョーダンじゃないわよ、あたしは世界平和を祈るピースエンジェルよ!?

 心根だけなら、いますぐでもノーベル平和賞にノミネートできるわよ!!」

フガフガともがくシンジに、金髪の自称平和の天使はまったく容赦はしない。

「痛い、痛いよ! 止めてアスカアスカ止めて」

結局、拳が疲れるくらいまで存分に脳天をこねくり回して、アスカはシンジを解放。

涙の滲む目で見上げてくる少年の前で、アスカは白いスカートを翻して見せた。

「まったく…」

ぶちぶち言いながら境内を横切って眺めの良い場所へ足を向けたのは、実は彼女流の照れ隠し。

実際、世界平和と無病息災なんて祈っちゃいない。確かにそれも大事だけど、本当に願うことに比べたら二の次だ。

あたしが本当に願うこと、それは…。

「わあ…いい景色だね…」

頭のてっぺんをさすりながら、いつの間にかシンジが隣に来ていた。

意外と近くで彼の横顔を見上げる形になってしまい、アスカは思わず赤面してしまう。

今度は怒鳴らず、アスカは前を向いたまま訊ねる。

「じゃあさ、アンタはあたしがどんなことお願いすると思ってたの?」

「うーん、将来のことじゃないかな?」

あっさりとした回答に、アスカの心拍数は跳ね上がる。いみじくも、それはおそろしく正答に近いものだったから。

「そ、それってどういう意味…?」

動揺を悟られぬよう訊ねれば、

「だって、アスカ、まだ進路希望の紙、提出してないじゃない。進路指導の先生が困ってたよ?」

サバサバとしたシンジの答えに、熱かった血の温度が急激に下がっていく。

あーやっぱこーゆーヤツね、コイツって。鈍いというかガキというか。

みるみる機嫌を悪くするアスカに全く気づいた様子もなく、シンジは至って呑気な表情で続ける。

「でも、いいよね。アスカは何でも出来るから…」

「……そうでもないわよ」

腕を組み顔を伏せ、低い声を出す。

確かにアスカの学業成績からすれば、最高ランクの大学がよりどりみどりである。

素行にしてみても、学校で猫を被っているから問題はない。

だが、すでにドイツの大学を卒業しているし、今更大学へいって専行したいものもないのだ。

となれば就職か。

仮に就職課に履歴を出せば、そこそこの企業からもお呼びがかかるだろう。

しかし、早々に就職を決めてモラトリアム期間をフイにするのも勿体ない。

どだい日本の平均的な女子高生とは違うのである。

ゆえにアスカ迷う。進路が多すぎて迷うというのは、ある意味贅沢な悩みかも知れないが…。

以上の状況を背景に、気まぐれに進路希望の紙に書いて即座に消した第一志望。

考えてみれば働くの面倒くさいし。でも、無職じゃ世間体が悪いし。

【専業主婦】

書いておいて自分のアホさ加減に舌をかみ切りたくなった苦い記憶。

そんな内心の葛藤など、シンジのヤツが気づいてくれるわけは……やっぱりないのだ。

一人じゃあ主婦にはなれないのよね、となにげなく見上げたところで、鈍感バカの甲冑は身じろぎもしない。

ため息混じりの呟きは、なにげない質問になってシンジの耳に届いた様子。

「はあ…あたしたちは、十年先には何やってるのかしらね?」

驚いたことに、シンジは目に見えて狼狽した。しかし、彼の口にした答えは、アスカの期待に反することおびただしい。

「そそそそんなこと知らないよ! だいたい、十年先のミサトさんの姿とか、全然想像もつかないし…!!」

…なんでそこでミサトが来るのよ!?

台詞を飲み込み、替わりに後頭部をはたいてやる。

続いて軽くステップを踏みながらその場を離れた。

理不尽な所行を受け、頭にハテナマークを浮かべ茫然としているシンジに対し、

「ばーかばーか! べーだ!! このすかぽんたん!!」

と、まるで子供みたいな台詞と仕草で桃色の舌を出す。

急に照れくさくなったゆえの行動である。

背を向けて石段を駆け下りようとして、なんと一歩目でアスカはバランスを崩した。

古めかしい石段はただでさえ踏面が狭い。その上、一段一段の凹凸が激しく、段差も均一ではなかったことも理由だろう。

登るのはともかく、不用意に駆け下りるには危険すぎることを失念していた彼女のミスだ。

斜め下に伸びる急な視界。空中に浮かぶ身体。

踏ん張ろうにも、捕まる場所も何もない。全身の血の気が一気に引く恐怖。

「アスカっ!!」

背後から声。

アスカは力を振り絞り身体を反転させる。

予想どおり、こちらの窮地を救うために、石段から飛び出してくるシンジの姿があった。

「シンジ!」

嬉しさが恐怖を駆逐する。ほとんど抱き留めるように、アスカは両腕を差し出す。

次の瞬間、悲劇なのか喜劇なのか判ずるのに窮するシーンが展開された。

両腕がお互いの身体を抱き留めるより早く、なんと二人の頭と頭が盛大にかち合ったのである。

いわば、お互いにヘッドバッドをしあった状態。

凄まじいまでの衝撃で、アスカの視界はブラックアウト。

意識を失う寸前に、互いにしっかり抱きしめあったまま石段を転がる衝撃はあったけれど、痛みは全く感じなかった…。































ady nd ky 〜second air


Act4:刻を駆ける少年少女 

by三只




























アスカは目を開ける。

アスファルトの道路に横たわっている自分に気づくまで、数瞬の時間を要した。

前後の状況を思い出すのにもう数瞬。

あれ? あたしは石段から転げ落ちて……。

青い瞳が見上げる先には長い石段。やはりあそこから転げ落ちたのは間違いない…?

そこでアスカは慌てて周囲を見回す。

シンジは!? 一緒に転げ落ちたシンジはどこ!?

身体に痛みがないことに違和感も覚えず、アスカは四方八方に視線を飛ばす。

やはり見える範囲にシンジの姿は転がっていなかった。

となると、導き出される結論は、そう難しいことではない。



転げ落ちた先で、シンジが上体を起こす。

イタタ…、アスカ、大丈夫だった?

しかし、アスカは動かない。

焦ったシンジは、ホッペタを叩いたり、肩を揺すったりするけれど、やっぱろ彼女は目を覚まさない。

もしかして頭を打ったんじゃ? その場合、確か、不用意に動かさない方がいいはず…!

真っ青な顔を上げたシンジは、立ち上がり駆け出す。

もちろん、助けを求めて。救急車を呼ぶために。



シンジの取るべき行動、反応は、手に取るように想像出来た。

…でも、シンジのヤツ携帯電話は持っているはずよね? 呼びに行く必要あるかしら?

ううん、転げ落ちた時に携帯は壊れちゃったのかも知れない…。

そういえば、あたしの携帯は!?

慌ててジャケットの内ポケットを探って、パールカラーの携帯電話を取り出す。

さっそく液晶ディスプレイを表示させたアスカであったが、間もなく柳眉をしかめた。

いくらボタンを押しても反応がない。本日の日付を示したまま、操作音もなにもしない。

…これも壊れちゃったのかしら?

立ち上がり、ようやくアスカは怪我らしい怪我を負っていないことに気づく。

むしろ、シンジの頭に打ち付けたらしい額の方が重傷かもしれない。ズキズキする。

少しだけふらついたけど、走るのには支障はないようだ。足首も捻っていないみたい。

さてシンジはどっちに行ったのかしら、と神社前の一本道の左右を見回して、アスカは逡巡してしまう。

むしろ、ここで待っていたほうがいいのかも。助けを呼びに行ったシンジが戻ってくるまで。

でも。

案ずるより産むが易しとばかりにアスカは駆け出す。

行動を起こしてこそのあたしだ。アクティブであることこそが惣流・アスカ・ラングレーの誉れ。

彼女が足を向けたのは右の繁華街の方向である。

根拠がないわけではない。こちらの方が人通りが多いのは自明の理。より助けも呼び易いはず。

しかし、数十メートルも走らぬうちに、アスカはその足を止めた。

原因は、あらぬ方向から降ってきた声。

信じられない思いで頭上を振り仰いだアスカは、その場で硬直してしまった。

それも無理もない。

声の主は、なんと電信柱の上から爽やかな笑顔で彼女を見下ろしていたのだ。

「こんにちは、惣流・アスカ・ラングレーさん」











「…誰よ、アンタ?」

それがアスカの第一声だった。

高い男性の、というか男の子の声。

でも聞き覚えはなかった。顔を確認しようにも、太陽を振り仰ぐ形なので、逆光で影になってしまっている。

でも、格好は、アレ? あたしたちの通った中学校の制服を着ているみたい…?

陽光に手をかざし正体を見極めようとアスカが目を細める中、影は何気ない動作で宙に身を躍らせる。

「!!」

驚くアスカの前に、影はフワリと着地した。まるで背中に羽根が生えているかのように。

影は微笑む。

「キミに直接あうのは初めてだね」

いや、それはもう影ではなかった。一人の少年が目の前に立っている。

とっくに驚きが駆逐されたアスカの脳裏で、知り合いの顔写真がリストアップされていた。

少年の背は、自分よりやや低い。

壱中の制服を身につけている様子から見ると、やはり中学生なのだろう。年下だ。

今年で18歳になろうとしているアスカにとっては、少しばかり懐かしい。

懐かしさに思わず目を細めつつも検索終了。結果、該当者なし。

なのに、少年の容貌にアスカは息を呑んでいる。

陽光を孕む鮮やかな銀髪。白い肌。

秀麗な顔の中心で、赤い瞳が穏やかに自分を映している。

アルピノの少年だった。

性差はあれど、彼女はこの容貌にそっくりな人物を一人知っている。

この子、まるでファーストみたいじゃない……!!

内心の動揺を隠し、アスカは冷静な声を出した。

「アンタ、誰? あたしの名前は知ってるみたいだけど」

「ああ、そうだね。僕が一方的に知ってるだけだね、この場合。じゃあ名乗ろう」

少年は学生服のポケットに手を突っ込んだまま、慇懃に上体を折る。

「僕の名前は渚カヲル」

…なぎさ……カヲル?

その名前は、聴覚を滑り落ちると同時に、電光めいた速さでアスカの脳髄を直撃した。

荷重電力により記憶巣が刺激され、遙か昔に獲得した情報が再構成される。

渚カヲル。

フィフスチルドレンとしてネルフ本部へと赴任。

間もなく、エヴァンゲリオン弐号機を強奪し、セントラルドグマへと潜行。

その正体は、第17使徒タブリス………!!

確かに、アスカと彼は面識はない。なにせ、その当時、彼女は病室のベッドの上だ。

だからこの情報は、サードインパクト後の再建されたネルフ本部の極秘ファイルを閲覧した時に得た物。

全て終わった出来事ゆえ優先順位を限りなく低く設定していた、古い古い記憶。

…いや、問題はそんなことじゃあない。

渚カヲル=タブリスの最期。

シンジの初号機によって殲滅された使徒が、どうしてこの第三新東京市へ!?

「そう警戒しないでくれたまえ。僕は限りなく無害だよ」

安心させるようなカヲルの声に、アスカは決して油断しなかった。

むしろ瞳に更なる懐疑を乗せて華奢な少年を睨め付ける。

微妙に間合いを取りながらアスカは思考を展開させた。

使徒ならば年齢や外見に変化はないのは当然として。

問題は、どうして、今、この場所で、あたしの前に姿を現すの?

それよりシンジよ! シンジを探さなきゃ。あと、使徒ならばネルフにも連絡を…!

珍しくアスカが心細さを意識したのは、この瞬間かも知れない。半ば無意識のうちに自分の腕で自分を抱きしめている。

「…そんな薄気味悪そうな顔で見られるのは心外だなあ」

カリカリと頬を掻いてカヲルは苦笑を浮かべて見せた。

「一体、あたしに何のようなワケ…?」

いつでもダッシュで逃げ出せるように足先に意識を集中しながら、アスカは更に訊ねる。

「そりゃあ、話相手になって欲しかったからさ」

けろりと訊ねられた当人は答える。

「それとも、この世界のガイドさんがいいかな…。うん、気に入った。僕はこの世界の水先案内人だよ」

なにが可笑しいのか、ケラケラと笑って見せてくれる始末。

それが隙とばかりにアスカは身を翻し、全力で遁走を開始していた。

これは逃げるわけじゃないのよ? 相手の正体が未知数ゆえの戦略的撤退なんだから! 

決して後ろを振り返ることなく全力疾走するアスカの目前に、たちまち繁華街が迫ってくる。

買い物帰りの主婦、女子高生の一団らしき姿が見えたとき、アスカは心底ほっとした。

幾人かの通行人とすれ違い、街の中へと滑り込む。

よし、確かこの先に交番があったはず。そこでネルフへでも連絡をして…!!

交番へ駆け込んだアスカは、何事かと驚く警官に出迎えられなかった。

だからといって別に交番が無人だったわけではない。そこには確かに二人の警官がいたのだ。

しかし、アスカが飛び込んできたのに、二人も全く気づいた様子がない。

大声を上げてもこちらを見ようとはしない。

「………!?」

苛立ったアスカは、警官の視線を遮る形で目の前に立つ。

なのに、警官の焦点は決して自分に合おうとしない。まるで彼女の姿が見えないというばかりに。

とうとうアスカは警官の肩を掴もうとして―――結局細い手は何も掴めず宙を泳ぐ。

「…………!!!!」

警官の制服の肩を貫通して飛び出している自分の指。

予想外の光景に悲鳴を堪えられただけで、アスカは大したものだったのかも知れない。

空いた手で口元を覆い、真っ青な顔のまま交番から後ずさりする。

そこで彼女は何かに背中をぶつけた。

「無駄だよ」

にこやかな銀髪の少年の笑顔がそこにある。

今度こそアスカは全力で悲鳴を上げた。ただし渾身の右フックつきで。

盛大に吹っ飛ぶカヲルに、アスカはきょとんとした表情を浮かべてしまう。

「アイタタタ…、聞きしにまさる乱暴ものだね、キミは…」

ポリバケツの中から身を起こすカヲルに、一時的に平静を取り戻したアスカは詰め寄った。

「なんで? どうして? アンタはぶん殴れるわけ!?」

「…そりゃあ、この世界においては、僕とキミは同質みたいなもんだからね…」

立ち上がり、ズボンの汚れを払うカヲルを前に考え込むことしばし、ようやくアスカはその疑問に辿り着いた。

まさしく根底とでもいうべき疑問に。

「この世界って……ここは何処なの? 第三新東京市じゃないの?」

存外、あっさりとカヲル答えてくれた。白い顔に満面の笑みを湛えて。

「うん、第三新東京市さ。ただし、キミがいた頃から十年後くらいのね…」











をう、ジーザス。

思えば、神様に祈るのは初めての事かも知れない。

目の前でニコニコ笑う渚カヲルを眺めながら、アスカは彼の主張を吟味している。

どうやらこの世界と同じ時間軸の中にいないのは確かなよう。

証拠は、道を行く、街をそぞろ歩く人々。いくらこちらから声をかけても届かない。触れようにも触れない。

世界がずれているんだからしょうはないよ、とはカヲルの弁。

十年後というのもどうやら本当らしい。

まだ信じられない思いで駅前まで来れば、未完成だった新しい駅ビルが完成していた。

悔しいほど完成予想図と同じだった。シンジと一緒に眺めたからよく覚えている。

他の街の目立った景観の変化はよく分からない。

元々第三新東京市は最先端の技術でもって設計されているから、ハード面では十年やそこらで変化はしないのかもしれないけど。

それでも、変わらない街並みに、見知った街並みに、少しだけほっとする。

いわばこの街はアスカにとって第二の故郷とでもいうべきもの。

思い出の光景が劇的に変化していては、少しばかり寂しすぎる。

「どう? 少しは落ち着いたかい?」

アスカはゆっくり顔を向ける。決して友好的な顔つきではなかったが、明確な敵意もまた存在しなかった。

シャクだけど、この銀髪の小年の顔を見て不安が薄れる自分がいる。

もしたった一人で説明もなくこんな世界に放り出されたら、正気でいられたかどうか。

おまけにこの少年は水先案内人だと自称した。となれば、戻る方法も心得ているだろう。うん、そうに決まっている!

「それにしても、いわゆるタイムスリップってヤツよね、これ…?」

呟きながら、青い瞳に爛々とした光が甦る。

石段を転げ落ちたところでタイムスリップする理屈は分からねど、来てしまったものはしようがない。

どちらにしろ滅多に経験できないことには違いないだろう。

…じゃあ、満喫しなければ損じゃない?

アスカとて、その手を題材にした漫画、小説、映画は知っている。

そこで、過去や未来へいった人物がすることはなにか。

その時代の自分や、意中の人を見物に行くのが黄金パターン。

ならば、大いにその王道を堪能してやろうじゃない。

うってかわって軽快に腰を上げたアスカを、カヲルは微笑を湛えたまま眺めている。

「どこに行くか決めたかい?」

そう質問してくるあたり、彼もタイムトラベラーの思考を十分心得ているらしい。

殊更自称水先案内人を無視するようにわざとらしくスカートの裾をはたきながら、アスカは自分自身へと宣言するように胸を張った。

「とりあえず、コンフォートマンションへ!」






鍵のかかっていない扉。

家具も何もない閑散とした室内。

予想通りというかなんというか、住み慣れたマンションはキレイさっぱり引き払われていた。

「さすがに十年も住み続けているはずないもんね…」

呟きながら、自覚しない愛おしさを乗せてアスカは壁に指を這わせている。シンジをぶん投げてちょっと凹んだあたりが懐かしい。

「さてはて、じゃあ、どこにいったのかしら?」

嫌に広く感じるリビングの真ん中で、アスカは腰に手を当てふんと鼻を鳴らす。

確かに懐かしいが、誰もいないならばここに用はない。

しかし、探すにしても漠然としてやしないか。

第三新東京市を一人探し廻るのは、何も手がかりがなしではいささか広すぎる。

「案内してあげようか?」

と背後からカヲル。

無視されているにもかかわらず、律儀については来ているのだ。

ちょっとアスカは考え込む。シンジ以外にあまり貸しを作らないのが彼女のサガ。

しかも相手がこんな正体不明とくれば、もはや本能で忌避したいレベル。

…でも、まあ、現実世界で貸し借りを負うわけじゃないし。とゆーか、この世界だけの付き合いなワケだし。

一夏のロマンスと形容すれば語弊がありすぎる。旅の恥は掻き捨てといったほうが正確かも知れぬ。

ともあれ、アスカはカヲルの手を借りる決断を下す。駅前からここまで歩いてきてちょっと疲れているし。

「じゃあ、僕の手を握って目をつぶって」

「…まかり間違ってもキスなんてしたら、ミクロン単位で切り刻んであげるからね?」

お約束な展開に物騒な台詞で報いておいて、彼女が真っ先に見に行きたいと思ったのはクラスメートの相田ケンスケだった。

別段、ケンスケの将来が積極的に気になるわけではない。身も蓋もなくいってしまえば、単にアスカは一番美味しいものは最後に食べるタイプなだけである。

「着いたよ」

その声に目を開ければ、また街中だった。

一呼吸の間もないまま移動したのは不思議だったけれど、まあそこはそれ。ここは未来の世界で、あたしは異邦人なんだから。

さっそく周囲に視線を巡らせると、カメラを首にぶら下げた眼鏡の男を発見。

携帯電話にがなり立てるその横顔には見覚えがあった。

間違いなく将来の相田ケンスケ氏であろう。

日に焼けたタンクトップ姿で、頭にはバンダナ。

アスカが眺めているのもつゆ知らず、携帯電話をしまってバックを肩に担ぎ直すと颯爽と歩き去る。

遠ざかる彼のジーンズからは航空チケットが覗いていた。今から海外にでも取材に行くのかも知れない。

…うん、元気そうで結構結構。ある意味、予想通りのヤツよね。

大過ない未来のケンスケ像に、とりあえず満足気な笑みをアスカは浮かべた。…この具合なら、他の面子も色々期待できるかも?

と、わざと軽い口調を装って見せたのも、それなりに不安だったから。

彼女が次に見たいと思った人物。

もしかしたら―――というifの可能性は否定しきれない。でも、確かめずにはいられない。

だから、その人物が一人ウインドウショッピングをしているのを見つけたとき、アスカは意味不明のガッツポーズをとった。

渦中の人物の正体は、未来の綾波レイ。髪が肩口あたりまで伸び、ずいぶんと明るい表情を浮かべてる。

それなりに美人さんになってはいたが、アスカにとってはそんなことはどうでも良い。

彼女が問題としていたことはただ一つ。

綾波レイが単独でいるか否か。

…ファーストのヤツとシンジが一緒にいなくて良かった。

もしその光景を目の当たりにしていたらと、考えるのも躊躇われる。

ましてや、一緒に腕を組んで歩かれでもしたら。

でも、とりあえず、これはこれでよし。

少なくとも、もう一つの可能性は高まった。

あたしがアイツと一緒にいる可能性が。

すっかり大人びた綾波レイを尻目に、喝采をあげそうになったアスカは、慌てて首を振った。

いや、別に、将来のあたしがアイツと一緒にいて欲しいってわけじゃなくてね!!

どうせアイツだって隣にいるのはファーストよりあたしの方がいいだろうなーっていう比較論よ、ヒカクロン!

なんとも不器用な自己弁護を施し、アスカは、ともあれば熱を持ちそうになる頭を振り振り呟く。

「じゃあ、次はミサトかな…」

愛すべき保護者の名前。十年もたったら、さすがに結婚してるわよね? たぶん加持さんあたりと。

もはや嫉妬を意識せず、アスカは脳天気な保護者の未来を予想してみせた。

ところが、今回は渚カヲルが渋い顔をしている。

「…残念だけど、彼女に関しては無理なんだ。その、今、この街にはいないというか…」

なんとも歯切れの悪い台詞に、アスカは眉根を寄せる。

会ったばかりの付き合いだが、困惑するカヲルを見るのは初めてである。極限してしまえば、彼のキャラではないというか。

気にはなったけれど、無理なものならしようがない。

気分を変えて、次の標的を提案した。

「ああ、彼女なら大丈夫さ」

今回は、請け負うカヲルの手を繋ぐ必要もなかった。彼が親指で指し示した方向。

指で示されたのは、駅前のショッピングモール。

幸せそうな表情で腕を組んで歩く親友の姿がそこにあった。

その変わりぶりに、アスカは目を見張る。

洞木ヒカリ。

以前のソバカスが顔から消え、伸ばした黒髪を後ろで軽く束ねている。

すらりと身長は伸び、遠目にも豊かなプロポーションが見てとれた。

有り体に言えば、ヒカリは綺麗になっていた。自分の予想よりずっと。

もちろん、アスカの目を見張らせたのは、彼女の容姿だけではない。

顔見知りはもう一人いたのだ。

ヒカリと一緒に歩く男性。

親友が腕を組む相手の姿も、十分驚愕に値するものだったのである。

鈴原トウジ。

相手自体は、予想通り。…しかし、まさか、鈴原のヤツがここまで男前になってるなんて…!

アスカが驚くのも無理はない。

頼りがいのありそうなかなりの長身。日に焼けた精悍な表情に、昔と同じ髪型がこの上なくよく似合う。

なぜかこの歳になってまでジャージを着てはいたけれども、それを差し引いても素晴らしい男ぶり。

なんという絵に描いたようなお似合いの二人……!!

どういうわけか心理的に五歩くらい後退したアスカであったが、ぐっと堪えて全速力で体勢を立て直す。

負けてない、負けてないわよ、きっと負けてないはず!

一体、『誰』が『何』に負けていないのか。

自分でもよく分からない対抗意識を燃やしたアスカは、親友カップルを一瞥してから銀髪の少年に向き直る。

「次はいよいよ本命かな?」

小憎らしい表情で、渚カヲルが笑っている。

図星なだけにムッとしたアスカであるが、そこではたと考え込んだ。

確かに次は本命だ。

シンジとあたし。

どちらを選ぶにしろ本命だ。

なぜなら……。

そこで思考を停止し、アスカはカヲルに提案する。

とりあえず、自分の方の未来を見に行こう。

即座に浮かんだ期待を、頭の片隅に無理矢理追いやる。

沈めても沈めても浮かんでくるプールのビニール風船みたいなそれを、意識上から遠ざける。

………………………………きっと、シンジも、そこにいるはず。










たくさんの人波にもかかわらず、アスカは即座に未来の自分を見つけ出すことができた。

一際豪奢な金髪が波打つ。本当に輝いて見えるそれは、我が事ながら誇らしい。

それにもまして、なんて幸福そうな表情を浮かべているのだろう?

なんて綺麗なんだろう?

当たり前だけど、幾分大人びた十年後の自分。

自分自身の未来のはずなのに、自分自身のことのはずなのに、アスカは両頬を染めてしまう。見とれてしまう。

青い瞳は益々艶やかな光を湛え、幾分頬はほっそりとしてはいるけれど、かえって洗練されている感じ。

強いて不安なところをあげれば……特にない。

パーフェクト。うん、パーフェクトね!

バラ色の将来に思いを馳せ、ともあれば浮かれそうになる思考が一転、羞恥と不安と期待の混合物へ変換されたのは、未来の自分の隣を歩く人物に気づいたからに他ならない。

幸か不幸か、自分自身が影になり、こちらからはハッキリ顔を拝むことができない。

少しだけほっとして、直後、激しく焦る。

どちらにしろ、相手の顔を見ないことには………!!

なのに、アスカの足は地面に縫い付けられたように動かない。

ああ、未来のあたしが行ってしまう。でも、身体が動かない。

どうして? あたしは何を恐れているの…?

深呼吸して、下っ腹に力を込める。

気合いを入れて、足を動かす。

そうだ、恐れる必要なんてない。

あたしがあんな顔を見せる相手なんか、アイツ以外いるわけないんだから……!!

希望を確信へ。期待を現実へ。

動き出した足はたちまち勢いをつけ、人波の中を疾駆する。

幸いなことに、この世界の人間は今のアスカにとって障害にはならない。

少し気味が悪かったけれど、人の中をすり抜けて、アスカは未来の自分の前に回り込む。

その期に及んでも顔を伏せてしまっているのは、臆病ゆえではない。

僅かな間は覚悟までの助走距離。力をためて解放するのだ。

ほら、1、2、3! で顔を上げるのよ!

果たして、アスカは毅然と顔を上げていた。

青い瞳が大きく見開かれ、彼女は見た。

こちらへ歩いてくる未来の自分自身。そしてその隣を歩く男性の姿を。

見上げればならないほどの長身。

服の上からも分かる筋骨逞しい身体。

きっと、その上に載っているのは、柔和そうなアイツのバカ面で……!!





―――――蒸発寸前まで燃え上がった感情は、氷点下へ墜落した。

残ったのは冷たい塊。それが後悔と失望という名を持つことを理解せぬまま、アスカは静かに項垂れた。

うつむく彼女の身体を、二人はすり抜けていく。幸せそうに、笑いさざめきながら。



そこにあったのは、アスカが最も見知った顔ではなかった。

将来的には少しくらい逞しくなるんじゃない? と思い巡らせていた顔ではなかった。

でも、誰かに似ていた。

そう、どことなく加持さんに似ている。

それと、この間、シンジと一緒に見た洋画の主人公にも少し似ている。

ちょっとカッコイイわよねー、なんて指さしてみせたのは、全然本気じゃなかったのに。

二人を足して二で割ったようなハンサム顔が、爽やかに微笑んでいた。未来の自分に向かって。

こんなヤツ知らない。見たこともない。なにより、シンジじゃない。

なのに一瞬だけシンジだと思ってしまったのは、きっとあたしの願望の表れ。要は錯覚。

ほら、ご覧なさい。

無様よね。

ううん、違う違う。

本当は、あたしはシンジ如きに勿体ないから、これでいいのよ。

現に、未来のあたしは、あんなに嬉しそうに笑っていたじゃない。

だから、幸せなのよ。

シンジなんて、どうでもいいのよ。

ああ、幸せそうなあたし! とってもカッコイイ相手! なんて素敵な未来かしら………!!

顔を上げたアスカは、満面の笑みを浮かべていた。なのにその両眼から、とめどめもなく涙がこぼれ落ちている。












「…大丈夫かい?」

渚カヲルの声にも、アスカはベンチで膝を抱えたまま顔を上げない。

先ほどの結果に落ち込んでいるようにも見えるし、先ほどの醜態を悔いているようにも見える。

「さっきから、パンツ見えてるよ?」

少なくとも羞恥心を刺激するであろう指摘にもアスカは微動だにしない。ただ頑なに膝を抱え続けている。

「いいわよ、別に見えたって。そもそもこの世界じゃ、アンタ以外見えてないんでしょ?」

膝の間からくぐもった声。

そりゃそうだけどね、と肩をすくめるカヲルを、ようやくアスカは顔を上げて見やる。

涙の跡を拭おうとも隠そうともしないあたりに、彼女のショックの大きさが伺えた。

「もう黙って」

アスカは血を吐くような口調で言う。

「…『未来はまだ決まっていない、今からの努力次第でどうにでも変わる』、なんてありきたりな励ましなんかごめんよ…!!」

再び顔を伏せてしまう彼女の剣幕に、泰然自若という風のカヲルも険しい顔で口をつぐむ。

「……キミは、本当に…」

悲壮な口調で呻くようにそれだけを漏らし、銀髪の少年は、


























爆笑した。

























朗らかな笑い声が周囲に溢れるにつれ、さすがにアスカも顔を伏せたままではいられなくなった。

顔を上げ、むしろ怒りを込めた目でカヲルを見やるが、彼はなお絶好調で笑いを収めようとしない。

「本当にシンジくんに聞いた通りだよ。表面はガチガチに固いのに、中身は驚くほど繊細で可愛らしい。

 まったくキミは好意に値するよ……!」

「………なんなのよ、アンタは?」

アスカはドスの聞いた声を出す。声に殺意がこもるとすれば、こんな感じだろう。

「いやあ、ごめんごめん…」

ようやく笑いを収め、目尻の涙を拭いながら、渚カヲルこと自称この世界の水先案内人は、さらっとトンデモない核心を口にした。

「この世界は、確かに十年後の世界だけどね、『現実』の十年後の世界ではないんだよ」

「……はあ? それってどういう意味?」

明敏なアスカであっても、その言葉の意味が図りかねた。素直に問いただす。

カヲルはもう一度ニッコリ微笑んで、

「だからね、この世界は、『シンジくんが想像している』十年後の世界なんだよ」

「…………………え?」

たっぷり5分以上、アスカは開いた口が塞がらなかった。

さっそく事態に整合性を持たせ、明確な回答を得ようと脳が動き始めるが、どうにも回転が鈍い。

その間にも、次々と新たな情報が開示される。


「キミたちは階段を転げ落ちてタイムスリップしたわけじゃないんだ。落ちる直前に、お互いの頭をぶつけたでしょ?

 その衝撃で、キミの意識はシンジくんの頭の中に飛び込んでしまったのさ。理由や原理なんて僕には説明できないけどね」


「だから、この世界は現実じゃない。でも、所々が現実が下敷きになっているのはしょうがないね。

 なにせ、シンジくんが漠然と望んでいる十年後の未来なんだから」


水が染みとおるように言葉の意味が脳裏に行き渡る。

一転、水は油へと変換されたらしい。潤滑剤となって思考の歯車を猛烈に回し始めた。

『シンジの思い描く十年後の未来』

言われてみれば、色々と腑に落ちる。

十年後なのに代わり映えのしない街の風景。

唯一、時間の経過を示した駅ビルも、思えばあまりにも完成予想図そのままだった。

だとすれば、ミサトに会えないのも当然だろう。なんせシンジは言っていた。

『十年先のミサトさんの姿とか、全然想像もつかないし…』

いないものに会えるわけはない。

…とちょっと待って? ミサトに会いたいっていったとき、自称水先案内人はなんていってたっけ…?

ベンチを飛び降りたアスカは、有無をいわせぬ強烈な右回し蹴りを放つ。

渚カヲルは身を引いてその苛烈な攻撃をかわした。

「…アンタ、全部知っててあたしをからかったわね…!!」

青い瞳は憤怒に燃えている。

焼き殺さんとせんばかりの視線を平然と受け止め、カヲルは拗ねたように唇の片方だけを上げて見せた。

「だって、キミとシンジくんが、あまりに仲良さそうにしてるんだもの。少しくらいからかってもいいじゃないか」

「どういう理屈よそれは!?」

渾身の左ストレート。右フック。ローリングソバット。

流れるような連続攻撃を、ポケットに手を突っ込んだままカヲルはひょいひょいかわし続ける。

柳に風とばかりに受け流され、さすがのアスカも疲弊した。肩でぜーぜー息をする彼女に向けて、カヲルは一言。

「少しは気が晴れたかな?」

「…うっさい!!」

憎まれ口を叩きながらも、アスカの内心は見事なまでに晴れ上がっていた。

頭をよぎるのは、先ほど見た未来の群像。

成長した友人らの姿は、なるほど多分にシンジの勝手な予想、願望が入り交じったものばかり。見事に美化されていたと思う。

…少しばかり装飾過剰じゃなかったかしら? などと呟きつつ、アスカは赤面する。

では、あれほど綺麗に見えた未来の自分は、どう説明すればいいのだろう?

つまり、シンジは、あたしは将来あれくらい綺麗になると思っているわけで…。

にやけそうになる頬を引き締め、まだ最大の疑問が残っている。

あの隣を一緒に歩いていた男の正体は…。

「ああ、彼はシンジくんの望む未来の自分像だね。彼は将来ああなりたいと願ったわけさ。

 …キミ好みの、キミに相応しい男性になりたいってね」

小憎らしい銀髪の少年は、ストレート極まりない解答を口にしてくれた。

この時ばかりは、アスカは耳まで真っ赤に染めて硬直するしかない。

自分の格好よく成長した姿というのは、実のところ思い描きづらいもの。

他人であればこそ、客観的に将来像を予想できる。そこに多分に個人の願望が入るにせよ。

だから、あのシンジの姿は本人からずいぶんと乖離したものだったのだ。

…最後に、もう一つ疑問が残る。

ぶっちゃけもうどうでもいい疑問なのだが、アスカは半ば義務感に駆られて訊ねた。

「殲滅されたはずのアンタが、どうしてシンジの頭の中にいるの?」と。

質問された第17使徒は、三倍増しの勢いで答えてくれる。

「あ、なんで僕がここにいるのかって? そうだね……いわば間借りかな? 

 シンジくんの精神世界の隅っこを借りて、住まわせてもらっているのさ。

 僕の最後の台詞、彼から聞いてないかい?『僕にとって、生と死は等価値なんだよ』って。

 文字通り、そのままの意味だよ。だから、死んでもこうして生きている。

 どうしてシンジくんの精神世界に住めたのか、それは僕にも詳しくわからないんだ。

 僕が使徒ってこともあるんだろうけど、やっぱりこれは愛ゆえの奇跡で…」

洪水のような説明を、アスカは片手で制する。

「じゃあ、シンジ自身は、アンタが頭の中に寄生しているのは知ってるわけ?」

「寄生虫扱いは酷いなあ…」

口調と裏腹に、実に嬉しそうな表情でカヲルは語る。

「夢でしょっちゅう会っているさ。たくさん話が出来て、とても楽しいよ。もっぱらキミの話題なのが玉に瑕だけど。

 でも、目が覚めると、シンジくんはほとんど何も覚えていないだろうね、残念ながら…」

ふむ、目覚めると忘れる夢ってあるもんね。頷いたアスカはツカツカとカヲルに近づく。

続いて繰り出したのは、予備動作なしの正拳突き。

今度ばかりはカヲルも避けきれなかった。自己陶酔の海に溺れていたことも関係あるだろう。

吹っ飛ばされ、ブロック塀に背中を預けながらカヲルは呻く。

「…色々説明してあげたから、からかった分は帳消しだと思ったんだけど…」

青アザのついた顔で笑み浮かべて見せたのは、いっそアッパレである。

「…ふん」

さして面白くもなさそうに、アスカは拳の埃をワザとらしくはたいて、

「確かにからかってくれた分は相殺してあげるわ。でもね、今の一撃は、もっと昔の恨みよ!!」

「……へ?」

驚くカヲルに、アスカはびしいっ!とばかり指を突きつけて、

「アンタ、昔勝手にあたしの弐号機を動かしたらしいじゃない! そん時の恨みよ!!」

青あざの刻まれた秀麗な顔が歪み、続いて爽やかな笑い声が周囲に響く。

気味悪そうな表情で眺めてくるアスカを意に介さず、散々カヲルは笑い倒してから立ち上がった。

「いやあ、本当に好意に値するなあキミは…」

一方のアスカは、この少年の好意など正直どうでもいい。

ようやく普段の自分を取り戻したらしく、高飛車に訊ねている。

「とりあえず、種が割れちゃった以上、こっちの世界にもう用はないんだけど。帰るにはどうすりゃいいの?」

質問に直接答えず、笑みを湛えたままカヲルはすっと指さす。アスカの背中の方向を。
 
促されるように背後を振り返ったアスカは、そこに長方形の光を見ることになる。

溢れる眩い光は、異世界からの脱出路であることを声高に主張しているかのよう。

「ちょうど良かったよ。そろそろシンジくんも目を覚ます頃だしね」

ふむ。確かにシンジが目を覚ましたら、こっちの世界は消えるのよね。

この世界はいわば夢みたいなものなのだから。

「お帰りはあちら。気を付けてね」

陽気な声が背中にかけられたけど、アスカは無視する。

「キミと話せて楽しかったよ」

ちょっとだけ振り返りたくなったのを堪えて、アスカは足を速める。

だって、コイツのせいでひどい目にあったのよ? 礼をいう必要なんてないわよ。

「そうそう、いい忘れていたけれどね…」

更に声が追いかけてきたけれど、アスカは徹底的な無視を決め込んだ。

足を速め、光の先を目指す。

やがて、自分の身体の輪郭が曖昧になった。

光に塗りつぶされ、視覚が麻痺する。

足を動かしている感覚もなくなり、嗅覚は端から機能していない。

おそらく最後まで稼働していた聴覚神経には、確かに渚カヲルの声は響いていたけれど、彼女の脳裏で意味を構成することはなかった。

やがて五感の全てが光に飲み込まれる。そして――――。













目を開けると、すぐ前にシンジの顔があった。

水平な視界に、どうやら二人して地面に転がっていることに気づく。

同時に、自分がシンジの腕の中に抱かれていることにも気づく。

ここまでに至る経過を思い出し、アスカは胸が温かくなるのを感じる。

殆ど怪我を負ってない自分の姿にお腹のあたりがきゅんと締め付けられる感覚もある。

とっさに、自分のことも省みず、あたしを助けるために飛び出してきてくれたのよね、コイツは…。

ゆっくりと腕から抜け出し、優しく顔を見下ろす。

眉をしかめて身じろぎするシンジに安心した。

どうやら重傷とかってことはなさそう。他に見える外傷もないし。

ほら、きっともうすぐ目を覚ます…。

「ああ、待ってよ、猿のぬいぐるみさん!!」

シンジの口から飛び出した意味不明の台詞に、アスカは面喰らってしまった。

猿の…なんですって?

きょとんとしていると、目を覚ましたシンジがこちらを見上げている。

なぜか頬を染め顔を逸らすシンジの両頬を挟み込み、アスカは無理矢理前を向かせた。

「…アンタ、頭大丈夫?」

一歩間違えれば失礼極まりない台詞を真顔で言う。

一方シンジは、なお目だけでも逸らすように必死で横を向きながら答えた。

「大丈夫だと思う。……多分」

なお見つめてくるアスカに、シンジはしどろもどろに続ける。

「その、そろそろ離れたほうがよくない…?」

これまた意表を突かれたような顔をしたアスカだったが、次の瞬間全力でシンジの頬を突き放していた。

客観的な事実を記せば、アスカが倒れたシンジの身体の上に覆い被さってその両頬を挟んでいるという、傍目には誤解してくださいと言わんばかりの格好だったのだから。

唐突に手を離され後頭部をアスファルトにぶつけて悶絶するシンジを、立ち上がったアスカは憤慨して見下ろしている。

まったく、なんであたしとアンタが…、とブツブツいいながら腕を組んでいた彼女だったが、不意に表情を改めて訊ねた。

「…その、アンタ、怪我とかしてない?」

しおらしい声に、後頭部をさすりながらシンジも立ち上がる。

「うん、大丈夫みたい。足とかも挫いてないみたいだし」

ぴょんぴょんとその場で飛び跳ねるシンジに、アスカは珍しく優しげな表情を向けたのも束の間、顔を伏せてしまう。

…あれ? どうしたんだろう? なんか機嫌を損ねることでもしたかな? 

アスカの反応に思わず不安になってしまうシンジである。

彼女の感情の振幅に過敏になる習性が身についてしまっているのが悲しい。

思い当たることもなく不安な表情を浮かべてシンジが見守るなか、アスカの伏せた顔からぼそっとした声が漏れる。

「その……。あ、ありがとね、助けてくれて…」

自然に感謝の言葉が出た。

シンジが身を挺して庇ってくれたから、抱き留めてくれたから、これだけの軽傷で済んだのだと思う。

「…うん、アスカもあまり無茶しちゃダメだよ?」

諫める言葉にも、素直に頷く自分がいる。

なにやらくすぐったい空気が二人の間に蔓延した。

それを打ち払うように、アスカはシンジの背中を叩いて促す。

「さ、帰りましょ!!」

「あ、痛っ!」

それほど強く叩いた覚えはないのに、シンジは悲鳴を上げてくれた。

「ちょ、ちょっと大丈夫?」

狼狽するアスカの前で、シンジは背中に腕を回して顔をしかめている。

「…たぶん背中にアザできちゃったみたい…」

「アザだけ?」

「うん、骨とかは大丈夫……だな」

腕を回したり背筋を伸ばしたりしてからシンジは微笑む。

アスカはまたもや胸をなで下ろす。今更ながら肝が冷えたのだ。

青い瞳で長くて急な石段をもう一度振り仰いで身震いしている。

ここから転げ落ちたら背中のアザの一つや二つくらい出来て当然だろう。

むしろアザで済んだのは幸運とさえいえる。

アスカの不安そうな表情がどう映ったのか、シンジが訊ねてきた。

「…その、僕、もう少し筋肉を付けたほうがいいのかなあ…?」

こちらの表情を探るような視線が引っかかったけれど、アスカは即座に答えている。

「ダメ! アンタはそのままでいいの!!」

浮かんだのは、先ほどのシンジの頭の中で見たシンジ自身の未来像。

いくらコイツが望んでいるとしても、あんなハンサムマッチョはお断りだ。

第一全然あたしの好みじゃない。あたしの好みは…。

自然と頬が熱くなる。必死で沈めようと努力するアスカを知ってか知らずか、なぜかシンジは元気いっぱいの声。

「………うん!!」






夕食を終えて、自室に引っ込んだアスカであるが、なにか違和感を引きずったままだった。

それもこれも、シンジの態度に拠る。

食事を作る合間も、食事を摂っている間も、後かたづけをしている間でさえ、彼の視線を感じるのだ。

救いは、決していやらしい視線ではないことと、睨み返すと即座に目を逸らすところである。

どっちにしろうざったいことには変わりない。

まあ、あたしもなんかシンジを見てしまうからお互いさまとは言えなくもないけど…。

こっちも見ていることがバレるのも嫌なので、食後のTV鑑賞もそこそこに自室へ引き上げてきた次第。

ベッドへ寝転がり、枕に頭を埋める。途端に激しい痛みに襲われた。

額が赤くなっている。シンジのヤツに打ち付けたところ。腫れているみたい。髪で隠せるからいいけれど…。

今度はゆっくりと枕に額を当てる。ひんやりとした感触が心地よい。

そうやっていると、今日一日の出来事が思い出された。

…夢、じゃないわよね…。

ちょっと時間を置いてしまうと、まるで嘘みたいな体験。

あたしが、シンジの頭の中に入って、そこでアイツの思い描く十年先の未来を見て廻って…。

真っ先に思い浮かぶのは、十年後の自分の姿。

気恥ずかしさに、頬が歪む。

うにゃにゃと枕に埋める顔に力が入り、またぞろ激痛に襲われていりゃ世話がない。

しかも、その痛みがトリガーになったのか、次に彼女が思い浮かべてしまったのは銀髪の少年の姿。

まったく、ふざけたヤツだったわよ。

額に腕を当て、仰向けにひっくりかえる。

…そういえば、アイツ、最後になんかいってなかったっけ…?

そのままぼんやりと天井を見上げていると、渚カヲルの声が耳に甦ってきた。

そう、あたしは、アイツの台詞は聞いていた。なのに、意味を考えようとしなかった。

なぜなら、現実の世界に戻るので手一杯だったから。

じゃあ、じっくり思い出してみようかしら。そこに、なんか違和感というか、引っかかりのようなものを感じるし。

一度そう決めると簡単だった。

スルスルとヒモをたぐり寄せるように、一語一句が耳道に甦る。






『そうそう、いい忘れていたけれどね、

 キミがシンジくんの意識の中に入ったのと同様に、シンジくんもキミの意識の中にお邪魔しているはずさ。
 
 だって、お互いの頭同士をぶつけたんだからね。そうあって然るべきだろう?

 …しかし、キミの意識の中には僕がいないわけだよね。すると、一体誰が水先案内人役を務めているのかなあ』




もはや停止ボタンの壊れたプレーヤーのように“声”は止まらない。

声の告げてくる意味を理解すると同時に、布団をかぶりアスカは耳まで真っ赤に染める。

違和感は解決した。

謎は解けた。

シンジが目を覚ましたときにいった台詞。

さぐるような視線、質問。

夕食中、シンジがチラチラこちらを見ていたことにも全て合点がいく。

布団にくるまりますます身を縮こませる彼女の耳元に、笑いを堪えるような悪戯っぽい陽気な声が続いている。







『まあ、キミが体験した条件はシンジくんも同じだと思うよ。

 だとすれば、シンジくんは、キミの中でどんな自分の将来像を見たんだろうね?』
























Act5に続く?




三只さんから連載第四話をいただきました。

シンジとアスカの未来予想図‥‥シンジ君はまだアスカと一緒にいる覚悟が足りなかったのですね(何

もっともアスカの心の中を見せられたら、シンジ君もきっとアスカとずっと一緒にいたくてたまらなくなったに相違ありません(w

素敵なお話でありました。みなさんも三只さんに感想メールをお願いします。