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Act2:冤罪の晴らし方 

by三只









とある日曜の早朝から、碇シンジは大忙しだった。

始発の電車に乗り込み、15分ほど揺られて辿り着いた場所は、この度オープンしたばかりの和菓子店。

新規オープンだからといってチェーン店や分店ではない。老舗中の老舗の本店である。

なんでも、もとは東京の下町で店を開いていたが、セカンドインパクトのおかげで店舗は閉鎖、というか壊滅。

作り手たる一家は無事だったものの、その後の気象変化と混乱で材料調達などがままならず、壁につきあたる日々を送っていたらしい。

それがようやく満足いく材料の供給に、伝来の製法も錆を落として、ここに見事な復活を遂げたのである。

一日限定300本しか作らない手製の羊羹。

通称『お獅子の羊羹』は、第三新東京市の甘味好きたちの間で大評判になった。

当然、甘いもの流行もの好きのアスカとて例外ではない。

さっそく食べたいとダダをこね始めた。

自分で買いにいけばいいじゃないか、とエプロン姿でいったシンジに、彼女の返した台詞。

『早起きして並ぶのがイヤなのよ!』

あまりの正直な内容に、シンジは危うく刻んでいた包丁で指を切断するところだった。

『で、でも、それなりに頑張って早起きして苦労して並んで、みんな買ってるんだよ?』

『そんな努力も苦労もしたくないのよ!』

『…じゃあさ、アスカって、エヴァのパイロットになるときたくさん努力したでしょ? それと同じだと思えば…』

『アンタも分かってないわねえ。努力は見えないところでするからカッコイイのよ!』

全然方向性の違う反論にシンジは絶句、アスカは胸を反らす。

脱力して床にへたり込んでしまったシンジだったが、はいそうですかと聞いてあげるほど彼も暇ではない。

休日にはそれなりに予定がある。

掃除して洗濯して勉強もして、合間にベランダのプランターの野菜の様子を見て、ハーブティの新しい組み合わせの模索など、ああ、時間があればチェロも弾きたいし、と色々とやりたいこともあるのだ。

そう答えるとアスカは一言。

『なんだ、やっぱり暇じゃない♪』

呆れて背を向けるシンジに対し、アスカはまだまだ諦めていない様子。

そんな事に傾ける力があるのなら買いにいけばいいのに、とシンジは思ったが、口には出さず代わりに覚悟を決める。

アスカの行使するであろう攻撃パターン、暴力、おだて、泣き落とし、色仕掛け。全て分類、認識済みだ。

もっとも対抗策は無いに等しい。ゆえの覚悟である。

ところがその日に行使されたのは、まったく新しい攻撃方法だった。

シンジが食卓に料理を並べるまでアスカは大人しくしていた。

食べ始めも大人しくしていた。

しかし、箸を掴むや否や、目にも止まらぬ早さで自分のぶんの夕食を平らげると、敢然とシンジのおかずへと手を伸ばし始めたのだ。

茫然とするシンジの目前で、おかずが次々とかっさらわれる。

仕方ないからみそ汁へと手を伸ばせばお椀ごと引ったくられ、ご飯茶碗もいつの間にか強奪されていた。

気がつけば、目前から夕食が完全に姿を消していた。

ご丁寧にシンジの湯飲みのお茶を飲み干してから、アスカは軽くケプッともらしながら胸を張る。

『アンタが買いに行ってくると約束してくれるまで、アンタの食べるもの全部あたしが食べてやるんだから!』

そして彼女は宣言した。

なんでも、ハンガー(飢餓)ストライキに対抗してのサタイエティ(満腹)ストライキだとのこと。

『このまま食べ続けちゃったら、あたしのこのプロポーションが崩れちゃうのよ!? アンタ、それでもいいの!?』

意味不明の脅迫に、とうとうシンジは白旗を揚げた。

実にこの時点で、「まあ日曜に早起きするくらい、いいか…」などと考えてしまっているあたり、シンジも甘いというか、操作されているというか。

どちらにしろ、彼がアスカに勝てるわけはない。

以上のような理由で、まだ清々しい朝の空気を胸一杯に吸い込みながら、シンジはシャッターの下りた商店街の行列に並んでいるのだ。

休日であるせいか到着したときには既に行列が出来ていて、彼の眉をひそめさせた。

なにせ一日300本限定といえど、一人三本まで買えるのだ。そして大抵の人が三本買っていく。

となれば、実質手に入れられるのは100人だけなのである。

ただ並んでいるだけでやることがないので、目測で行列を数えてみたら、かなり微妙な順番だ。

これで買えなかったら骨折り損のくたびれ儲けの見本みたいなもの。

なにより、手ぶらで帰ったらアスカになんて言われるか。

不安に胃をキリキリさせながらシンジは待つ。

そしてようやく時刻が八時半になったころ、半分だけ開けたシャッターの隙間から店員が出てきて整理券を配り始めた。

シンジが手にした番号は93番。

やれやれどうにか買えそうだ。

ほっと胸をなで下ろし、行列はそこで解散。

10時の開店まで、シンジは近場のコンビニで時間をつぶす事にした。

他にも同じ考えの人間がいたらしく、雑誌コーナーの前はなかなかの盛況。

立ち読みする人の間から目当ての雑誌を引き抜き、シンジは熱心に読み始める。

高校生くらいにしか見えない男の子が『家庭料理と家計の裏技特集』なんていう雑誌を立ち読みしている姿の異様さを、彼自身気づいてない。













無事に三本の羊羹を購入し、シンジは意気揚々と家路を急ぐ。

これでアスカも喜んでくれるだろう。

二本あるんだから、少しくらいは僕にもわけてくれるだろうし。

一本は、ネルフの発令所にでも差し入れして…。

滅多に買えないものが手に入ったのだ。

達成感に気分が高揚し、自然と足取りも軽くなる。

購入費も早起きで行列に並ぶ努力も、シンジ自身に由来するのに、全部綺麗に脳裏から消え失せている。

まったく、この上なく損で幸福な思考といえよう。

ところが、駅に着いた途端、軽い足取りに掣肘の一撃が加えられた。

人混みでごった返す駅構内。休日だとしても異常だ。

構内アナウンスに耳を傾ければ、事故があったとのこと。しかし、もうすぐ復旧の電車が入るという。

ここでシンジは頭を悩ませる羽目になった。

マンションでは、アスカが首を長くして待っている。一分一秒でも早く帰らなければならない。

反面、この混雑では、せっかくの戦利品にダメージを負いかねない。

シンジは駅前の光景も見やる。

タクシーという選択肢もないわけではないが、それほど持ち合わせはない。

更に、同じく考える人もいるわけで、タクシー乗り場の前にも列が出来ている。

時間的にも電車とどちらが早いだろうか?

思案することしばし、シンジは乗り場の方へと足を向けた。

がっちり守れば、きっと大丈夫だろう。いや、絶対守って見せる!!

端から見れば滑稽かも知れない使命感に燃え、胸の中にまるで宝物のように羊羹をかき抱き、シンジは人混みの中へ身を投じた。

予想以上に混雑する車内にどうにか身体を落ち着ける場所を確保。

しかし、発車と同時に内部はほどよくシェイクされ、体勢を崩すことを余儀なくされた。

たたらを踏むスペースもあらば、両腕でガッチリ袋ごと羊羹を抱えたシンジは、背中で誰かにぶつかってしまった。

この狭いとさえ形容するのが憚られるほどの車内で、いわばお互いさまなのだが、それでも肩越しにシンジは後ろを振り返る。

すると、こちらを振り返ってくる女の子と目があった。同い年くらいだろうか。

どうやら背中と背中が密着してしまっている様子。

蒸す車内で不快だったが、離せるほどのスペースもない。

すみません、とばかりにシンジは軽く微笑んで頭を下げたが、もの凄い目で睨まれた。

あれ、どうしたのかな? 痛かったのかな、もしかして…?

不安に思うシンジだったが、混み合う車内はそんな悠長な思考を許してくれない。

袋を必死で守り、なお背中を貼り付けながら電車に揺られること15分弱。

ようやくシンジは目的の駅に辿り着くことができた。

やっと電車から這いだし深呼吸していると、まったく不意に横から腕を掴まれる。

驚いてそちらの方を向けば、さきほど背中をぶつけた女の子だった。

ああ、さっきはごめん…と口を開きかけたシンジを無視し、女の子はぐいぐいと腕を引っ張っていく。

逆らえなかったのは、同居人の少女にしょっちゅう同じ目に遭わされているから。

ワケもわからぬままのシンジを、人の流れに逆らって女の子がを引っ張っていったのは、なんと駅員の前。

首を捻るシンジの目前で、女の子は力一杯宣言した。

「この人、痴漢です!!」

「!?」




















「つまり、この男の子の右手が触ってきたんだね?」

「ええ、そうです…」

すんすんといった女の子の泣き声が響く駅員室。

扉から遠く離れた部屋の隅の椅子に、シンジは不安げな表情で座っていた。

ジロリと見下ろしてくる駅員二人のまなざしは剣呑そのもので、シンジは唇を噛みしめ、羊羹入りの袋を抱きしめる。

駅員は表情を一転させ、優しげな声で両手で顔を覆った女の子に話しかける。

「だけども、君はあまりの人混みに身体を離すことも出来なくて、結局駅まで我慢していた。間違いないね?」

「…はい。この人の右手がスカートのジッパーに伸びてきた時、どうしようかと思いました。でも、ジッパーを下ろされる前に駅に着いたから…」

後は言葉にならない。顔を伏せてしまう女の子を憐憫の表情で眺め、駅員はシンジに向き直る。

「いい加減、正直に認めないのかッ!!」

一喝され、おもわず背筋を震わせてしまうシンジ。

更にもう一人の駅員の声も覆い被さってくる。

「悪いことをしたら、謝ることもできないのか、君は?」

口調も表情も嫌悪で満ちている。

それでもなおシンジは抗弁した。

僕は痴漢なんかしていない、と。

しかし、その訴えは全く取り合って貰えなかった。

幾度繰り返しても、『正直に言え』『認めろ』の怒声が返ってくる。

もう30分ほどこのやりとりは続いただろうか?

「だから、やってないものはやってないんです…!!」

シンジは涙目で必死に訴える。繰り返す声まで湿っぽくなっている。

なのに、やはり駅員は取り合ってくれない。

深々とため息をついて女の子と自分を見比べる様子に、シンジも彼らの心情を悟らざるを得ない。

こんな女の子が勇気を出して訴えているんだから、おまえが犯人に違いない。

そう視線に込められ睨まれれば、元々太くない神経の持ち主であるシンジであるからして、さすがに挫けそうになる。

でも、やっていないものはやっていないんだ…!!

腹に力を込めて、踏ん張る。

理不尽さに対する怒りを燃え立たせる。

それがシンジの成長した証し。昔の彼と違う強さ。

「まったく、強情だなあ。…とにかく、通っている学校と家の電話番号を教えなさい。先生か保護者に来てもらうから」

駅員の声を、シンジは頑なに固辞。

「僕は、痴漢なんかしていません…」

弱々しく首を振り返す。

呆れたように駅員は顔を上げた。

「それじゃあ、警察を呼ぶことになるよ…?」

その言葉に、シンジは鼻の奥に夜の雨の匂いを思い出す。

昔、幼い頃、他人の家に預けられていた時の記憶。

記憶とともに、じわりと苦さが染みだしてくる。

それが喉元に達そうとしたとき、胸ポケットに入れておいた携帯電話が振動した。

急いで取り出した携帯の画面の着信番号はアスカから。

「はい、もしもし…」

『アンタ、どこほっつき歩いてるの!? さっさと帰ってきなさいよ!!』

いきなり怒鳴られた。予想通り、いつまでも帰ってこない自分に痺れを切らしたのだろう。

「実は…」

説明しようと口を開きかけたシンジの手から、ひょいと携帯電話が取り上げられた。

「あー、もしもし? あなたどちらさま? この携帯の持ち主との知り合い?」

「返してくださいっ!!」

非礼にも自分の携帯を操作し始めた駅員に、思わず掴みかかろうとしたシンジだったが、もう一人の駅員から制された。

虚しく手は宙を掴む。

「止めてください…っ!!」

必死で訴える。

そもそも、アスカにこんな不名誉なことを知られるのは嫌だった。

誤解されるのも嫌だ。どんな形にせよ、彼女に侮蔑されるのは耐え難かった。

なのに、駅員は淡々と携帯電話に説明をしている。一方的な説明を。

止められない。何も僕は悪いことをしていないのに…!!

羞恥と怒りと悲しみに脳みそをかき回されたシンジに、駅員は無造作に携帯を返してよこした。

もはや半分泣きべそをかいている少年に、駅員は無慈悲に告げる。

「今から、君を引き取りにくるそうだ」

一瞬、目の前が真っ暗になる。

アスカに知られてしまった。

アスカに迷惑をかけたくない。

アスカに謝らせたくない…。

混乱したシンジの中で、なりふり構わない解決策が浮上してくる。

いっそ、今、罪を認めてしまおう。謝ってしまおう。

そうすれば、アスカが来る前にここを出られるかも知れない。

彼女に無様なところを見せなくて済むかも知れない。

際限なく加熱し始めた頭で、駅員の前で説明を受け、一緒に怒られるアスカを想像してしまう。

そんなことさせられない。

そんな彼女を見たくない。

恥をかくのは僕一人で十分だ。

なにより…。

ああ、早く決めなきゃ、アスカが来てしまう。

焦燥感に任せ、シンジはやってもいない罪を認めようと決めたとき。

全く不意に部屋の扉が勢いよく開かれた。

その盛大な音に、部屋の中にいた人間全員が入り口へ視線を集中させる。もちろんシンジとて例外でない。

そして誰もが見た。

入り口に仁王立ちする、金髪碧眼の少女の姿を。

「おい、キミ…」

ようやく我に返ったらしい駅員の声を無視し、アスカは真っ直ぐシンジの目前にやってきた。

彼女は怒っているようにも見えた。冷めているようにも見えた。青い瞳は貫くように見つめてくる。

「アンタ、本当に痴漢したの?」

乾いた声の問い掛け。

「ううん、してないよ…」

応えながら、シンジの視界は涙で滲んでいく。間に合わなかった。

アスカは来てしまった。知られてしまった。

不意に彼女が遠くなる。

滲む視界はそのままに、鮮明によみがえる幼い記憶。





雨の夜に橋の下で拾った自転車。

別に欲しいわけじゃないけれど、せっかくだから拾おう。

持ち帰ることまで特に考えていなかったが、ただなんとなく自転車を引いて歩いた。

それを警邏中の警官に呼び止められた。

『その自転車は君のかな?』

『いえ…、でも橋の下に捨ててあったから』

『ウソをついちゃいけないよ』

『本当です、ウソじゃない』

『―――話は、署で聞こうかな』




………。

きっと、アスカにも信じて貰えない。誰にも信じて貰えない。

そして、責められるんだ。どうしてこんなバカなことをしたんだって…。

彼女に軽蔑されるのは、何より辛い。

もはや泣き笑いのような顔になるシンジと向かいあうことしばし、アスカは口を開く。

「で、買ってきた羊羹は?」

「…へ?」

侮蔑の言葉ではない。拍子抜けするシンジである。

「えーと、羊羹ならここに…」

むしろ思いも寄らぬ返答に困惑しながら、それでも脇に置いておいた袋を掲げてみせた。

「ならいいわ。じゃ、帰りましょ!」

満足そうに頷き、アスカはシンジの手を掴んで立たせようとした。

困惑したのは何もシンジばかりではない。

黙って見守っていた駅員二人も、目の色を変えていきり立つ。

「何ふざけたことをいっているんだ!?」

ところがアスカは動じない。

さもうるさそうに騒ぎ立てる駅員に向き直り、アスカは胸を反らし睨み付ける。

「本人はやってないっていってるじゃない。それにね…」

大きく息を吸ってからシンジを指さして、





「コイツはこのあたしと四年も同居しているくせに、手はおろか指一本触れられない根性ナシなのよ!?

 それが痴漢なんて大それた真似出来るわけないでしょーがっ!!」






……………………

………………

………。

色々と呆気にとられる駅員二人。

ずっこけるワケにもいかずフリーズしてしまったシンジを尻目に、アスカは悠々と駅員の間を進んで、被害者を称する女の子の前までやってきた。

強烈極まりない闖入者の出現に顔を上げたまま固まる女の子を、見下ろしたその闖入者のふっと笑う気配。

続いてアスカが口にした台詞は、呟きと表現するには音量が大きすぎた。

「あたしの足下にも及ばないわね…」

シンジからはアスカの後ろ姿しか見えなかったが、彼女の表情は手に取るように分かった。

口調がそっくりだった。昔、アスカがマンションに越してきた当日、自分に対して、『アンタはお払い箱よ』と言った口調と。

きっと表情も口調に準じているに違いない。

果たして、アスカの物言いに、女の子はいきり立った。

なにせ意訳すると『あたしより劣るあんたにシンジが手を出すわけない』なのだから。

いきり立つまで少し間があったのは、アスカの傲岸不遜な台詞が、恐ろしいことに説得力を持っていたからだろう。

彼女以外が口にしたとしたら、これほど劇的な効果は認められまい。

それほど、同姓の目から見ても、アスカの容色は際立っていたのである。

「な、なによ、開きなおる気!? もう、いくら謝っても許してあげないんだから!!」

噛みついてきた女の子を軽くいなして、アスカは部屋の中央のテーブルの上にあった書類に手を伸ばす。

誰にも文句がつけようもないタイミングと優雅な動きで。

サインボードごと書類を覗きこみ、青い瞳が左右に活字を追う。

「こ、こら、勝手にさわっちゃいかん…!!」

ようやく我に返った駅員が取り上げようと迫るが、アスカはひょいとかわす。

もう一人の駅員の攻勢も軽くステップを踏んでかわしてシンジの側へと戻ってきたアスカは、やおら哄笑した。

びっくりして振り仰いでくるシンジに目もくれず、アスカはビシッと女の子に指を突きつけ、詰問。

「あんた、コイツに右手でお尻触られたって書いてあるけど、間違いないわね?」

有無を言わせず答えを促す問いかけ。

その迫力の余波は駅員の足もその場に繋ぎ止めた。

「そ、そうよ、間違いないわ」

気圧されまいとするように女の子は顎を反らして答える。

ふーんとアスカはさも面白そうに眺め、更に質問。

「で、ここに背中同士を密着させていたっても書いてあるけど、あんたコイツの手が見えたわけ?」

そしてクスクス笑ってみせる。大笑いをしたいのを堪えている風に見えたのはシンジの気のせいだろうか。

しかし相手も負けていない。逆に切り込んできた。

「その先の記述も読みなさいよ! その人はね、散々あたしのお尻をなで回して楽しんだ後、前の方にも手を回してきたの! だから手も見えたの!!」

シンジの方をきっと睨み付けていう。思わずシンジは首をすくめてしまうほどの迫力。

「あら、本当だわ。確かに右手がスカートのジッパーを半分下げたって書いてある」

なのに一向に憶した様子もなく、まだクスクス笑いを納めないままアスカの瞳はシンジをチラリと見た。

その瞳の色にシンジは慄然とする。青い瞳は、勝利を確信した色を煌めかせていたのだ。

全てにおいて万全で、完全に勝てるという時にだけ浮かべる醒めたブルー。

普段の生活の場で出されると戦々恐々なのに、今この場ではなんと頼もしいことか。

「手が身体の前のほう、つまり下腹部あたりの前を通って、左腰のジッパーまで伸びた。だから通過する右手が見えた。間違いない?」

「そうよ、間違いないわ!」

我が意を得たりとばかりに断言する女の子に、アスカは今度こそ高笑いを敢行した。

「な、何がおかしいのよ…!?」

狼狽したらしい女の子に、アスカはワザと目尻の涙を拭くフリをしながら説明を始める。

「あのねえ、背中同士をくっつけていたんでしょ? その状態で必然的に前に回ってくる手は後ろ手になるわよね?」

「そ、それがどうしたのよ…」

「で、あんたのスカートのジッパーは左側。それをあんたのお腹下を通って下ろしに行くとなると、後ろ手で前に回ってくる手は、どうやっても左手になるんだけど?」

「…え?」

そう指摘されて、ようやくシンジも気づいた。

たとえば、背中を密着させた同士、素直に互いの両手を掴もうとするなら、右手は左手を、左手は右手を、左右対称で掴まざるを得ない。

つまり、今回のケースの場合、背中を密着させた状態で痴漢者が相手のスカートの左についているジッパーを下ろそうと試みた場合、右手が正解ではある。

しかしそうなれば、下腹部の前を通って来た手を右手と主張するのは決定的な矛盾になる。

もし、身体の前に回されて来た手を見たのなら、それは後ろ手である以上、左手でなければならないのだ。

その説明に、駅員たちも納得したように手を叩いている。

「…もしかしたら、右手じゃなくて左手だったかも知れない。その時は混乱して見間違えたのかも…」

なお反論してきた女の子に、アスカはなんと鷹揚に頷いた。

「うんうん、そうかもね。混乱して見間違えちゃったのかもねー」

そしてシンジも驚くほど優しい声で、

「でも、どちらにしろ、あんたの言い分は矛盾してんのよ」

指を突きつけ、はっきりと断言した。

一瞬、周囲は静まりかえったのも束の間、ヒステリックに女の子は反論して来る。

「どこが矛盾してるっていうのよ!!」

アスカはヤレヤレといった表情で、激高する女の子も含め周囲を見回した。

駅員も理解できないのか口を挟んでこようとしない。むしろアスカと視線を合わせるのも避ける始末。

シンジも分からないので首を捻っていたら、アスカに腕を掴まれた。

「ほら、立ちなさい。実演してみせるのよ!」

半ば無理矢理立たせられると、アスカはすかさず背中を密着してきた。

「さ、シンジ、あたしの前に左手を回してみなさい!」

「う、うん…」

おずおずといった感じでシンジは左腕をアスカの身体の前面に差し出した。

彼女の身体に触れてしまわないよう気をつけていたら、

「ああ、もう! まどろっこしいわねぇ!!」

グイと左手を引っ張られる。

半ば抱え込むように左腕を伸ばされた。まるで関節技のよう。

「いたたたたたっ!!」

案の定、シンジは悲鳴をあげる羽目に陥った。

「どう? あたしの左腰あたりまで手を回せる?」

なお腕をグイグイ引っ張りながら、悪戯っぽい声でアスカ。

「いたた、それは無理だよぉ、そんなに伸びないもの。………あっ」

「ようやく気づいたわね?」

シンジの腕を解放しながら、アスカはまた女の子に詰め寄っている。今度も駅員は遮ろうとしない。

「よっぽど腕が長いか柔軟でもなきゃ、背中を密着させたまま相手の身体ごと後ろ手に腕を回す真似なんて、物理的に不可能なのよ!!」

ビシッと指を突きつける。効果音の一つも欲しいほど様になっていた。

対して女の子は唇を噛みしめて無言。心なしか伏せられた顔も青ざめて見えるほど。

その血の気の薄くなった顔を覗きこむようにして、アスカは形のよい眉をしかめて見せた。

「…あんた、本当に痴漢されたの?」

疑わしげな口調といっても、アスカは100%疑っていたわけではない。むしろ確認のような感じで口にした台詞だ。

シンジに至っては、きょとんとして女の子を見つめてしまう。

何か誤解があるとばっかり思っていた。仮に僕にウソをついて陥れても、どんな得があるんだろう?

皆が注視する中、女の子の反応は劇的だった。

弾かれたように顔を上げたかと思うと、ついでに身体も椅子から離陸。

見事なダッシュで駅員室を飛び出して行った。

駅員を止める間もない。もともと加害者であろうシンジを部屋の奥に置いて、女の子は出入り口の近くに配していたこともあるが、まさに疾風迅雷のごとき逃亡であった。

残されたのは茫然とする駅員二人とシンジ、それに憮然としたアスカだけ。

「…訴えたヤツが逃げ出した場合、どうなるのかしら?」

勝ち誇るでもなく淡々としたアスカの声が、沈黙を打ち破る。

我に返るシンジの目に、気まずそうに振り返ってくる駅員の姿が映った。











駅から帰る道すがら、シンジは散々にアスカに小突かれ罵倒され続けた。

「全く、最近はああやって、痴漢されたってでっち上げて示談金をせしめる子もいるのよ?」

「アンタはボケボケっとしてるから絶好のカモに見えるの!!」

「だいたい、なんであたしがアンタを引き取りにいかなきゃならないのよ?」

「自分にかけられた嫌疑くらい、自分で晴らしなさいよね!!」

「まったく、せっかくの日曜日なのに」云々…。

ブツブツ言われながらも、シンジの心は不思議と晴れ晴れとしていた。

無罪放免されたことは勿論であるが、他の理由に拠るところが遙かに大きい。

いっそ嬉しくて小躍りしたいほどである。

だから、マンションに帰り着くなり、さっそく羊羹を切り分け、とっておきのハーブティーを準備した。

「…ありがとう、アスカ」

手早くテーブルに並べて勧めれば、アスカも機嫌を良くしたらしい。

それでも不機嫌を装うのが彼女の照れ隠し。

乱暴に羊羹を口に放り込んで、あら、これ本当に美味しい! 絶賛したいところをぐっと我慢、わざとぶっきらぼうに返す。

「なにがありがたいワケ?」

そして小指を立ててハーブティーを一口。やだ、こっちもすごく美味しいじゃない。

「その…僕の冤罪を晴らしてくれてさ…」

ボソボソいうシンジに、苛立ったフリをしてアスカは畳み掛ける。

「全く、本当にこんなの二度とはごめんだからね!?」
  
「う、うん…」

生真面目に頷くシンジを一瞥し、アスカは本格的に羊羹とお茶を味合うことにする。

その間も、「お代わりは?」とシンジは実に甲斐甲斐しい。

存分に堪能してから、ようやくアスカも訝しげに思う。

「シンジ、アンタなんか嬉しいことでもあったの?」

他ならぬあたしの為に買い物に行けたことを喜んでいるのかしら?

でも、行くまで凄く渋ってたし。

痴漢の容疑をかけられて、まさか駅員に詰め寄られて喜んでいた?

まさか、そんな倒錯的な趣味に走っていないと思うけど。

やっぱり、あたしに冤罪を晴らしてもらって嬉しいのかなあ。

だからといって、ここまで喜ぶもんなのコイツは…?

アスカの頭で幾つかの仮説か組み立てられ、最後のもっとも有力な説が残される。

しかし、シンジの返答は違った。

「僕はね、アスカに信じて貰えて凄く嬉しかったんだよ」

ポツリとシンジはいう。

「あの時、いきなり部屋に入ってきて、まず僕を見て、僕が痴漢なんかしてないていったのを真っ先に信じてくれたでしょ?

 それが、とても嬉しくって…」

後半は湿気含有率80%ほどの声で形になっていない。

でも、非常に心に訴えてくるもののある声だった。

シンジの過去の記憶などつゆも知らないが、予期せぬストレートすぎる一撃は、アスカのデフィンスを軽々と貫通。

なにコイツ可愛い表情してんのよ! などと激しく揺らぐ感情をどうにか制御。

努めてドライな声を出そうとして、口から出した直後で失敗した。

「ああああああ当たり前よ!! アンタが無類の根性ナシだってことは誰より信じてるんだからね、あたしは!!

 むしろ、アンタが痴漢できるほどの甲斐性があるなら手放しで褒めてあげるわよ!」

どもってしまい、皮肉成分を滲ませる事に失敗。そして失敗したことで赤くなっていれば世話がない。

「うん、そうだね…」

目尻の涙を拭うようにして、シンジはこっちの醜態に気づいていない。その様子にほっとするやら、ちょっと残念に思うやら。

結局、残ったハーブティーを飲み干し、そっぽを向いて小声で愚痴ってしまう。

「…ったく、アンタにホントに痴漢できるくらい度胸があるなら、あたしも苦労してないっつーの…」

「え? アスカ何かいった?」

無邪気に首を傾げるシンジが無性にムカついた。

まるで喜ぶ子犬のよう。

…でも、だからこそコイツだし、それもキライじゃないのよね、あたしは…。

瞬時に思い直し、アスカは力一杯コップを突きつけ、とりあえず誤魔化すように叫ぶ。







「おかわり!!」


























Act3に続く?









三只さんから連載第二話をいただきました。

ぬれぎぬのシンジ……アスカが信じるのはやはり愛ゆえにでしょうか。

うむ、きっとそうでしょうね。

シンジのぬれぎぬをはたすのも、やはり愛ですねぇ。本編の頃のアスカならそこまでしなかったかもしれませんし。やはり愛ですよね。

良いお話でありました。皆様もぜひ読み終えたあとには三只さんに感想メールを送りましょう。